矢斗
紗依は言葉に困った様子で、ただ矢斗を見つめるしか出来ずにいる。
そんな中、紗依の言葉を待つように満ちかけた沈黙を破り、場を繋げようという風に口を開く者が居た。
「まあ、最初は『ふざけるな』としか思わなかった」
時嗣は当時を振り返るように一度目を伏せると、苦笑しつつ説明する。
人々が帰還した祭神を見て畏れひれ伏す中、彼だけは怒声をあげたという。
お前が不在だったせいで、北家の祖がどれだけ苦汁をなめてきたと思う。
勝手に放り出しておいて、今更戻ってきて、どの面を下げて祭神を名乗る気だ。
皆が蒼褪める中、時嗣は矢斗に怒りをぶつけ続けた。
蔑まれながらも家を必死に繋いできた父祖の思いを知ればこそ、戻り来た付喪神に対して抱いたのは畏敬ではなく怒りだった、と当主は語る。
「……矢斗の事情を知ったら、言い過ぎたとは思ったが」
「時嗣のそういう率直さはむしろ好ましい。それに、お前は事実を言っただけだ」
溜息交じりに言う時嗣に、少しばかり苦い笑みを浮かべながら矢斗が言う。
紗依は、そっと矢斗と時嗣に順繰りに視線を巡らせた。
外見の年齢だけ見れば、二人は同年代に見える。
言葉を交わす際に垣間見える様子は、友のようでもあり兄弟のようにも見える。
話によれば戻った矢斗と時嗣の第一印象は、一方的にあまり良くなかったらしい。
だが、今はどこか悪友のような気安さすら感じさせる、打ち解けたものを感じさせる。
それを見つめる千尋も、微笑ましいと思っているようで顔には優しい笑みが浮かぶ。
紗依は、三人の様子に『羨ましい』と思ってしまった。
誰かに心を許し、打ち解けることができる。それが、羨ましいのだ。
紗依にも心を預けることができる母がいる。けれど、母の前でも明かせぬ胸の裡というものはあった。
かつては、それを気負う事無く明かせた友が居た。
そして、その友は今あまりに美しく偉大な存在として再び自分の前に姿を現した……。
まだ目の前で起きている出来事が現とは思えず。自分がその渦中にあるとも実感できず。
やや強張った表情のまま目を瞬き、すっかり言葉を失ってしまっている紗依を見て、時嗣は苦笑いを浮かべる。
「その辺りは、紗依殿がもう少し北家での暮らしに慣れてからおいおい、と言ったところだな」
思わず戸惑いの声をあげてしまいそうになったのを、すんでのところで堪えた。
確かに、求められていたのが紗依のことであったのなら、確かに紗依はこの場から去らなくても良い。
北家の祭神たる矢斗の妻となるのであれば、このまま北家にて暮らすことになるだろう。
雲の上の存在であった四家の一角である北家に望んで招かれ、その屋敷にて暮らす。そして、戻りきた祭神の妻となる……。
ふわふわとした紗の向こう側の話のようで、自分の中では今少し現実味がない。
今、紗依の中で確かなのは、自分を見つめる矢斗の眼差しが真摯であることだけ。
「紗依殿も心の整理がついていないだろうし。そんな状態に付け入るような真似をお前は好まないだろう?」
「ああ……」
時嗣の言葉を受けて、矢斗の表情に気づかわしげな翳りが生じる。
性急にことを進めすぎたか、と悔いているようでもあった。
紗依は何か言葉を口にしなければと思うけれど、心の裡の必死の努力は一つとして実を結んでくれない。
あんな表情をさせたくない。
未だに、あの美しい男性が友であるとは実感が持てない。
けれど、彼に哀しい顔をしてほしくないという心だけは、裡から湧き出るようにして生じてくる。それがあまりにもどかしくてならない。
「祝言と披露目は、紗依殿の気持ちが落ち着いて納得できた後だ」
矢斗と紗依、二人に交互に眼差しを向けていた時嗣が言い聞かせるように告げる。
祝言と聞いて紗依は一瞬目を瞬き。次いで、思わず頬を染めて俯いてしまう。
言葉を出されると、自分が何故この北家に招かれたのかが身に染みてくる。
自分に祝言という言葉が縁づく日が来るなど思っていなかったし、ましてやその相手が人ならざる偉大な存在であるなど。
