ヴィトゲンシュタインを読む
ヘツポツ斎
2024年11月11日の対話【同年1214追記】
+M laboratory
自分の正しさを証明するために躍起にならなくてもいい、と腑に落ちたとき、人は解放される。
議論を放り出して、“自分専用の正しさ“を探しにいく。どこへ?自分の人生という物語のなかへ。
<正しさ>から<愛>へ転回する。+M laboratory
https://x.com/freakscafe/status/1852323539367633055
と言う言葉を読み、感じたこと。
「正しさにこだわることが正しくない」ことを「正しいと思いこんでしまう」罠が待ち受けるのがきついところ。
ちょっと油断すると、すぐこの罠にハマるんだ。どうやったら自由になれるかよくわからん。
https://x.com/HEZPOZ/status/1852324275426136297
するとこうお返事を頂戴した。
という面倒な回路が頭にできてしまっている人は、まずは大きく迂回する必要がある。ウィトゲンシュタインを読むといいかもね。哲学的治療。
https://x.com/freakscafe/status/1852324788846661695
ふむ、なるほど?
と言うわけでヴィトゲンシュタインを読んでみることにしました。何が出てくるんでしょうかね。
一応『論理哲学論考』に沿うつもりではいるんですが、まー間違いなく途中で破綻します。おりおり全体像とかも拾うようにして、「頑張らない」は今までのデイリーシリーズと同じく、とは言え単純なローラーではなく、戻る時には躊躇なく戻る、で行こうと思います。よろしくお願いします。
【2024.12.14追記】
この作品は日記であるため、これもきちんと記録に残しておく。
本作をスタートした動機は上掲のやりとりを経て、「では、なぜこの思考回路の治療にヴィトゲンシュタインが必要だったのか」を求めるものであった。現在『論考』本編の最終盤を泣きながら読みつつ、並行してこれまでになんとか理解ができた、と思っていることを自分なりにまとめる作業をしている。ここでつい今しがた、いきなり「なぜ」がつながった。
エウレーカ、と言うやつである。なのでエウレーカを「エウレーカの形で、とりあえず」記録する。
結論を記すに当たり、いったん内容を一般化するために、正しさ、と言う形而上学的概念をMと置く。この内容は「あらゆる形而上学的概念に敷衍しうる」と考えるゆえである。
「Mは現象ではない。ならばMは、ヴィトゲンシュタインの言う世界、いわゆる論理空間上に名前として指定する対象を持たない。よってMの検証は自分を発端とする以外なく、自分の存在を前提としないかたちでMを検証しても無意味である」。
Mについて語るにあたり、我々は「自分が考えているM」以外のものを語ることができない。他人の語るMについては「自分のMからの距離」と言う形でしか見ることができないし、「本当の意味で正しいM」を設定しようとすれば、自分が考える理想的なMという意味にしかならない。ここを理解しないままMの確からしさを振りかざしてみたところで、全ては一人相撲にしかならない。
では、Mを「正しさ」に戻して述べてみよう。
「正しさ」という言葉には様々な要素が付与しうる。無数の要素の集合体であり、その構成は人によって異なる。なので他者と正しさについてすり合わせるなら様々な要素をピックアップし、どれだけ近似するか、どれだけ違いが出るか、を相互に検証し合うしかないのだろう。とはいえ検証を試みようにも、もともと近しい正しさの要素を持つひととは検証し合うストレスも低くモチベーションも高くできようが、そうでない人とは逆になるだろう。つまり「正しさ」のニュアンスが近い人以外と、これをやる意味がない。
以上を前提とし、+M氏の「正しさを証明するために躍起となる」を見る。これは他者に自らの正しさを受け入れさせる、であり、一方では他者がこちらの正しさを了解する、ともなる。どちらにせよ「正しさが近い」場合でなければすり合わせる意味がない。また近ければあえてすり合わせずともそれなりに自動的なすり合わせも入るし、やる意味がない。
ならばそのような不毛なところに意を割く時間を「自らの正しさの涵養」に充てた方が良い。我々は他人の人生を生きられないのだから。
そこに自分は、「「正しさにこだわることが正しくない」ことを正しいと思ってしまう」と返した。他者に自分の正しさを押し付けることに意味がない、というテーマは、結局の所「私にとっての正しさ」でしかない。他者にとっての正しさに適合するとは限らない。ならば、他者が自身の正しさを更に別の者へ押し付けようとする構造と、結局のところ同じなのである。
付言すれば、他者の正しさに干渉しようとする者の「正しさ」は、概して干渉が無駄である、と認識する者の「正しさ」からだいぶ縁遠いものとなるだろう。ならばいよいよ口出しをするだけ無駄となる。
もともと、自分は自身の正しさを他人に押し付けようとするクチであった。様々な失敗を経て「これをやるのはマズイ」と気付かされ、自律するようにはなって、いた。
ゆえにこそ「正しさの押しつけ」を「正しくない」と感じつつも、そこに至るまでの理路が腹落ちしきれていなかった。このため、少し油断すればもともとのならいぐせであった「他者に正しさを押し付けようとする」に戻っていた。
こうしたループを抜本的に断ち切る上でも、「他者の正しさにあれこれ口を出すのが基本的に無駄」の理由を求める必要があった。
そして今回、ヴィトゲンシュタインとかいうくっそ面倒くさいし執拗な考察をこっちにぶつけてくるおっさんの考察にぼてこかされまくり、ようやく答えらしきものに出会えたわけである。
さて、『論考』に取り組み始めて一ヶ月半弱。同書の終わりを待つまでもなく所与の目的を達成してしまった。ならば本来、本作はここで打ち切ってしまっても良い。
だが、自分の場合ヴィトゲンシュタインの言葉には莊子生物論との近似性を強く感じたとき以来の興味をつのらせている。ならば『論考』が「沈黙する」ところまではきちんと追いたい。
加えて、つねづね『論考』を読んでいるときに感じる「生きづらそうだなこのおっさん……」感は、日本有数のヴィトゲンシュタインマニアたる諸隈元氏がおっしゃるには『探求』にてさらに爆発するそうである。せっかくここまで付き合ったのだから、この生きづらそうなおっさんのぶちかましをもう少ししっかりと眺めた上で、ダンマパダに戻りたく思う。
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