第2章
10話:若月「園田さんを襲った病気は、くも膜下出血」
◆◆◆
深い藍色の夜空は人の心を落ち込ませる気がする。
雨上がりの夜の町を、僕は自転車で幹線道路沿いにある病院へと向かっている。
園田さんを襲った病気の名前はくも膜下出血。その病名を聞くだけで、すぐにでも吐いてしまいそうなくらい不安と恐怖で押し潰されそうになった。
家から病院まで、車一台分しか通れない細い中道を通った方が早い。それはわかっていたけど、その道は夜になると、より闇と静けさに包まれる。
そんな道を進めば、今よりもネガティブなことしか考えられなくなってしまう気がする。
病院まで遠回りになるけど、様々な店が建ち並び車通りも多く、夜でも比較的明るい大きな県道を進む。視界だけでも明るく保ちたかった。
後悔で涙が溢れる。視界が滲むのを腕で何度も拭いながらペダルを漕いだ。
園田さんのお母さん、園田
そこで初めて、園田さんがくも膜下出血で倒れて病院に搬送され、ついさっきまで手術を受けていたことを知った。
園田さんは倒れる寸前、僕にメッセージを送ろうとしていたらしい。園田さんのスマホを見た礼子さんが、僕には教えておいた方が良いと連絡をくれた。
園田さんが頼ろうとしたのは僕だったんだ。それなのに僕は、園田さんとは後で会える、別れ話をされたら怖いと、待ち合わせ時間が大きく過ぎても連絡をとらなかった。
たった一言なんてことの無い会話。例えば、雨だから足元気をつけて。そのくらいのメッセージを送っていれば、もしかしたら事態は変わっていたかもしれない。何がどう変わっていたかなんてことはわからない。でも、その一つのメッセージで何かが変わっていた可能性もあったかもしれない。そんなことまで考えて、後悔が僕を襲う。
大型家電量販店の横を通る。そのすぐ前を幹線道路が東西に延びている。
家電量販店前の信号を渡った先に、園田さんが手術をした脳神経外科の病院がある。
信号は青なのに、僕は横断歩道の前で止まった。
電話で礼子さんから手術は成功し、一命は取り留めたと聞いた。
だけど、電話越しにこうも言われた。
『髪の毛は全部剃っちゃってるけどね』
その言葉に、園田さんが大きな手術を受けたという現実を突きつけられた。
栗色のふわりとした肩まで伸びた髪が無くなった。脳の手術を受けたんだ。そのくらいは当然の筈だ。それは十分に理解できる。
でも、髪を全部剃られた園田さんの姿を想像するだけで、胸がざわついた。
まだ会う覚悟が足りてない。
倒れたことをもっと早く知っていれば、手術が終わる間に覚悟は作れたかもしれない。でも、園田さんがくも膜下出血で倒れたと知ってから、まだ三十分程しか経っていない。
その短い時間で覚悟が作れるほど、僕は強い人間じゃない。だから、信号が青でも渡れなかった。
二度、三度、信号が赤から青、青から赤になるのを見送った。
面会時間は午後八時までだと聞いた。信号の前で止まっていればいるほど時間は迫ってくる。心のどこかで、面会時間に間に合わなかった、という言い訳を作れることに期待している自分がいることに気付いた。
僕は、最低だ。
後悔の次は自己嫌悪が襲いかかってきた。
ふと、園田さんはこんな最低な僕に助けを求めようとしたということを思い出す。
「行くか」
覚悟が決まったわけじゃない。でも、ここで行かないと園田さんと付き合ってから今日までの一年間、全てが嘘になってしまうような気がした。
目の前の現実から目を背けることよりも、この充実した一年を自分自身で嘘にしてしまう方が怖くて、僕は信号を渡る。
渡ってすぐにテニススクールの建物があって、その横に病院がある。駐輪場に自転車を置いた。礼子さんから言われていた通り、園田さんのスマホに電話をかける。
コールが、一回、二回と鳴る。
また胸がざわつく。やっぱり会うのが怖い。ダメだ、次のコールで出なければ電話を切ろう。
