青から赤へ 初めての恋

 エルツベルガー公爵家。ウルム王国の東方に位置する王国屈指の武門の貴族だ。王国は直轄領と、王国に忠誠を誓う貴族の領土で構成されている。エルツベルガー公爵領は王国でもそこそこの広さを誇るが、王国一なのはエルツベルガー公爵が抱える工業力と軍事力。銃火器や大砲などを製造する軍需産業が発達している。エルツベルガー公爵領で軍需産業が栄えたことには理由がある。というのも、東方に広大な版図を誇る騎馬民族と国境を接していて、長きにわたって戦いを繰り広げているからだ。これまでは、一進一退をしながらも騎馬民族側の方が優勢であったが、先代当主が軍の兵制と武装の近代化を施し始めて以降は、公爵側の優勢に転じ、領地の奪還が成されつつあった。

 そんな中で騎馬民族の首領が交代。新たな首領のもとで大規模な侵攻軍が編成され、大挙して公爵領へとなだれ込んできた。かなりの大軍だったので、エルツベルガー公爵は国王に援軍を要請。それに応えるべく、国王は王弟エドウィンを征東大総督に任じ、大規模な討伐軍を編成。エルツベルガー公爵領へと進発した。その討伐軍の中に、王太子フリッツ少将の混成旅団も含まれていた。フリッツ王太子は公都レーエ近郊の村に部隊を宿営させると、自身は副官と数名の護衛を連れて公爵邸へと向かった。

 公爵邸は、武門であることに誇りを持つ家門であることを象徴するかのように、華美さではなく重厚さに重きを置いた作りになっていた。 王太子にだけ許された緋色のマント、そして紺碧の隼がデザインされた部隊旗を見て、公爵邸の門衛は最敬礼をして公爵邸の門扉を開く。王太子に対して誰何するなどという無粋な真似をしないところが、公爵軍の練度の高さを物語っている。フリッツは門をくぐって屋敷の庭を歩き、邸宅の大扉を見やると、そこには洗練された藍色の軍服に身を包む少年のような人物が、二人のメイドを従えて立っているのに気づいた。王太子への応対に引き連れるのが女性とは、武門を誇るエルツベルガー公爵の近親者にしては軟弱だとフリッツは思うと、最敬礼して出迎えてきた少年に対して名乗りを上げた。

「第4混成旅団長少将フリードリヒ・フォン・ヴァルトフォーゲルである。出迎え、感謝する。公爵閣下にご挨拶申し上げたいので、取次を願いたい」

「エルツベルガー公爵家のフランツィスカでございます、殿下。公爵家一同、王太子殿下がお見えになることを、心待ちにしておりました。父が殿下に拝謁するための部屋を整えておりますので、どうぞ、こちらまで」

 フランツィスカと名乗った人物は完璧な所作で軍靴を鳴らして敬礼すると、自身の手で扉を開けた。公爵邸の内装は、外見同様質実剛健の作りで、無駄がない。公爵家の執事や召使たちが列を作って、王太子に敬礼をして出迎えた。フリッツは公爵邸の内装や使用人などに目をやらず、ひたすら先導する人物に注目した。短く切り揃えた赤髪、白晳の美貌には化粧気がなく、無駄のない律動的な所作には、女性らしさが感じられないが、名前からするとエルツベルガー公爵令嬢のフランツィスカ嬢か。女性なら背後にメイドを控えさせるのも道理かと納得。確か、フランツィスカ嬢は武芸を嗜む、と聞いたことがあった。彼女から並大抵ではない気配が漂っていることに気づくと、とたんに興味が湧いた。剣の腕は?、指揮官としての技量のほどは?領主一族として領民に対する姿勢はどんなものか?使用人に対する姿勢は?ごく一部で同性愛者の噂が立つぐらい女性関係と無縁なフリッツが、女性に興味を持ったのは初めてと言ってよかった。フリッツは、幼少期に植え付けられた従姉妹によるトラウマのせいで、女性恐怖症だった。美しく着飾り自身に向けられた笑顔の裏にある、醜悪で残忍な本性が恐ろしかった。そういう女性ほど、王太子という甘美なエサに寄り集まってくる。表向きは剣の腕がいいからという理由で軍隊に入ったのも、軍隊は女性の比率が少ないからというのが本音だった。

 王太子の興味を引いているなんて微塵も思っていないフランツィスカは、一際存在感のある扉を開ける。扉の向こうは、公爵の身分に相応しい謁見室だった。普段であれば公爵自身が座るであろう上座は空席で、その正面に、盛装ながらも体幹の良さがありありと分かる壮年の男性が直立していた。顔見知りのエルツベルガー公爵だ。扉が開いたのに気づいた公爵は、入室してきた王太子に最敬礼をし、上座に王太子が着席すると、ひざまずいてこうべを垂れた。

「この度は、このような僻地へとお越し下さって、恐悦至極にございます。我が王国、我が公爵領安堵のため、援軍を率いて殿下にご足労頂けたこと、そしてこうして拝謁する機会に恵まれたことに感謝申し上げます」

