異世界のフォークロア

花刈ひの

序章

こわいはなし

「あら、僕はもう10才だからお化けなんて信じてないと、この間仰っていませんでしたか?」

 ドアを開けた寝巻姿のメイドは、ろうそくを携えた夜の来訪者を見るなり意地悪な笑みを浮かべた。

「うるさい。いいから付いて来いっ」

 その顔に気を悪くした未来の屋敷の主は横暴に言い放ち、メイドの手を掴んだ。

 言葉は強くとも、不安げに下がった眉と拗ねた様に尖った唇は威厳の欠片もなく、彼より4つ年上のメイドは思わずふふっと笑い声を漏らしてしまう。

「言っておくけど、お化けなんて信じてないし怖くもないからな! ただ、暗い屋敷で出歩くのは危険だからであって――」

「はいはい。この私が坊ちゃんに何かあったらお守りしますからねー」

「そのにやけ顔やめろって!」

 貴族の子息とメイドという関係ではあるが、小さな時から同じ屋敷で育った二人はまるで姉弟のように気安い仲だ。

 真夜中の静かな廊下に二人の靴音が響く。

 屋敷の一階、一番端にその部屋はあった。鏡と水桶が置かれた前室に入ると、少年は振り返る。

「お前はここで待ってろ」

「はーい」

 彼がさらに扉の向こうへ行ってしまうと、唯一の明かりであったろうそくの光がなくなり、前室は暗闇に閉ざされる。

 さすがに恐怖がじわりと湧き出して、メイドは自分も明かりを持ってくれば良かったと後悔した。

「あっ、そうそう! トイレ、臭わないでしょう? 庭師が今日の昼掃除したばかりだそうですよ」

 怖さに耐えかねて、メイドは世間話を扉の向こうに投げかける。

「うるさい、気が散る」

 しかし、彼の方はぶっきらぼうに話しを切って、それ以上おしゃべりには付き合ってくれないようだ。

「もう……せっかくついてきてあげたんだから、少しくらい優しくしてくれてもいいのに」

 彼女は肺の空気を全て吐き出すような大きなため息をついた。

 トイレの穴は地下数十メートル下まで掘られているため、落ちないようにと彼が神経をとがらせていることをメイドは知るよしもない。

 そうしているうちに目が慣れてきて、うすぼんやりとした月明かりによって水桶の輪郭が分かるようになる。

 そして鏡に映る、自分の不安げな顔も。

 ぎ、と蝶番の軋む音と共に、オレンジ色の光が戻ってきた。

「じゃあさっさと戻るぞ」

「もう大丈夫ですか? 全部出ました? 夜中に何度もは私も嫌ですよ?」

「大丈夫だっ!」

 ほっとした拍子に思わず軽口をたたくと、彼はムキになって大声を出す。

「なら良かったです、じゃあ戻りましょう~」

「あっ、待てって!」

 彼は慌てて水桶で手を洗い、廊下へと歩き出したメイドに制止の声を掛けた。


「こら、先に行くな!」

「ひゃん!」

真後ろまで追いつき文句を言った途端、メイドは悲鳴を上げて立ち止まった。

「ちょっと、私の背中で手を拭くのやめてくださいよ。びっくりするし濡れるじゃないですか!」

「は? 手なんか拭いてないぞ」

 怒った顔で振り向くメイドに、少年は眉根を寄せる。

「いやぁ、だって今、ひやっと……あれ?」

 メイドは手を後ろに回し、自分のネグリジェの背中を触る。しかし、服は一滴の水も吸っていない。

「おかしいなぁ、今確かに背中が冷たく……」

「おい、またそうやって僕を怖がらせようとしてるんじゃないだろうな?」

 何度かこのような流れで驚かされた経験のある少年は、メイドに疑いの目を向ける。

「いやいや、本当なんですって!」

「はぁ、隙間風にでも吹かれたんじゃないのか?」

 しきりに首を傾げるメイドを追い抜かす。

「ほら、いつまでもこんなところで無駄話をしていたら、母様を起こしてしまう。早く戻るぞ」

「……おや? おやおや?」

「な、なんだよ……」

「もしかして、ちょっと怖くなっちゃいました?」

「なってない!」

