白魚舟を漕ぐ
6月 東京 「浮舟之生」
氷見清之介は、
東京都、渋谷区某所、商店街の片隅に構えた貸出用のスタジオ。
最寄駅は、小田急の代々木上原で、通りにはマンションや雑居ビルが立ち並ぶ。築年数は数十年程度か、上原駅の北側を東に抜ける街路に面したビルだ。道路との間に、低い段差があり、正方形の細かい漆黒のタイルが敷き詰めてある。店内は、土間の三和土のような、コンクリートの打ちっぱなしだった。正面のガラス戸から、雑居ビルの連なる通りがよく見える。
個展ではなく、同級生に倣った展示即売会を予定する。
三月下旬に、専門学校の同期が、下北沢でポップアップの店舗を構えた。
借店舗、臨時の出店先は、開業直後の複合レンタル施設だった。今回、氷見が借りたのも、運営元が同じ多目的施設で、各階がマルチスタジオとして活用できる。展示即売会は、二日間の日程のため、前日の午後から搬入と設営を進めているというわけだ。
さらに、同階には、宿泊用の客室も併設されていた。
拠点の金沢でも、マイクロホテルの併設店舗を画廊として借りている。
正面に並ぶ、黒漆喰のような質感の板戸が面影を重ねる。上半分がガラス、下半分は黒板らしく、塗装のムラが画廊の漆喰壁を連想させた。反面、スタジオの内装は白を基調としており、無垢材と思しい木製の調度品で揃えてある。稼働棚で部屋を仕切り、横長のフロアに平台がわりのテーブルを置く。備品の家具類は、特別にセレクトされたものばかりらしい。
許可を受け、展示用にラックとトルソだけを持ち込んだ。
氷見は、氷見淸之介の名で、金沢を拠点に活動する古着物のリメイク作家だ。
翌日から開催する、展示即売会に向け設営を終えたところだった。利用費を回収するため、個展が即売会を兼ねることも多い。昨年、京都の画廊で開催した個展も、譲渡の売約を前提として衣装を展示した。今回の即売会では、試作品などのデッドストックを並べる。
設営には、氷見の交際相手である浮舟が尽力してくれた。
私服姿の浮舟が、提出済みのレイアウト図を片手に配置を確認する。
今日の服装は、紺色のニットポロとデニムのスラックス。生地の色が、高明度の灰色寄りだからか、黒革の吊りベルトとの組み合わせが綺麗だ。足元には、メッシュ地の動きやすそうな運動靴。左手首には、革のベルトを黒色で揃えたミニマルな腕時計を巻いている。
黒髪は中央分け、手櫛感を活かしたラフなヘアセットだ。
「備品リスト、必要なものは配置したと思いますけど」
「うん、確認してくれてありがとう。家具類の撤去は有料だから、できる限りフロアに置いておきたくて。椅子も卓もあるし、多少の待ち時間が出てもいいかな。試着は羽織物だけだし、備品の姿見があれば十分だと思う。本当に、白魚くんがいて助かったよ」
氷見が労うと、浮舟は「滅相もないです」とはにかんだ。
頬骨の目立つ顔は、贅肉のない顎から長い首筋へと繋がっている。
爬虫類めいた、瞼の薄い目元とすらりとした鼻筋。頬骨は男らしいが、素肌は瑕疵も見当たらないほど滑らかだった。雪膚や氷肌、白皙を示す言葉がよく似合う。緩めた眦と、睫毛に刷いた濃紺のマスカラが艶っぽい。細眉を下げて、困り顔のようにうっすらと笑んでいた。
「でも、搬入出の時間、ほんまに間に合ってよかったです」
「そうだね。この後、
そう応じた直後、浮舟が肩を強張らせる仕草が目に留まる。
浮舟は奈良出身だが、高校時代の先輩が東京の企業に勤めている。その先輩が、同性の同僚と婚約後、記念品として氷見の作品を買い求めた。先輩である、紀智慧とは、下北沢のポップアップストアで対面していた。紀から頼み込まれ、氷見は二着分の衣装の制作を引き受けた。
結局、浮舟とともに、対面のうえ手渡しで納品することになったのだ。
その間、悩んだ浮舟から、音沙汰がなくなったのは悔しかった。
