17話:若月「園田さんがいじめられてると言いだした」
時計の秒針が刻む心地よいリズムと空調の音がする病室。
目の前で園田さんは夢の中にいる。その寝顔はとても綺麗だ。窓の向こうから蝉の鳴き声が聞こえる。
椅子に座っている僕も、睡魔に誘われてうつらうつらと顔を揺らす。そんな現実と夢の狭間。
『夕ご飯の時間になりました』
アナウンスがスピーカーから流れ、僕はハッと目を覚ます。
園田さんは随分と深い眠りに入っているのか、アナウンスの声では起きず、相変わらず寝息をたてて安らかに寝ている。
礼子さんは、晩ご飯を作りに一度帰った。初めて知ったのだけど、園田さんには小学生の妹がいるらしい。それと、園田さんが病気になっても父親の姿が見えない理由は、随分前に亡くなってしまった、とのことだった。
そんなことも知らなかった。この一年、どんな会話をしてきたのだろう。そう考えたとき、園田さんは自分のことをほとんど話さなかったことに気付いた。それがたまらなく寂しく感じた。
「とりあえずご飯取ってくるか」
僕は寂しさを紛らわすように、誰に聞かせるわけでもなく呟いて、席を立って部屋を出る。
病室を出てすぐ右手側に談話室がある。そこにご飯が用意されている。そのまま談話室で食べても良いし、部屋に持っていって食べても良いと礼子さんからは聞いている。
園田さんはまだ寝ているし、病室で食べるだろう。園田日菜子と書かれたプレートが置いてあるトレイを探す。
トレイの上には随分と柔らかく炊いた白いお粥と、緑色とオレンジ色、黄土色をした液状のおかずがそれぞれ容器に分けられていた。
まだ食べ物の飲み込みに不安があるから固形物ではなく、飲み込みのしやすい状態にしてくれている。もう少しすれば普通の食事になる筈だ。
「園田ですけど、まだ寝てまして。ご飯遅くなるかもしれないです」
僕は近くにいた看護師に声をかける。
「はーい、日菜ちゃんが食べてくれるなら遅くなっても大丈夫ですよ。気にしないで下さい」
看護師が、優しく笑みを浮かべた。
僕は「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。そして、園田さんのご飯が乗ったトレイを持って病室に戻り、ドアを開く。
「わかつきくん! どこにいってたの?」
園田さんが、ユニットマットの上に敷かれた布団から身を起こして、不安そうな表情でこちらを見つめていた。
「ごめんごめん、園田さんのご飯取りに行ってたんだ」
「そっか、よかった。わかつきくんが、こんなわたしなんて、いやだって、いなくなっちゃったかと、おもったよ」
今にも泣いてしまいそうな、か細く震える声で園田さんが気持ちを吐露する。
「そんなわけないよ」
僕は微笑んで、できるだけ優しい口調で返す。病気で倒れる前の園田さんはこんな風に気持ちを素直に口にすることなんてなかった。
僕の胸の奥底に巣くっている、針で刺したような黒い点が疼いた気がした。
「そのまま布団の上で座って食べる? それとも車椅子に座って食べる?」
「くるまいすに、すわる」
園田さんは車椅子に座ってテーブルで食べることを選んだ。
園田さんはまだ座ったときの姿勢保持が上手くいかない。布団の上で身を起こしている今も、壁に体を預けるように座っている。だからパイプ椅子のような手すりのない椅子には座れなくて、座るなら車椅子じゃないと難しい。
園田さんが、もぞもぞとお尻を布団の上に這いずらせて立ち易い位置に移動する。そこで、ピタリと動きを止めた。
「わかつきくん、たつの、てつだって」
あ、そうか。と、慌てて園田さんの側に寄る。
ベッドから立ち上がるのに比べて、地面から立ち上がるのは大変だ。手助けが必要だ。
僕は園田さんの目の前で肩膝をつく。
頭の中でドキュメンタリー番組か何かで見た介護の映像を思い浮かべる。
「僕の首に手を回して」
僕の言葉に園田さんが右手を回した。左手もゆっくりとなんとか回してくれた。確か僕も園田さんの背中辺りに手を回して、立ち上がりながら園田さんの体を持ち上げるんだっけ。
もっと介護の本とか読んどけば良かった。今日から調べようと考えて、背中に手を回す。
瞬間、ふと気付く。
園田さんとこうやって抱きつくような形になるのは初めてだ。一瞬、手を回すのを躊躇う。だけど、そうしないと立ち上がらせることなんてできない。
心の中で、ごめんと謝りながら手を回した。
胸が締め付けられた。