 にやけ顔のメイドに後ろからからかわれながら、早足で自室へと向かった。



 翌朝、目覚めた少年は窓から庭を見下ろした。静かな朝だ。

 このあたり一帯は加護が強いとされ、低級な魔物一匹入ってこない安全な土地である。

 領民も警戒することなく外に出て日々の仕事に従事でき、それゆえに豊かな生活を送っていた。

「……あれ?」

 少年はふと違和感を覚える。

 そんないつも通りの平和な景色に、今日は人がいないのだ。

 いつもならば庭師がすでに仕事を始めている時間。いくらと平和とはいえ、門番も1人は常に立っているはず。

 妙な胸騒ぎがして、着替えもせず部屋の外に出ようとした瞬間。


――バンッ!


「わっ!?」

 扉の外で爆発音がした。こんな音はこれまでに勇者祭の祝砲でしか聞いたことがない。

 祝砲と違うのは、破裂音の後にびしゃっ! となにか水のようなものが飛び散る音が重ねて聞こえてきたことだ。

 突然のことに、心臓がどくんどくんと早鐘を打つ。

 一体扉の向こうで何が起きている?

 震える手で扉に手を伸ばす。

 冷たい金属のハンドルを掴む。


「きゃぁあああああ!!」

「……っ!?」

 扉の向こうで今度は悲鳴が上がり、驚いて思わずドアから手を離した。

 悲鳴はメイドの声だとすぐに理解した。

「エリシア! なにが起きてる!?」

「坊ちゃん、開けちゃダメ――!」

 メイドの制止を聞き終わるより先に、彼は扉を開け放っていた。

 ――赤。

 白い廊下の壁が、赤やピンクに染まっている。

 まるでペンキの入った巨大な水風船が割れたように、少年の部屋の前を中心に、どろりとした生臭い液体がぶちまけられていた。

「は? なんだ、これ」

 床には、大量の液体とそれに混じって千切れた黒い布切れ。割れたカップ。白髪混じりの頭皮。

「マーヴィンさん……?」

 メイドは顔面蒼白で呟いた。それは毎朝温かい飲み物と今日の予定を持ってくる執事の名前だ。

「マーヴィンがどうしたんだ? なんで――」

 彼女がなぜその名を呼んだのか分からず狼狽しながら、赤とピンクの水たまりに視線を落とすと、白髪交じりの頭皮が再び視界に飛び込んできた。

 そして、それが執事だったものだという答えが脳裏を霞めるが、少年の理性はそれを必死で否定しようとする。

「いや、何を言ってるんだエリシア。これはきっと魔物だよ。こんな気味の悪いもの、マーヴィンのはずがな、ないだろ」

 言いながら意思と反して体が震え、奥歯がガチガチと鳴りだした。

 そうだ、ドロドロした不定形の魔物、例えばスライムの亜種なのかもしれない。それが、どうにかして屋敷に入り込んだのだ。だから門番もこの魔物を探して持ち場を離れていたんだ。

 少年は思考する。朝から起きている異変を無理やりにつなぎ合わせ、都合の良い理屈を作り上げようと、現実逃避する。


――バンッ! バンッ!


「ひっ……」

 少し離れたところで、また爆発音が今度は2回続けて鳴り響いた。

 メイドは恐怖に表情を引きつらせ、少年の腕に縋り付く。

「なんだ、なんなんだ……?」

 階下からメイド長の叫び声が聞こえ、はっと目を見開いた。

「父様、母様……!!」

 この時間、少年の両親は仲睦まじく朝食を共にしている時間だ。

「お待ちくださいっ、行かないで!」

「エリシア、お前はここにいろっ」

「坊ちゃん……!」

 メイドの腕を振りほどき、階下へと走った。

 階段を駆け下りると絶叫と異音がことさら大きくなり、全身の毛が逆立つのを感じたが、それを無視して大広間に飛び込む。

「ぎゃ」

 人が空中に浮いていた。

 魔法で浮かんでいるのではないとすぐに分かった。首が異様に伸び、次の瞬間にめぎ、と音を立て折れ曲がったからだ。だらんと、全身の力が抜け落ちたその人は、館の主人――少年の父親だった。