そう思った瞬間、電話越しに柔らかい声が聞こえてきた。
『もしもし、若月君かしら?』
「はい、病院の下まで来ました」
『すぐに迎えに行くわね』
礼子さんはそう言って、電話は切れた。
これで園田さんと会わないといけなくなった。いや、『いけなくなった』なんて、本当は会うのが嫌みたいだ。そうじゃない、これで会える。そう思わないと。
湿気を多く含んだじとりとした風が僕の肌を撫でる。それは、今の僕の心みたいに不快なもので、吐き気を覚えるくらい息苦しさを覚えた。
病院の中を見ることがしんどくて、体ごと外に向ける。駐車場が目に入る。一つも止めるところが無いくらい車が駐まっている。もう外来の時間は過ぎている。この車のほとんどがお見舞いに来た人のだろうか。もしそうなら、みんな園田さんみたいに脳の病気になってしまった人達のお見舞いだろう。
都会とも田舎ともいえない僕が暮らす市の周辺だけでも、これだけの人が脳の病気になっているという現実を目の当たりにした気がした。
「若月君かしら?」
背中から声をかけられる。僕はびくりと体を強張らせた。
「あら、急にごめんなさいね」
ゆっくりと振り返る。
一目見ただけで、この女性が礼子さんだとわかった。園田さんが年を取ればきっと瓜二つになる。そう思う程、園田さんをそのまま大人にしたような見た目だったからだ。
「こんな時間にありがとう。親御さんは大丈夫かしら?」
礼子さんは、片手を自分の頬に当てて、僕の心配をしてくれる。
「はい、一応外に出てくるとは言ってきましたから。一言言っておけば大丈夫な家なので」
「あらそう。親御さんもしっかりした息子さんで信頼してるのね」
礼子さんが朗らかな口調で優しく微笑んだ。
「いえ、放任主義な親なだけです」
返事をしながらその笑顔から目を逸らす。その口調も微笑みも、たぶん僕を心配させないように作ってくれている。その証拠に礼子さんの目が赤く染まっていた。
「行きましょうか」
礼子さんの言葉に小さく頷いて、すぐ後ろをついて歩く。
病院の中は、会計前の椅子に数人が腰掛けているだけで、とても静かだった。
ロビーを少し抜けたところにエレベーターがある。僕達はそれに乗り込んだ。
礼子さんが五階のボタンを押す。簡素な機械音がエレベーター内に微かに響き、僕達を運ぶ。
「ねえ。若月君はひなと付き合ってるのかしら?」
突然そんなことを尋ねてきた。
正直、かなり狼狽えた。礼子さんの言う通り、僕と園田さんは付き合っている。でも、そんなことを突然尋ねられると思ってなかった。付き合ってると正直に答えたら高校生なのに不純だと怒られるんじゃないだろうか、と少し不安に思った。
「えっと」
答えに悩む。そんな僕の様子を見た礼子さんが「大丈夫よ。おばさん、結構そういうことにも理解はある方だから」と笑ったのを見て、僕は小さな声で「はい」と頷いた。
「そう。ふふっ、良かったわ。若月君みたいな子で、うちの娘は見る目あるのね」
礼子さんは僕が頷いたのを見て三日月みたいに目を細める。その笑ったときの目の形が園田さんと同じ形をしていたのを見て、胸が締め付けられた。
「そんな、こと……」
声が喉につっかえて言葉が尻切れトンボになって、顔を伏せる。
僕は良い奴じゃない。ここに来るまでにかなり葛藤をした。何度も帰ろうと思った。病気になって、意識の無い園田さんを目の前にして「良かった」って、そういう純粋な気持ちだけを抱くことができるか不安でしかなかった。
だから、園田さんと瓜二つな笑みを浮かべる礼子さんの顔を見ることができなかった。
「大丈夫よ。不安なのはわかるわ。でも、あなたは逃げずに来てくれた。それだけで十分よ」
僕の気持ちを見透かしているかのような礼子さんの言葉に、僕は俯いたまま小さく頷くことしか出来なかった。
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