最近は、氷見にもこまめに近況を報告してくれる。浮舟自身も、連絡を絶ったことを自省しているようだ。とはいえ、浮舟の仕事は、主に執筆業のため原稿の締め切りに左右されがちだ。直近では、単発の寄稿や同人誌の校正、WEBマガジンの記事を依頼されていた。
もっとも、副業の被写体モデルはめっきり断るようになっていた。
「この度は、ほんまにありがとうございました」
「他人行儀なこと言わないでよ。俺だって、打算くらいあるって」
肩を竦めて、冗談まじりに頭を振ってみせる。先月、京都で会ってから、三週間ぶりの再会だとしても慇懃過ぎるだろう。氷見だって、純然たる厚意で依頼を受けたわけじゃない。紀智慧が、浮舟の先輩と聞き、交際相手の顔を立てるために請け負った。
暗愚な話だが、氷見が「浮舟白魚の彼氏」だと示す示威行為だ。
前日の準備なのに、紀智慧と会うからとめかし込んでいた。綿地らしい、独特な張りのある網代柄の和布で誂えたジャケット。網代柄は、黒地に金糸で柄を織り込んだ洒落た生地だ。上着に対して、敢えて白のトップスと黒無地のスラックスを選んでおいた。
黒革のベルトと、黒色のスリッポンで印象を引き締める。
地毛の黒髪は、相変わらずのまとめ髪だ。真鍮製のバレッタで留めてある。
思い返せば、浮舟との初対面も、自作の衣装を着込んでいたはずだ。あの時は、仕事の範疇と捉えた宣伝を兼ねての服装だった。それが、浮舟の前だから、交際相手の初恋の男と会うからと人並みに見栄を張るようになっていた。自分も、所詮は男なのだなと思ったものだ。
氷見の返答に、浮舟がすこし目線を泳がせてから口を開く。
「そういえば、東京でのイベントは久しぶりですよね」
「ああ、去年は関西中心で、今年も三月に金沢で開催したきりだったか。正直に言うと東京での催事は控えてたんだ。でも、去年、思ったより名前が売れたでしょう。昔の知り合いに、東京でもどうかって誘われたし。なにより自宅の在庫を整理しないといけなくて」
「そやったんですか。在庫の整理て、何や理由があるんですか?」
転居の予定があってね、となにげない口調で答えてしまう。
不穏な沈黙に、氷見は自分の韜晦癖を思い出した。別に、浮舟に隠していたわけではない。金沢の自宅兼工房は、現地の空き家を二年更新で借りた借家だ。もともと、契約更改の期限が迫っていた。だが、借家の所有者が、事前に契約更新の拒否を申し出たのだった。
在住する関東から、地元の金沢に戻りたいとのことらしい。
氷見は、四月に連絡を受け、所有者の提案を受け入れることにした。そして、年内を目途として、金沢市内で新たな転居先を探し始めた。所有者とは、できる限り円満な関係を維持してきたつもりだ。毎年、お歳暮を贈り、金沢の物産などにお礼の手紙も添えていた。
もちろん、すぐに退去しろ、などという無茶な要求はされていない。
地元で晩年を、との希望を尊重したかっただけだ。
「いや、転居なんて言うと大袈裟なんだけど。もともと、二年更新の借家だったし、金沢市内で引っ越すつもりだったんだ。それに、できれば年内中にって話だから。今すぐにどうこうするわけじゃないし。本当にね、他県に移住するみたいな話でもないんだよ」
事情を要約して、驚かせてごめんと謝罪を付け足した。
安堵したのか、浮舟が先程と同じ関西訛りの相槌を打つ。穏やかな声の調子で、もう転居先は決まっているのかと尋ねてきた。まだ未定だと伝えると、黒髪の房を節の目立つ指で貝殻みたいな耳に掛けながら頷く。その仕草が、動揺した際の手癖らしいと気づいた。
本当なら、三週間前に話しておくべきだったのかもしれない。
京都のホテルで、氷見は浮舟の話ばかりを聞きたがった。名前の通り、白魚のように掴みどころのない飄々とした態度も多い。昨年、交際を始めたが、夜をともにしたのは三週間前が初めてだった。意外にも、潔癖で男慣れで擦れてすらいなかった。
あの時は、浮舟を繋ぎ留めておくのに必死だったのだろう。
