2:水面下の状景

四月二三日 一七三二時(日本標準時)

東京郊外 調布市 京王線・調布駅南口



 デパート下のハンバーガー屋。かなめとその友人たちが、フライドポテトをつつきながら、おしゃべりにうちきようじている。

 あとをけてきた宗介は、店内の奥まった一角に腰を落ち着けていた。だんなくあたりに気を配りながら、三日前に駅でひろった『東京スポーツ』を読むふりをつづける。

 彼のには気になる人物がいた。

 かなめの背後のカウンター席に男が座っている。年齢は二〇代後半、ちゆうにくちゆうぜい。灰色のベレーぼうぶかにかぶっていた。足元には、黒のアタッシュケース。しきりに時間を気にしている様子で、何度もうでの時計を見ている。

(あのアタッシュケースは……?)

 対テロ戦争用のへいそうカタログで見たタイプにているような気がした。サブマシンガンをないぞうし、スイッチひとつでしやげきたいせいに入れるしろものだ。

 男はハンバーガーをたいらげると、トレイを持って立ち上がった。

(くるか……)

 宗介は腰を浮かす。だが男は紙くずを捨て、トレイを置き、そのままおおまたで店の外へと出ていった。

(見当ちがいか……いや?)

 アタッシュケースが置き去りになっていた。あの中身は、もしや──

(しまった!)

 イタリアでのテロにくわしかった知人が、こんな手口を話していた。あんさつひようてきを、店ごと吹き飛ばすらんぼうなやり方だ。しかし、敵の目的は誘拐だったはずでは? いや、じじようが変わったのかもしれない。そう、こうやってまよっている間にも……!

 彼はけ出した。テーブルをひっくりかえし、客を突き飛ばし、アタッシュケースをつかむ。ずしりと重いかんしよく。そこでかなめがふりむき、

「さ、さがくん……?」

「ふせてろっ!」

 さらに何人かの客をき倒して、店の外にとつしんする。

(人のいない場所は?)

 あたりを見まわす。夕暮れ時の商店街は、通行人でごったがえしていた。通りの向かいに、ちゆうしやじようがあった。あそこなら──

「どけっ!」

 宗介は車道に飛び出した。そこで、横からはげしいクラクション。

 り返ると、けいトラックの車体がかいいっぱいに広がっていた。ドライバーのブレーキもまにあわず、宗介はね飛ばされ、どうわきの自転車置き場に突っ込んだ。

(時間が……)

 ぐるぐるとまわるしき。もうろうとする頭で、必死に立ち上がる。

 投げろ……ケースを投げろ。このケースを、安全な場所に……

「ちょっと君、だいじようぶ?」

 目の前に、さっきの男が立っていた。男はアタッシュケースを宗介から取り上げると、中をあらため、

「ああ、げん稿こうだ。わざわざとどけてくれてありがとう」

 立ちつくす宗介のかたをポンとたたいて、足早に去っていった。

 十数人の通行人が、宗介をぎようししている。トラックの運転手と、かなめたちの姿も見える。あきれととうわくと心配のいりじった顔。

「……相良くん、なにやってるの?」

 かなめのわきの、きようこがたずねた。

ばくだんだとばかり……」

 それだけ言って、彼はその場にくずおれた。



四月二三日 一九二〇時(日本標準時)

東京 調布市 タイガース・マンション 五〇五号室



「おまえよ、今週中に死んじまうんじゃねえか?」

 宗介の頭にほうたいを巻きながら、クルツは言った。

「敵なんて一度も出てきてねえのに、こんな調子でばくしまくりでよー。ちったあ肩の力を抜いたらどうだ?」

「努力はしている」

 のない声で宗介は答えた。

 夕方のハンバーガー屋での一件などは、数あるそうどうのひとつにすぎない。にんがはじまってから四日になるが、宗介の学校生活は空回りの連続だった。

 彼は毎日のようにあばれ、駆け回り、公共物をこわして、授業をぼうがいし──かぐざかやかなめ本人にりつけられていた。

 いきおい、なまきずえない。

 日ごろの作戦中でも、これほどひんぱんをすることはなかった。しかもそれらのほとんどが、階段から落ちたり、ガラスを突き破ったり、図書室の本の山に押しつぶされたり、美術のせつこうモデルをなぎ倒したりといった、自業自爆な事情である。

 完全にリズムがくるっている──

 宗介自身もつうかんしているのだが、それをどうすることもできない。

 クルツの言う通り、自分は遠からぬ将来に、あの学校で命を落としてしまうのではないか、とさえ思えた。

「こりゃあ、ダメだな。明日はこうたいしろよ。俺とマオが学校の外でかんしてるから」

「学校の中に敵がいたらどうする」

「いるわきゃねえだろ。それどころか、カナメが本当にねらわれてるかどうかもあやしいぜ」

 のんきなクルツの言葉に、宗介は顔をくもらせた。

ぼうてきかんそくは危険だ。常にあらゆる可能性をこうりよし──」

「そうしてトラックにかれるわけだな。おまえ、ひともうって日本語知ってるか?」

「ヒトリズモー?」

「そうだよ、独り相撲。自分のマワシをとってあばれてんのさ、おまえは」

「マワシ?」

「知らねえのか? おまえホントに日本人かよ。……よし」

 クルツはほうたいを巻き終えると、まどぎわに戻っていった。

「……でも、わかんねえな」

「なにがだ」

「カナメのことさ。どう見たって普通の子だぜ? そりゃあ、きれいな子だが、モナコの王様がきゆうこんするようなぜつせいの美女ってわけじゃない。けいれきだって──へいぼんなもんさ。俺やおまえに比べりゃな」

