第16話

第16話

「・・・ある日、雨宮君がクラスメイトと喧嘩をしたんです。喧嘩というには、・・・あまりに、一方的でした」


その言葉に、高橋は目を見開いた。記憶が逆流を起こす。瞬きした瞬間、あの時の無表情の雨宮が映し出されそうだ。


「・・・それは」


「はい。その時は他の先生がすぐ近くに居て大事には至りませんでしたが。・・・雨宮君を呼び出して理由を聞きましたが、彼は何も話しませんでした。後日、保護者で雨宮君の叔母にあたる雨宮静恵さんにもお話を伺いましたが、甥が話さないなら私も話す気はないと一点張りで。・・・結局、今でも理由は分からないんです」


そう言って、岡野は目を伏せた。唇を噛みしめ、小さな拳を握り締めている。何も出来なかったという無力感に、苛まれているのだろうか。


岡野の説明したそれは、今回とまったく同じケースだった。突然の暴行、黙秘。しかし、唯一違うところが一つだけあった。それは保護者にも事情を追求しているということ。


(ん?・・・静恵?)


思考を巡らせた高橋は思わず首を傾げた。その名前を、どこかで聞いたような気がしたからだ。しかも、ごく最近な気がする。高橋は反射的に記憶の棚を根こそぎひっくり返した。フラッシュバックする映像。蘇る言葉の数々。


誰が。


どこで。


『あの子に会ったのか?静恵があれほど・・・』


記憶の一致。導き出せたことに対しての安堵と共に、高橋は目を見開いた。五十嵐が以前言っていたのは、天宮の叔母のことだったのか。


高橋は咄嗟とっさに視線を五十嵐に向けた。彼は少し複雑そうな視線を返し、高橋が口を開こうとするのを掌で制した。


「岡野さん、質問があります。被害を受けた生徒からは、話を聞きましたか?」


「あ、はい。もちろんです」


顔を上げた岡野は既に冷静さを取り戻していて、五十嵐の唐突な質問にも毅然と答えた。感情のコントロールはどうやら速いようだ。


「その生徒は、何と言っていましたか?」


「雨宮君に向かって、お前の母親は人殺しだと言ったそうです。そうしたら、急に殴りかかってきたと・・・」


やはり、これも同じだった。高橋と五十嵐は視線を合わせる。


まったく同じ事件。まったく同じ状況。ここまで続いているのなら、共通点のある問題は無視できない。それは、被害者の言葉だ。


しかし、雨宮の両親は十年前に事故で他界している。それに対しての被害者の言葉なら、矛盾にも程がある。


その時、高橋の脳裏に一瞬、仮定が通り過ぎた。それは次第に膨れていき、思考を染みのように侵していく。


両親は、本当に事故で亡くなったのだろうか。


そう考えれば、被害者の言葉を全否定出来なくなる。しかし、新たな矛盾が生まれてしまう。被害者の言葉が真実なら、亡くなっている母親は、どうやって人を殺せるのだろうか。