浮舟は、氷見との縁を切る覚悟だった。お互いに、後ろめたい遠慮があった。
交際相手でも、腹を割ってすべてを明かすことは難しい。だが、氷見自身が、浮舟白魚という人間を信頼していた。確かに、彼なりの考えや、判断に至るまでの経緯を知りたいと思ったのだ。だからこそ、昔話にも幼稚な嫉妬を押し殺して耳を傾けた。
「ほんま、驚かせんといてくださいよ。なんや金沢を離れるつもりなんちゃうか、て思うやないですか。僕、金沢には、命綱があるって言いましたよね。氷見さんは、金沢なら孤立せえへんはずやって。皆さんに助けられてる。それは幸運やし、なにより幸福なことやって」
「だから別れる、っていう判断ならナシだよ」
別れるべき、との判断には、氷見に対する思慮も含まれていた。
浮舟には、同性愛者であることに負い目があるらしい。性的指向に基づく、ある種の偏見や慣習に対する嫌悪。例えば、青姦や輪姦、不特定多数の人間との性交渉の習慣化。氷見が異性愛者であれば、生真面目な浮舟の気後れはさらに強まるというわけだ。
氷見には、男同士の特別な問題とは思えなかった。
実際、氷見の実父は、離婚するまで風俗通いを辞めなかった。
「君との交際を、誰かに伝えるかどうかはともかく。俺の人間関係は、交際をやめる理由にはならないよ。この間も、そういう話をしたはずだけど。ともかく、引っ越しはすぐのことじゃないから。先回りして、白魚くんが心配しなくていいんだよ」
不満は漏らさず、観念したように視線を逸らされる。
横顔は、輪郭が崩れてしまいそうなほど脆くも見えた。頬骨や鼻筋、顎へと続くラインはほとんど作り物じみている。鋭い輪郭を、壊れ物と錯覚させる不健康な肌の白さ。橈骨も、指の関節も、華奢な手首さえ男性の骨格なのが怖いほどだ。
時折、不機嫌な浮舟は、生身の人間らしさまで失うことがある。
京都では、やはり黙っておいて正解だったようだ。当時も、氷見の歩み寄りにやっと心を開いてくれたのだ。勝手に用意した、誕生日のプレゼントすら躊躇いがちに遠慮された。迂闊に話せば、転居の経緯を邪推して気を揉んだに違いなかった。
先輩の婚約話で、誰よりも浮舟自身が懊悩していた時期だった。
その元凶、先輩である紀智慧は、設営後のスタジオに来所する予定だ。午後三時から設営を始めて、現在は三時間が経った六時過ぎだろう。施設の利用時間は、原則として午後八時までの規定だ。開催日程も、午後五時で即売会を終えるとすでに告知を打っていた。
紀智慧から、退勤後に向かうとも連絡を受けている。
話題を変えて、氷見は浮舟の手からレイアウト図を引き取った。
「まずは、現場の設営が無事に終わってよかったよ。明日の即売会で、試作品とかのデッドストックが売れれば御の字かな。その前に、紀さんに商品をお渡ししないとね。事前に話は詰めたけど、実物を気に入ってもらえるかどうかはやっぱり心配だから」
「気に入ると思いますよ。氷見さんの力作なんやから」
氷見が頷くと、浮舟がするりと魚のような動きで近寄る。
肩口で、低い男の声が響く。淡白な香水が、目鼻の先に匂い立った。
ほぼ同時、道路に面した扉をノックする音がした。振り返れば、板戸のガラスに、明るい髪色の小柄な男が切り抜かれている。奥二重の瞳は童顔寄りだが、どこか剽軽そうな雰囲気も持ち合わせる。栗色に近い、麻混の紳士服と派手な柄物の繻子のネクタイがよく似合う男だ。
紀智慧は、会釈をしてから、レンタルスタジオの扉を開けて姿を見せた。
「こんばんは。すみません、えらい遅くなってしまって」
「いえ、ご足労いただいて恐縮です。お仕事お疲れさまでした」
心ばかりですけど、とお洒落な紙袋を差し出される。
受付台の前、道路と水平に並べたテーブルと扉の間が玄関先のようだ。