たしかに……そうかもしれん」

 同世代の少年少女に比べて、自分のちはかなり変わっているらしいことを、宗介はここ数日でかくするにいたっていた。

「で、そのカナメが、どうしてKGBなんかに狙われるんだ? 先週ひろった女の子もそうだ。あの子だって、誘拐される前は普通の高校生だったらしいじゃねえか。外国の女子高生を誘拐して、クスリけにして、いったい何のトクがある?」

「俺にわかるわけがないだろう」

「だよな。少佐のヤロー、いったいなにを隠してるんだか……」



四月二三日 二一二一時(西太平洋標準時)

ソビエト連邦 ハバロフスク KGB支局ビル



「いつになったら実行にうつすのだ」

 受話器に向かって、大佐はなかば怒鳴りつけた。ゆうかいが決まってから、すでに三日がたっていた。

『もうすぐだ』

 電話のむこうで、ガウルンがへいぜんと答えた。

 こくせきめいのこのテロリストは、いまは東京のソ連たい使かんにいる。大使館員の報告では、ガウルンは東京に着いてもほとんど外出せずに、まえの部下と小さなれんらくを取り合っているだけだった。

『いまはしたじゆんびさいちゆうだ。安全にひようてきを誘拐するには、いろいろとまわしが必要なんだよ』

「根回しだと? 夜中にさらって、ニイガタまで車で運ぶだけだろうが。そんな簡単な作戦に、どんな準備が必要なのだ!?」

『あんたはどうも、せっかちすぎる』

「なんだと?」

『そんな単純なやり方を、〈ミスリル〉が予想していないわけがないだろう』

「タイドリー・カヌムにかんがついているのか?」

 大佐は『チドリ・カナメ』という日本人の名前を、いまだにうまく発音することができないでいた。せつなその発音を、ガウルンは鼻で笑ってから、

『そうみたいだな。うかつにせつきんすると気付かれそうだ』

「かまわん。じやをするならいつそうしろ」

『そうも行かないんだな、これが。こちらのうできをそうどういんしても、返りちにあうだろうね』

「どういうことだ?」

『ASだよ。ECSをモードにして、ぴったりと標的に張りついてる』

「まさか、完全なとうめいを? そんなそうはまだ実用化されて……」

 ガウルンはうんざりした声でそれをさえぎり、

『一〇年進んでるって言っただろう、連中のそうは。に近付くとめんどうだ。きっと〈ミスリル〉はせいえいを投入してるだろうしな』

「だが……」

『だから任せろよ。連中が手出しできないやり方をじゆんびしてるから。あんたはせいぜい、しゆうようじよ送りにならないように気を付けな』

 電話は一方的に切られた。



四月二四日 一四三八時(日本標準時)

東京 じんだい高校 二年四組の教室



「そーいうわけでしてぇ……」

 黒板を背にしてかなめは言った。

「修学旅行での係ぶんたんを、いーかげん決めなきゃならんのよね。あと四、五日しかないでしょ。……ってみんな、聞いてる?」

 ホームルーム中の教室を見わたす。となり同士でおしゃべりする者、いねむりする者、この日発売のマンガ雑誌を読みふける者……。

「聞いてるよー」

「とっとと決めて帰ろーぜ」

 ひとにぎりの生徒が答える。かなめはため息をついた。

「ったく。学級委員なんて引き受けるんじゃなかったよ、あたしゃ。……んーでね、こんなノリになるだろうと思っていたわたしは、すでに根回しを終えているのであった。あとはしようにんだけっす」

どり、えらい!」

 男子のだれかが言った。かなめはすまし顔でVサインを見せ、

「ふっ、まかせな。じゃあ発表するわよ」

 メモちようを取り出し、黒板にやくしよくと名前を書き出していった。タン、タタタンと、はくぼくの音が教室にひびく。

「食事係はおんくんとさねまつさん。もつ係はありやまくんとむらさん。連絡係はかざくんとふじさん。ぎようじ係はでらくんとすずさん。で、ゴミ係は……なり手がいなかったからさがくんね」

 後ろの席で、話を聞き流していた宗介はぎょっとした。

「どーしたの? 相良くん」

しようだくした記憶がない」

「この学校ではね、転入生はむじようけんでゴミ係をやることに決まってるの」

 一同がしのび笑いをもらしたが、宗介にはその意味がわからなかった。

「そうか、りようかいした」

なおでよろしい。あとで仕事を説明するからね。……じゃ、けつを取りまーす!」

〈ミスリル〉くつようへいさがそうすけは、反対〇でゴミ係にしゆうにんした。



四月二四日 一一一三時(グリニッジ標準時)

