動いている家
福田 吹太朗
動いている家
一
その家は、動いていた。
男はたった一人でその家に暮らしていた。
父親は彼が幼い時に亡くなり、母親は五年前に長い闘病の末、この世から去ってしまった。
彼はその家に、一人ぽつんと残された。
彼は家の間取りを説明するのは得意ではなかったので、その家の中の様子を詳らかにすることは出来なかった。
だが彼の記憶によると、一階に主たる部屋は二つ、一部屋は畳の部屋で、もう一部屋には赤いカーペットが敷き詰められていた。
その他にはキッチンと、トイレと風呂場があり、和室の奥には亡くなった両親の遺影が飾られていた。
二階には三部屋あり、一部屋は彼自身が使っている部屋、もう二部屋は元々両親の部屋だったのだが、だいぶ以前に亡くなった父親の部屋は、いつの間にやら物置と化してしまっていた。
母親の部屋はそのままになっており、彼は母の遺品ですら手をつけられずにいた。
男は無職だった。一応職探しをしてはいたものの、母の残した遺産と、家族で貯金していた金で食い繋ぐしかなかった。
彼は毎日が虚しく、次第に塞ぎ込むようになっていた。そんな中、あることが彼の身に降りかかったのである。
二
彼は元々神経質なたちだった。
それはおそらく、亡くなった母親から受け継いだものだったのだろう。
彼の母親は潔癖症と言ってもよかった。
服の畳み方から、食事のマナーまで、口うるさく男に向かって躾と称して、幼い時から無理強いしたのだった。
彼はそのせいで、大人になった頃には、かなり几帳面な性格となっていた。
はじめはおそらく……彼の部屋から始まったのだろう。
部屋にはフィギュアのような物をいくつも飾っていたのだが、位置が完璧に決まっており、ちょっとでもずれたり、角度が曲がっていたりしたのならば、その都度細かく直していたのだ。
他の物でも同様だった。
例えば玄関の靴はきちんと揃えていなければ気が済まなかったし、物が乱雑に置かれているだけでも不快な気分になった。
彼にしてみたらそれは当たり前のことで、みんながそうしていると思い込んでおり、この世の中は清潔で整然と秩序が保たれていて、少しでも秩序や順番が乱れている方が間違いだったのだ。
だからといって彼の家の中は、いつでもピカピカに磨かれている訳でもなかった。
母が闘病生活に入ってからというもの、どうしても男だけの生活ではこまめに手入れが行き届くはずもなく、部屋の隅にはいつでも微かに埃が溜まってしまっていた。
そんなある日のこと、彼が外出先から戻ってみると、何かがおかしい気がした。
最初それが何なのかは、分からなかった。
そしてそれが何なのか分かった瞬間でも、他の人間ならば大して気にもならないことだったのだろう。
それは……一階の部屋に敷かれたカーペットの位置が、微妙にずれていたのである。
三
彼は首を捻りながらカーペットの端を捲ってみる。
あれ? 俺は出掛ける前に、この辺りを動かしただろうか?
あまり鮮明な記憶はなかった。
確かに何回かは、その部屋の中を横切った気がした。その時に間違えて、カーペットを足でずらして動かしてしまったのかもしれない。けれどもたったそれぐらいのことで、位置がずれるだろうか? 毎日何回も、その部屋には入っているはずなのだが、かつて一度も、そんなに位置が動いた記憶はなかったのだ。
それにもし、出掛ける前に位置が変わっていたのならば、男はそれに気が付いていたはずなのである。
さらに気になったのは、何となくだが、誰かが人為的に動かしたような気がしていた。男はその考えに行き着いた途端、急に薄気味が悪くなった。
まさか空き巣や物盗りの仕業だろうか?