僕だって男だ。園田さんの体はこういうものなのかなくらいは付き合ってる間、何度も想像したことがある。だけど、その想像はもちろん健康な園田さんの体だった。だから、背中に手を回した感覚でわかる骨と皮だけになってしまったような骨ばった体に、心臓が強く握られたみたいに苦しくなった。
空調の風が僕達を撫でる。瞬間、ふわりと園田さんの匂いが漂った。桃みたいな甘い匂い。
「やだ! はなして! わかつきくん、はなして!」
突然、園田さんがそう訴え始め、僕の腕の中で体をもぞもぞと動かし始めた。
「ご、ごめん! 痛かった?」
強く腕を締め付けていたのかと謝って手を離す。だけど、園田さんは僕の言葉に首を横に振った。
「きょう、しゃわー、してないから、わたし、くさいよ」
園田さんが、顔を赤くさせて少し俯いた。
「大丈夫だよ。気にしないよ」
良い匂いだったよ。とは変態みたいで言わなかった。
「ううん、くさいよ。やっぱり、ここで、たべる」
園田さんは少し顔を俯かせたまま、右手で布団をポンと軽く叩いた。僕は小さく「わかった」と、テーブルの上に置いていたトレイを布団の上に置いた。
トレイの上に置いてあるご飯を目にした園田さんの顔が暗くなった。
「……たべない」
そう呟いたのが聞こえた。
「え、でも、ご飯は食べないと」
骨ばった園田さんの体の感触が腕にまだ残っている。これ以上食べないでいたら、本当に骨だけになってしまうんじゃないかと不安でいっぱいになる。
「たべない! わかつきくんも、わたしを、いじめるの?」
園田さんが涙を流し始め、上目気味に僕を見つめた。
思い出した。
『ご飯がドロドロなのは病院が自分をいじめてるんからだって言い出してね』
そう言って、声を沈ませた礼子さんの言葉。それと、さっき看護師さんが『日菜ちゃんが食べてくれるなら』と言っていた。
「いじめてなんかないよ」
「いじめだよ!」
突然、取り乱したように園田さんが言葉を荒げる。まだ口をちゃんと動かせないからか、叫び声というわけではない。でも、明らかに怒気を含んだ言い方だった。
突然の怒りに僕は咄嗟に言葉を返せない。
「まいにち、どろどろの、きたないごはんばっかりで、わたしを、いじめてるんだよ!」
園田さんの怒りは収まりそうもない。それも、あまりに見当外れな怒りだ。
僕は「そんなことないよ」としか言えなかった。
「びょういんのひとは、そうやって、わたしを、わらってるんだ! びょうきになった、わたしを、さべつしてるんだ!」
園田さんは声を荒げて肩で息をする。その目は知り合ってから今日まで見たこともないくらい、吊り上がって見えた。
僕の胸の中にできていた黒い点が少し広がったように感じた。
「差別って、なんだよそれ」
「さべつは、さべつだよ。わたしをいじめて、たのしんでるんだよ! こんなの、いらない!」
園田さんが、布団の上に置いていたご飯を右手でトレイごとひっくり返す。辺りに液状になったご飯が散乱して、プラスチックが地面に落ちる音が響いた。
「そんなわけないだろ!」
僕は思わず声を荒げた。瞬間、しまった、と思った。
園田さんに目を向ける。怯えた表情を浮かべて僕を見つめている。
「これは、園田さんがちゃんと食べられるように病院の人がこうしてくれてるんだ。園田さんを思ってのことなんだ。だから、いじめとか差別とか、絶対にないよ」
僕はいつも以上に優しく園田さんに声をかける。だけど、園田さんは顔を俯かせた。布団の上に一滴の涙が落ちて、染みになったのが見えた。
「かえって」
園田さんが、そう呟いた。
僕は何も言葉を返せなかった。園田さんの言う通り、今日は帰った方が良い。今はここにいても仕方ない。だけど、散らかったご飯と汚れた部屋を綺麗にしないといけない。
僕は洗面所にいってタオルを濡らし、部屋を片付けた。その間、僕達の間に会話はなかった。
トレイを談話室に持っていく。看護師に「日菜ちゃん食べた?」と空になっている食器を見て問いかけられた。僕は「いえ」と返すのが精一杯だった。それだけで、看護師は何があったのか悟ってくれたみたいで、少し困ったような表情を浮かべていた。
僕はそのまま、病室に戻ることなく非常階段を下りて病院を後にした。
夏の日中は長い。
六時半を越えていても、まだ空はオレンジ色に染まり始めたばかりで青い部分も目立つ。そんな空を一瞬だけ目にした後、僕は自転車を押して、家まで約四キロの道を歩いて帰った。
その帰り道、覚えているのは新しく舗装された濃い灰色と、昔からあるアスファルトの薄くなった灰色。その二つの灰色だけだった。
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