考えれば考えるほど、思考は木の枝のように分散し、細くなっていく。頼りない推測が、儚く消えていく。


「・・・まさか」


呟くように岡野は小さく口にすると、少しだけ目を見開いて高橋に視線を向けた。思考の迷路から現実に引き戻された高橋は、彼女の表情に小さく首を傾げた。


「・・・雨宮君、また同じようなことを?」


岡野の問いかけに、高橋は小さく頷いた。隠す理由があるわけではないし、真摯に生徒を思う彼女には、知ってもらいたかった。


「・・・生徒三人に怪我を負わせ、一人は、重傷です。理由がいまのところ判明せず、このままでは、退学処分となるでしょう」


「・・・退学」


岡野は息を呑んだ。その言葉の意味の重さを、彼女は知っているからだ。それは人一人の人生を簡単に狂わせてしまう、教師にとっては、禁忌の呪文。


「あの・・・、先生!私に出来ることがあれば」


岡野は必死の表情で高橋に詰め寄った。訪問した時に感じた固い印象は既に微塵も感じられない。しかし、これが彼女の本質なのだろう。


高橋は勢いに押されるように身を引いて、焦燥を露にしている岡野を、両手をかざして宥めようとした。


「だ、大丈夫ですから。落ち着いてください」


「でも・・・」


「大丈夫ですよ。私達も出来る限りのことはしますから」


五十嵐の言葉にようやく感情のコントロールを取り戻した岡野は、二人に小さく、何度もよろしくお願いしますと頭を下げた。


「何か分かれば、必ずご連絡差し上げますから」


高橋はそう言って岡野と連絡先を交換し、五十嵐と共に家を後にした。


見上げた空は完全に闇へ支配され、街灯や家の明かりがその摂理に逆らうように光っている。高橋は五十嵐に促されて助手席に腰を下ろし、必死に言葉を探した。


しかし、先手を打ったのは五十嵐だった。彼はゆっくりと車を発進させながら、小さく呟いた。


「・・・聞きたいのは、静恵のことですか?」


「・・・五十嵐先生は、どこまで知っているんですか?」


少し怒気をはらんだ口調に対して五十嵐は微塵も怯む様子を見せず、小さなため息と共に零した。


「知っている情報は、高橋先生と変わりません。ただ、静恵には、昨日会ってきました」


「そんな大事なこと、どうして黙ってたんですか!」


何度も問いつめる高橋に、信号待ちのため停止した車の中で、ようやく五十嵐は視線を向けた。それは鋭い眼光ではなく、いつもの穏やかな眼差しだった。


「黙っていたことは謝ります。ですが、彼女は何も話しませんでした。ただ・・・」五十嵐は車を進めながら、眉間に皺を寄せた。「少し、気になることがあるんです」


「・・・雨宮君の、両親のことですか?」


「・・・え?」


高橋の言葉に、五十嵐は少し驚いたような表情を浮かべた。意見の一致に驚いたのか、盲点を突かれて驚いたのかは高橋には判別できなかったが、高橋は気にせず言葉を続けた。


「どうしても気になるんですよ。高田君の時も中学の時も、原因は同じ理由なんです」高橋の言葉に、五十嵐は真剣に耳を傾けている。「考えられる可能性としては、二つじゃないですか?」


「生徒間で何らかの理由によりデマが広がっているか・・・」五十嵐はそこで一度口をつぐんだ。高橋は深呼吸をしてから、一番考えたくないもう一つの可能性を言いよどんでいる五十嵐の代わりに提示する。「その噂が、真実かです」


「ですが、もし万が一、それが真実だとしても、更に矛盾してしまいますよ」


五十嵐の意見はもっともだった。それは高橋も気付いていたことだ。しかし、その可能性がゼロではない以上、無視は出来ない。


何よりも、時間がない。週末を挟んでしまえば、今回の問題についてもう手の出しようがなくなってしまう。高橋は決意を固めて、五十嵐に叔母の静恵にアポを取るように頭を下げた。しかし、返ってきたのは予想通りの反応だった。


「・・・彼女は、何も話しませんよ」


「それでもいいんです。担任として会って、僕の口から話したいんです」


長い、緊迫した沈黙。響くのはエンジンの音とタイヤが路面をこするかすかな摩擦音だけ。沈黙を貫く五十嵐は、同じように沈黙を貫いたまま視線を外そうとしない高橋を横目で窺って、大きなため息と共に、苦笑いを浮かべた。


「・・・分かりました。明日聞いておきますよ」


五十嵐の諦めたような口調に、高橋は再び何度も頭を下げた。保護者に会うことが出来れば、たとえ理由や動機が判明しなかったとしても、話をすることで、雨宮咲月に、その本質に近付けるかもしれない。淡い前進を、少しは期待してしまう。


「・・・高橋先生。少し、変わられましたね」


不意の呟きに、高橋は首を傾げた。言葉の意味が、よく理解出来なかった。


しかし、それを尋ねると、五十嵐は何でもないと小さく首を振った。追求することでもないと感じた高橋は、それ以降、その話には触れずに再び事件や雨宮咲月についてのディスカッションに切り替えた。


五十嵐の言葉の本意に、高橋はまだ気付かなかった。

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