だが誰かが侵入した形跡はなく、男は首を捻りながらも、時間の経過とともに腹が減り始め、腹の虫が鳴ったところで、急いで夕飯の支度に取り掛かったのだった。
四
翌日男は奇妙な夢とともに目を覚ました。だがその夢の内容までは覚えていない。
昨日のことは何だったのか。まだ少し心の中に引っかかっていた。
その日は市役所に行かなければならなかった。市民税やら固定資産税やら、税金の相談に行く予約を入れていたのだ。
男は家を留守にするのは少し不安だったのだが、そうするしかなかった。時計を見るともうかなりの時間が経っており、あまり考えている暇もなかった。
家の中をひと通り確認し、出掛ける支度をして、ドアを閉めて確かに鍵をきちんとかけた。
男は様々な手続きというものが苦手で、正直役所の担当者の説明も、彼にとっては複雑怪奇、半分すら分かってはいなかった。
彼は頭の中を満杯にしながら、帰宅したのだった。
鍵を開けて家の中に入った途端、はじめは頭がぼんやりしていたのだが、その後すぐに異変に気が付いた。
玄関の靴の棚の上に置かれている、いくつも並んだ小物の位置が、明らかにいつもと異なっていたのである。
男ははっきりと並び順まで覚えていた。それは干支の置き物で、きちんと子から亥まで順番通りに並んでいるはずだった。
それらの位置が違っていたのである。寅と卯と辰と巳の順序がシャッフルでもするように入れ替わっていた。未と申は、置かれた場所が微妙にずれていた。
ちなみにそれと全く同じセットの物が、二階の部屋にも置かれていた。そちらの方は何の変化も起きてはいなかった。
確かに玄関には鍵をかけたはずだ。しかも部屋の置き物には異変はなかった。
やはり空き巣の仕業なのだろうか? 男は一瞬、警察に通報しようとも考えた。しかしそんなことで警察を呼んでも、かえって自分が怪しまれるだけなのである。
彼はため息を漏らしながら、玄関の干支の置き物を、順番通りに並べ直したのだった。
五
さらに奇妙なことが、何日間、いや数週間は続いたのだ。
ある時は畳の間のこけしが反対側を振り返って、背中をこちらに向けていた。だがそれはたまたま動いただけだったのかもしれない。
またある時は、きれいに並べたはずのスリッパが、ご丁寧にも一個ずつずれて色違いになり縞模様に見えてしまっていた。
どうもテレビが見にくくなったと思ったら、真正面ではなく、斜めの角度になっていたこともあった。
男は怪奇現象の類を信じている訳ではなかったので、誰かのいたずらかと思ったのだが、もちろんそんなはずはなかった。
彼は様々な可能性を考えてみた。
例えばこの家が、最近よく耳にする活断層の真上に建てられているとでも考えてしまったのだが、今まで大きな地震に遭遇したことすらなかった。
その他にも、家の下に敷設されているであろう水道管などが老朽化して振動しているだとか、大きなダンプのような車が近くを通った時に、家全体が僅かに振動するとか、あらゆる可能性を追求してみたのだが、どれも納得のいく説明には程遠かったのだ。
そして最終的に行き着いた結論というのが、彼自身に原因があるというものなのだった。
彼自身、つまりは彼が、彼の精神状態を疑ってみたのである。
六
男が訪れた建物の前には、「神経科」という文字がくっきりとした目立つフォントで書かれていた。
待合室の中は静かだった。
数名の患者らしき人たちと、受付には女性の看護師がいたのだが、ソファに座って自分の順番を待っている人たちは、ただ前を見ていたり、雑誌をパラパラと開いたり閉じたり、中には落ち着きなくそわそわとしている者もいたのだが、ごく普通のサラリーマンもいた。
しばらく腰掛けて待っていると、ようやく彼の番が回ってきた。男は立ち上がり、たった一つしかない診察室のドアをノックしたのだ。
「どうぞ」
とだけ中から声が聞こえ、狭い診察室に入って行った。
目の前にはやや高齢と思われる男性の医師がいたのだが、男が事前に記入した、問診票に目を通していた。
「なるほど、ウン」
医師はそれだけ言い、すぐに男の方に向き直ると、
