灰色と猫

空乃 峯ト

第1話 出発


「それじゃあ行ってくるね」


 そう言って、母さんは家を出た。


 私は玄関で手を振ると、ゆっくり閉まるドアの間から笑顔で返してくれた。


 ドアの先では、父さんが車を出して彼女を待っている。


 今日は、両親の結婚記念日で伊豆への一泊旅行らしい。


 いつもは、私も加わった三人での家族旅行となっているが、今年は遠慮した。

 来年に、高校受験を控えているのだ。


 といっても、勉強熱心という性格ではない。


 隣町の高校に進学するつもりで、今の学力でも受かるだろう。


 ただ、担任の「来年はいくらでも遊べるから、今年の夏は遊ぶなよ」という一言と、クラスの張り詰めた雰囲気を思い出し、流れのまま旅行を断った。


 ドア越しに、エンジンの音が低く震えながら、じわりと高まっていくのが聞こえる。


 車はゆっくりと動き出し、砂利道にタイヤがかすれる微かな音が重なり、やがて徐々に遠ざかっていく。


 少し経って、車の気配は完全に消え、再び静寂が辺りを包んだ。


 居間にある時計の音が聞こえてくる。


 まだ、外も薄暗い。


 二度寝するか迷ったが、久しぶりの早起きだ。顔を洗うことにした。


 冷たい水で顔を洗い流した後、軽い朝食を取る。


 スマホを取り出し、ショート動画を見始めた。


 上のバナーから通知メッセージが現れる。


 いつかに入れた英単語アプリからのものだった。


 左上の時刻表示を見ると、いつの間にか30分経っていた。


 チャットアプリを開くが新しい通知はない。

 ここ最近友達とは余り連絡を取っていない。

 仲のいい友達は、大学受験を見据えて高校は進学校にいくらしい。

 そのため、一分一秒を惜しんで勉強している。


 そんなことを思い出したら、スマホを見るのが嫌になった。


 食器を片付けて自室に戻り、バッグから問題集を取った。


 夏休みは始まったばかりだが、お盆を過ぎるとすぐに、全員参加の補習がある。


 それまでに、宿題を終える必要があるので悠長にはしていられない。


 まずは、得意な科目の国語から取り掛かることにした。


 小説を日頃から読むおかげか、そこそこの点数は取れる。


 決して高得点ではないが、他の科目と比べれば悪くない出来だったので好きな教科となった。


 初めこそペンが進まなかったものの、最初の大問を終えると次第に集中し始め、気づけば提出課題の範囲を終えていた。


 机の上にある、木製のデジタル時計は11時を示していた。


「ん、うぅーぅん」


 軽く伸びをし、体を背もたれに預けてふっと力を抜いた。


 今日は十分勉強しただろう。


 もう、他の教科に挑む気になれない。


 脳裏に担任の怒る顔が浮かんだが、首を横に振ってすぐにかき消した。


 (明日から頑張ろう)


 ふと視界に緑色のリュックが入った。


 登山用の大きめのもので、窓横に吊るされていた。


 そこで、気分転換にハイキングをしようと考える。


 すると、沸々とやる気が湧き上がり椅子から飛び降りた。


 リュックを取り、レインジャケット、タオルそして救急セットを入れた。


 それから、年期の入った登山ウェアに着替える。


 全て同じブランドで揃えたお気に入りだ。


 居間に移動し、母さんが作り置きしてくれたおかずを具にしておにぎりを作った。


 棚からカップ麺と小さなコンロを取り出し、スタッフバッグに収納する。


 リュックにそれを詰めるともう隙間がほとんどなくなっていた。


 戸締まりを確認して、ガス元と電気の消し忘れを入念にチェックする。


 ここら一帯では、空き巣よりも火事の方が怖い。


 靴を履き替え、ドアを開ける。


「出発だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る