第14話:彼女を笑顔にしてやれたら

 心頭を滅却すれば火もまた涼し!

 精神一到何事か成らざらんっ!

 煩悩あれば菩提ありッ……!


 俺は必死に頭の中で思いつく限りの言葉を並べながら煩悩と戦っていた。

 それもこれも、みんなコイツのせいだ!


「はふぅ……ご主人さま……」


 たしかに、ベッドを使うことは認めた。女の子だもんな、床で寝るなんてとんでもない!

 でもこのベッド、ダブルベッドのさらに倍くらいありそうなサイズなんだよ。だったら俺も、端で寝たっていいよな?


 で、寝ようとしたら、コイツ、実にお早い寝つきの上に、俺のところに転がってきて、いま、俺の腕を抱きかかえるようにして丸くなっている。


 もし、これが元の姿……もふもふケモノの姿だったら、こんなに悩まなかったかもしれない。

 でもこいつ、犬の耳とふかふかしっぽが付いているだけの、女の子なんだよ!

 それも、よりにもよってかなり可愛いんだ、これが!


「お、俺だってな、男なんだぞ? お前、分かってんのか?」


 そっと耳元でささやいたら、「んむ……わふぅ、ふへへ……」なんて、笑ってんのか何なのか分からん反応しやがって。クソッ、幸せそうな顔だよまったく。


 頭がぐっちゃぐちゃになりそうになりながら、腕をそーっと引き抜こうとしたら、キュッてしがみついてきて。ああもう、可愛いけど勘弁してくれよ──そう思ったときだった。


「──おにいちゃん……」


 かすかに聞こえた。

 たしかに聞こえた。


「まって、やだあ……」


 驚いてシェリィの顔をのぞき込むと、涙が一筋、目から流れ落ちている。


「シェリィ……?」


 声をかけたけど、わずかに身じろぎしただけで、寝ているようだった。俺の腕を抱きしめる腕に、わずかに力がこもったような気がした。


 そういえばこいつ、家族が人間に捕らえられて皆殺しにされて、毛皮が剥がされるのを見たと言っていた。幼かった彼女を隠して家族は戦い、そして全滅したということなんだろうか。彼女だけ見つからず、しかし彼女は家族の悲惨な姿を、その隠れている場所から見つめ続けていたということなんだろうか。


 ……生き残ってしまった罪悪感サバイバーズ・ギルトって奴だろうか。普段は天真爛漫な女の子に見えるけれど、ずっと心に闇を抱えてきたのかもしれない。


 そう考えると、俺のことを「ご主人様」なんて呼んでまとわりついてくるのも、単純な「恩返し」って奴とは違う気がしてくる。いったいどんな思いで、彼女は……。


「……お前も、苦労してきたんだな」


 俺自身、訳も分からずこんな世界に放り出されちゃったけど、少なくとも家族が悲惨な殺され方をして、それを目の前で見続けるようなことにはなっていない。


 そっと頭をなでてやると、「わふぅ……」とかすかな声を上げ、また、腕にしがみついてきた。


 そっと包み込むように、彼女の背に腕を回す。

 ──温かい。

 そのぬくもりに、なぜだか安心する。


「おにいちゃん、か……」


 少し身をよじったシェリィは、俺の懐に潜り込むように、もぞもぞと身を寄せてくる。


 俺は、彼女をそっと抱き寄せた。

 わずかに身じろぎした彼女の吐息を、胸元に感じる。


 このぬくもりを、俺はあの村で、守ることができた。

 このぬくもりが、熊の前で隙をさらした俺を守ってくれた。


 だったら、とりあえずこいつがそばにいてくれる間は、できるだけこいつのことを守ろう──そう思った。それが、今の俺にできる人助けであり、正義のカタチなんじゃないだろうか。