「強迫性障害ですね。いわゆる」
ただそれだけ言うと、その貫禄のある医師は、デスクトップのパソコンのカルテに何やら打ち込んでいた。
「物とか秩序立って並べちゃうんでしょ? あとちょっとずれているだけでも気になるとか」
男は戸惑いながらも必死になって答え、
「ええ、そうなんです。全てがきれいに並んでいないと気になってしまうのです」
「他には?」
「はい?」
「他には何か、思い当たることはありますか?」
その目の前の医師は、何でもいいから手がかりを探っているようだった。男はボンヤリとした記憶を、何とか鮮明なイメージに変換しようと努力をした結果、
「ええと……」
結局はここ最近起こったことを、余すところなく医師に話して聞かせたのだった。
「心配なさらなくても大丈夫ですよ? 気にすると余計に症状が進行してしまいますから。お薬をお出ししておきますので」
「ありがとうございます……!」
男は再び待合室に戻り、自分の名前が呼ばれるのを何となく待っていた。
名前が呼ばれ、お会計となり、医師がプリントアウトして印鑑が押された処方せんを渡され、診察代を支払った。
男はそれを持って近所の薬局に行き、彼には詳しいことは分からなかったのだが、抗うつ薬らしい薬を受け取ると、その日は真っ直ぐ帰宅したのだった。
七
しばらくは何も起きなかった。やはり強迫何とかという病気で、薬のおかげで症状が治まったのだろうか?
男はホッと安堵したのだが、それも束の間の出来事に過ぎなかった。
一週間ほどは何もなかったのだが、しばらくするとまた、家の中で異変が起こった。
薬は三週間分処方されていたはずである。では薬のせいで症状が緩和された訳ではなかったのか?
家の中ではまたしても様々な異変が発生していた。
食卓のテーブルに、爪楊枝が突き刺さっていたことがあった。
床の間に飾ってある鮭を咥えた熊の置き物の上に、親が昔五月人形として購入して、押し入れにしまっておいたはずの、金太郎の像がまたがっていたりもした。
誰かの叫び声が聞こえた時もあった。
極めつけは、やはり和室にあっただるまが真っ逆さまにひっくり返って、畳の部屋の中央でくるくると回転していたのである。まるで男のことを嘲笑っているかのようだった。
これは病気なんかじゃない。幻覚でもない。現実に起こっていることなのだ。
けれどもあの医者に相談か診察してもらったところで、薬の量を際限なく増やされるだけに違いない。
男にはもう、どうしていいのか分からなくなっていた。この際だから、霊媒師でも家に呼んで、お祓いをしてもらった方がまだマシだったのではないか? それすらも分からなくなりかけていた。
男の症状はますます悪化し、全てのものが曲がって歪んで、無秩序な物体としか見えないようになっていた。それらを直すのに、毎日多大な労力が払われ、一日の大半の時間をそのことに費やして、労働に勤しんでいる訳でもないのに、陽が沈む頃には、ぐったり疲れる日々が続いたのだった。
八
その家は何だか奇妙な感じがした。
女はたった一人の息子と、その家で暮らしていた。
彼女の母親は彼女が幼い時に亡くなり、父親は三年前に闘病生活の末、この世の人ではなくなってしまったのだ。
彼女と小学一年生になったばかりの息子は、その家にぽつんと取り残された気がしていた。
二階建てのその家は、何となく不気味な雰囲気を漂わせていた。
一階には和室と洋室が一部屋ずつあり、二階には全部で三部屋、その内の一つは物置きとして使われていた。
彼ら親子がいつその家に引っ越して来たのかは、はっきりとしなかった。気が付いた時には、その家の中にいたのである。
母親の記憶では、以前は小さな狭いアパートで、暮らしていた気がした。
だがいきなり大きな家が彼らの周囲に姿を現して、彼女自身は戸惑っていたのだが、息子があまりに喜ぶので、とりあえずそのまま、そこに住み続けることにしたのだ。
小学一年生の息子は、いたずら盛りだった。家の中の物をいじくっては、持ち上げたり動かしたりしていた。