 使用人たちの絶叫に少年の絶叫が重なる。

 広間はあの赤とピンクの液体で濡れ染められ、血生臭さが充満していた。

 その悪夢のような光景に、少年は叫びながら急速に恐怖が褪せていくのを感じた。

 現実味を失っている。許容できない現実に心が麻痺し始めている。

 冷静にもなれず、ただ世界が遠のいていく感覚に陥りながら、使用人たちが次々と見えない何かに捕らえられ、破壊される様を――そして人体が突如風船のように膨らんで破裂する様を、呆然と瞳に映していた。

「坊ちゃん!」

 ぐい、と強く腕を引かれ見上げると、目に涙をためたメイドがいた。

「早くっ」

 手を引かれるまま、大広間を離れ廊下を走った。

 さっきの狂騒が嘘のように廊下は静まり返っている。

 ただ、少年の髪から垂れる飛び散った血液が、あの光景が夢ではないと囁いていた。

「ここに。外はもうダメです」

 そう言いながら、メイドは食料貯蔵室に少年を押し込み自分も入った。

 貯蔵室は半地下になっており、ひんやりと冷たい。

「はぁ、はぁ……ここなら、しばらくの間は見つからないはず……」

 息を切らしたメイドは、へたり込むようにその場にうずくまった。

 少年も足に力が入らなくなり彼女の隣にしゃがみ込む。

「ここに隠れて助けを待ちましょう。はぁ、はぁ……逃げのびた誰かが助けを呼んでくれてるかもしれませんし」

「エリシア、あれは一体なんなんだ?」

「私にも分かんないですよ、あんなの……聞いたことない。見えない魔物なんて」

 魔物の種類は数多くあれど、姿が見えない魔物は存在しない。

 存在するとすれば、それは物語の中だけだ。勇者の時代の凶悪な魔物……魔獣とでも呼んだ方がいい伝説や逸話の中の化け物たち。

 あるいは子供を戒めるためのお化けの話。いい子にしないと、怖いお化けに連れていかれるよ、と言い含めるための子供だましの怪異。

「じゃ、じゃあ……魔法とか?」

 なんとか説明をつけようとする少年にメイドは力なく首を横に振った。

「私、ほんの少しだけ魔法の心得がありますけど、魔法の気配はありませんでした。こんなことができる強い魔法なら、すぐに分かるはず……はぁ……ふぅ……」

「エリシア……? 苦しいのか?」

 呼吸の乱れが収まっていない。暗くてよく見えないが表情も険しく、手が熱を帯びて汗で濡れていた。

「はぁ、いえ、大丈夫……私、ちょっとお水をとってきますから、少しだけ待っててくださいね」

 彼女は少年ににっこりと微笑みかけると、覚束ない足取りで立ち上がった。

「エリシア、無理しないで。水なら僕がとってくるから」

「ふふっ……坊ちゃんは、やっぱり変わらないですね。ちょっと最近生意気だなーって思ってましたけど、本当は優しくて」

「な、なんだよそれ」

「ふぅ……とにかく、坊ちゃんこそ足が震えて立てないでしょ? 私の心配はいいから、深呼吸でもして待ってて下さいね」

 いつもの軽口を叩きながら、彼女は部屋の外へ出て行った。

「エリシアだって、こんな時でも変わらないじゃ――」


 バンッ!

 びちゃっ。


 至近距離で破裂音。水音。


「…………」


 沈黙。



 少年が貯蔵室の外に出たとき、屋敷の人間は誰もいなかった。

 それどころか村人ですら誰一人生きていなかった。

 空腹を感じ、広間のテーブルに置かれていた果物をかじっていると、通りかかった冒険者に発見された。

 

 無人の村から唯一保護された貴族の少年に、冒険者、役人、軍人、医者……いろんな大人たちが入れ替わり立ち代わり村の状況を訊ねた。

 しかし少年は一つの証言を繰り返すのみだったという。

「みんなお化けに殺された」


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