その道の果てしなき

伊吹

その道の果てしなき

いつからか恐ろしい病が現れた。身体のいたる場所から植物が生える病だった。植物まみれになって死ぬ者もいれば植物と共生する者もいた。原因も治療方法も分からないので、××湾の小さな孤島に隔離病棟が作られ、国中から患者が集められた。


私は大学卒業後中学校の教師になったが、人間関係のトラブルで離職した。私は暴力を受けても責められるのは女なのだという失意の中にいた。私は自分が女として生まれてきたことにすら失望していた。


身体の傷が癒える頃、私は四半世紀を過ごした生家や地元、大学や職場との連絡を一切断ち、地方へと逃れた。頼れる人はなく不自然な離職だったため再就職もままならなかったが、せめて人の役に立ちたいと××湾に浮かぶ孤島の隔離病棟に履歴書を送った。


よほど人がいないのかすぐに採用が決まり、翌週には私はフェリーに乗り孤島へ向った。深刻な伝染病のため、職員はそれが一生続くことも覚悟して島内で住む必要があった。私の仕事は島内にある学校の教師だった。重症の患者は寝たきりか、亡くなってしまうので、学校に来るのは植物と共生した軽度の子供達だった。


初日、覚悟の上だったがあまりに酷い状態なので私はぎょっとした。子供達の身体からは当然ながら植物が生えていた。病症は様々で、身体中に芝生のように緑色の植物が生い茂っている子供もいれば、手の甲にほんの少しだけ生えている子供もおり、別の子供は第三の脚のように股の間から立派な木の幹のようなものが生えていた。しかしそれにも一週間が経ち、一ヶ月が経ち、三ヶ月が経つ頃にはすっかり慣れてしまった。


孤島ではあらゆる人の身体からメキメキと植物が生えている。それ以外は静かで、穏やかで、退屈な島だった。外界との接触がほとんどないので、食べ物の多くは自給自足しなければならず、とても不便で、時には食べるものに困ることすらあった。病症の酷い患者は隔離されて忌み嫌われたが、人々は互いに助け合わざるを得なかった。私はといえば、本島にいた頃のようなとても酷いことは起こらなかったので、それで充分満足していた。


一ヶ月に一度だけとまるフェリーの操縦士は、島の人間を汚いもののように扱い、フェリーに乗る際にはそれが夏でも冬でも、海辺に設置された蛇口から出る冷水を全身に浴びることを命じた。そんな規約はどこにもないのにだ。濡れた姿のまま船に乗り海風に晒されながら本島へ向かうのはとても苦痛なことだった。それを嫌がって隔離病棟を辞職する人すらいたが、職員のほとんどはワケありだったし、私も含めそもそも本島に戻りたがらない人も多かった。


生徒は皆親元を引き離された子供達だった。寂しがる子は後を絶えなかったが、けれど14、15歳にもなればもう理解することができた。彼らは病を発症し隔離病棟に来た時、自分で自分の名前を新しく付けさせられる。自分たちの身元がわからないようにだ。彼らの故郷ではもう彼らは死んでいる。患者は島の外に出ることを許されていない。彼らは隔離病棟の中だけで生きてそして死ぬことが決められていた。


「何故勉強しなければならないのですか。私たちは普通の人のように生きることはできないのに」とセツが質問した時、私はマニュアルを読むように答えた。「いつかあなたたちの病気は治って、島の外に出ることができるようになります。そして普通の人のように生活することができるようになるんです」セツは黙っていたが私を信じていなかった。私も私の言葉を信じていなかった。


セツは滅多に発言しない静かな子供だったが、好奇心が強く理知的だった。セツの首からは蔦の植物が生え、上半身に絡まり、手のひら大の葉っぱが生い茂っていた。セツは注意深く植物を観察し、性質を分析し、精巧にスケッチした。ブックの右端に植物の特徴を書いて、セツと名付けた。


次にセツはミハルの植物を観察した。ミハルは左腕の肘から下に、明るいグリーンの植物が生い茂り、冬になるととても美しい大輪の花が無数に花開いた。セツはそれをスケッチして、ミハルと名付けた。


ミハルの後ろの席にいるのはチホだった。チホはあまり自己主張しない穏やかな子で大抵にこにこしていた。チホの右脚の中指の先からは、ほんのちょっとだけクローバーのような植物が生えていた。それと指摘されなければ気がつかないほどささいな病症だった。チホは「私のも、そのうち咲くかなあ?」と笑っていた。セツはそれもスケッチして、チホと名付けた。


セツはクラス中の植物を描いてまわり、それが一周すると、今度は学校全体の植物のスケッチをした。すべてに子供達の名前が付けられた。それはあまりにも素晴らしい出来栄えだったので、島の外に持ち出され、×××××患者のスケッチブックとして出版されることになった。


ナナの病症は軽度で、頬から腹にかけて植物が生えている程度だったが、病棟に隔離されていた。植物が猛毒だったからだ。握りこぶし程度の濃い緑色の葉は猛毒の針で覆われており、触れると患部が焼かれるように痛み、それが一年も二年も続くということだった。私は数年ナナに英語と理科を教えていたが、その内本島の人間がその猛毒の植物に興味を示し、ナナを連れ去った。軍の研究所に連れていかれたのだと噂され、島の人たちはとても名誉なことだとナナを讃えた。行方はそれきり分からない。


本島では二度目の戦争が起こったことをラジオで知ったが、月に一回のフェリーが段々とこなくなった以外は、島は変わらなかった。元よりほぼ本島とは隔絶し自給自足のサイクルが存在していた。数年後に戦争が終わりフェリーの定期便が再開した。その内に×××××の治療方法が確立し、多くの島の人間の病気が完治した。けれど元患者たちはなお島の外に出ることを禁止されていた。


すっかり病気が治ったミハルは島の青年と恋をしてプロポーズを受けたが、結局結婚はしなかった。患者も、元患者も、結婚するためには断種をせねばならないと役所の人間に告げられたからだ。病は母子感染するとも、しないとも言われていた。ミハルは「どうせ子供は産めないのに、バカみたいですよね」と、にこっと笑って真珠のような涙をたくさん流した。


それから更に数十年が経過した。×××××患者の断種と隔離という政策が見直され、病気が完治した元患者たちは島の外へ出られるようになった。セツは本島ですでに画家、著述家として知られていたので、本島へ渡って活動家になった。けれど生家の家族にはまだ会えていないのだと言う。ミハルは結婚し島を出て行ったが、もう四十を超えていた。


元患者たちの中には、島の外へでたがらない者や、でてもすぐ帰ってきてしまう者もいた。あまりにも長く島にいたため、もう外の世界に馴染むことができないということだった。


チホの右脚の中指からは、まだ小さくクローバーのような植物が生えていた。「ミハルちゃんみたいに花は咲かなかった」と言って笑っていた。病気を治して外へ出て行きたくないのかと尋ねたら、「私は私の生きてきた道を愛したい」と答えた。


チホと私はきっと似ていた。セツのように溢れんばかりの才能もなければ、ミハルのように誰かに愛されることもなかった。私たちは互いに傷つけられた者だったが、ナナの辿ったあまりに悲しく寂しい人生とその末路や、凄惨な陸上戦の地に生き犠牲になった幾万もの人のことを思えば、その傷すら今の世ではありふれたことなのかも知れない。それでもチホはそのすべてを肯定することを選んだのだ。


私は涙が止まらなかった。私はチホの選んだ、その道の果てしなきを知っていたからだ。

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その道の果てしなき 伊吹 @mori_ibuki

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