一児の母である女は、何かが違う気がしていた。なんだか異質な感覚に囚われていたのである。けれどもそれが何なのかまでは分からなかった。
それが初めて目に見えて分かったのは……息子が捲り上げた一階の部屋のカーペットの端が、きちんときれいに敷き直されていたのを目にした時なのだった。
この家は何かが変だった。
九
女は生きていくために、普段はパートをして生活していた。
派遣会社に登録していたのだが、近所の物流工場で仕分け作業をしたり、いつも常に仕事があるとは限らなかったので、スーパーのレジ打ちをしたり、年末になれば年賀状のアルバイトに毎年応募していた。
彼女はやはりどうしても気になったので、朧げな記憶だけを頼りにして、以前のアパートがある住所まで行ってみることにした。
そこには確かに、一棟のアパートがあった。かなり傷んで古びた小さな建物が、左右から押し潰されそうになりながらも、辛うじてその姿を保っているようだった。
彼女は自分と息子が、以前暮らしていた記憶のある部屋の前まで行ってみた。だが表札に書かれた名前は、その親子の苗字と明らかに異なっていたのだ。
大家に電話をかけたが繋がらなかった。
その苗字が変わってしまっている部屋の、玄関の戸を叩いてみようかとも考えたのだが、逡巡してどうしようかためらっている内に、腕時計の二本の針が一瞬交差し、ある光景を鮮明に呼び起こさせた。
息子を学童保育に迎えに行く時間が迫っていたのである。
彼女は慌てて自転車にまたがると、大急ぎで漕いで息子が通う小学校まで向かったのだ。
あのアパートは一体なんだったのだろう? それと今から帰宅するはずの奇妙で風変わりな家は。
その女には絶えず不安感が付き纏っていたのだが、かと言って今住んでいる家を出て行く訳にもいかなかった。
西の空が鮮やかなオレンジ色から、徐々に闇の色である黒へと変化していった時、ようやく彼女の自転車は、小学校へと着いたのだった。
十
男はあれから何度もあのクリニックに行った。
だが薬が増やされるばかりで、一向に精神状態が改善される訳ではなかった。ついには医師に頼んで紹介状を書いてもらい、別の神経科、あるいは神経内科と呼ばれるクリニックへと足を運んでみることにした。
しかしどこに行っても診断名は同じで、同じような薬が処方されるだけだった。最終的に辿り着いたクリニックで、そこの女性の医師はカルテと男を互いに見比べながら、
「症状はともかくとして、薬が重複しておりますね。調整しましょう」
それで結果的に、男の薬の量は減ったのだ。
それまで薬の副作用で頭が朦朧としかけていたのだが、少しすっきり軽くなった気がした。
頭が軽くなったからなのか、だんだん冴えてきて、考えに余裕が生まれ、新しいアイデアを思いつくことが出来るようになった。
彼はこの家を試してみることにしたのである。
十一
男は例のだるまを、和室の中央に置き、しかも数日前の時と同じようにひっくり返して、ほんの少しだけコマのように回転させたのだった。
畳の部屋に男の子が走って入って来た。
「お母さん……! だるまがひっくり返ってくるくる回っているよ! 僕も回してみてもいい?」
母は慌ててやって来ると、
「だめですよ。縁起物なんですからね。違う物にしなさい」
男の子はだるまの回転を指で止めてから、
「玄関にサッカーボールがあったっけ? よしっ!」
と走って行ってしまった。
だるまの回転が、いきなり停止した。かと思うと、今度は男が少年時代に使っていた、半分空気の抜けたようなサッカーボールが、玄関の方向からポンポンと跳ねて転がってきたのである。
男の子はサッカーボールを転がしてから、
「これなんか上手く弾まないや。普通はこんなに柔らかくないよね」
母は息子に向かって、
「空気が抜けているんじゃない? それに家の中で遊ぶのはもうやめにしなさい?」
男の子はサッカーボールを持って、母に言われた通り、玄関の元あった位置まで、戻しに行ったのだ。
サッカーボールが突然、奇妙な動きをした。宙に浮き上がったかと思うと、フワフワと独りでに玄関まで飛んでいったのである。