俯いたまま密かに懊悩する紗依へ静かな眼差しを向けた後、矢斗は僅かに考え込むような表情で僅かに俯き沈黙した。
「披露目か……」
「お前のことも何れ外へ向けて明らかにしなければならないし。お前だって、美しい花嫁の自慢をしたかろう?」
再び口を開き呟いた矢斗に向かって、時嗣は同意を求めるように首を傾げて問いかける。
今は対外的に矢斗のことは……祭神が北家に戻ったという事実は伏せられている。
だからこそ父達は、下衆な推測をした。察する域であっても祭神の帰還について知っていたとしたら、喜び勇んで苑香を差し出していたはずだ。
けれど、何故に祭神の帰還を未だ伏せたままなのか。
心に疑問を抱いても、紗依がそれを口にできないで居た時、それは起きた。
紗依が衣擦れの音を間近に感じた次の瞬間、紗依の視界は大きく変化していた。
矢斗は……紗依を己の懐に抱え込むようにして抱き締めていた。
何を、と問いたくても。離して、と訴えたくても。戸惑いの声をあげる暇すら与えられずに、紗依の小さな体は矢斗の広い腕の中だ。
鼓動があまりに大きく響いている。身体全体が早鐘を打つ心臓になってしまったようだ。
温かで、何故かどこか懐かしい腕に閉じ込められ遮られてしまった先で、時嗣と千尋が狼狽えている気配を感じる。
「こら矢斗! いきなり何を……」
沈黙を破ったのは、我に返ったと思しき時嗣の咎めるような声だった。
彼もまた、矢斗の突然の振舞いの理由が分からず困惑している様子である。
紗依を腕の中に収めたまま、矢斗は自分に対して向けられた責めの言葉に対しても動じる気配はない。
それどころか、揺らぐことのない声音で言い放ったのだ。
「紗依が減る」
「は?」
紗依を抱き締めて隠してしまったまま、矢斗は真面目な声で告げた。
その姿こそ見えないものの、聞こえた呆然とした声から、彼が更に困惑した様子が伝わってくる。
おそらく、その隣にいる千尋も同じなのではなかろうか。
香のような香りを感じたまま、頬が更に熱を帯び体中が燃えているような気がしてきた紗依を他所に、矢斗は続ける。
「これだけ美しいのだから、他の男の目に触れたら、惹きつける」
「そりゃあまあ、そうだろうが……」
目を奪う程に美しい容貌を持つ矢斗の言葉に、自分など、と思うけれど反論する声すらあげられない。
身体から湯気を吹きそうな心地がする紗依は、ただ黙したまま、矢斗の腕の中で続くやりとりを聞くしかできない。
困惑だらけの時嗣の声に対する矢斗の声音に、冗談の気配は欠片も感じられない。
「他の男の目に触れたら、私の紗依が減る。だから、嫌だ」
少しの揺らぎも迷いもない確かな声音で、矢斗は一言一句はっきりと告げた。
矢斗の顔は見えないけれど、多分大真面目な表情である気がする。
咄嗟に返る言葉はなく、複雑な雰囲気を帯びた痛いほどの沈黙がその場に満ちる。
抱き締める腕に籠る力はけして緩むことなく、紗依の激しい鼓動が緩むこともなく。
ややあって、非常に深く盛大な溜息が紗依の耳に届いた。
「なあ、千尋。この駄々っ子、どうしたらいい?」
「私に言われましても……」
時嗣が傍らの妻へ、更なる溜息交じりに問いかけている。
問われた千尋も歯切れが悪い。戸惑いながら、どう応えてよいものか言葉を選んでいるようだ。
紗依は自らの鼓動に身体が悲鳴をあげているのを感じながら、困惑に次ぐ困惑にもうどうしたらよいか。
小さな友は美しい青年であって。
その青年は、四家の一つの祭神である尊き存在で。
威厳ある佇まいで自らを迎えたかと思えば、子供のような駄々をこねて。
何がどうして、どうなっているのか。私は、どうしたら。
もはや何か言葉を紡ぐこともできず、抗うこともできず。紗依は、ただただ力が抜けて崩れ落ちそうだった。
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