日本海 深度五〇m 〈トゥアハー・デ・ダナン〉 中央発令所



 うす暗いはつれいじよかんちようせき──

「修学旅行……ですか?」

 テレサ・テスタロッサは小首をかしげた。りんほうこくにやってきたカリーニンしようさはファイルをめくり、書類とペンを手渡した。

「はい。来週からです。旅先での連絡用に、新たなしゆかいせんかいせつきよ願います」

 テッサは書類にサインをしながら、

「変わった学校ですね。この時期に旅行だなんて。それで、行き先は?」

「オキナワです」

「そう」

 正面スクリーンの中央、ぐん情報でくされた地図に、テッサは目を向けた。地図の一角、おきなわとうながめながら、

「一時期、わたしがあそこに住んでいたのは話しましたか?」

「いえ」

「父のほうしんで、わたしは日本の小学校に通っていたんです。クラスの子たちからはけいえんされて、けっきょくないの学校にうつりましたけど」

 となりに立っていた〈デ・ダナン〉の副長・マデューカス中佐が、せきばらいをした。ちゆうを泳いでいたせんを、テッサは手元に引きもどし、

「ここで話すことではなかったわね」

「いえ……」

 しんけいしつそうなようぼうのマデューカス副長は、そうとだけ言って自分の仕事に戻った。カリーニンはそのやり取りを見てもいなかったように、報告を続けた。

「同じ件で、新しい情報が入りました」

 本来の用件を切り出した。

「〈ウィスパード〉の?」

「はい。例の研究は、ハバロフスクのせつで続いています。これをらんください」

 書類のたばを手渡す。それはがくぶつしつぼうだいなリストで、そこかしこに赤丸で印がつけてあった。

「ソビエト内でのきしような薬物の流通を示したものです。情報部のぶんせきによりますと……」

 カリーニンはくわしい説明をしながら、次々に新しい資料を見せていった。テッサは報告に耳をかたむけながら、ぎわよく書類に目を通していった。

「ハバロフスクだけなんですか? その研究せつは」

「情報部はそう報告しています」

うたがわしいわ。調ちようさを続けるようにようせいしてください」

「はい」

 実のところ、カリーニンはすでにその要請を出していたのだが、あえて口には出さなかった。

「それで、ハバロフスクの施設には、コンピュータでのしんにゆうはできないの?」

 それができれば、ずいぶんと作戦は楽になる。なにしろこの場でコンピュータをそうして、ハッキングをけるだけでいいのだから。

〈デ・ダナン〉のコンピュータ・システムは、単なるぐんかんせいぎよシステムのレベルを大きく引き離している。そのは大型ほにゆうるいちゆうすうしんけいけいひつてきし、アメリカ軍の通信システムさえだまにとるパワーを持っていた。このシステムをもってすれば、ソ連のコンピュータに侵入することなどぞうもない。

 だがカリーニンは、そののうせいていした。

「研究施設のコンピュータは、外部の回線から切りはなされています。物理的手段で研究をぼうがいするしかありません」

「そう……。じゃあ、じゆんこうミサイルで攻めますか」

 作戦もくひようが単なるかいなら、ASを使う必要はない。

「はい。G型トマホークがてきせつでしょう。料気だんとういちげきで済みます」

きよします。ただし、休日の深夜をねらいましょう」

 彼女がその時間帯を指定したのは、死傷者が出るのをきよくりよくけるためだった。研究施設といっても、研究員の宿舎と研究所は一キロ近く離れている。

テイで最新の写真を集めて、何時に、どこに、だれが、どれだけいるのか、可能な限り調べてください」

りようかいしました。次に〈アーバレスト〉の件ですが……」

 カリーニンは新たな書類を手渡した。テッサはそのひようしに、両手いっぱいにかかえていたしりようの山を、どさどさとゆかに落としてしまった。

「ああ、ごめんなさい。ごめんなさい」

 あわてて拾おうとする彼女を、カリーニンと副長が手伝った。

「すいませんね、マデューカスさんまで」

「いえ、お気になさらずに」

 マデューカス副長は、拾い集めた書類をカリーニンの方に渡し、

「カリーニン少佐……。いいかげん、紙を使うのはやめたらどうかね?」

 いらいらとしたようで言った。

「努力はしています」

 副長はこめかみのあたりを押さえながら、自分の仕事に戻っていった。

「で、この書類でしたっけ? ええと、『ゴミ係・七つのちかい』……?」

「……ちがいます」

 宗介から送られた報告書を、カリーニンはやんわりと取り上げた。



四月二五日 一六三五時(日本標準時)

東京郊外 京王線 橋本行きの各駅停車内



 しやりようのすみで文庫本を読んでいたかなめは、しおりをはさんでから立ち上がった。

「もうげんかいだわ……」

 はなれた席で、あいかわらずスポーツ新聞を読み続ける宗介に、ずけずけとおおまたで向かっていく。彼女は宗介の前におうちして、

「あんた、あたしに恨みでもあるの?」


 一語一語をきよう調ちようした。

どりぐうぜんだな」

「言う、フツー!? ここで言う!?」

 かなめはらんぼうにスポーツ新聞をひったくった。

「なによこれ、『シュワちゃん、しゆうちせんしゆつばか』ぁ? 何日前の東スポ読んでんのよ、あんたは!」

「俺個人の自由だ」

「そおいう問題じゃないでしょ? なんであたしに付きまとうのよ!?」

「俺が。君にか。なにを言っているのか、まるでわからん。しきかじようだな」

「これをいやがらせと思わない自意識が、どこにあるのよ! 毎日朝から、ずっとじゃないの? 言いたいことがあるなら、はっきりと言いなさいよ」

「だから偶然なのだ」

 しばしのちんもく。レールの音と、車内のアナウンスだけがひびく。

『えー、次の駅は~、こくりようぅ。国領にぃ、ていしやいたします』

 かなめはスポーツ新聞を放りてた。そばにいた老婦人がまゆをひそめる。電車が国領駅に止まり、とびらが『ぷしーっ』と開いた。

「……あくまで、偶然だと言いるわけね?」

「そうだ。偶然だ」

「わかったわ」

 電車の扉が閉まるすんぜん、かなめはホームに飛び出した。

 ぴしゃっ。

 宗介が閉まった扉の向こう側で、あせりをあらわにしていた。してやったり。かなめはほくそ笑み、手をった。

「ばいばーい。ヘンタイさん」

 電車が発進した。宗介の姿はみるみる遠ざかっていく。かなめはベンチに座ろうと、かばんをかかえて歩き出した。

 そこで。

 いましも駅から離れようとしている車輛の窓から、宗介がおどり出した。彼はホームに背中から落ちると、ボールのようにはずみ、転がり、ホームのはしてつさくにぶつかり、けたたましい音をたててようやく止まった。