男の子はサッカーボールを元の位置に置いて片付けると、手持ち無沙汰になったらしく、靴箱の上に並べられた干支の置き物のうち、なぜか寅と午の二つを軽く押して倒したのだ。
男はサッカーボールを追いかけて、玄関までついて行った。サッカーボールは元の位置にいつの間にやら片付けられていた。
不思議な感覚のまま、カーペットの敷かれた居間の方向まで戻ろうとした瞬間、ふと例の干支の置き物が、目に入ったのだ。
なぜなのか、寅と午だけが、横倒しの状態になっていた。
「ちゃんと戻してきた?」
母に尋ねられた男の子は、
「うん」
とだけ答えたのだった。
男はまたしても呆然となっていた。果たしてこんなことがあるものなのか。しかしそれは実際、男の目の前で起きたことなのだった。
これは彼が病気なのではない。多少は細かい性格だったかもしれないのだが、原因は彼にあるのではなく、この家そのものなのだ。
居間へと戻ろうとした時、なぜか男の視線の先には、柱についた何本もの傷が、見えていたのだった。
十二
それは男がまだ小さかった頃、母に身長を測ってもらって刻んだ傷だったのである。
全部でその線は七本あった。
小学一年生から、六年生まで。さらに中学一年生までそれは続いたのを、男は覚えていた。だが中二ぐらいの年齢になってくると、反抗期という厄介なものが訪れて、そこで柱の傷は途切れてしまっていた。
母一人子一人で、せっかくそこまで育ててもらったのに、家では口すら利かなくなってしまっていた。
男はそれからしばらく経って高校を卒業してから就職し、一人暮らしをしたこともあったが、自宅から仕事場まで通っていたこともあった。
それからさらにしばらく経って、母は長年の疲労が蓄積されたのか、病に倒れ、闘病生活の末、ついには息を引き取ってしまった。
男は親孝行をし損なったことを、激しく悔いていた。
だが全ては後の祭りで、今になって悔やんでみても、もう遅かったのだ。
男は過去を苦々しく振り返るとともに、懐かしんでもいた。と、その時である。柱の傷のうち一番下、つまりは初めて測ってもらった線が、徐々にだが、それでも男の目には確実に、太くなっていっているのが見えたのである。まるで彼の思い出を上からなぞっているようだった。
男にはこの家で起きていることの意味が、徐々に分かりかけてきていたのだった。
十三
男の子の母親は、いろいろと躾に厳しかった。
外から帰ってきたら必ず手洗いとうがい。食事の前にもきちんと手を洗う。食器の並べ方から、箸の持ち方まで何度も注意された。男の子が食べ物を口の中でクチャクチャ音を立てていると、必ず母の叱る声が飛んできたのだ。
男の子はただ黙ってそれに従った。
それでもやはりいたずら盛りなことには変わりはなく、家中あちらこちらの物を何度も動かしてみたり、母に叱られた鬱憤が溜まっていたのか、大声で叫び出すこともあった。
その他には母からは例えば、服はきちんと畳んでおくのよ? だとか、遊び終わったら使った物はきちんと片付けておきなさい? などと注意されたりもした。
母である女は、かなり神経質な性格のようだった。潔癖症と言ってもよかったのかもしれない。
女は験を担ぎ、自分の部屋と、玄関の靴箱の上に干支の置き物を並べて、きっちり順番通りに位置まで決めていたのだ。
男の子はそれに反発したつもりではないのだろうが、時々動かしたり並び順を変えたりもした。けれどもさすがに母の部屋の置き物まではいじることは出来なかった。
母は悪気があって男の子にきつく叱った訳ではないのだろう。男の子もそれは分かってはいた。母は根は優しいのだ。
ある時母が男の子に向かって言った。
「ねえ? ちょっとこっちに来て、ここに立ってちょうだい?」
男の子はただ黙ってそれに従った。
彼は玄関に出たところの柱の前に立ち、母が男の子の身長を測るため、カッターナイフで頭のてっぺんの真上に傷をつけたのだ。
「これで毎年どれくらい背が伸びたのか分かるでしょ?」
母は得意げに言っていた。
まるで自分の子が、自慢の息子だとでも言うように。
