望まれた神嫁

「矢斗様」


 千尋が、そっと矢斗へ声をかける。

 その声音は柔らかではあったけれど、非常に真摯な響きを帯びていた。


「差し出がましいとは存じておりますが。……紗依様を、離してさしあげて下さいませ」


 矢斗と時嗣の注意が千尋へ向いたのを感じたと同時に、紗依を抱き寄せていた腕の力が緩んだ。

 かろうじて動かせた頭だけそちらを向けると、開けた視界にて千尋が指をついて伏しているのが見える。


「女性は、慎ましく貞淑にあれと教えられております。男女七つにして席を同じくせず、とも」


 顔をあげぬまま、千尋は静かに続けた。

 頬の赤みは未だ取れ切らないままだが、穏やかな物言いに少しずつ紗依の心に落ち着きが戻って来る。

 時嗣は伏した妻を見ていたが、やがて軽く咎めるような眼差しを矢斗に向け。矢斗もまた、時嗣の眼差しを受けて徐々にばつ悪げな表情になっていく。 


「女子というものは殿方からの接触には慣れていないのです。ましてや、何の前触れもなく突然であれば尚の事。おわかり頂けましょうか?」

「……承知した」


 上気しながらも強張ってしまっていた紗依の顔を恐る恐る覗きこむ矢斗へと、更に千尋は諭すように言う。

 優しく穏やかな声音で紡がれるからこそ、尚の事その言葉は重い。

 矢斗ややがて頷きながら呟くと、漸く紗依を両の腕から解放する。

 申し訳なさげに肩を落している様子が、何処か尾をたらす大きな犬のようにも見える……気がした。

 千尋がそっと差し出してくれた茶を、紗依はその場に崩れ落ちそうな身体を全力で支えながら受け取る。 

 紗依が茶を口にして緩やかに息を整えるのを待って、矢斗は再び口を開いた。


「済まない、紗依……。会えたのが、あまりに嬉しくて……」

「いえ……。だい、じょうぶ……」


 今度は触れることすら恐れているように、伸ばそうとした手を躊躇いの後に下ろして、矢斗は悲しげな表情で詫びてくる。

 大丈夫と歯切れよく返したかったけれど、まだ動揺の名残が残っているらしく声が少し震え気味になってしまった。

 お互いに相手に対して申し訳なさげな様子で視線を合わせられなくなって俯いてしまっていると、空気を変えようとするように時嗣が口を開いた。


「普段はきちんと祭神らしく相応の振舞いをするくせに、紗依殿が絡むと螺子が飛ぶからなあ……」


 少しだけ冗談を含んだ言葉は、優しい苦笑いと共に語られた。

 紗依と矢斗が揃って視線を向けると、二人へ笑って見せながら時嗣はなおも続ける。


「北家に帰ってきて、俺が祭神と認めた途端。そのまま紗依殿を迎えに飛んで行きかけたからな」


 過日を思い出した様子で、肩を竦めながら苦笑する時嗣。

 矢斗は痛いところを突かれたというような複雑な表情になり、紗依は思わず目を瞬いてしまう。

 脳裏を過ぎるのは、かつて矢斗が自分から去って行ったあの花舞う日のこと。

 あの別れの後に北家で起きたであろう出来事に触れる時嗣が浮かべる苦笑いは、からかうような口ぶりでありながら矢斗への情に満ちている気がする。


「姿を維持することすら侭ならない有様で行ってどうする! って叱りつけて、養生させるのは本当に大変だった」


 そうだ。

 紗依は、友であった夕星……かつての矢斗の姿を思い出す。

 出会った始めの頃の友は、あまりにか弱くか細い存在だった。紗依の両の手におさまるほどの、儚い光の玉の姿だった。

 恐らく人の姿など想像することすらできない状態から、養生を重ねて今のように本来の姿でいられるようになったのだろう。

 けれど、北家が祭神の帰還を明らかにしていないということは……。


「未だ矢斗は元通りとは言えない状態だ。それまでは、祭神の帰還を公にはできない」


 紗依の裡に生じた懸念にも似た疑問に対する答えは、それを読んだかのように直後時嗣からもたらされた。

 それを聞いた紗依は、思わず矢斗を見てしまう。

 まだ本来の状態と言えないのであれば、もしかして無理をしているのではないかと不安を抱いた紗依へと、時嗣は更に言葉を重ねた。


「完全に復調するまでもう少しかかる。今暫く、矢斗の守りを頼めるだろうか」

「私などが、そのような……」


 言われて、俯きながら消え入りそうな声で呟いてしまう。

 自分は、異能を持たない呪い子である。それ故に、元は玖瑶家の嫡子であっても、今では存在すら無きものにされていて。

 本来であれば北家に足を踏み入れることも、ましてやその祀る神の前に姿を現すことも出来ないような存在である。

けして、そのような頼み事をされるような立場ではないはずなのだ。

 震える声で続きを紡ぎかけた紗依を遮ったのは、他ならぬ祭神そのひとだった。


「紗依でなければできない。どうか、私の側にいて欲しい」


 清冽なまでに迷いも躊躇いもない真摯な言葉に、紗依は弾かれたように顔をあげる。

 そこには、真っ直ぐに紗依を見つめる琥珀の眼差しがあった。

 飾ることのない、曇りなくただ一途な言葉に、落ちつきを取り戻したはずの紗依の頬に赤みが生じる。

 胸が再び高らかに鼓動を打ち始めて苦しくて、咄嗟に両手で胸元を抑えてしまう。

 けれど、紗依にとって不思議でならないのは……それを、不快だと思わない自分がいることだった。

 現かと思うほどに戸惑うことだらけだけれど、未だに全てを受け入れきれたわけではないけれど。

 矢斗の傍に身を置いていいのだということが、自分でも分からないほどに心の中に小さいけれど温かな明かりとなって灯ったのだ。

 だからこそ、身に余ると思うのに、拒絶の言葉が紡げなかった。

 ただ、戸惑いと恥じらいと、ひとひらの喜びを含んだ眼差しで矢斗を見つけるしかできなかった。


「紗依殿は、矢斗が妻に望んだ女性であり、同時に祭神を返してくれた恩人だ。当家においては、貴人として遇させてもらいたい」


 見つめ合う紗依と矢斗へ優しい眼差しを向けていた時嗣は、紗依へ改めて向き直ると居住まいを正して告げた。

 傍らの千尋もそれに倣い、丁重な仕草で頭を垂れている。

 北家当主とその妻である千尋にそこまで礼を尽くされるなど、と恐縮して言葉を紡ごうとしたけれど、二人のあまりに真剣な様子に飲まれてしまいそれもできず。

 向けられる真っ直ぐな感情と、自分の中にある感情に揺れながら、戸惑いながら。

 大きく変わっていく自らを取り巻く環境と明らかになった事実を、必死に言葉を紡ごうとしていた。

 身に過ぎたことと思う気持ちは消えることはない。

 それでも――。

 自分があずかり知ることのできない大きな流れが、自らの運命に生じた事を感じながら。

 矢斗の自分を切ないまでの願いのこもった眼差しを一身にうけているのを感じながら。

 やがて紗依はかつて母に教えられた通りの見事な所作を以て、居並ぶ者達に対して申し出を受け入れる旨を静かに伝えたのだった……。


 紗依は一部の者以外には事情を伏せたまま、表向きは客人である貴人として北家の屋敷に迎えられることとなった。

 矢斗について知ることを許されている北家の家人は、その日以来紗依を尊き神嫁と呼びならわすようになる――。

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