聖女失墜
瀬里
プロローグ
今日も、夢を見た。
幸せな夢。
母さんが出てきて、かんなが出てくる、日常の、なんでもない一日の夢。
いつも通り学校へ行って、帰りにかんなに会って、二人で馬鹿みたいな話をして、遅くなっちゃったからって、かんなを家に連れて帰って、母さんと一緒に三人でご飯を食べる、そんなありきたりな一日の夢だ。
夢だと気づきながらも縋りつかずにはいられない、そんな遠い憧憬。
まるで、自分自身を見失わないようにかけている自己暗示のようなものだと、笑い出したくもなる。
狂わないための、意志を失わないための、自分の核を守るためのそれは、けれど同時にとてつもない寂寥感をもたらす。
「さいあく」
覚醒しためいは、夜明けの薄明かりの中、毛布にくるまれたまま、腕で顔を覆った。あの夢を見るといつも泣いてしまう弱い自分がたまらなく嫌だ。
「くそっ」
泣いてしまうと、朝から目が腫れてしまう。また、癒しの魔法のお世話にならなければならない。
天蓋付きのベッドから立ち上がると、薄絹の夜着がするりと肌をすべった。豪華な調度品に囲まれた、けれど何も私物のない部屋は、めいの部屋だが、めいのためだけの部屋ではなかった──アルファレド神聖王国、歴代の聖女の部屋だ。
この時間には珍しく、外が騒がしい。
きっとまた、あれが始まるのだろう。
めいは、侍女が来る前に、既に着慣れたその装束に腕を通した。
「めい様! お休み中申し訳ありません」
外からの声は、めいのパートナーでもある神官ソーマのものだ。
「敵襲です。クリステラ王国軍が、国境原野に集結しております。めい様もご出陣の準備を願います。ティナ、めい様のご準備を。急ぎますので侍女をお部屋に入らせます」
侍女のティナが部屋の扉を開く前に、めいは自分から扉を開いた。
「いらない。もう準備はできてる」
めいは部屋の外に一歩を踏み出した。
身に付けた純白の司祭服が、風を切るように揺れる。小柄で華奢な肢体は、司祭服の中に隠されて、その歩き方に、頼りなさはない。
涙で腫れた色素の薄い茶色の瞳と、ボブカットにしたふわふわの自慢のビスケット色の髪をフードで隠したまま、めいは前を向く。敏いティナは、期待通り「めい様」と近づいて、そっと癒しの魔法をかけてくれた。
「兵は、神殿前に集結しております」
二十代半ばのまだ年若い神官は、整った顔を緊張した面持ちでこわばらせながら、めいの後に従った。
めいは、ソーマと共に、軍の集結する神殿前の広場へと立つ。
「めい様だ」
「聖女様が参戦されるぞ」
「これで安心だ」
「聖女様がこの
(吐き気がする)
あちこちから聞こえてくる、自分に期待し賛美するその声。
(ふざけるな)
そう叫んで全てをぶち壊してやりたいが、今はまだその時ではない。──利用できるうちは、いい顔をしておくべきだ。
神殿前の広場でめいはフードをとった。すずやかな、慈愛に満ちた顔でほほ笑みながら、広場に集結する兵たちを見回す。
めいは、彼らの求めているものを提供する。
彼らは、儚げで、清らかで、慈愛に満ちた聖女を求めている。
──その姿にこそ、この世界の人々は、圧倒的な力のイメージを重ねるのだ。
そして、それを見せることこそが、彼らに希望と活力を与え、士気を高める。
「皆に祝福を」
めいは、よく通る声で、広場の兵士たちに声をかけ、彼らの前で両手を組み、祈りを捧げる。
組んだ両手は胸の中心の位置。
そこには、めいの聖痕が刻まれている。
≪≪
めいの周りに、天から、淡い光のカーテンが舞い降りる。
同時に、空間が軋むような不協和音が、周囲に響く。
広場の人々は、しばし、その不可思議な光景に見惚れ、一部の人々はひざまずき、祈りを捧げる。
「おおっ」
「聖女様!」
「やるぞっ。俺たちは勝てる!」
周囲から兵たちの声が上がり、それはやがて鬨の声となり、唱和に至る。
「ありがとうございます。これで士気も高まります」
「皮肉かよ」
戦地である国境原野に向かう馬車に乗り込むと、めいは神官をにらみつける。
めいの光には祝福の効果など全くない。これは、士気をあげるためのパフォーマンスにすぎない。
(この光の本質は、祝福なんかじゃない。むしろ……)
「いえ、そんなことはありません。めい様のお力は目にするだけで、心を打たれるのです。聖なる光は、この国の人々にとって、特別な聖魔法ですから」
そこから始まる歴代の聖女の自慢話に、めいはため息をついた。皮肉だなんて、この聖女馬鹿の神官はきっと考えてやしない。本当に、何の効果もないあれを見て気持ちを高めているのだ。
こんなことを考えるのは、きっとめいの後ろめたさのせいだ。だって、めいは、この国のためになんて、彼らのためになんてこれっぽっちも考えていない。
あの夢の景色を再び取り戻す。
そのためだけに、めいは戦っているのだから。
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