「……マジ?」

 倒れたまま、ぴくりともしない。かなめはあわててると、ひざまずいて彼のかたすった。

「ちょっと、だいじようぶ!?」

 すると宗介は何事もなかったかのように身を起こし、

「問題ない」

 立ち上がり、ズボンのほこりをはらった。

「あんた正気? なに考えてんのよ!?」

「急にこの駅で降りたくなったのだ。君は関係ない」

「このにおよんでまだ言うか、こいつは……」

「偶然だ」

「はあ……」

 かなめは頭を振り、近くのベンチにこしを降ろした。宗介も彼女のとなりに座って、しっかりと拾ってきたスポーツ新聞を読みはじめた。

「……これも、偶然にここで座りたくなったわけ?」

「その通り」

「ホント、もうヤになっちゃう……」

 自分のひざにほおづえをついて、横目で宗介をにらむ。

 なことに、かなめは宗介を悪くは感じなかった。転入してくるなり、こうしつみ込まれたり、毎日のようにけまわされたりすれば、普通は相手を『ストーカーってやつ?』などとうたがうものだろう。じつさい、かなめも最初はそう思っていた。

 しかしどうも、なにかが違う。

 さがそうすけが、いやらしい気持ちや、ふじゆんどうで付きまとっているようには思えないのだ。そういう異常者だと決めつけるには、彼の横顔はあまりにしすぎた。

 意志の光、とでもいうのだろうか。

 試合前のスポーツ選手にも似た、強い決意とひたむきさがただよってくる。落ち着いているように見えるが、彼はなにかにいつしようけんめいなのだ。

 だから、なおさらわからない。

 そこまでして、自分の後をけまわす理由はいったい?

「……ねえ、相良くん」

「なんだ」

「怒らないから、事情くらい話してくれない?」

「事情と言われても、俺は偶然ここにいるだけだ」

 例によってのてきな回答。かなめはきつもんをあきらめた。

「はいはい。そういうことにしとくわよ。じゃあ、偶然ここにいるクラスメートから、質問していい?」

「いいだろう」

「外国暮らしが長かったんでしょ? 前の学校でもこんな調子だったの?」

 宗介はすこしちんもくしてから、

「そうだ。へいおんな毎日だった」

「…………。でも、友達と別れてさびしいでしょ」

「いや。電話や手紙で連絡を取っているので、げんみつには別れたとはいえない」

「ヘンな答え方……」

ししようはない」

「じゃあ、カノジョとかは?」

「彼女」

「うん。ガールフレンド。恋人。そーいうの」

「そういった種類の知人はいない。どうりよう……友人に言わせれば、『お前の恋人になってくれる女など、中国の奥地にもいないだろう』とのことだ」

「ははは。おもしろいこと言うね、その人」

「意味がわかるのか?」

「うん、なんとなく。だってさ、相良くん、ヘンじゃない」

「変か」

「ヘンね。すっごいヘン」

 かなめはひとしきりクスクス笑うと、

「でもそれって、きちような個性かもよ。わかってくれるいいひともいるかもね」

『いいひと』の中に、彼女自身が入っているかどうかは考えもしなかった。

おくしておこう。君はいい人だ」

「や……やだ、マジで受け取らないでよ。あたしは関係ないからね」

「そうか。では忘れる」

「やっぱりヘン」

 もう一度、かなめは笑った。

 いつのまにか、彼女はほのかなぬくもりを感じていた。道で出会ったいぬが、どこまでも後をついてくる時の、あのかんかく。小さなどくまる、あのここよさ。

 まあ、しばらくはこのままでもいいか……かなめは自然とそう思っていた。

 次の電車のとうちやくを告げる、ホームのアナウンスがはじまった。



四月二五日 一九〇五時(グリニッジ標準時)

日本海 せんぼうきようしんど 〈トゥアハー・デ・ダナン〉



 月明りが、海面の下にまで弱々しくそそぐ。その中に、黒一色でりたくられた船体が、ぼんやりと浮かんでいた。

 強襲揚陸潜水艦〈トゥアハー・デ・ダナン〉の外見は、背びれの短いサメのようにも見える。ただしサイズは数百倍だ。新宿のちようこうそうビルを横にして、水にしずめたようなものだった。その巨大なけんぞうぶつが、自力で海を進むのだ。

 静かに。とても静かに。

 その〈トゥアハー・デ・ダナン〉の背面に、動きが見えた。

 すいちよくミサイルはつしやかんのハッチが一門、開いたのだ。

 直後、その発射管から、えんとうけいのミサイルがち出された。

 しぶきをあげ、海面から飛び出したトマホーク・ミサイルは、しりのブースターを切りはなすと、じゆんこうようつばさを開いた。そのまま夜空をぐんぐんとけのぼり、やがて水平飛行に入ると、北の水平に飛び去っていった。


「発射シークェンス完了。直発のハッチをじます」

 中央はつれいじよで、かんせいを担当するかんが告げた。

「はい、ごくろうさま。では予定通りに、深度一〇〇までもぐって南にてんしんします」

 報告にうなずき、テッサが告げた。

 正面スクリーンのステータス・ボードに、かんのハッチすべてがへいされたことを示すグリーンの文字が映った。テッサはそれらの安全表示をてんけんすると、副長に目を向けた。

「問題ありません、かんちよう

 副長のマデューカス中佐が言った。ひょろ長いらだで、くろぶちがねをかけている。顔は青白く、軍人というよりはぎじゆつしやとでもいった方が通りそうなようぼうである。

「じゃあ、せんこうします。メイン・バラストタンクにちゆうすい。潜航角度は一〇度。速力は一〇ノットに増速」

 まったくものじせずに、テッサは命令した。

 一〇年以上きんしたナーでも、はじめて艦のを受け持ったばかりの頃は、きんちように声がふるえるものだ。ましてやこの〈トゥアハー・デ・ダナン〉は、世界最大の超ハイテク潜水艦である。にもかかわらず、この少女の指揮には危なっかしさがじんも感じられなかった。

