第4話『飛翔』
空を仰ぐと紺碧の星々が連なる。円を泳ぐように。螺旋をなぞるように。
この星空が少女は好きだ。
――譬え贋物だろうと……否、偽物だからこその美しさがあると思う。
「こんな世界を護りたくて君は戦ったんでしょう?」
確信をもってどこの誰とも知れぬ女性に呟いた。
今何処に居るかも、或いは存在さえ分からない女性に少女――ステラは呟いた。
「すごいよ。本当にすごい。この世界は辛くて苦しくて、何が希望かもわからなくて、縋るものも解らないまま溺れていくばかりだけど――」
尊敬と希望を語る。
「――でも、凄く美しい」
誰にも否定されない事実。この世界の在り方は狂っている。笑うモノよりもなく人の方が多くて、其れゆえに皆麻痺している。
酒におぼれ、煙草に溺れ、薬に依って、麻痺していく。
「それで判らなくなるんだ、この世界の美しさを」
亜人区を見下ろした。
「やっぱりここの人たちは好き……」
皆が必死に生きようと足搔いている。皮肉なことに、全てを与えられた中央区の人々は腐り果てて、搾取されるばかりの亜人区の人たちは明るい。
皆が皆そうでないコトは分かっている。
それでもやっぱり、あの目が嫌いだ。
中央区の人たちのあの目は、死んだ魚の目よりも悍ましい。
「うーん」
午前四時前というコトもあって、眠気が襲ってくる。
それでも久しぶりの自由時間だ。
「楽しまないと!」
そう言って、空に身を投げ出した。
視界が回転する。光が瞬く。
風が強く、身体を押した。
「……!」
魔力による一対の羽を生み出す。飛翔。
一つの彗星となって空を飛ぶ。
亜人区に魔力の鱗粉を降らしながら、空を舞う。
「アハハハハハ――っ!」
自由だ。何者よりも自由だ。重力からも、柵からも離されて今はただ自由だ。
風のように自由だ。太陽のように自由だ。人々のように自由だ。
「私は自由――っ!」
諸手を挙げて笑ってみせた。
この一瞬だけは、彼女だけの物。
誰よりも自由な揺籃。
誰のも侵害されえない胡蝶夢。
「……あ」
その自由の象徴の羽が夜の闇に融ける。
時間制限――少女の自由は今終わりを告げる。
当然不自由の権化、重力に囚われて、垂直に落下していく……。
「きゃああああ――!」
奪われる。有限の自由は、あっさりと消えている。
それが何より、哀婉だった。
流れ星のように残光を纏って落下る少女。
その瞳は自然と空に――。
紺碧の空に連なる星々を瞳に映して、其の美麗さに囚われる。
「……っ!」
手を伸ばす。遠のいていく空を掴むように。
何もつかめず空を握る。
それが空悲しくて、握ろうとした右手を胸に秘めた。
瞼を瞑り、落下の衝撃に備えた。
――痛みは訪れず、ふわりと誰かに抱えられた。
「……」
知らない顔と、知らない瞳があった。紅い瞳。美しいと思った。
漆黒の髪もチャーミングでいいと思う。
数秒の間、彼に見とれてしまった。
不審に思っていないだろうか? 可笑しくないだろうか。
いきなり帽子を目深に被った少女が落ちてきて、不審に思わない方がどうかしているが、今の少女には、其処迄頭が回らない。
だけど言わなければならないコトは、決まっていて……。
「――ありがとうございます」
――きっとこの時、少女は恋をした。
横抱きにする少女はあまりに軽かった。
凡そ身長に対しての容積を考えれば、体重は五十キロ前後はあるはず。だが少女から感じる重さは、ざっと見積もっても三キロそこそこだろう。
水を詰めた容器の方が断然重い。
「……あの下ろして欲しいかな」
「……すまない、すぐ下ろすよ」
流石にずっと横抱きにしているのは失礼だったと、反省する。
少女を下ろして、向かい合った。
「……」
二人の眼があった。
小尾は恥ずかし気に目を伏せる。
「ちょっと流石に恥ずかしい、かな? じろじろ見ないで欲しいです」
「すまない」
不躾だった。
「……?」
ガヤガヤと周囲が騒ぎ出す。少女が落下してきたのだ、騒然となって当然だろう。
少女は困ったような顔をしていた。
「あの、お礼したいから、場所変えません?」
「そうだな、話も聞きたいし」
了承を得たことが嬉しかったのか、少女は破顔する。
「――私はステラ、君は?」
「リーベスだ」
二人は歩き出した。
「どうして、空から?」
「あそこにいたの」
ステラが指さす先を見た。
其処は他の区と亜人区を分かつ、障壁だ。
外壁は無骨で、こちら側から見るに長いこと塗装されていないようだ。
「あそこの一番上、風が気持ちいんだ!」
「……」
困った。少女の言っていることが分からない。いや言いたいことは分かるのだが、如何せん理解したくない。
風が気持ちいというだけで、あのような高所に上り、剰え落ちて……。
「ちょっと待て! 危険だとか、莫迦なのか? とか、いろいろ言いたいことはあるが、取り敢えずあそこから落ちてどうしてこんな離れたところに落ちてくるんだ……?」
ステラの落下地点とあの外壁は凡そ二キロ前後は離れている。あそこから落ちて、リーベスの居た通りに落ちてくるのは不可解だった。
「うーんちょっと飛んでたら、魔力切れしちゃって落ちちゃった」
てへ。頭に手を当てて舌をぺろりと出す。
「阿保なのか?」
率直な所感だった。
「さっきから酷いなぁ、莫迦と阿保とか」
「間違いじゃないだろ」
「む、そう言うなら君も体験してみればいい!」
「は――?」
言うなり少女は魔力の翼を番えた。
