王子様、わたしにキスを

伊東ミヤコ

王子様、わたしにキスを

第1話 理由なんてないのです



「では、今日の授業は、これで……草野?」


 毎週、月曜日のこの時間の授業終了後。


「草野! 席を立つのは、あいさつをしてから……」


 チャイムの音と同時に、わたしは教室を飛び出す。


「すみません、急いでるんです」


 先生の声を背に、次の時間の教科書とノート、筆記用具を抱えて、全速力で一直線に走る。目指すは、廊下の向こう端のA組。そう、わたし、草野 あおいが愛する、水沢くんのいる教室へ……! そして。


「はあ……」


 教室の前で、思わず、うっとりと感嘆のため息を漏らしてしまう。今日も見つけました、水沢くん。水沢くんも、次の移動の準備をしているところですね。あの高貴な姿、王子様にしか見えません。


 薄すぎず、濃すぎもしない、奇跡のような端正な顔立ちでしょ? 何等身あるのか謎な、小さな頭と高い背に。そして、いつもサラッサラで、綺麗な黒い髪と……。


「ん?」


 そこで、わたしの横で待機している女の子たちと目が合った。挑戦的な目。今日は、負けない。わたしも全身の力を込めて、女の子たちをにらみ返す。


「…………!」


 水沢くんが、ゆっくりと立ち上がった。それを合図に、わたしたちは、一斉に水沢くんの席を目指す。


 そのためだけに、A組の教室を使う、大嫌いな世界史を選択したんだもん。教室内にポツポツと残ってる、A組の人の間をくぐり抜けて……あ、今日はいけるかも。


「もらった!」


 いち早く、水沢くんの席に着いた。今日の勝者は、わたし。


「何してんの? ちょっと」


「うふふ」


 水沢くんがすでにいないことを確認して、覆いかぶさるように机を抱く。


「やめてよ、気持ち悪い」


「草野、変態」


 哀れな負け犬たちは、わたしを罵っているようですが。


「いい匂い……」


 柑橘系だ。レモンのような、オレンジのような、自然に匂い立つ、この感じは香水じゃない。おそらく、水沢くんが現在愛用してるシャンプーか、ボディー・ソープの。


「この女、危険」


「こんなのに好かれて、いい迷惑だよね。水沢くん、可哀想」


「いいんだもん。ああ、幸せ」


 ひがんでいる女の子たちをあしらいながら、もう一度深く息を吸い込む。ちょっと、情けないけどね。実物の水沢くんとは、口をきいたことすら、一度もないっていうのが。





 水沢くんは、わたしの王子様です。


 名前からして、完璧。水沢 ゆうくんといいます。水のように爽やかで、優しそうな完璧男子なのです。


 でも、あいさつもしたことないのに、なんで好きになったって? 簡単です。人を好きになるのに、理由なんてないのです。水沢くんだから、好きなんです。雰囲気だけじゃなく、実際に何でもできちゃう人なのとか、関係なく。


 ————— しかし、それはそうと。


「う」


 今、目の前で返却された自分の世界史のテストの点数を見て、ガク然とする。まさかの最低得点を更新して、4点とは。いくら何でも、これはひどい。こんなものを水沢くんに見られた日には……。


 とりあえず、答案を机の中に押し込んで、見なかったことにしましょう。そして、誓います。わたし、草野葵は、少しでも水沢くんに近づけるよう、これからはしっかりと努力していきます。





「もうね、めちゃめちゃ、いい匂いだったの」


 自分の教室に戻って、中学も一緒だった、なっちゃんに報告。


「そんなんだから、変態って言われるんだよ」


「ご心配には及びません」


 なっちゃんのあきれた表情にも、めげない。


「水沢くんの匂いを嗅げるんだったら、べつに変態でも……」


 と、そのとき。


「バカか? おまえは」


「達也……!」


 横から割り込んできた、このガサツな男子。


「王子のこと、追いかけ回しすぎだろ? みっともないヤツ」


「達也に言われたくありません。それに、水沢くんのこと、王子なんて俗っぽい呼び方しないで」


 水沢くんは、わたしだけの王子様なのに。


「たしかにね。達也は、口を出す立場じゃないよ」


 なっちゃんも、それには賛同してくれた。


「あんた、葵のこと、一度ふってるんだから」


「そうだよ。今になってみると、達也のどこがよかったのか、全くわからないけど」


 やっぱり、同じ中学だった達也と絡んでるうち、好きになっちゃって告白。それで、あっさり断られたのは中三のときだから、二年ほど前のこと。もちろん、水沢くんの存在を知る前の話なのです。


「もっと早く、水沢くんに出会えてたらなあ。達也を好きになるなんて過ち、犯さないですんだのに」


 黒歴史もいいところです。


「あ? なんか、ムカつく」


「な、何? 達也なんか、恐くな……」


 殺気を感じて、逃げようとしたときだった。


「おい、草野」


 クラスの男子の、わたしを呼ぶ声。


「ん? 何? 何?」


 助かった。達也をすり抜けて、呼ばれた方に近づくと。


「水沢が呼んでるぞ。おまえのこと」


「はい?」


 用件を聞いて、体が固まった。ミズサワ……?