「アイ・アイ・マム。メイン・バラストタンクに注水。潜航角度一〇度。速力一〇ノット」

 航海長がふくしようする。やがて艦がかたむき、潜航をはじめた。

 巡航ミサイルをち上げたので、なるべく早くこのかいいきから離れねばならない。ミサイルがしゆよく敵施設に命中したかどうかは、〈ミスリル〉の持つていさつえいせい〈スティング〉でかくにんする手はずだった。

「さて……結果がわかるのは三時間後ですね」

「はい。それまでお休みになってはいかがです?」

 マデューカス副長のすすめに、テッサは肩をすくめた。

「そうしたいけど、悪い夢を見そうだから、やめておきます」

 なにしろ、巡航ミサイルはいまも飛び続けているのだ。

 攻撃が成功すれば、敵施設のさいけんには五年以上を要することだろう。けっきょく情報部の報告では、〈ウィスパード〉の研究施設はハバロフスクだけだということだった。国内を再三再四にわたってチェックしても、そうしたせつをあつかっているところは他になかったらしい。

「それで、少佐。研究所をかいできたら、えいを引き揚げさせますか?」

 彼女はに身を沈め、かたわらで作戦を見守っていたカリーニンに言った。

「はい。ですが……」

「なにか問題が?」

「いえ。私の思いごしでしょう」

 そう言いながらも、カリーニンの顔はくもったままだった。



四月二六日 一〇三八時(西太平洋標準時)

ソビエト連邦 ハバロフスク KGB支局ビル



「研究所はかいめつじようたいだ!」

 受話器に向かって、大佐はめいをあげた。

「まさかミサイル攻撃とは……。じようきいつしてる! 〈ウィスパード〉に関する実験データは完全になくなり、ありとあらゆる情報が失われた」

『それはごしゆうしようさまだな』

 電話のむこうから聞こえるガウルンの声は、あくまでそっけなかった。

「もはや少女をする理由はなくなったぞ。研究のぞつこうなど不可能だ!」

『そうかね。気の毒にな』

ゆうかい作戦は中止だ。あんたにもギャラを払うわけにはいかない」

『まあ、もないな』

 あまりにもガウルンが平然としているので、大佐はしんに思った。

「……どういうことだ?」

『なにが?』

しゆうにゆうげんがなくなったというのに、ずいぶん冷静ではないか」

『仕事はほかにもいろいろある。やげを持って、元のやとい主のところに行くさ』

「手土産だと?」

 そこで、受話器にコツコツとなにかを当てる音がした。

どう大佐。何の音だかわかるかい?』

「? いや……」

『DVDだよ。いい音だろう? 中身にぎっしりと、みりよくてきな数字が入っている』

 ガウルンはくぐもった声で笑っていた。

「研究データか? さま、いつの間に!?」

きぎようみつだよ。きっとあんたが怒るだろうと思って、ほかの手も打っておいた。じゃあな、大佐。しゆうようじよでも、健康に気をつけてくれ』

 電話は切れた。

 だれかがしつしつの扉をノックした。大佐が答えるより早く、そうした兵士が三人ほど入ってきた。

「スミノフ大佐ですね?」

 若い中尉が進み出た。

「あなたの『ないしよく』に、とうほんが深い関心を寄せています。国家のざいさんを私物化し、その結果、大きなそんしつをもたらしたうたがいも」

「待ってくれ、私は……」

しやくめいはルビアンカで聞きましょう。こちらに」

 その言葉は、ロシア人にとってめつを意味する。きびしいじんもんと収容所暮らし……彼の未来は永遠に閉ざされ、苦痛だけの世界が待っているのだ。

 肩を落とし、大佐は兵士たちにれんこうされていった。



四月二六日 二〇〇一時(日本標準時)

東京 調布市 タイガース・マンション 五〇五号室



 一日中、部屋に閉じこもっているのはけつこうあんそくだった。

 今日は日曜日で、かなめは昼ぎから外出している。修学旅行にそなえた買物のようだった。この日はクルツがこうに回り、マオがアーム・スレイブでのバックアップ、宗介はかなめのマンションのかんやくだ。

