和歌

海月^2

何時かの彼

 肌寒くなってきた頃のことだった。珍しく早朝に起きられたことは良いものの、瞼の裏に浮かぶ普段通りに柔らかく振る舞う彼の像が消えてくれない。それに背を伝った冷や汗に驚きながらも、消えないものは仕方がないのでベッドから起き上がることにした。久しぶりに思い出す彼の姿に懐かしさが込み上げてくる。彼は私の青春の象徴であった。私は三年間彼に恋をして、大学に上がり会わなくなってからも一年と少しだけ引き摺っていた。我ながら女々しさの塊の気もするが、それほどに好きで良い人だったのだ。モテていた訳ではないと思う。ただ、男子人気は高かった。

 とにかく、好きだったのだ。けれどそれも過去の話であり、最近では思い出すことも減っていた。それは何とも切ないことだ。どれだけ好きだったとしても、いつか瘡蓋も綺麗になくなり残滓だけを残して消えていってしまうのなら。誰かを好きになることなど無意味に思えてくる。けれど、あの頃の私はそれはもう精一杯に恋をしていた。だから、難しく考えなくて良いのだ。夢だけでも久しぶりに会えて良かった。そう思えば良い。

 早朝の肌寒さと、空の赤さが混ざり合って哀愁を運んでくる。夢の中で別れを告げられたのは、卒業式の再生だろうか。彼にフラレた何年も前のことを、私は記憶の底で大事に保管していたらしい。それほどまでに景色も、声も、匂いも、温度も、全てが鮮明だった。

 昔は吸えなかった煙草を吸って噎せる。時代に逆行するように、私には煙草がカッコよく見えた。多分それは友達付き合いで彼が吸っていたからだ。少し噎せながら、それでも皆んなと笑う彼が記憶の中で輝いている。臭いことを言うなら、彼は私のヒーローだった。

 ふと、涙が浮かんできた。彼にフラレたことを思い出したからではない。先日、メッセージで彼の訃報が流れてきたからだ。私の青春は死んだらしい。こんなにも自堕落な生活で死に顔を向ける私よりも、彼は先に死んでしまった。不慮の事故だったと聞いた。私にそれを伝えた友人は肩を震わせていて、未だに交流を持っていたらしいことを悟った。

 涙を拭わずに窓を開けて煙を外に流した。人通りのない目の前の道が彼へ繋がる道に見えた。過去に戻れる気がした。でも、彼がいれば無敵だと思っていただけで、そんな無敵な私は居ないのだ。無敵の根源すら、大人になるにつれてなくしてしまったのだ。

「さよーなら。もう夢は見ないよ。見れないよ」

 短くなった煙草の火を窓枠に押し付けた。そうして窓にまた一つ根性焼きが増える。とっ散らかった部屋は私の心のように汚れて傷付いていた。

 もう二度と見れない夢ならば、もう少しだけ見ていても良かったのかもしれない。私の首を絞めるただ一本の蜘蛛の糸は、彼の存在だったから。

 俯けば涙が零れて視界が一瞬壊れた。



おもひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

ー小野小町

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