かみさまのかんちがい

紫丁香花(らいらっく)

罪の蜜


 昔むかし、或る王国に、心の清らかで民思いな王様とお妃様がいた。


 2人の間に生まれた王女は、雪のように白い肌、薔薇のように紅い唇、絹糸のような美しい黒髪をもち、王様達はその子を白雪姫と名付け、大切に育てていた。


 ところが、体の弱いお妃は白雪姫が幼いうちに亡くなってしまった。男児の跡継ぎを欲した王様は、泣く泣く新しい妃を迎え入れる事にした。


 新しくやってきたお妃様は、白雪姫とはまた違う高貴な美しさを纏う方だった。他国からの姫君でありながら国民からの評判はすこぶる良く、王様も亡き王妃への悲しみを心地よく慰めてくれるお妃に、単なる愛情以上の想いを寄せていた。


 しかし自室でのお妃の様子は、侍女たちの間では「執着の狂い咲き」と言われる一面を持っていた。

 お妃は、繊細な装飾が施された雅な鏡を自室の窓辺に置いて、毎朝毎晩その前に座っては何かを唱えているのである。しかも盗聴するわけにはいかないが故に扉を挟んで聴こえるお妃のくぐもった声は、なかなかに奇妙なものであった。

 そして一度だけ、ある侍女が聴き取ってしまったのがこのフレーズである。


 「鏡よ鏡、この世で一番美しい者は誰?」



 毎日、お妃は鏡に問いかける。そして今日も、一言違わず同じ問いを鏡に向かって宣っているのだ。


 「鏡よ鏡、この世で一番美しい者は誰?」

 『それは…白雪姫様です』


 鏡の答えに対し、お妃はさっと俯いて膝の上にある両手を強く握りしめた。


 肩をぷるぷると震わせ、僅かに息を荒くし、握る手にはますます力が入る。そして彼女は急にがばりと顔を上げると、にっこりと微笑んだ。


 「…全く…本当にその通りね!!」


 もし鏡が人間なら、きっとこの貴人の前であったとしても大きな溜息をついていることだろう。何故なら此方も毎度同じ反応なのだから。


 「そうよ…私の白雪姫がこの世で一番美しい。あの子より清らかで、美しく繊細な子は、この世のどこにもいないんだから!私が母親となった以上、あの子をいかなる穢からも守ってみせるわ…!」


 お妃はこの通り白雪姫を実母以上に溺愛していた。だから必要以上に姫を部屋の外へ出さず、散歩や公用以外では城の外に出る事を許さなかった。娘を守るために武術まで身につけた。


 ただしこれは重要なので言っておくが、彼女はロリコンではない。強いて言うなら義親おやバカとも言うが、これだけは大事なのでもう一度書いておこう。


 鏡の前でお妃が意気込んでいると、軽いノックの音がして白雪姫が入ってきた。


 「お母様。散歩へ出てまいります」

 「ええ。従者を必ずお連れなさい」


 お妃がうっとりとした声をかけると、白雪姫は「…行ってまいります」と恭しく礼をして、お妃の部屋をあとにした。



 「はぁ…」


 城の門を出てふと立ち止まり、白雪姫は深い溜め息をつく。

 病気がちだった実母以上に愛を注いでくださるこのお妃が嫌いなわけではない。

 ただ…


 「少し重いのよね…お母様の愛情は」


 森へ行くと、今日は格別に外の世界が輝いて見えた。


 木漏れ日はそよ風に流れるように優しく、小鳥の囀りはいつにも増して澄んで聞こえる。ほんの一時の自然と触れ合える時間が、白雪姫の心を溢れる程満たす。


 菫の花々を眺めながら少し微睡んできた頃、綿毛のような声が白雪姫の耳をくすぐった。


 「素敵な午後ですね…白雪姫」


 振り返ると、柔らかな微笑を湛えた王子が側に立っていた。


 「王子…」


 思わず顔がほころぶ。

清々しい晴れ空の下、菫の花園で和やかに微笑み合う二人を見て、従者の青年はこの世のものとは思えない程美しいと思った。


 暫く2人が語らっていると、王子はふと白雪姫との距離を詰め、その滑らかな頬に指を滑らせた。


 「ああ…貴女が僕と夫婦めおととなってくださったなら、貴女を愛の幸福で満たして差し上げるのに…。愛しい姫君。どうか一度私の国へいらしてくださいませんか?国王陛下や、お妃様と共に」


 白雪姫は、できる事なら今すぐ行きたかった。過保護な継母の手を逃れたいというのが一番の本心だった。ただ、まだ親権がある限り身勝手な行動は出来ない。

 唯一の難関はそこだけなのに。


 「ご厚意に預かり光栄です。しかし…その、大変不躾ながら、もしよろしければ一度殿下の方からお会い頂けませんか?両親にも私からも説明いたしますので…」


 親の権威に囚われているからだなんて、何と情けない言い文句だろうか。…不安に思いつつ、白雪姫は王子を見る。王子は暫く考え込んだ様子を見せると、


 「解りました。僕が一度貴女の国へ参りましょう。…これは内密にね。よろしく頼む」


 最後の方で従者の青年にこの話を託し、王子は軽やかに馬に跨って帰っていった。



 数日後。王子は何の前触れもなくやってきた。


 王族の来国を知らせる喇叭ラッパが高らかに鳴り響き、王宮の前へ続く大通りには人がたくさん集まっていく。


 「ようこそ。皇太子殿下」


 大臣が深々と礼を捧げる。


 「此方こそ、急な訪問で申し訳ない。国王王妃両陛下に謁見したいのだが、案内して貰えるか?」

 「御意」


 玉座の間に通されると、王とお妃が荘厳な佇まいで王子を迎え入れた。


 「隣国よりよく来てくださった。ゆるりと寛いでくれ」

 「両陛下におかれましても、益々ご清祥の事とお慶び申し上げるとともに、今後の国のご発展と栄誉をお祈り申し上げます」

 「ありがとう。ところで…今日はどういった用かな?」


 王様がどこか探るような視線を王子に向ける。王子はそれに涼やかな笑みで返した。それから側の従者に目配せし、要件を述べさせる。


 「…今回我々が参りました旨は、白雪姫様を、我が国の皇太子妃に迎えたいという件です。第一に…」

 「そのような事が許されると?」


 不意に従者の言葉がお妃によって遮られた。一同の視線がお妃に集中する。


 「今まで関わりの薄かった隣国の者が急にやってきたかと思えば、白雪姫を皇太子妃にしたいですって?王子とは言え身の程を弁えなさい。白雪姫だってもう子供ではないのですから、自分が結婚する相手を見分ける目ぐらい持ち合わせています。それを何処の馬の骨ともしれない王子が…」


 「メアリー、控えなさい」


 重厚な声がお妃の言葉を断つ。

 水を打ったように静かになり、時さえ止まった気がした。


 「君が娘に母親として深い愛を注いでくれているのは十分分かる。だが君も言ったように、白雪姫ももう子供ではない。婚約だって自分が決めた相手と結びたいだろう。だからこそ、王子の言い分をちゃんと聞いた上で、娘の判断を仰いでも良いのではないか?」


 諭すような王の口調に、お妃は渋々黙り込む。


 「…続けさせて頂きます。第一に、皇太子殿下の純粋な恋情の下、白雪姫様が皇太子妃候補の首位である事。第二に、隣国である貴国との友好の証として皇太子殿下、白雪姫様の婚約を掲げたいという事。そして第三に、この婚約は既に白雪姫様ご自身の御意思によって御二人の間で承認が通されている事。以上より…」

 「待ちなさい!!」


 再び甲高い声が響く。メアリー、と王の制止が入るが、お妃の勢いは止まらない。


 「白雪姫の意思で既に認められているですって?どういう事?」


 お妃の鋭い視線が白雪姫に刺さる。


 「…お母様。私は本気で殿下のもとへ嫁ぐつもりです」


 ひゅ、とお妃の喉が鳴った。深呼吸し、白雪姫は続ける。


 「殿下にお会いしたのはもう半年も前の事で、以後散歩の度に、殿下とお話する事だけを楽しみとするようになりました。私も殿下を愛しております。お母様には実の母以上に慈しみ深い愛情を賜りました。そしてお母様の仰った通り、私は自分で添い遂げたいと思う殿方を見つけたんです。ですから…」

 「許しません。王位継承者は貴女しかいないのよ。王族が祖国を捨てるつもり?」

 「ですが、お母様…」

 「何度言おうと同じです。王子様、お引き取りなさって。陛下…お言葉ですが、あの子を少し自由に育てすぎたのではないですか?あの子にはまだ国をまたぐ婚約の意味が分かっていないんです。私めがちゃんと陛下のお眼鏡に適う白雪姫の相手を見つけてみせますわ」


 お妃は冷たく言い放つ。その口調には、微かな失望と、最早鎖と化した白雪姫への執着が塒を巻いていた。王は深い溜息をつき、何も言えずに頭を抱えた。

 王子は終始涼やかな微笑を崩す事はなく、粛々と挨拶を述べて去っていった。


 その夜、白雪姫は月夜の窓辺に一人、夜露よりも澄んだ雫を零した。



 数日後。白雪姫は、散歩を禁じられた。

秘密の伝書鳩に頼んだ手紙だけが、唯一王子とのやり取りを可能としていたが、お妃がその事に気づくと、その鳩を殺し、そんなに嫁へ行きたいのなら早く言えば良いのに、とますます婿探しに精を出すようになった。


 一方王は、お妃の最早歪みきった愛情に頭を悩ませ、とうとう病の床についてしまった。白雪姫は義母から推められた見合いをすべて断った。今日は体調が優れないとでも言えば、白雪姫第一のお妃は自らの見合いの計画でさえ破棄する。とは言えお妃は、自分がまず納得し、それから白雪姫が納得した相手でなければ嫁がせないつもりだった。


 白雪姫にとって苦痛でしかない日々は暫く続いた。しかし麗しい姫君を苦しませたのはこればかりではなかった。…父、国王が暗殺されたのである。


 衛兵は必死に侵入者を捕らえようと剣を振りかざしたが相手も強者で、ひらりと剣と弓矢の雨を躱し、身軽な動きで衛兵たちを振り切ると素早く王の部屋へ向かった。そして衛兵が追いついた刹那…真朱まそほ色の鮮やかな飛沫が飛んだ。犯人は王宮の庭へ飛び降りると、姿を消した。

 衛兵がどうにか掴めた手がかりは、焦げ茶の厚布のマント、道化師の仮面、継接つぎはぎのズボンに、剣術の強さ。体格は中性的で、城の構造を理解していた。指名手配するにも個人を決定づける確信的証拠はなく、捕らえようにも捕らえられない衛兵たちにとって歯がゆい期間が続いた。


 事件の知らせを聞いたお妃も、この時ばかりは白雪姫以上に悲しみに沈んでいた。精神面に大打撃を受けた彼女は、そのまま女王となる事が難しい程衰弱していた。過度な自責のうわ言を多く言うようになり、侍女たちの間では白雪姫が次期女王になるのではと噂も立っている。勿論白雪姫もその事を意識していないはずがなかった。しかし、王位につく前に白雪姫には当為があった。



  「この度は陛下のご冥福をお祈り申し上げます。…良いのですか?このような時期に私と会うなんて」


 心地よいボーイソプラノ。その少しあどけなさが残る声に、白雪姫は微かに安堵を覚えた。目の前の王子は、そう言う割に満更でもなさそうな顔をしている。


 「このような時期だから、殿下とお会いしているのです」


 意を決したような芯のある声に、王子はいつもと変わらぬ微笑で返した。王子に話を聞く気があるのを見とめると、白雪姫は由々しく告げる。


 「端的に申し上げます。…父の仇を抹消すべくお力添えいただきたいのです」


 夏の午後の爽やかな風が若葉を揺らす。辺りはひたひたと静寂に満ちていた。


 「それは仇の者をご存知の上で仰っていますか?」


 白雪姫の顔に怯えが走る。


 「…ご存知なのですか?」

 「単なる憶測ですが…犯人はお妃様、貴女の義母です」


 血の気が引く。今あれほど憔悴しているお妃が犯人?犯行当時、お妃は城を留守にしていた。簡単には着替えられないきらびやかなドレスを纏い、馬車で出掛けていったはずだ。


 「…自分で罪を犯しておきながら、苦しんでいると言うのですか?」


 王子は静かに首を振る。


 「自分が犯した罪を悔いている訳ではありません。お妃が悔いているのは…白雪姫、貴女に関してだと思います」


 義母が犯人である事さえ信じられないというのに、自分の罪すら悔いていない、そして夫である国王の逝去を嘆いてもいないとは…


 「どういう…事です?」


 これ以上聞きたくない。もう抱えきれないほどの苦しみを受けた。それでも…自滅すると分かっていても、口が先に動いていた。


 「これは私なりの推理ですが…お妃は貴女の婚約者探しに没頭されていましたね。貴女の事しか眼中にない彼女は、貴女がなかなか私以外との結婚を認めない事について国王陛下が娘に制止をかけているのではないかと疑ったのではないでしょうか。娘の本物の後ろ盾を消してしまえば親権の本体が自分に移ります。それにお妃しか頼れる人がいなくなる事で、貴女とより密接な関係になる事ができます。貴女がお妃に依存する状態を作りたかったのでしょうね」


 一旦王子はそこで言葉を切る。白雪姫は人形のようだった。初めて会った時のあの瑞々しく潤んだ瞳は面影すら残っていない。


 「…ところが依存状態を作り出そうとしたのが逆効果でした。貴女はやつれてしまった。結婚の事など口に出す事も厭われる程に。これでは自分が娘を苦しめ、幸せから遠ざけたも同然です。ですが、お妃は全て貴女のために手を染めた。ですから、恐らくお妃は自分が貴女に対してした事を嘆いているのではなく、寧ろ自分がした事によって貴女が今幸せではない事を嘆いているのでしょう」

 「でも…証拠はない。道化師の仮面だって、生体認証しようとしても現物がなければ無理ですし、女性でも剣術に秀でる方はたくさんおられます。城の構造なんて国の大図書館で歴史資料を漁れば簡単に探せるし、衣装も証拠隠滅のためには焼き捨てる事も可能です。そして何より、あの外出の短い時間ですべての証拠を消す完全犯罪は不可能です。侍女の目を撹乱させる事は無理ですから」


 あらん限りの頭脳を働かせ、精一杯、白雪姫は反論した。

 しかし、もっと聡明な王子には届かなかった。


 「証拠はいずれ見つかります。短い時間しか準備出来なかった犯行なら尚更。…それでも本当に仇討ちをなさるつもりですか?」


 いつの間にか影は長く伸びていた。


 「…もう、いいです」

 空虚な声がぽつりと落ちる。


 「…諦めます。囀る鳥は…羽ばたく事を許されないのでしょうね…」



 柔らかな月の光がさす窓辺。鏡の前にお妃は座っていた。


 「鏡よ鏡…この世で”今”一番美しいのは誰?」


 「それは貴女です…女王陛下」


 青白い顔が切なく歪む。


 「私にも美しい瞬間が許されるのね…でもそんな事、あってはならないわ…!!」


 鏡が割れる。今宵、さらさらと月の光を受けて。

 鏡が割れる。最後にありったけの未練と愛執を映しながら。


 お妃が鋭利な鏡の破片を1つ、夜空に翳す。ふと、鮮やかな紅色が鏡の欠片越しに見えた。


 「林檎…?」


 ゆっくりと近づき、そっと手に取る。


 「綺麗…あの子の唇のようね。私には触れる事も許されなかったけど…」


 月光のヴェールを纏った艷やかな深紅を撫で、一口囓る。

 途端に、口いっぱいにほのかな酸味と、熟し切って甘ったるい、罪の甘さが広がった。一瞬の美しさを受けた貴く儚い未亡人はそのまま微睡みの中に落ちていった。


 翌朝。侍女がお妃の部屋へ向かうと、お妃は危篤状態だった。森に住む「賢者」と呼ばれる七人の薬師を早急に呼び寄せ、救命措置に当たらせたが、暫くして、お妃は息を引き取った。

 身も心も枯れ果てていたはずの彼女の目から、最後に一粒の水晶が零れていた。


 服毒したことを示すような物は見つからなかったため、死因は極度の精神衰弱によるものとされた。部屋の割れた鏡から、事件性がないかの議論もなされたが、白雪姫はこれ以上母に苦痛を与えないでほしいと遺体の解剖を断った。


 数ヶ月後。白雪姫の戴冠式と王子の結婚式が合わせて盛大に執り行われた。国民たちは不幸が続いた白雪姫を精一杯慰め、励ますために、空元気でもこの2つの慶事を華やかに祝った。そしてこの思いは届き、白雪姫は純粋に喜んでいた。


 「女王陛下。私の愛しい人…」


 新国王がそっと隣に寄り添う。新しい女王はその手を両手で包み込んだ。穏やかな微笑を浮かべたまま、女王は彼の耳元で囁いた。


 「陛下の深い寵愛は何よりも尊く、私を包んでくださっています。…でも時折恐ろしくなるのです。底知れぬ執着にも近い愛情は、人を殺める事さえ厭わぬのではないか。そう思うと、陛下に出会わなければ、私はきっと母に消されかねなかったのではと震え上がってしまうんです」


 真っ直ぐ目を合わせ、濃密に視線を絡ませる。


 「何が言いたいのですか?」


 笑みを崩さないまま、国王は静かに問う。


 「ふふ…特に意味はありませんよ。これから末永く愛する事を誓って…共に国を守り作り上げて参りましょう。紅い林檎の王子様」


 白雪姫の甘美な声音が、やけに甘ったるく国王の耳に響いた。





―愛憎の闇の中、鏡は割れた。最後に狂気じみた冷酷な微笑を映して。



 妖しく光る紅い林檎は、今日も誰かに罪の蜜を注ぐ。






※グリム童話「白雪姫」より

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る