氷見は、紀を出迎えながら礼を言った。浮舟も、やや間を置き、距離を詰めてから丁寧なお辞儀をする。慇懃無礼、というよりは浮舟らしい真摯さの滲む応対だろう。整った顔を上げ、紀の顔色を窺うと、氷見の背後に控えたままつられるように目礼する。
会えてよかったわ、と紀は人懐こそうな笑みを浮かべた。
「本当に、今回のことは、不躾ですまんかった。勝手に、俺から連絡絶っといて、口利き頼むなんてどうかしてるわ。そない都合のええ話、浮舟やなくても断られるに決まっとる。氷見さんから、お前が頼んでくれたことはちゃんと聞いた」
堪忍な、ありがとう、との言葉に浮舟が瞬きをした。
深々と腰を折り、無理を言って申し訳ありませんとも続ける。
氷見は、目端に浮舟を捉え、緩く首を横に振ると話を引き継いだ。紙袋を携えたまま、街路に面した応接用のブースに案内する。間接照明のスタンドと、天板がガラスの座卓や布張りの椅子が揃う。事前に用意した、婚約記念品の衣装を納めた紙袋も置いてあった。
実物の確認用に、二着のうちの片方はトルソに着せていた。
紀も、それに気づいたのだろう。「あ、これ、もしかして俺の」
首肯してから、トルソが羽織る上着を片手で示す。まるで、白打掛じみた丈長のガウンコートだ。古着物ではなく、着物を誂える前の反物から仕立てた。絹ではなく、木綿を用いた夏物の絽の生地だ。買い付ける際、和布や着尺の反物なども含まれていることがある。
今回は、幸運にも、白物の都合のいい生地が在庫にあった。
細幅のベルトも、同じ絽の端切れから誂えたものだ。紀の、やや小柄な体型に合わせ、既存の型紙から寸法を調整した受注生産品。普段はプレタポルテらしく、性別や体型ごとに用意した型紙で作品を仕上げる。原則、既製品として制作済みの作品を譲渡する方針だ。
特注品の受付は、余程の事情がなければ断ることにしていた。
昨年の五月に、浮舟が同様のガウンコートを着て写真を撮ったせいだ。
「ああ、やっぱりええですね。生地もこう、上品やけどしっかりした質感で。実物を見ると、想像以上に格好ええなと思います。実は、ガウンの写真で、浮舟がまだモデルしてるの知ったんです。あれ、ほんまに、垂れ衣というか羽衣というか」
見返り美人、なんてよう言うたもんですねと紀が笑う。
氷見の戦略で、浮舟に似合うと踏んだのがあのガウンだった。その目論見通り、写真はSNSでバズり、モデルを務めた浮舟と氷見の名前も揃って売れた。投稿した写真の構図から、「令和の見返り美人」とのフレーズまで吹聴されたほどだ。
おかげで、氷見の仕事も、通販よりも個展などをメインにできた。
「勘弁してくださいよ。垂れ衣や、美人やなんて恥ずかしい」
気づけば、紙コップを両手に持った浮舟が立っていた。苦言を呈しながら、紀と氷見にそれぞれコップを手渡してくれる。奥にある給湯室で、わざわざ飲み物を用意していたようだった。施設の借用部として、扉を隔てたバックヤードにはミニキッチンが附設されている。備品の冷蔵庫に、未開封の烏龍茶のペットボトルをしまっておいたのだ。
本当に気が利くな、と礼を言って受け取りながら思う。
二脚の椅子まで引かれ、立ち話もなんですからと着席させられた。
すると、紀が探るような視線を宙に滑らせる。氷見と、それから浮舟に、意味ありげな目顔を寄越して口籠る。頭髪の、甜茶色の髪先が、枯草のように頼りなくかすかに震えている。地毛だと生え際の色味を見て気づく。咳払いの後、どこか思い詰めた表情で口を開いた。
二人は付き合ってるんですよね、との言葉に驚く。
確かに、つい先程、浮舟が間近に顔を寄せるところを見られた。
「本当はな、今まで浮舟のこと避けてたんよ。嫌ってたとんと違うで。俺、お前の気持ちに気づいてた。たぶん、好きなんやろうなって。だから、男と付き合うてるて、後ろめたくて言われへんかった。ごめんな、ずっと黙ってたんは卑怯やったな」
紀は、選べなかったと漏らした。浮舟を、後輩としてしか見られなかったと。