 しんな人物などまったく現われなかった。一度、子供を連れた中年女が、かなめの部屋のベルを鳴らしたが、それも関係はなさそうだった。

 夜の八時をいくらか過ぎたところで、かなめはたくした。

「二〇〇六時、天使が帰宅。異常はなし」

 手元のマイクにつぶやく。ややあって、クルツがじようきげんで帰ってきた。

「たっだいま~~~。はっは。おう、がんばっとるね、ネクラぐんそう

 近くにくると、ビールくさい。宗介はかんモニターから目を離さずに、

にんむちゆういんしゆか」

「へっへ。かたがなかったんだよ。ホントは一杯だけのつもりがよー、キョーコちゃんにすすめられちゃって」

 鼻の下をのばす。

「……なんだと? かなめの友達の恭子か」

「そっ! 道に迷ったフリして。カナメとキョーコと、ユカとシオリにアタックよ。『ホント、助かりましたー。ニッポンの女のコ、みんな親切ですー』ってな。うははは」

 こそこそとけまわすなどしように合わなかったので、どうどうとお友達になったというのだ。

『……ったく、このバカ、なんとかしてよ』

 ASで、例のトレーラーに帰ってきたマオが、せんのむこうで言った。

「しっかし、みんなカワイイなぁ! だん、だれかさんみてえなクソアマしか見てねえもんだからよ、ちょっとしたオアシスだったぜ」

「クルツ。みつえい任務だぞ。しんぼくを深めてどうする?」

「ああ? おまえバカか? 親しくなって、すぐそばにいた方が、監視も護衛もやりやすいに決まってるじゃねえか」

「情が移れば、それだけはんだんが曇る。冷静なかんさつりよくをたもつには──」

「理屈で戦いができるか。ヤバい空気ってのはな、頭じゃねえ、はだで感じるんだよ」

「しかし……」

「違うか?」

 宗介には答えられなかった。応とも否とも言えない。それになんだか、ろんてんびみようにすりえられているような気がした。

「いまひとつなつとくがいかん……」

 あんがおの宗介を見て、クルツはにやにやとしながら、

「いろいろ聞いたぜ。おまえのコトも話してた。『そうそう、最近、ちょーヘンな転校生が入ってきたの! ね、カナちゃん』とかなんとか」

 宗介は耳をひくつかせた。

「……なんと言っていた?」

「ふふん。聞きてえか?」

「別に……いや。任務だ、聞いておこう」

「ダメだね。『聞かせてください、サー』と言え」

「…………」

「うそうそ。そんなこわい顔すんなよ。……お」

 クルツががらりと真顔になって、監視モニターのひとつに飛びついた。宗介がだまっていたのは別に怒ったからではなく、その画面内のへんに気付いていたからだ。

「二一二一時、バルコニー側にしんしやさつに入る」

 宗介はレコーダーにろくおんし、立ち上がった。

 モニターの映像は、かなめのマンションをバルコニー側から映したものだった。向かいのビルの屋上に、かくしカメラをせつしておいたのだ。

 画面の左端、上下にびたはいすいパイプを伝って、男がかべをよじ登っていた。全身をくろしようぞくでかため、頭には毛糸のふくめんをかぶっている。

「まさか……たんどくで?」

 九ミリけんじゆうにサイレンサーをねじこみながら、宗介が言った。

「わからねえぞ。近くに仲間がいるかもな。周辺の車をチェックしねえと」

 あんスコープとそげきじゆうを取り出して、クルツが言った。せんからは、

『ウより各位へ。とりあえず、あの男を押さえるよ。ルズはマンションの向かいのビルへ。カメラの位置』

「ウルズ6りようかい

 クルツは宗介のバックアップに回り、狙撃ポジションにつくはずだ。

が直接押さえて。あたしはちゆうしやじようけいかいにあたる』

「わかった。一二〇秒くれ」

 宗介はけんすいこうようのザイルと一式をかつぐと、部屋を飛び出した。

 二分後には、宗介はかなめのマンションの屋上に着く。

 手すりにザイルを固定すると、手早くらだに巻きつける。下をのぞくと、三階から四階へと登る人影が見えた。FM無線のレシーバーからクルツの声。

ルズより各位。こっちはポジションについたぜ。付近にそれらしい人影は見えない。本当に単独かもしれねえな』

けいかいをおこたるな。特にうし

『だれに向かって言ってんだ、タコ』

 そこで、M9のマオから連絡。

。彼女はいま、バスルームでにゆうよくちゆう。ちょうどいいから、出てくる前にそうしちゃって』

「ウルズ7了解」

『殺しちゃよ』

「わかっている」

 宗介は屋上から身を投げ出した。ザイルのかすかなさつおん以外は、まったく音をたてない。二回ほど壁をり、たちまち『敵』の頭上まで降りていく。

 しんにゆうしやは気付きもせず、手すりを乗り越え、バルコニーへと侵入したところだった。

 降下速度をゆるめ、一度大きく壁を蹴る。ように身をひねり、バルコニーにいた男の背後に、空中からせまり──

「動くな」

「っ!?」

 組みつき、相手の後頭部にじゆうこうを押しつけた。

さまの負けだ。声は出すな」

 男はふるえながら、首を上下に振った。

「それでいい。命は大切にすることだ」

 宗介は相手をバルコニーのゆかにうつぶせにさせた。そのまま背中に馬乗りになると、だんなくボディ・チェックをする。武器とおぼしきものは見当たらない。代わりに、尻のポケットにさいが入っていた。取り出し、中をあらためる。

「…………?」

 財布の中には学生証が入っていた。

じんだい高校 二年四組一〇番 風間信二〉

 それは宗介の通っている高校のものだった。しかも、同じクラスだ。

ルズよりへ』

「なんだ」

『ソースケ……。そいつがにぎってるモノをよく見てみろ』

 男は両手に、小さな布きれをいくつか握っていた。

「む。これは……」

『パンティだよ。ああ、うるわしき純白! 交信終わり』

 向かいのビルに目をやると、くらやみの中でクルツが『付きあいきれっか!』とでもいわんばかりに手をり、狙撃銃を片付けているのが見えた。

『……ったく、カンベンしてよ』

 マオのぼやき声。むこうの駐車場では、かすかな大気のゆらめきが遠ざかっていく。ECSを作動中のM9が、そうかくのうのトレーラーに帰っていく姿だった。

「どういうことだ?」

 てんのいかない宗介は、男のふくめんを外した。ほそおもてどうがんの、おとなしそうな少年だった。彼は恐怖でそうはくになり、ただ首を振るばかりだった。

「しゃべってもいいぞ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 少年は泣きさけんだ。

「静かにしゃべれ……!」

 宗介はけつそうを変え、銃口を押しつけた。少年は声をひそめ、

「ごめんなさい。タイホはしないで」

「俺はけいさつではない。しかし、事情は説明してもらおう」

「タイホしないの?」

「しない。安心しろ」

 宗介は身を引くと、少年を起き上がらせた。

「あ、ありがとう。君は……うちのクラスの相良くんじゃないか」

「人違いだ」

「ええ? でも……」

「人違いだ」

 拳銃のげきてつを起こす。

「そ、そうだね。でも、どうして?」

「俺のことはどうでもいい。おまえ──風間とかいったな。ここでなにをしている」

 風間信二は、なまがわきの下着類を見せて、

「見ての通り、下着ドロだよ。君も?」

「ちがう。ぐうぜん通りかかっただけだ」

「……あ、そう」

 首をひねりつつも、信二ははんろんしなかった。

「彼女のるいぬすんで、どうするつもりだ」

「別に……僕が欲しかったわけじゃないんだ。ただ、村野たちが……」

「ムラノ?」

 風間信二は事情を話した。

 どの学校にも不良グループのようなものはある。信二はその連中に命じられ、こうして下着を盗みにきたというのだ。なんでも信二は写真部で、一年間かけてり集めた写真のネガを取り上げられているらしかった。

