第37話:草と土の匂いが鳴らす警鐘
うっそうと茂る森。
切り立った崖。
数メートル下では荒々しい岩がむき出しの沢が流れている。
たかが数メートル、されど数メートル。切り立った岩肌に直撃したら、絶対にタダじゃ済まない。天然のヤスリに削られて、酷い目に遭うに決まっている。
「ご主人さま」
シェーンの背中で一緒に揺られているシェリィが、そっと声を上げた。
「ご主人さまは、どうして剣を持ってるのに、木の棒を背負ってるの?」
木の棒!
うん、まあ、確かにそうだよな。
「これはさ、……そうだな、言ってみれば『お守り』みたいなものかな」
「お守り?」
「ああ。俺の運を開く、お守りだ」
出発前の食事を摂るとき、デュクスは俺たちを「運がいい」と言い、「自分の運を信じようぜ」と言っていた。
──運。
俺は別に、格別に運がいい人生を送ってきた自覚はない。運が良ければ、そもそもこんな世界に落っこちてこないよ。
でも自分の命の危機を、俺は何度も潜り抜けて、今ここにいる。
そしてこの木刀はいつもそばにあって、一緒に生き延びてきた。
爺ちゃんの手で「
「この隊商を襲うような悪い奴らになんか、負けちゃいられないからな」
「……うん」
「この木刀は、そのための力をくれる気がするんだ。俺を守ってくれるお守りさ。……でもって、シェリィも、守りたい」
「……ボク、を……?」
シェリィの腕に、きゅっと力が入ったのが感じられた。
「もちろんさ。デュクスだって、フマニスさんだって、シェリィに家事を教えてくれたあの女の人たちだって、みんな守りたい。俺が世話になった人たち、みんなを」
……後ろからシェリィが、ひどく悲しそうにため息をついたのが聞こえてきた。
なんでだ?
道幅が狭くなり、時々道に転がっている大きな岩をどかし、崖から突き落としながら進む。
「ご主人さま、ごめんなさい……」
何度目かの岩をどかしたあと、シェリィが申し訳なさそうにつぶやいた。
「何がごめんなんだ?」
「……ボクも鳥さんに乗れたら、いちいち、ボクをのせなくたって……」
「何言ってんだ。さっきデュクスが言ってたろ?」
俺は、シェリィの頭をわしわしとなでる。
「シェリィの耳や鼻は頼りになるって。ほら、以前だって、シェリィが狼たちの待ち伏せを見破ってくれただろ? あれがあったから俺は戦えた。シェリィ、今回も頼りにしてるから」
「う、うん……」
少しだけ、うれしそうな表情を見せたシェリィが後ろに飛び乗ってきたのを確かめて、俺は手綱を振るった。
「……でも、ボク、あの夜……ご主人さまに、ひどいこと、言ったから……」
「あの夜?」
「ひとりで寝るとか……ボクのなにを知ってるって、とか……」
「……ああ、そんなこともあったか」
あれはタイミングも悪かった。あの毒の凶刃の男が襲撃してきて、犠牲者も出た。まともに話す機会もほとんどなくなってしまっていた。考えてみれば、今この時間が、久しぶりの、まともな会話かもしれない。
「ボク、あれから、何度も、ご主人さまにお話、したかったの」
「そうだな。俺も話、したかったよ」
きゅっと、腹に回された彼女の腕に力がこもる。
「……ボクね。きのうの夜ときょうの朝、ご主人さまが、お食事、食べてくれて、すごく、すごく、うれしかったの」
「ああ、慣れないことを頑張ったんだもんな?」
「ううん……。あのね、そうじゃないの……」
シェリィの声に、鼻をすする音が混じる。
「あの夜……ご主人さまに『あっちへいけ』って言われたとき、ボク、どうしていいかわからなくなっちゃったの……。ボク、もう、いらない子なんだって」
……ちょっと待て。俺、そんなこと言ったか?