「……おやすみ、シェリィ」


 そっと背中をなでてやる。

 彼女を笑顔にしてやれたら、俺もきっと、笑顔になれる。この世界で一つ、何かを成し遂げたことになるはずだから。




「──おはよう」

「お、お、お、おはよう、ございます、ご主人さま……!」


 それまで俺の胸元にうずめるようにして寝ていた顔を、見上げるように俺と目を合わせたシェリィ。すぐに視線をそらし、でもチラッと目を向けて、またうつむく。妙に頬が赤い。


「ご、ご主人さま、起きてたの……?」

「今起きた」


 少し嘘だ。さっき起きたばかりなのは間違いないが、しばらく、その幸せそうな寝顔を観察していた。昨夜、涙を流しながら寝ていたのを見たばかりだったから、寝顔が穏やかで可愛らしいのを見て、ホッとしてたんだ。


「え、えっと……ぼ、ぼ、ボク、ひょっとして、その……」


 耳をぱたぱたと落ち着きなく動かしながら、シェリィは首筋から耳の先まで真っ赤に染めて、上目遣いに聞いてきた。


「ボク……ご主人さまに……だ、抱かれて……?」

「ん? ……ああ、ごめん。嫌だったか?」


 ……考えてみれば、どう考えてもセクハラだ。嫌だったか、じゃねえよ俺!

 いくら俺がこの子のことを守るって考えてたって、本人が嫌なら痴漢だよ!


 俺は彼女の背に回していた腕を離すと、ゆっくり起き上がった。内心焦りまくってたけど、それを姿に出したらますます不審がられる気がして、極力、冷静を装う。


「ご、ご主人さま……?」

「すまなかったな、二度としない」

「……え?」


 ぶかぶかの服の、ゆったりとした胸元を押さえるようにして、じっと見上げてくるシェリィ。すがるような目にも見えるし、とがめるような視線にも見えて、背筋がひやりとする。


 ……ヤバい。やっぱり不審者に見られたのだろうか。

 彼女を守るって昨夜決めたばかりなのに、ナニやってんだ俺は。

 気まずい、実に気まずい。話題だ、話題を変えなきゃ……!


「……シェリィ、腹減ってないか? 飯食いに行こうぜ」


 カノジョなんてものに縁がなかった俺には、わずかな時間ではそれくらいしか思いつかなかったんだ。自分でも情けなくなるけど、それでも努めて明るい声を出す。

 シェリィは一瞬、目を伏せ、そして俺を見上げて「うん、ご主人さま」と答えた。

 ……無理をして作ったような笑顔で。

 頬が赤いように感じるのは、強引に表情を作っているからだろうか。


 ……ダメだ、俺、不審者扱い確定だ。まずい、なんとかしないと。




 麦粥むぎがゆとかいう、ドロドロだけど繊維質たっぷりという妙に矛盾した、塩気すらない味のないおかゆみたいな朝食。「朝食付き」なんてするんじゃなかったと後悔しながら、市場に行ってみないか、とシェリィに聞いてみた。宿の店主に朝市を勧められたからだ。


「人がいっぱいで、にぎやからしいぞ?」


 そう言ってから、また失敗したと頭を抱えたくなった。あからさまにシェリィの顔が引きつったからだ。

 当たり前だ、彼女は俺への「恩返し」のために俺のそばにいるだけであって、本来は人間不信な子なんだ。そんな彼女を大勢の人間がいる場所に連れ出すなんて、何の嫌がらせだ。