その時の男の子には、その母の誇らしげな顔の意味が、まだ分かってはいなかったのだ。
そしてそれがようやく分かったのは……。
十四
男の頭の中では、子供の頃の情景が浮かび上がろうとしていた。
この家で母と暮らしていた時のこと。
小学生の頃に自分がどんな子供だったのか。
この家で一体何をしていたのか。
それらが一つのまとまった映像となって、男の目の前に広がろうとしていた。
男はやっと思い出した。干支の置き物のことだ。なぜ寅と午だけ倒れていたのか、その理由が判明したのだ。
寅は自分の生まれ年の干支。午は確か、母が亡くなった年の干支だった。
それが倒れていたということは、子供の頃の自分が、無意識的にいたずらをして、自分の存在価値をアピールしていたのかもしれない。
男にはこの家で起きた奇妙な現象について、全てが分かりかけていた。
男はいきなり叫んでみた。
「おーい、誰かいますかー!」
返事はなかったのだが、誰かに届いているという確信があった。
男は何かと繋がろうとしていたのである。
十五
「ねえ、お母さん、今誰かの声が聞こえたよ?」
男の子が突然そう言った。
「ちょっと、何を言っているの?」
母は眉をひそめて、その時はてっきり息子が、自分のことを馬鹿にしているのだと思った。
「ねえ、また聞こえたよ?」
男の子は真面目な顔でそう言ったのだ。
「ちょっとー、聞こえますかー?」
男は試しにもう一回、叫んでみた。もちろん返事などはない。
男は何とか繋がろうとした。だがその手段が思い浮かばなかったので、キッチンにあったかなり古い湯飲み茶碗を、赤いカーペットの上に、ゴロゴロと転がしてみた。それしか方法は思いつかなかった。
「ねえ、あれ見て?」
先日買ったばかりの湯飲み茶碗が、カーペットの上で転がって、女のいる方向へ近付いて来たのだ。
「嫌だわ。気味が悪いわ」
女がそう言うと今度は息子が、
「男の人の声が聞こえるよ?」
「それは誰なの? 知っている人?」
「知らない人だけど、知っているような気もする」
母は途端に心配になった。
男は突然あることを思い出した。母と自分との間に、合言葉のようなものがあったのである。
男はその言葉を、思い切り叫んでみることにした。
「だるまさん転ばなかったー!」
家の中で大きな声が響き渡っていた。
「ねえ、今の聞いた?」
「ええ、これって……確かあなたと以前、合言葉にしたら面白いよねって……」
女はそこで咄嗟に悟ったのだ。この家で起きていることの、何もかも全てを。
母である女も、自分の息子に同じ合言葉を返したのだった。
「だるまさん転ばなかったー!」
男は返ってきた言葉を聞き、ようやく自分の母に全てが伝わったとの、安堵感が心の中に広がっていた。
彼はそこで非常に安心し、後悔の念が取り払われた気がした。と言うのも、彼が母と最後に交わした言葉は、つい口喧嘩になって吐いてしまった、罵りの言葉だったからである。
十六
男はそれから、仕事を見つけて働き始めた。
実際に働き出してみると、不思議なことに、今までの強迫的な症状はいくらか和らいでいた。
彼は久し振りに母の墓参りをしてみようと思った。ここ最近はつい足が遠のいていたからなのである。
案の定、墓は荒れ放題となっていた。彼はきれいに墓石やその周りを掃除してから、花を手向けて、手を合わせて祈りを捧げたのだった。それから家に帰った。
男は今でもたった一人でその家に暮らしていた。
毎日住んで暮らしている家なのだが、何となく懐かしい雰囲気だった。
この家には、母との思い出が残っている。それがまだ、動いていたのだ。
二階の物置となっている部屋は、西の方角に面していた。男が仕事から帰ると、そこに置かれた物と物の間の隙間から、西陽が差し込んでいた。まるで母がかつて剥いてくれた、みかんの皮の色のようだった。
その家は、ゆらゆらと今でも動いていた。
了
動いている家 福田 吹太朗 @fukutarro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます