第45話

第45話

控え室に戻って大きな紙袋を手に取り、静まり返った会場を抜けて外に出ると、曇天の合間を縫うように注ぐ目映い陽光が容赦なく瞼を襲い、歩は反射的に目を細めた。少し刺すような冷たい外気が冬を待ちわびているかのように吹きすさんでいる。歩は着の身着のままで出て来てしまったので、黒い礼服を抱き締めるようにして肩を震わせた。


辺りを見渡した時、かすかに鼻をつくような芳香を歩は感じた。それは先日まで姉が好んで吸っていた煙草特有のミントの香りだった。歩は視線を動かしながら、香りに誘われるように歩き出した。


会館の裏手の方に回ると、会館の壁にもたれ掛かるようにして咲月が煙草をくわえていた。彼は歩の存在に気付くと、制服で煙草を吸っていることを悪びれる様子もなく、それを持っている手を挨拶代わりに軽く挙げた。


制服で堂々と喫煙という未成年ではあるまじき行為に歩は一瞬だけ眉をしかめたが、すぐに疑問に思い至って首を傾げた。咲月が今まで愛用していた煙草の銘柄は、姉とは違うはずだったからだ。


「煙草、変えたの?」


歩が尋ねると、咲月は吸い込んだ紫煙を吐き出して、それが漂う大気を見つめながら小さく微笑んだ。


「・・・それも、良いかな」咲月は歩には向き直らずに小さく呟いた。その声は、かすかに掠れていた。


歩が肌寒さに身震いすると、咲月はそれに気付いたのか制服の上着を脱いでそっと歩の肩にかけた。歩は突然の彼の行為に目を白黒させる。


「そのままじゃ、風邪引くだろ」セーターを着込んでいた咲月は再び視線を宙に向ける。


「・・・あ、ありがとう」歩は小さく微笑んで、紙袋を地面に置くと咲月に倣うように会館の壁に身を預けた。


食事会が行われている広間の喧騒が嘘のように、会館の裏は凛とした静けさに包まれていた。耳に届く音といえば、通りを行き交う自動車の音や風が枝葉を揺らす音、咲月が紫煙を吐き出す時に聞こえる吐息だけだった。


静寂は外界のアクセスを忘却させ、意識を思考へと集中させる。歩は隣で曇天を眺めながら煙草をくわえる咲月に視線を移した。


瞳に映る雨宮咲月は、いつもと何ら変わらない雰囲気に思えた。どれほどの慟哭が胸を抉ったのか、どれほどの絶望が体を侵したのかは歩には計り知れなかったが、彼はそれでもいつも通りだった。


いつも通りに振る舞っているだけなのだろうかと歩が無意識に少しだけ首を傾げると、その動作が視界の端に映ったのか、咲月は歩へ視線を移して不思議そうな表情を浮かべた。歩は小さく首を振って、再び静寂を受け入れる。


たゆたう沈黙。隣に想い人が居ること。その居心地の良さが歩には嬉しくて、同時に悲しかった。ここにはもう居ない一人が、二人の関係を、その周囲を支えているからだ。それは決して、自分ではない。


咲月の隣に居るべきは自分ではないことも、歩は十分に理解していた。それでも、姉が作り出した関係に甘えてこうしていられることを、どうしても嬉しいと思ってしまう。姉の存在に甘えなければ隣に居られないことを、情けないと思いながらも。


「・・・大丈夫?」


自己嫌悪が膨らむのを抑えるために歩は沈黙を破ることにした。問いかけられた咲月は一度目を見開いてから、歩に向かって優しく微笑んだ。しかしそれは、どこか寂しげだった。


「・・・自分でもよく、分からないんだ」そう呟いた咲月は、吸い込んだ紫煙を細く吐き出しながら俯いた。「悲しいっていうより、・・・何だろうな。何か、・・・無くなった感じ」


咲月が落とすように紡いだ言葉が、急に歩の目頭を熱くさせた。涙が零れそうになった歩は慌てて彼から顔を背ける。感情のコントロールが、一瞬で利かなくなる。


もう、無くなってしまった。


姉の感情も、意思も、存在も。


この世界から、無くなってしまったのだ。


それを埋めるために、悲しみを生み出して、それを補うために、涙を流して。そうして心のバランスを取って、生を持つ者は、与えられた時間を生きなければいけない。目の前の死を、思い出にして。必ず訪れる、いつかの死を忘れて。


沸き上がる死という概念の実体が、実感が、じわじわと胸を掴んでいく。


「・・・大丈夫か?」


咲月は心配そうな表情で歩の顔を覗き込んだ。まだ感情のコントロールを支配しきれていない歩は、溢れる涙を必死に拭いながら笑顔を浮かべようと努めた。


「・・・うん。大丈夫」歩は大きく深呼吸をして、込み上げるものを必死に心の奥底に抑え込もうとする。「・・・何か、雨宮君の言葉、分かるから。つい・・・」


「・・・そっか」咲月は落とすように微笑んで、新しい煙草をくわえて火をつけた。


鼻をくすぐる嗅ぎ慣れたミントの香り。意識しなければ、まるで姉が隣に居るような錯覚に陥ってしまいそうだった。歩は何度も深呼吸をして、半透明の揺れる紫煙を視界に映しながら足下に手を伸ばした。


「・・・これ」歩はゆっくりとした動作で紙袋を持ち上げて咲月に差し出した。その中には生前姉が愛用していた仕事道具一式と普段着用していた白いジャケットが綺麗に畳まれて入っていた。「・・・雨宮君に」


「・・・」中を覗き見た咲月は、眉根を寄せて受け取ることを躊躇ちゅうちょした。「・・・受け取れないよ。こんな大事なもの」


「大事なものだから、雨宮君に持っていてもらいたいの」歩は伏せた咲月の瞳を覗き込むように、彼の視線と自分の視線を重ねた。「お姉ちゃんの最期の言葉、看護師さんから聞いたの。お母さんに話したら、そうしなさいって。私も、・・・誰よりも、雨宮君に持っていてもらいたいから」


歩は微笑みを浮かべて、紙袋を提げた両腕を突き出した。咲月は歩の言葉を聞いても、まだそれを受け取るのを躊躇っている。


彼の中の葛藤がどれほどのものか、歩には理解出来ない。形見を渡すことが彼にどのような影響を与えるのかも、歩には分からない。


それでも、歩は突き出した腕を引くつもりはなかった。彼がどんな葛藤に苛まれていようと、渡したこれが悲しみを呼び起こす引き金になろうと、歩には渡さないという選択肢を選ぶことは出来なかった。


何も、出来なかった。


何も、してあげられなかった。


だから、何かをしてあげたかった。


ただの我が儘かもしれない。ただの自己満足かもしれない。それでも今、歩が姉に出来るのはそれだけだった。


どれほど歩はそうしていただろうか。飽きるほどの風の音が耳をくすぐる中、咲月は小さな微笑みと共に息を漏らした。少しだけ緊張していた空気の糸が、ふっと緩んだ気がした。


「・・・ありがとう」咲月は微笑みを浮かべたまま歩を真っ直ぐに見つめ、差し出した手で歩が持つ紙袋を握った。「・・・大事にするから。絶対」


紙袋を受け取った咲月は改めてその中を覗き、小さな微笑みを再び漏らした。自分以外に向けられた優しい微笑みが胸に針を刺したかのような痛みを訴えて、歩は反射的に視線を背けた。


「・・・学校には、来るんでしょ?」歩は咲月の顔を見ずに尋ねた。


「・・・あぁ」咲月は壁から体を離して、視線を宙に向けながら曇りのない表情で大きく息を吐いた。「明日から、顔を出すよ。やりたいこと出来たし」


「・・・やりたいこと?」


咲月の言葉に思わず視線を移した歩が問い返した。彼の視線はまだ宙に向けられたままだった。遠くを見るようなその眼差しには、翳りも迷いも感じられなかった。


「・・・笑うなよ」咲月は歩に視線を移したあと、少しだけ恥ずかしそうに頭を掻いた。「・・・俺、美容師目指すことにした」


「美容師?」予想もしていなかった咲月の言葉に歩は声を上げた。彼の決意の原因はすぐに思い至ったが、理由がどうしても理解出来なかったからだ。「・・・どうして?」


歩の疑問に咲月は少しの間固まり、口を開かなかった。どう言葉にして伝えればいいかを模索している様子で、歩は視線を注いだまま、彼が口を開くのを待った。


「・・・あの日さ、夏海と海へ行ってたんだ」咲月はゆっくりと、記憶をたどるように呟き始めた。「海を眺めながらさ。・・・小さくてもいいから、いつか自分の店を持ちたいって。あいつ、笑いながら言ってた」


かすかなうれいを含んだ咲月の眼差しが紙袋の中へと注がれた。滲み出るような恋慕の想いが、空気を伝って伝播する。


「頼まれたわけじゃないけど、・・・ただの自己満足かもしれないけど。夏海の夢、叶えたいんだ。俺がこの手で、叶えたい」静かにだが力強く呟いた咲月は、紙袋を手にしていない掌を見つめて、強く握った。


胸中に秘めた思いが、言葉として伝わってくる。歩は姉の存在が咲月の中に確かに在ることを知り、純粋に嬉しくて頬を緩ませた。


「・・・応援する」歩は微笑みながら、咲月に視線を向けて頷いた。「ずっと、応援してるから」


「・・・ありがとな。じゃあ、結城の家に寄らなきゃいけないから、もう行くよ」


制服を受け取った咲月は鏡のように微笑んでそう残すと、軽く手を上げて歩き出した。歩は小さく手を上げ返して、徐々に遠ざかっていく彼の背中を消えるまで見つめ続けた。


(・・・お姉ちゃんには、敵わないか)


静謐の中に消える風の音。見上げた曇天からかすかに覗く青い空。歩は小さく息を吐いて、天に向かって微笑んだ。


咲月の心の中に、自分の居場所はなかった。それでも、彼を想う気持ちは揺るがなかった。それは悲しくも、嬉しかった。


自分にも、何かが出来るだろうか。


自分のためではなく、誰かのために。


姉が残した爪痕を、ただの傷跡にするわけにはいかない。受け止め、受け入れ、糧にしなくては。


歩はもう一度咲月が消えた方向に視線を向けると、何かを振り切るように向きを変えて会館の中へと戻っていった。

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