それは藍色の翼。流動し、躍動する自由の翼。
「ちょっと休んだから、また――飛べるよ!」
「おいちょっとまて!」
「大丈夫、ここらあたり人も居ないから見られないよ!」
「そうじゃない……! お前其の羽妖精か⁉」
少女は軽く微笑み、彼の手を取る。
「ほら行こう……!」
世界の法則から離れて、飛び立とうとする少女は眩い。
余りにも美しい。
「……」
為すがままにされた。
そうするのが正解な気がしたのだ。
リーベスを抱えて、空に舞い上がる。
「…………っ!」
急速に街が遠のいていく。小さく、ぼんやりと灯が揺らめいている。
宝石のようだと思った。こんな風に俯瞰して街を見るのなんて初めてだ。
人の営みがこんなにも美しいなんて思わなかった。
「宝箱みたいだ」
「でしょ……!」
嬉しそうに笑う。
釣られてリーベスも笑った。
「ふふ」
「どうしたの?」
「いや、意味の分からない状況だと思ってな。初めて会う女と、出会って数分で空を泳いでる……つくづく意味が分からないな……」
「たしかにねっ」
苦笑交じりにそんな話をする。
「とと、魔力が切れそう」
羽が明滅し始める。
魔力が切れかかっていた。
その呟きを聞いて、ぎょっとするリーベス。
「お前ふざけんなよ⁉ こんなとこから堕ちたら死ぬぞ⁉」
「まってまって! 大丈夫! 何とかするから!」
「何とかってなんだ! 早く下ろせ! お~ろ~せ~‼」
「こらそんな暴れたら落としちゃうよ?」
空中で暴れるリーベスをそんな言葉で黙らせる。
明滅する羽でふらりふらりと漂うに何とか飛ぶ。
ギリギリのところで、外壁の上に着陸する。
「ふう、何とかなった!」
「何とかなったじゃねぇ! 何一仕事終えたみたいな顔してんだよ! 死ぬかと思ったわ!」
「死んで無いからいいじゃない!」
「最低だっ」
額の汗を拭いいい仕事してやった風なステラ。
「ああ、やっぱりいい風……」
風が吹く。ステラのスカートが揺れる。
すっと帽子を脱ぎ捨てる。藍色の長い髪が風で靡いた。
「……」
絵になるとそう思った。整った容姿に、プロポーション。人間離れした美貌だ。
――妖精だったな。
心中で呟いた。
妖精とは嘗て
あまりに醜い世界を嘆いて地上に残った天使。
彼女たちは一つの国を護り、人々の繫栄を確約した。
――それこそがフェスト軍国。
この限られた世界において、長らく国が機能しているのは妖精がおかげなのだ。
「またじっと見てる」
「いや、スカートで空を飛ぶなんて、割と羞恥心無いんだなと」
「――――っ⁉」
スカートを押さえて赤面するステラ。
羞恥心は在るのだと感心した。
「そう言うこと女子に言うのは破廉恥なんだよ!」
「男なんて誰でもスケベだろ」
「デリカシーの問題‼」
「めんどくさ」
言いながら、襤褸を脱いだ。わずかにしか見えなかった黒髪が、晒される。
ゴーグルを外して首にかける。
「君、そんなだと女性にモテないよ?」
「お前は俺の母親か? あって数分の女にそんな心配されたくない」
「君の言動がそうさせるのだ」
「阿保みたいな行動してる奴には言われたくないな」
「ほらそういうとこ!」
腰を下ろした。
煌びやか。そう形容するには少しばかり生き汚い風景。
それが良かった。
死にたがりのリーベスだが、生命のすばらしさを否定しているわけでは無い。
むしろ逆だ。生きること以上に、素晴らしいことなんてないだろう。
何かを生み出し、或いは蓄えていく作業。
その総てが尊いのだ。
「……あの向こうに行きたいな」
「私も」
ぽつりとつぶやいた。
視線の向こう――【未開拓領域】のさらに先に、〝海〟がある。
もはや資料でしか知らないもの。
かつては人類が享受していたという莫大なる資源。
「こんな
「そう……? 私は好きだよこの空が」
「俺は嫌いだ」
「どうして?」
「まるで檻だ。監獄だ。閉塞的で、肺がつぶれそう」
「そうかな、私は揺り篭みたいで好きだよ」
「見解の相違だな。……まあ、本物の空なんて最早どこにもないだろうが」
「どうだろう、あの雲の上へ飛べたなら、見れるかもよ」
人類がその数を減らした日。怪物が跋扈し始めたその日、妖精によって世界は仮初の空を手に入れた。永遠に空を泳ぐ星、青で塗られたような見晴るかす群青。
それらはまごう事なき天蓋だ。
その天蓋がある範囲を【生存権内】と呼ばれている。
その外を【未開拓領域】。
【未開拓領域】は最早生きていける環境ではない。オゾンのバラスが崩れ紫外線が通常生物を殺し、強酸の雨が降る。
さらにその雨は【呪】をもち、人間の精神を犯す。
磁気の影響か砂嵐が吹き荒れるところもある。
そして何より【竜種】に引けを取らない〈モンスター〉が跳梁跋扈しているのだ。
「飛べたとしても、そいつはイカロスさんコースだな」
「イカロスさん? だれ?」
「昔神に近付こうとした莫迦さ。蠟燭の翼で太陽に近づいて翼が溶けて地に落ちた」
この逸話から得られる教訓は、「愚かな夢を持つな」か、「傲慢に気づけ」のどちらかだろう。
「結局俺たちは揺り篭の中、転寝するしかねぇのさ。――この緩慢な夢に溺れるしかない」
――譬えそれが終わりの確定している夢だとしても。
溺れ続けるしかないのだろう。
気づけば、怖れるしかないのだから。
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