「ごめん、悪かった。今のは聞かなかったことにしてくれ」


 俺一人で行ってくるから留守番を頼む、と言ったら、これまたひどく驚いたような顔をして、「ぼ、ボクも行く!」と言い出した。

 ああ、また失敗だ。無理をさせるつもりなんてなかったのに、俺が一人で行くなんて言ったから、気を遣わせてしまった。




 シェリィにひどく気を使わせてしまった──そう思ってたのに、全くわけが分からない。

 彼女は市場で妙にはしゃいでいる。

 俺の左腕にしっかりしがみついて離れようとはしないけれど、目をキラキラさせて、いろんな屋台をのぞこうとするんだ。


「ご主人さま、あれ、なに?」

「──ごめん、分からん。何だろうな?」

「見に行こうよ!」


 なにせ俺自身、異世界の市場なんて見たことがない。いや、そもそも朝市なんてもの、高校生の俺には全く縁がなかったからさ。

 そんなわけで、朝市に実は興味津々だったらしいシェリィと、これまた異世界文化ド初心者の俺が、二人して朝の市場を見て回った。


 正直言って、楽しかった。別に何か特別に買いあさったとかじゃなかったけど、珍しいものを二人で見て回るのは、二人で好奇心を満たし合うみたいで、楽しかったんだ。


「ご主人さま、あれ! あれ、いい匂い!」


 基本的には見るだけだったシェリィが指を指したのは、青々とした、小さな青リンゴというか、スモモみたいな果物。店主のおばちゃんに聞いてみたら「青ナツメ」というらしい。

 とりあえず、何枚かの銅貨を渡して買ってみて、市場の隅のベンチに座って食べてみた。


「わふぅ、あまーい!」


 シェリィはニコニコ顔で、ご満悦といったところ。宿を出る前の俺は失敗だらけだったから、とりあえずご機嫌なようでなによりだ。


 なんというか、サクサクとした食感で、リンゴと梨の中間みたいな食感。甘みはそれほど感じないが、シェリィにとってはこれくらいの甘さでも貴重な甘味なのかもしれない。俺にとっては食感と、ほんのりと楽しめる甘酸っぱさがいい感じだ。


「これ、なかなかいいな。シェリィは食べたことがあるのか?」

「うん!」


 ふかふかのしっぽを、スカートの中でうれしそうにぶんぶん振りながら、大事そうに両手で持って、さく、さく、と少しずつかじるシェリィ。

 どことなくリスを思わせるような可愛らしい食べ方に、俺は思わず笑みがこぼれてしまう。なんにせよ、笑顔の彼女は本当に可愛らしくて、彼女を笑顔にしてやれたことがうれしかった。




 青ナツメも食べ終わり、再び市場の中を歩く。見たことのない食材ばかりで、色々と興味がそそられる。外国旅行なんてしたことなかった俺だけど、きっともし行く機会があったなら、こんな気持ちになれたのだろう。


 シェリィも、相変わらず俺の左腕にぶら下がるような感じでしっかりつかまっているけれど、市場の様子に興味津々の様子できょろきょろしては、目を輝かせている。以前はあんなに「人間なんて嫌い」と言い、俺を敵視していた彼女だけど、好奇心は隠せないようだ。


 混み合う通りを、人を避けながら歩いていたときだった。

 どん、と男にぶつかられる。


「おっと、ごめんよ……」


 男はそう言って頭を軽く下げて、そのまま雑踏の中に消えていく。混み合う街の中だ、俺も気にせずにいたけれど、突然、シェリィが走り出した。


「お、おい! シェリィ! どこへ行くんだ!」

「ご主人さまの、返せ!」


 そう叫ぶと、シェリィは人々の間を縫うようにして、やはり雑踏の中に消えていく!

 たちまちシェリィを見失って焦った俺だけど、男の悲鳴が聞こえてそちらに向かうと、シェリィが男の腕に食いついていた。二人のもみ合いに巻き込まれまいとしてか、二人の周囲に空間ができている。


「は、離せこのクソガキ!」

「いやっ!」


 シェリィが食いついているのは、さっき俺にぶつかった男のようだった。

 俺が急いでシェリィに駆け寄ろうとした時、男が腰に手を伸ばす。


「チッ……獣人のガキの分際で……!」


 その男が抜いたものが太陽の光をギラリと跳ね返したのをみて、俺は無我夢中で走り出す!


「やめろ! その子を放せ!」


 男に向かって怒鳴りながら、俺は背負っていた木刀を抜き放つ!

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