逆プロポーズではじまる交際0日婚! 〜狙うのは脚本家としての成功とXXX

八月朔日

第1話

 男の手が私の手首を強く握りしめた瞬間、激しい痛みが腕に走った。まるで骨が折れるかのような強さで、私は一瞬で恐怖に支配された。


「離して!」


 私は必死に叫んだが、男は耳を貸さず、その力を緩めるどころかさらに強める。酒の匂いが私の鼻をつき、呼吸が苦しくなる。


 どうしよう、誰か、助けて……すがりつくように祈った瞬間――。


 突然、男の手が私から離れ、鈍い音が響いた。私は恐怖で目をあけることもできず、ただ固まって身を縮める。すると今度は、大きくて優しい手が私の肩に触れた。


「大丈夫ですか?」


 目を開けると、そこには……息を呑むほど美しい男性が、心配そうに私を見ていた。


 少しクセのある黒髪が額にかかり、長い睫毛が、すべてを見透かすような深い色の瞳を際立たせている。彼は上質なスーツに身を包み、片膝をついて私を覗き込んでいた。


 その存在感に圧倒されて、私は言葉を失った。ただ、彼を見つめることしかできない。


「怪我はないですか?」


 低く落ち着いた声が、私の胸に響いた。私は何度も頷いた。まるで心の奥底まで見透かされているようで、胸がドキドキする。


 連日の徹夜と同僚の裏切り、そして今の騒動で心身ともに疲れ果てた私は、彼が「怪我がないようなら、これで」と言って立ち去ろうとするその瞬間、とっさにスーツの裾を掴んだ。


 男性が驚いたように振り返る。私は、自分でも何を言っているのか理解できないまま、衝動的にその言葉を口にしてしまった。


「……私と、結婚して」


◆ ◆ ◆


 その日の朝――いつもと変わらない一日が始まるはずだった。


 スマホのアラームがリズミカルに鳴り響く。まだ半分夢の中にいた私は、反射的にその音を止めようと手を伸ばした。


 その瞬間、ひやりとした感触が手の甲に伝わった。意識は一気に覚醒し、私は驚きで体を跳ね起こした。


「グッモーニン♫」


 目の前には同僚の村杉友記子の小憎らしい笑顔。水滴がたっぷり付いたテイクアウトのアイスコーヒーを、頬の横に掲げている。友記子はそのカップを、私の無防備な手の甲に押し付けたのだ。


「ちょっと、やめてよ。びっくりしたじゃん」


 私はスマホのアラームを止めながら、同僚兼親友に抗議した。6時に起きて脚本の続きを書くつもりだったのに、もう8時を過ぎている。きっと、寝ぼけて何度もスヌーズを押していたんだろう。


 幸い、オフィスには友記子以外まだ誰もいない。机に突っ伏して寝ている姿を他の社員に見られなくてよかった。


「目が覚めたでしょ。……っていうか、また徹夜してたの? 肌とメンタルに悪いって自覚ある?」


 友記子は私の前にアイスコーヒーを置いた。


「はい、差し入れ。冷たいから目が覚めるよ。それに、百年の恋も冷めちゃうかもね」


「恋してないし。そのフレーズ、いいかも。寝ぼけてるせいか、やけに良いセリフに思える。一応メモしておこう……」


 私はバッグから手帳を取り出して、ヨロヨロとペンを走らせた。脚本のネタやセリフなど、思いついたことを何でも書いておく雑記帳だ。いつか自分のシナリオに活かせたらいいと思って書き続け、すでに16冊目が終わろうとしている。


 手帳をしまうと、私はアイスコーヒーを一気に吸い込んだ。カフェインと冷気で、頭が一気に冴えわたる。


「起こしてくれてありがとう。コーヒーもね。おかげでばっちり目が覚めたよ」


「ふふ、私を崇めたまえ」


「さぁ、締め切りまであと2日、頑張らないと」


 さっきまでのおどけた表情が消え、友記子は眉間にわずかなしわを寄せて、私の隣のチェアに腰掛けた。


「ねぇ薫、言うべきか迷ってたんだけど聞いて。脚本家挫折して、総務に入った私が言うことじゃないかもだけど……」


 上半身を私のほうに寄せて、目を覗き込む。


「薫の書いた脚本、倉本先生が少しだけ手直しして、自分の名前で発表してるよね。こんなに頑張ってるのに、薫の名前はどこにも出てこない」


 私は少しやるせなくなって、友記子から目をそらし、うなずいた。


 倉本美佐先生は、この事務所を率いる日本ドラマ界の大御所だ。先生の得意なジャンルは、ステキ女子がキラキラした日常の中で完璧な彼に溺愛される恋愛もの。20代から60代と、幅広い年代の女性たちから熱狂的な支持を集めている。


 友記子が下っ端シナリオライターの過酷な環境に危惧しているのには理由がある。友記子も入社当時は、私と同じ脚本家志望だったのだ。


 雑用でこき使われていたあの頃がいちばんつらかったが、友記子たち同期と将来の夢――オリジナルの映画やドラマの脚本を自由に書くこと――について話しているときだけは、宝石のように輝く時間だった。


 入社して1年、ほとんど家に帰れないブラックな職場環境に見切りをつけて、友記子は定時に帰れる総務への異動を希望した。寂しかったけれど、何でも話せる友記子が辞めずに残ってくれたのは本当にありがたいことだった。


 そんな友記子の真摯な視線が痛くて、私は目を伏せた。友記子は続ける。


「薫はそれでいいの? ……航のこともあったしさ」


 その名前を聞いたとき、胸の奥に苦いものが広がる。笑ってごまかそうとしたけれど、顔が引きつってしまい、無理だった。


 そのとき、これ以上ないナイスなタイミングでガラスのエントランス扉が開いた。目をやると、アルバイトの青木くんが大あくびをしながら『……ザリヤース』と入ってきた。


 多分、彼は若者語で「おはようございます」と言っているのだ。なんにしろ、話の流れをぶった切ってくれて、グッジョブ青木くん!


 友記子が青木くんに、「寝癖すごいんだけど、まさかその頭で外歩いたの? お願いだから違うって言って」と話しかけている間に、私は深く大きく息を吸って、吐いた。


 私も青木くんに挨拶を返して、友記子に向き直った。深呼吸を1回すれば、ずいぶんと気持ちは落ち着く。


「大丈夫、そのうち有名になって、『あの頃は苦労しましたねぇ』って笑い話にしようと思ってるから。今はそのための苦労ネタを貯めてる最中なの」


 私がにっこり微笑むと、友記子も眉を下げて「そっか」と笑った。


「もっと苦労ネタが必要だったら、いつでも私に言ってね。薫のためにいろいろ用意してあげるから!」

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