9話:園田「若月くん、怖いよ、助」

 ☆☆☆


 部屋の窓を雨が優しくノックする音を耳にしながら、私は若月くんを呼び出した喫茶店へ向かう為の準備をしていた。

 お昼の十二時を過ぎたところなのに、厚くて黒い雲が空を覆ってるせいか、部屋は電気をつけていないと夜がすぐそこに近づいてるみたいに暗かった。

 窓から雨模様の外に視線を向ける。いつ頃、別れようって考え始めたのかを思い返す。

 私はずっと若月くんのことが異性として好きってわけじゃなかった。それでも、若月くんはいつも優しくしてくれた。その優しさが苦しくて、私は笑って誤魔化すことしかできなくなっていた。それが申し訳なかった。だから、必死に若月くんの良いところだけを見ようとして、好きなところを探した。

 確かに若月くんはとても良い人だし、すごく優しい。

 でも、なんだろう。その優しさがやけに疲れるときがあった。

 春頃になると、少しだけ会うのが億劫に感じ始めた。

 一度、若月くんと付き合おうと思った理由を思い返したことがある。すぐに若月くんの絵が思い浮かんだ。

 若月くんの見ている世界を近くで感じたかったからだ。

 だけど春になって、このままではいけないと思う出来事があった。

 私達は高校二年生になり、一つ下に新入生が入学してきた。その新入生に向けたお祝いとして、若月くんがポスターを描くことになった。

 どんな絵を描くのって尋ねたら、春だから桜を描こうと思ってるって返ってきた。若月くんが見てる桜がどんなのか見たかった。私はたぶん、この学校で誰よりもポスターが完成するのを楽しみにしてたと思う。

 そして数日後、完成したポスターを見て、私は頭がガツンと殴られたみたいにショックを受けた。

 若月くんの描いた桜は、上手だけどあまりに普通すぎた。これまで私が見てきた桜とほとんど変わりなく見えた。

 最初、私の理想が高すぎたのかなと自分を疑った。でも、改めて美術部の部室前の廊下に貼られた校内美化ポスターを見に行くと、色鮮やかな花なんて描かれてない太陽の光射す廊下の絵なのに、息を飲むほどに綺麗に見えた。

 この一年間、若月くんは凄く私のことを大切にしてくれた。私を第一に考えてくれた。それは申し分ないくらい出来すぎた彼氏だった。

 でもそれは同時に、若月くんが付き合う前に見てた世界を私が奪ってしまったんだと思った。

 思い返せばいつも若月くんの目は私に向けられて、周りを見ていなかった。付き合い始めてから新入生に向けたポスターを描くまで、絵を描いてるって話すら聞かなかった。

 それにようやく気付いて、このままじゃいけないと思った。

 それは若月くんがダメってことじゃなくて、私が若月くんの彼女でいたらいけないってこと。

 若月くんは凄く『好きに真面目』な人だから、このまま付き合ってたら、若月くんに見えていた筈のカラフルな世界を、一生失わせちゃうって思った。

 それが、付き合い始めてから丁度一年が経ったつい最近のこと。そして、決心する。

 私は若月くんを「話があるの」と呼び出した。

 待ち合わせは午後一時。

 気分はずっと沈んだままだった。別れ話を切り出すのが憂鬱で、なんとなく頭も重い。

 それでも別れを切り出さないといけない。私なんかとは早く別れて、若月くんには元の煌びやかな世界を取り戻して欲しい。

 窓を打つ雨音が激しくなったのが耳に入り、ハッと我に返る。

 いつの間にか手が止まってた。待ち合わせ場所の喫茶店へ向かう準備を再開させる。

 手を動かすと脳が活発になって色々なことを考えるようになるのかな。今度は頭の中を若月くんとの思い出が駆け巡った。

 夏の花火の日。昼に図書館で恋愛小説を読んで思わず泣いちゃった姿を見られて恥ずかしかったな。それに、花火を見ながら食べたかき氷。思ってたより量があって、食べきれなくなった私の分まで食べてくれたのを見て、男の子なんだなーって思ったっけ。

 秋に登った小さな山。私に必死についてこようとして、それでもどんどん私との距離をつめられなくなる若月くん。頑張れって応援したら、無理して駆け登ってきた若月くんに思わず笑っちゃった。

 冬に見た流星群。あの日見た大きな流れ星は今でも目を瞑れば瞼の裏に浮かぶくらい、とても綺麗だった。

 地面にぽたぽたと何かが滴り落ちているのに気がついた。

 一瞬、雨漏りでもしてるのかなって、天井を見上げてみたけど、そういうわけではなかった。じわりと視界が滲んで、その正体がわかった。

「あれ、おかしいな。なんでだろ」

 私は、涙を零していた。

 若月くんのことは異性として好きかどうかわからない。でも、思い出すのは若月くんとの楽しい思い出ばかりだった。

 一緒にいて疲れるって思ったこともある。でも、私もすごく楽しかったんだ。

 それに気付いて、私は、ふとこんなことを考えた。

 もしかしたら、もう少し付き合ってたら本当に好きになれるかも。二年生になっても同じクラスになったんだから、時間はいっぱいあるよね。

 そんなことをまた考えちゃう自分勝手な私だから、お前みたいな女に若月くんは勿体無いって、神様が怒ったのかもしれない。

 突然、鈍器で殴られたような激しい頭痛が走る。それまで聞こえていた、窓を叩く雨の音が消えて、金属同士をぶつけて響かせたような、甲高い耳鳴りが耳の奥で鳴り響く。

 目の前がぐわんぐわんと激しく歪む。私は立てなくなってその場にしゃがみ込む。首の裏が石になったみたいに硬直して動かせなくなる。

 猛烈な吐き気が襲ってくる。嘔吐しそうになるのを、口を手で覆って寸でのところで堪えた。

 頭の中を真っ黒な影が蝕んでくる。

 それには抗いようもないってことが、どうしてか理解できた。同時に私は恐怖に支配された。

 怖い。

 どうしたの? 私はどうなるの?

 もしかして、このまま死ぬの……?

 嫌だ……嫌だ……!

 そんなの嫌だ! まだ死にたくない。まだ生きてたいよ。

 怖い、死にたくない、嫌だよ。

 助けて。助けて!

 若月くん助けて。若月くん怖いよ。

 テーブルの上に置いてある、充電器に繋いだままのスマホを引っ張り寄せる。薄れていく意識のなか、私は必死に若月くんにLINEを打った。


『若月くん、怖いよ、助』


 目の前が真っ暗になった。

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