消えた少女

 少し歩いて、母は気付いた。千歳がお友達の事を一向に話さない。

 お友達の名前、聞き逃しちゃったのかしら?

 母は視線を落とす。

 

「千歳、あのね――」


 母は千歳の方を見た。

 そこに、千歳はいなかった。


「――千歳?」


 周囲を見渡す。

 山道を下る道と登る道、一本道の石畳がぐねぐねと続くばかり。そこに千歳の姿はなかった。

 全身に冷たいものが走る。母は弾かれたように走り出した。


「千歳!? どこなの!?」


 慌てて来た道を戻る母。しばらく山道を下っていく。しかし千歳の姿は無く、もしや道から外れて森の中へ入ってしまったのではという不安がよぎり、どんどん顔から血の気が引いていく。

 森の中へ入ろうと足を伸ばしたその時、背後から声がした。


「おい、どうした?」


 振り向くと夫の姿があった。その顔を見た瞬間、母の目から涙がボロボロ零れ落ち、泣き崩れてしまった。


「千歳が……千歳がいないの!!」


 母の悲痛な叫びが、虚しく冬空に木霊する。

 千歳を探す母と父の声が山の木々に吸い込まれ消えていった――。


 *****


 両親の声が辺りに響く中、千歳にはそれが聞こえていなかった。

 いつの間にか石段すら消え、木々に囲まれ、霧に包まれた道なき道を千歳は歩いていた。

 突然手の中から消えた母の手のぬくもりを消さないように、自分の手と手を擦り合わせる。


「おかあさん……? どこ……?」


 震える声。母を求めて虚空に手を伸ばす。

 千歳の歩幅はどんどん小さくなっていった。

 それに反して、千歳の声は次第に大きくなる。


「おかあーさーん!」


 泣きそうな声は森中に木霊するかのように響き渡るが、少女の助けを聞く者はいない。

 朝に訪れた筈なのに夜のように暗い深い森の中を、たった一人で歩く。

 いつの間にか感じていた視線は無くなっていた。

 だがその結果、正真正銘の孤独が千歳の胸を締め付けていた。

 何処からともなく吹き付ける冷たい風が孤独感を煽る。

 顔が熱くなり、大粒の涙が頬を伝った時、千歳はぎゅっと下唇を噛んだ。

 千歳は山に来る前の家での出来事を思い出した。


 ――七五三の華やかな赤い着物を身にまとった自身の姿を姿見で見惚れていると、健康に育った我が子を見て表情を緩ませた母が千歳の肩を抱く。


「大きくなったわね。千歳」

「おかあさん、似合う? 自分で帯結べたの」

「偉いわぁ千歳。もうお姉さんね」

「お姉さん……うん!」


 母にお姉ちゃんと言われて嬉しさが体の内から溢れ出てきてその場でぴょんぴょんと小さく跳ねる千歳。

 その姿にまだまだねと思いながらも優しいまなざしを向ける母――。


 涙を着物の袖で拭い、拳を強く握った。


「泣いちゃだめ、もうお姉さんなんだから……」


 母に言われた言葉を思い出し、お姉さんとして振る舞おうと前を向いた。

 泣きかけて嗚咽しかかっていた小さな体を落ち着かせ、深く深呼吸する。

 改めて周囲を見渡した。

 朝霧とは違う不気味な濃霧が森にたちこめている。

 生物の気配が一切無い事に恐怖が込み上げてくるのを我慢して、息といっしょに飲み込んだ。その時だった。


 ――がさりっ。


 遠くのほうで草の揺れる音がした。それに混じって小枝が折れた音も聞こえた気がする。

 何が起きたかも霧と木々の影で見えないほど遠くで鳴ったと思う音。

 だが静寂の中、千歳の立てる足音や服の擦れる音以外で、その音はハッキリと千歳の耳に入った。


「なに……? だれかいる……?」


 千歳は音がした方へと恐る恐る歩を進める。

 森の中で得体のしれない音がしたら寧ろ離れて逃げるべきだろう。だが千歳は大人と違い、野生動物の脅威などまだ予想できるほどの知識がなかった。

 慎重に歩を進めるが、そこはなんの経験もない一人の少女、千歳が思っている以上にガサガサと音を立てながら前へと歩いた。

 恐怖が徐々に好奇心に変わっていき、だんだんと歩く速度が上がっていき、ずんずんと胸の高さまである草を分け入って進んでいく。


 着物にいくつもの葉っぱがくっついて汚れてきた頃、ようやく開けたところに出た。千歳の前には大きなクスノキがそびえ立っていた。

 その木の根元に、人影があった。おそらく、千歳の聞いた音の主だろう。

 巨大なクスノキの存在感に圧倒されつつも、少しずつ人影に近づく。

 人影の正体は千歳と同じくらいの年頃だろう小柄な黒髪の男の子だった。

 男の子は千歳のような着物を着ていたが華やかさはなく、濃紺の着物を身にまとい、房のついた結袈裟ゆいげさを肩にさげている。よく見ると、足から血が流れていた。


「ねぇ、大丈夫?」

「えっ……」


 うつむいていた男の子は千歳の声に顔を上げ、お互い目があった。

 男の子のルビーの様な瞳に、千歳は一瞬吸い込まれそうな感覚で時間を忘れかけたが、直ぐに男の子に駆け寄った。

 千歳は母に持たされていた赤い小さな巾着から消毒液と絆創膏を取り出すと男の子の傷を手当してあげた。


「うっ、痛い……」

「しみる? 男の子でしょ、我慢してね」


 この状況に恐怖しながらも、自分よりも小柄な男の子が怪我している姿に、千歳はお姉さんとして振る舞わなければという気持ちが強くなった。

 デフォルメされたうさぎのキャラクターが描かれた絆創膏を膝に貼ってやると、千歳は立ち上がって手を差し伸べた。


「わたしは千歳っていうの。きみは?」

「僕は……」


 男の子はなぜか名乗るのをためらった。千歳の顔をジッと見つめ、なにかを諦めたように小さくため息を漏らした。

 

「僕は、セツ……ありがとう千歳」

「セツくんね! 立てる?」


 セツと名乗った男の子は千歳の手を取って立ち上がった。

 霧が立ち込める森の中、子供二人だけ。

 お互いの存在を確かめ合うように、握る手を強めるのだった。

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