「大規模な侵攻を受けて大打撃を受けているとの報告を受けたが、それでも平穏を維持させている公爵の手腕には、驚かされるばかり。余も微力ながら公爵領安堵のために全力を尽くしたい。のちほど、国王軍と公爵軍の合同作戦会議が開かれると聞いているが」

「国王軍主力の一角である旅団を率いておられる殿下にも、是非ご出席を賜りたく存じます。すでにエドウィン大総督殿下には、拙宅にてご逗留頂いております。是非殿下にもご逗留頂きたく存じますが、いかがでしょうか?」

「ご厚意に感謝する。案内頂けるだろうか」

「ありがとうございます。それでは、拙女に案内させます。ファニー、ここへ」

「はい、お父様」

 先ほどこの部屋まで案内してくれたフランツィスカが姿を現した。フリッツに一礼して父に向き直る。厳かに父は娘に命じた。

「殿下をお部屋まで案内せよ」

「かしこまりました。殿下、どうぞこちらまで」

「分かった」

 フリッツは立ち上がった。フリッツとファニーの初めての出会いは、形式で入って形式で終わる、ごくありふれたもので記憶に残るようなものではなかった。


 軍議が終了した後に開かれた公爵主催の晩餐会に、叔父で討伐軍の総司令官を務めるエドウィン陸軍大将と共に、フリッツは招かれた。王族としての序列は王太子であるフリッツの方が上だが、今回はあくまでも討伐軍に対する饗応なので、上座に座るのは征東大総督の王弟エドウィンだった。

 宴もたけなわ。皆、酔いが回ったときに、こんな発言が、主賓のエドウィン大総督から飛び出してきた。

「公爵ご自慢のご令嬢と、我が甥、剣の腕はどちらが勝っているか、是非見てみたいものだ」

「そ、それは…」

 さすがの公爵も、これには即答しかねた。いくらこの場では最上位に位置する征東大総督であっても、本来であれば国王に次ぐ権力者である王太子に対し、剣の腕を披露せよなんて、とてもじゃないが願い出てはならないものだ。場の雰囲気が凍りつき始める。それを敏感に感じ取ったフリッツは、すぐさま立ち上がって、フランツィスカを見つめた。

「大総督閣下のおっしゃったことは、余も思っていたことだ。是非お相手してもらいたいが、いかがかな」

「わたくしでよければ、よろこんで」

 フランツィスカも立ち上がり、フリッツの差し出した手を握った。


 取り急ぎ用意された模造刀を手にした二人が向かい合う。二人とも嗜む程度とはいえ酒を口にしているのだが、アルコールの影響を全く感じさせず、静かに中段に構えている。フリッツは緋色で刺繍された軍服、フランツィスカは藍色の軍服を着用しており、その色が示すようにフリッツからは燃え盛らんばかりの気配、フランツィスカからは静かに水紋が広がりゆく気配が漂い、両者から放たれる圧倒的な覇気に、場はしんと静まり返る。

 先に動いたのは、フリッツだった。電光石火の勢いで模造刀を振り上げて前進。フランツィスカの頭を目掛けて振り下ろす。フランツィスカは相手の刀の軌道を正確に見きり、振り上げた自身の模造刀を振り下ろしてフリッツの模造刀と交錯させる。フリッツの模造刀の軌道がわずかに反れると同時に、フランツィスカの模造刀が、フリッツの脳天目掛けて殺到する。それを本能的に察知したフリッツは、わずかに身を逸らせてフランツィスカの模造刀に空を斬らせた。

 ほんの一瞬の攻防。剣の腕に覚えのあるものは、両者の持つ圧倒的な技量に愕然となって押し黙り、そうでないものは、何が起きたのか理解できずに押し黙る。そんなギャラリーたちなどに目もくれずに、次はフランツィスカが攻勢に入った。突き、薙ぎ、振り上げ、振り下ろす。疾風のような連撃。その、ことごとくを、フリッツは薙ぎ払うが、攻勢に転じることができない。力任せではない、慣性と重力を巧みに利用したフランツィスカの剣は、フリッツがこれまで対戦してきた強敵たちに匹敵する鋭さだった。なかなか隙を見いだすことができない。そんなときだった。一瞬、フランツィスカの視線がフリッツから離れた。そして、フリッツとの間合いよりも、フランツィスカは大きく踏み込む。

「決めにかかってきた」

 フリッツは、そう思った。

 フリッツはフランツィスカの剣の軌道を予測してその剣を打ち落とし、反撃して逆に決めの一手を打ち込もうと企む。だが、フランツィスカの剣は、フリッツが予想した軌道を描かなかった。

「カン、カン、カーン」

 剣と剣がぶつかり合う音とは異なる音が、響き渡る。そして、フランツィスカの剣でわずかに軌道が反れるはずのフリッツの剣が、フランツィスカの肩に直撃した。

 うずくまるフランツィスカ。そして、その側には、フランツィスカの剣でへし折られた三本の矢が落ちていた。フリッツとフランツィスカの剣技、そして突然の出来事に、場が凍りついたが、それをエルツベルガー公爵が、一喝して打ち破った。