「ボク、ご主人さまのお役に立ちたかった……。でもご主人さま、こわかった……。毛布くれて、『分かった』って言ったときから、もう、ボク、いなくてもいいのかなって……」
そこまで言われて、やっと分かった。
あのやりとりだ。一人で寝る、と言ったから、せめて風邪をひかないようにって毛布を渡した、あのときだ。
「でも、さっきも髪、なでてくれて。ボク、おそばにいていいの? いけないの……?」
「い、いや、シェリィ。待てよ、俺は別にそばにいていいとかいけないとか、そんなこと思ってなかったぞ?」
「で、でも……」
「聞いてくれ、俺は……」
俺が後ろを振り返って言いかけたとき、シェリィがパッと顔を上げた。耳がせわしなく動き、鼻をひくひくとさせる。
「ご主人さま! なんかへん、草のにおいがする」
「……草の、匂い……?」
うっそうとした森の中だ。崖路は狭く、荷車の車列がすれ違う余裕はない。崖沿いの道だから決して木に覆われた道というわけではないけれど、山の陰になっている道のため、昼前なのに薄暗い。下の方から沢の音が続き、時々鳥の声が聞こえる。崖はむき出しの岩がコケに覆われていて、岩肌はじっとりと濡れている。
草の匂いなんて、いまさらだ。というか、草のにおいなんてものがもう、分からない。
「シェリィ、草の匂いなんて……」
言いかけて、ハッとした。
デュクスは言った。彼女の感覚は、
「シェリィ、草の匂いってなんだ? これまでと何が違う?」
「あのね、草をつぶしたにおい。いっぱいしてくるの。土のにおいも」
「草をつぶした匂い……土の匂い……どこからだ」
「どこから……? わかんない、でも……」
シェリィの耳がパタパタと動く。
「足音……足音が聞こえるの。たくさんの、ヒトの……!」
「どこだ、それは!」
「……うえ!」
ぞわりと背筋に冷たいものが走る!
反射的に崖の上を見る。
草やコケで覆われている岩壁には、ところどころ、いびつな形の木が生えているだけだ。
崖の向こうに、何かがいる、何かがあるようには見えない。
だけどシェリィが嘘をつくはずがない。
彼女はその鋭い感覚で、俺に教えてくれたんだ。
何かがいる、少なくとも、シェリィが「たくさん」と感じる程度の「人」の数が!
「警告! 敵襲に備えろ! 賊がいる、崖の上だ!」
とっさに叫んで、俺は後続の車列に向けて
「なに? 賊が何だって?」
先頭集団の男たちが、困惑したようにこちらを見る。
だけど、説明をしているような時間も惜しかった。
「崖の上にいる! 何かを仕掛けようとしている! 敵が来るぞ! 敵襲に備えろ! 賊は崖の上!」
「うわっ……危ないな、なんだって?」
狭い道でぶつかりそうになった護衛の男に「ごめん!」と言い捨てると、俺は声を限りに叫ぶ!
「崖の上になにかいる! 敵襲に備えろ! 崖の上から何か仕掛けてくるぞ!」
「なんだ、何が起こっている?」
「これから起こる可能性がある! 敵に備えろ! 崖の上に人影あり!」
だけど動きが鈍い……! どうして荷車を止めない? 誰もが俺の方を振り返りはするけれど、なんで動きがないんだ!
「どうした、カズマ」
俺が叫びながら後列に向かっていると、デュクスがこちらに
「デュクス! シェリィが草とか土の匂いがすると言うんだ!」
「落ち着けカズマ。ここは森だぞ? 草の匂いも土の匂いも、そりゃするだろうよ」
「シェリィが異変を感じたんだ! 絶対に何かある!」
「異変……?」
デュクスがなにか考え込む仕草をする。ああもう、デュクスまでこんな調子だと話にならない!
「それに、頭上から足音が聞こえたと言うんだ! それもたくさんって!」
「……なんだと⁉ それを先に言え!」
途端にデュクスは鳥を走らせる!
「止まれ! 何者かがこの道の先で小細工を仕掛けてやがる! すぐに止まれ!」
デュクスの言葉に、隊商の人々がざわめき始める。俺も同じようなことを言っていたのに! やっぱりデュクスの方が信用と重みが違うんだろう。だけどここで腐ってたってしょうがない。
「止まれ! 敵の襲撃の恐れあり! 止まれええええっ!」
そう叫んだときだった。
「ご主人さまっ! 上! 上でなにかやってる!」
シェリィがしがみついてきて、悲鳴を上げる! 振り返ると、目をぎゅっと閉じて、それでも耳はしっかりと上の方に向けているシェリィの姿。
上……上からの攻撃か!
源義経の「鵯越の逆落とし」や源義仲の「倶利伽羅峠の戦い」が頭に浮かぶ。まずい!
「みんな止まれ! 動くな! 物陰に隠れろ!」
必死に叫びながら訴えていると、地響きのような不気味な音が迫ってきた。思わず見上げた先をみて、叫ぶしかなかった。
斜面を転がり落ちてくる、岩や丸太……!
「みんな逃げろぉおおおおおおおっ!」
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