おどされているのか」

「……っていうほど悪いやつじゃないんだけどね。僕に『どきようを見せてみろ』と。どりかなめっていったら、ジンコーの『恋人にしたくないアイドル』ナンバー・ワンだから」

 おそらく、その不良生徒はかなめにくつせつした好意を寄せているのだろう。だからこんな子供じみたいやがらせを思いつく。なんとも間抜けな話だった。

「……事情はおおよそわかったが、本人にめいわくだろう」

 自分がさんざんかけている迷惑は忘れている。

「そりゃあ、そうだとは思うけどね。でも、ネガは返してほしいし」

「なんの写真だ」

「アーム・スレイブだよ。ざいにちべいぐんえいたいのやつ」

「ほう?」

 宗介はおもわず身を乗り出していた。

「日本中のたずね回って、いろいろ撮ったんだ。苦労したよ。……相良くん、そういうの好きなんだったよね?」

「いや、別に、好きというわけでは……」

「沖縄にはいされてる、海兵隊のM6も撮ったよ」

 M6とは、九〇年代初頭にじつせんはいされたASのことだった。わんがんせんそうでもかつやくし、ニュース映像に顔を出していたため、かくてきポピュラーなしゆである。

「なに。するとA2型か?」

「うん。よく知ってるね。リアクテイブ・アーマー付きのシールドを持ってた」

「そうか。動きはどうなのだ、実際」

「基地の人と話したけど、バランスがイマイチなんだって。あれのそうじゆうシステムって、ロックウェル社のMSO─11だろ? フィードバックのアーキテクチャーにゼイ肉が多いんだよ。だからバイラテラル角が三・五をえると、けいたいの重さに振り回されちゃうんだ。せんたんじゆうりようとのトルクバランスが、もうガチャガチャで……」

 えらくマニアックな単語のれつに、宗介はいちいちうなずいた。

「なるほど。そうかもしれん」

「せいぜいせか、自殺かくとつげきようだね。さいしんえいのM9の配備はずっと先だし。あと、ボフォースの四〇ミリ・ライフルなんだけどね──」

 いつのまにか、二人はその場にあぐらをかいていた。

 まったく、風間信二の軍事知識ときたら、プロの宗介でも舌を巻くほどだった。なまじきやつかんてきな立場にいるためか、ひじようにユニークで個性的なけんかいを持っている。下着ドロの問題などそっちのけで、オタク話に花を咲かせてしまった。

「君の知識には感心したな。とても民間人とは思えん」

「いやあ、僕なんかまだまだだよ。相良くんもずいぶんいじゃないか」

「いや、俺などは……」

 オタク同士の情けない友情がえかけた、そのさき。バルコニーのサッシが、からからと開いた。

「お……」

 バスタオル一枚だけをまとったかなめが、そこに立っていた。はじめて二人に気付いたらしく、その場でこうちよくしている。形のいい胸の谷間と、タオルの縁からのびるゆるやかなきやくせんれそぼった黒髪が、白い肩にまとわりついていた。

「……なにやってんの?」

 かなめはバスタオルの合わせ目をきつく握り、二人にたずねた。

「……ふむ」

 宗介はそこではじめて、自分が下着の一枚を、意味もなく片手でもてあそんでいたことに気付いた。それでも彼は、な顔で、

「千鳥。偶然だな」

 かなめは金属バットを取りに、部屋の奥に引き返した。


「すげえアザだな……」

 あいぼうの腕に湿しつを張りながら、クルツは言った。

「本気でなぐりかかってきた。カザマを逃がそうとしたら、彼は下の植え込みに落ちてしまった」

「四階から?」

「そうだ。桜の木に突っ込んで、その後に地面へ」

「殺す気かよ、おい……」

「俺も危なかった。なんとか逃げおおせたが。護衛の対象に殺されたと知ったら、少佐がどんな顔をしたか……」

「んー。でも、なんとなく想像できるな」

 一度ため息をついて、ひんの届け先を書類に記入したあと、次の仕事に移ることだろう。アンドレイ・カリーニン少佐は、だれが、どこで、どんな死に方をしてもおどろかない人物だった。

「彼女には、今度こそ完全にきらわれてしまったようだ」

「そりゃ、無理もねえよ」

 すこしたって、M9のマオが連絡を入れてきた。

『ふたりとも。いま、〈デ・ダナン〉と通信してたんだけど』

れいか?」

『そう。にんはおしまいだって。敵がカナメをゆうかいする理由が消えたから』

「どういうことだ?」

『彼女をねらってる連中のアジトをね、ぶっこわしてやったそうよ。データやらなにやらもそろって。だから、ひとまず安心ってわけ』

 細かい事情はわからなかったが、問題のこんげんったらしい。

「では、いまからかんか」

『うんにゃ。一週間休みをやるってさ。次の任務はそれからだって』

「マジ? やったー!」

 クルツがもろげて喜んだ。一方の宗介はふくざつな表情で、

「俺はあさってから修学旅行の予定だった。四泊五日で」

『「楽しんでこい」だって』

「少佐が?」

『うん。旅行代は出してやったんだから、元は取れってさ。命令だそうよ』

「しかし……」

「行ってこいよ、ソースケ。カナメはもうおそわれないってわかったんだ。肩の力を抜いて、フツーの高校生活を楽しんだらどうだ?」

 クルツの言葉に、宗介はしばらく考え込み、

「いいだろう。これもきちような経験だ」



四月二八日 〇九一五時(日本標準時)