「わたしに、そんな名前の知り合いは……」


 あの水沢くんくらいしか、知りませんが。


「何言ってるんだよ? 王子だよ、王子。おまえがよく騒いでる」


「え…… !?」


 自分の耳が信じられなかったけれど、反射的に全速力で廊下に出てみたら。


「草野さん?」


 現実に、水沢くん本人が、わたしの目の前に。


「は、は、はい」


 しかも、わたしの名前を。


「ごめん。呼び出したりして」


「いえ、あの、その……」


 知りませんでした。水沢くんの声、間近で聞くと、こんなに涼やかで素敵だったんですね。


「ここだと、ちょっと人目につきすぎるか」


「ひ、人目!」


 水沢くんが、人目を気にするようなことを、このわたしに……? それより、横を向いた首のラインまで、なんて美しいのでしょうか? もはや、人目につくというより、人目という人目を全て集めている、水沢くん。


「やっぱり、ちょっと来てもらっていいかな」


 無言で首をブンブン振り、何度もうなずいて、水沢くんの後をついていく。どこまでも、ついていきますとも。緊張のあまり、そんなバカみたいなフレーズを、頭の中で繰り返しながら。





「これが、僕の机の中に入ってたんだ」


「はい?」


 なんとなく、行き着いた先の裏庭。嫌な予感が、脳裏をかすめた。


「草野さんのだよね?」


 水沢くんの綺麗な手で、差し出されたものは。


「ひ……!」


 思ったとおり、わたしの世界史の答案……4点の。


「用件は、それだけだったんだ。じゃあ」


 去り際に、こんなわたしに向ける笑顔さえも優しくて、逆に、いたたまれなくなってしまう。


「あ、あの……!」


「ん?」


「わたし……」


 どうしよう? 恥ずかしくて、泣きそう。


「わたしって、本当に頭の出来が悪くて」


 水沢くんなんて、いつも学年でいちばんで、心の中では笑われているに決まってるのに。


「水沢くんとは、大違いでしょ?」


 それなのに、呼び止めたりなんかしちゃって、わたしは何よけいなことを……。


「それは、違うと思うよ」


「え……?」


 自虐的な笑顔を浮かべるのをやめて、背の高い水沢くんを見上げた。


「や、違わないですよ」


 これ以上、水沢くんを面倒がらせて、どうしようっていうんだろう? でも、なんだか、おさまりがつかなくなっちゃって。


「だって、水沢くんは取ったことないでしょ? 4点なんて」


「それは、ないけど」


 真面目な顔で、水沢くんが答える。


「でしょ? だから」


 もう、わたしという人間は、最悪です。どうして、憧れの水沢くんに、こんな絡み方を……。


「その分、僕の方が努力してるからだと思う。それだけのことだよ」


「努力……」


 水沢くんは、えらそうでもないし、だからといって、わたしに同情しているみたいにも見えない。ごく自然に、ただ自分の思ったことを口にしているようにしか。


「わかりました。じゃあ、わたしも頑張って、今度は5点を目指してみようと思います」


「目標にするなら、もう少し高く設定してみてもいいんじゃないかな。せっかくだから」


 待ってください。これはまずいと、もう一人のわたしが、しきりに訴えています。


「なら、30点くらいで」


「そうだね」


 そう言いながら、優しく。そして、人懐ひとなつっこく笑う水沢くんが、まぶしいのです。


「あの」


「うん。何?」


 わたしの目を、ちゃんとまっすぐに見てくれる、水沢くん。


「今度、学校の中で会ったら……あいさつとか、してもいいでしょうか」


 告白するのと同じくらい、勇気を出してしまった。


「してもいい、なんて。普通に声をかけてくれたら、うれしいよ」


「わ……」


 今までのわたしが水沢くんを見て、アイドルみたいに騒いでいたのは、無意識のうちに、わかっていたから。本気になったら、大変だって。


「あ……ありがとう。さっきの答案も」


 やっとの思いで、お礼を伝えると。


「全然」


 水沢くんは振り返って、極上の笑顔を見せてくれたのでした。



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