「くせ者だ!出合え!見つけ出して捕縛せよ」

 弓を持った軽装の人物が、木から飛び下りて逃げ去る。それを護衛兵たちが追いかけていく。そんな様子になど目もくれずに、フリッツはフランツィスカの側に跪いた。

「大丈夫か?」

「……殿下の剛剣を味わうという栄誉を考えると、この程度、何ともありません」

 苦痛に顔を僅かに歪めながらも、フランツィスカは明瞭に答えた。そして、打ち据えられた肩を手で押さえながら、フランツィスカは姿勢を正して頭を垂れた。

「殿下を危険にさらしてしまうなど、決してあってはならないこと。配慮を怠ったのは、全てわたくしの責任であります。どうか殿下には、我が公爵家には寛大な処置を賜りたく…」

 うつむくフランツィスカの赤髪に、フリッツは熱い視線を落とす。こんなに潔い女性をフリッツは初めて知った。自分はフランツィスカ嬢のような行動をとることができるだろうか。聖なる炎を思わせる彼女の赤髪に見とれてしまいそうになる自分を律して、フリッツは告げた。

「今は戦時中にも関わらず警戒を怠り余興にうつつを抜かした余の責任だ。むしろ貴卿に対するは、帰責ではなく、身を挺して余を守った功績こそ褒め称えるべきである。そうであろう、叔父上?」

 ここでフリッツは、エドウィンのことを総司令官とか大総督と言わず、あえて叔父と呼んだ。これは、王位継承順位第一位である王太子としての決定であるということを意味した。これに気づかない王弟ではなかったので、征東大総督エドウィン陸軍大将は深々と頭を垂れて、

「御意のままに」

とだけ答えた。不問に付せられたことに安堵したフランツィスカは、気を失ってそのまま崩れ落ちた。それをフリッツが抱き止め、そのまま彼女を抱き抱えた。

「誰か、フランツィスカ嬢の部屋まで案内せよ」

「殿下のお手を煩わせるようなこと、座して拝することなどできません。どうか拙女をお渡し願いたく…」

 慌ててフリッツの近くに駆け寄るエルツベルガー公爵。それに対してフリッツは笑顔で答えた。

「忠臣に対して、今の余にできることは、このくらいしかない。余の我が儘を通させてもらえないだろうか?」

 王太子にここまで言われると、エルツベルガー公爵には返す言葉もない。公爵は深々と頭を下げた。

「かくもありがたきご高配に感謝申し上げます」

 公爵は執事を呼んだ。


 翌朝、フリッツは自室で朝食を摂ったあと、公爵邸の園庭を散歩した。手入れの行き届いた草木を鑑賞しながら歩くと、朱色の軍服を身にまとった赤髪の人が、かがんで花を愛でているのに出くわした。いまやはっきりと分かる。フランツィスカだ。その彼女にフリッツは声をかけた。

「ファニー、大丈夫かい?昨日は僕のことを守ってくれてありがとう」

 フリッツに声をかけられて振り返ったフランツィスカは、一瞬驚きの表情を浮かべたが、紺碧色アクアマリンブルーの瞳に柔らかな光をたたえた。

「私なんかにをさらけ出して大丈夫なのかい?」

「そうだね。君に裏切られるようなら、僕は完全に終わりだよ。昨日、君と剣を交えてよく分かった。僕が完全に一人になることはほとんどないけど、たまにこうして話し相手になってくれると嬉しい」

 フリッツは飾り気の全くない笑顔を浮かべた。そんなフリッツを見て、ファニーは苦笑を浮かべた。

「王太子って、思った以上に大変そうだね。余なんて言うから、もっと堅苦しい人だと思った」

「これは父に言われて仕方なく。権威を身に付けるためには、まずは言葉遣いからってね」

「やっぱり。その辺りは、私の父と同じだね。もっとも私の父は、私に淑女らしさを求めてくるのだけど、こればかりは譲れないんだ」

 ファニーは胸を反らす。武門に生を受けて育ってきたファニーの誇りを、そこにフリッツは見た。

「うん。僕はそれでいいと思うよ。ところで、昨日は藍色の軍服だったけど、日によって色を変えるのかい?」

 何の他意もなくフリッツは尋ねたのだが、ファニーは顔を逸らした。そして、ごにょごにょとつぶやく。

「こ、これは、私が君に敗れたから。ここ数年は誰にも負けたことがないのに…。敗れた相手の色に合わせるのが当然。緋色を使うわけにはいかないから、せめて朱色で…」

 青から赤へ僕に合わせてくれたのか!フリッツはドキンとした。何だろう。何だかとっても嬉しい。こんな気持ちになったのは初めてだ。そんなフリッツには、ファニーのつぶやきに、

「あ、ありがとう。嬉しいよ」

としか、返すことができなかった。

 二人の間に、爽やかな春風が、そよそよと流れていった。

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