東京 羽田空港 とうじようしやひかえしつ



『楽しんでこい』とは言われたものの、次の日からの宗介は、どうにもが足りなかった。任務からかいほうされた彼は、与えられた自由をもてあましていたのだ。

 かなめにはかんぺきに嫌われたようだった。目があっても、あいさつさえしてくれない。そっぽをむいて、きようこやほかの友達と去っていく。

「まあ、無理もないよね」

 空港のベンチに腰かけて、風間信二は悲しげに言った。

「ベランダでパンティいじってだんしようしてたら、だれだって怒るよ」

 あの一件以来、信二はなにかにつけて宗介に話しかけるようになっていた。きみようきようはんいしきと、オタク仲間のしんきんかんが生まれたのだろう。

 陣代高校の二年生はいま、空港の控室でおきなわ行きの飛行機への搭乗を待っているところだった。すでに二組はどうを終え、三組の生徒がわらわらとゲートをくぐっている。宗介やかなめは四組だった。

さがくん、もう元気出しなよ」

「ああ」

 さっさと〈トゥアハー・デ・ダナン〉に帰りたい気分だった。次の任務にそなえることで、いくらでも気がまぎれるだろう。

 修学旅行にいくなどと、どうしてりようしようしてしまったのやら……。

「はい、じゃあ四組の人! 搭乗券を持って移動してーっ!」

 たんにんかぐざかきようゆさけんだ。

「ほら、相良くん。飛行機に移れってさ」

「ああ」

 ホールのガラスしに、ジャンボ機のしゆが見えた。


 そのスチュワーデスは、修学旅行客をゆうどうし終えてほっとした。

 沖縄行きのこの便には、陣代高校の生徒のほか、八〇名ほどの一般客もどうじようする。そうした一般客は、修学旅行客のやかましさに苦情を言ってくるかもしれない。席は離してあるものの、それだって気休めていだ。

 これからの数時間をそうぞうすると、朝からの頭痛がひどくなってきた。

「もしもし?」

 搭乗口から機内に入ってきた客に声をかけられ、スチュワーデスはわれに返った。

「私の席はどこですかな?」

 その客は搭乗券を差し出していた。

「……もうわけございませんでした。ご案内いたします」

 プロしきから、彼女はやわらかいほほみをごういんに作ってみせた。

「大変ですねえ。ああいう高校生がわんさか乗ってると、気をつかうでしょう?」

「いえ、それほどでは」

「私だったらえられませんな。高度八〇〇〇メートルから、全員放り出してしまうかもしれない」

「は……?」

みなごろしです。そうすれば静かになる。かいてきな空の旅ができるでしょう。ねえ?」

「お客さま……」

じようだんですよ。……ああ、あそこですな」

 客は笑い、自分の席に向かった。いやな笑い方をする男だと、スチュワーデスは思った。



四月二八日 〇九五八時(日本標準時)

東京上空 JAL九〇三便



 ジャンボ機は羽田をりくし、じゆん調ちように空をけのぼっていった。

 はじめて飛行機に乗る恭子は、まどわくにへばりついて目をかがやかせた。天気は良く、雲もないため、がんには東京のしきがいっぱいに広がっている。

「うわー! ねえねえ、あれ、レインボー・ブリッジかな? すっごーい!」

「そーね」

「……カナちゃん、聞いてる?」

「うん」

「あ、自由の女神だ!」

「へえー」

「エッフェルとうだ!」

「ホントだ」

 かなめもやはり、覇気がない。恭子は彼女をつついて、

「ねー、どうしたの? 昨日からずっとヘンだよ? なんかあったの?」

「うーん……。別にィ」

 どちらかというと、けんに近かった。

 先週、とちゆうで降りたあの駅で、ちょっとだけ身の上を聞いてやったら、あのまつである。やはり相良宗介は、ネクラでオタのへんたいストーカーろうだったのだ。

 信じたあたしがバカだった。そう思うと、どうにもブルーな気分になる。

「相良くんのこと?」

 恭子がいきなりかくしんを突く。

「な、ナニをいきなり。んなわけないでしょ? う、うはははは」

 例の『おしまい』サインだったが、恭子は話をやめようとはしなかった。

「やっぱり。日曜日は『がいといいやつかも』なんて言ってたのに、次の日からはずっとだもんね。彼になんかされたの?」

「別に……」

「ねえ、カナちゃん。もし……もしも人に相談できないようなコトされたんだったら……あたしにだけは話してくれない?」

「はあ?」

 恭子はかなめの手をとった。

「ちゃんと病院にもいかないと。あたしが付きってあげるから」

「ちょっ……」

「あいつにもつぐないをさせなきゃ。こういう問題にくわしいべんさんも、ちゃんといるんだって。だいじょぶだよ、女の人だから」

「なんの話よ、そりゃ!?」

 そこで機体が大きくれた。左に大きく、次に右へ。

「きゃっ……」

 恭子が小さなめいをあげた。

「だいじょーぶよ。これくらいなら……」

 かなめは投げやりな調子で言った。じつさい、機体の揺れはそれきりだった。

「でもヘンね。こんな天気がいいのに……」

 前の席の生徒たちが、ざわついていた。かなめは不審に思い、前列の友人のかたたたく。

「どしたの?」

「わかんない。なんか、揺れる前にパンクするみたいな音がしたって……」

「パンク?」

 機内の放送が入った。男の声で、きちようらしかった。

『お客様にお知らせいたします。ただいまの揺れは、せつきんちゆうていあつげんいんです。しんへんこうで、今後もじやつかんの揺れがあるかもしれませんが、どうかご安心ください』

 それだけだった。

「ヘンね」

 かなめはポツリと言った。恭子はけげんそうに、

「どおして?」

「だってつう、ああいうときって『ごりようしようください』って言わない? 『ご安心ください』なんかじゃなくて」

 彼女は正しかった。

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