無言の間に、浮舟はどうやら腹を括ったらしかった。許可を乞うように、伏目がちに透徹な澄んだ眼差しを向けてくる。氷見は頷いて、浮舟に会話を続けるよう目顔で促した。安堵したのか犀利な眦があどけなく緩む。途端に、学生らしい稚さが蘇るようだった。
意外にも、長身を丸め、紀の小脇にそっと侍るように片膝を立てた。
「紀先輩、この度はご婚約、おめでとうございます。紀さんが、信頼できる方に出会えてよかった。僕のことを、後輩として大事にしてくださって嬉しかったです。今までずっと、お気にかけてくださってありがとうございました。後輩として、心よりお祝いを申し上げます」
今は氷見さんと交際してます、と浮舟は小声で囁くように続けた。
紀智慧が、奥二重の瞼をやや大仰に瞬かせる。隙のある表情が、懐に転がりこむのがうまいタチなのだろうと思わせた。ふ、と口端から力を抜き、後輩の顔を親しげに覗き込んで笑んだ。浮舟の背筋は、金定規を当てたようにぴんと伸びて美しい。
二人の話は、それで十分らしかった。紀が、氷見にガウンの試着を申し出る。
備品の姿見の前で、実際にガウンコートを着用してもらい寸法を確認する。裾や袖口など、細部の仕立てには問題がない。紀の肩幅に合う、無垢な綿絽のコートは白打掛に相応しい。背面から、腰紐がわりのベルトを回せば、裾へと続く生地のラインがユニセックスで綺麗だ。
同じデザインで、婚約相手のガウンコートも誂えている。
相手の衣装は、後から自宅でサイズを確認してもらうつもりだった。
明後日まで、現場のスタジオにいることを伝えておく。二日間の宿泊先は、この施設に併設されたホテルだ。在廊期間中なら、寸法の微調整について相談に応じられる。浮舟も、明日は都内で用事があるが、最終日には氷見とともに売り子を務めることになっていた。
衣装を渡すと、紀をスタジオの軒先まで送り出す。
軒端には、気怠げな様子で、高校生らしい少年が立っていた。
間口の広い店舗で、左右の端に佇んでいると気がつかない。恐らく、街路に面した応接ブースとは反対の軒端にいたらしい。待ち合わせの時間でも潰しているのだろう。すでに、午後六時半を過ぎており、商店街の街並みが鼈甲色に溶けていくところだった。
暗んだ飴色は、細身の少年の姿を頑なに塗りこめていた。
またいらしてください、との挨拶を贈って紀を見送る。氷見が、浮舟とともに、紀の背中を眺めていると声を掛けられた。遠ざかる背から、呼びかけてきた少年のほうに目を移す。まだ成長途中なのか、日陰で育つ白独活のようなほっそりとした印象を受ける。
「突然すみません。あの、氷見淸之介さんですよね」
「そうですけど。即売会なら、明日からの開催予定でして」
それは存じてます、と少年はさらりと受け流して氷見を見つめる。
黒髪は軽めのセットで、塩顔らしい氷見と似通った顔の造形だ。慇懃な、とっつきづらい年頃の男子。服装も、薄手のフードつきの上着に、薄青いボタンダウンシャツとフレアデニム。喉仏の突起に被る、襟元が詰まったシャツは隙のない優等生めいていた。
「そちらの方は、被写体モデルの浮舟白魚さんですか」
不審な確認事項に、思わず眉根を寄せると少年が小さく笑う。最近になり、下火になったとはいえ、浮舟のことを詮索するファンもいる。今では、被写体としての仕事を控えているからなおさらだ。悪質なファンか、と身構えながら浮舟のほうに視線を滑らせた。
だから、氷見も「他人事」だと油断してしまったのだ。
まさか浮舟ではなく、氷見清之介自身が目当てだとは思わなかった。何の面識もない、見知らぬ少年との接点など推測しようがない。少年は不意打ちのように、「はじめまして。柳瀬
「父親は、画家の氷見清志郎。俺は、あなたの、氷見さんの異母弟です」
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