イノーガニックたびゅーど

紫苑

第1話 人形


 あるところに、ひとりの少年がおりました。 

 背丈は小柄で、少し痩せ気味なのか華奢(きゃしゃ)という言葉が良く似合いそうな背格好(せかっこう)でした。

 年齢は十代中頃ぐらいに見えます。

 小さめのショルダーバックを背負い、薄手のカーディガンにタートルネック、スキニータイプのスラックスを履いていました。

 

 少年の目の前には、段数を数えると気が遠くなるほどに長い階段があります。

 少年はゴールとなる頂上を見上げると、瞬きを一つして階段を上り始めました。

 見た目に反して体力があるようで、ひょいひょいと数段飛ばしで軽快な足取りです。

 息切れもなく長い階段を登りきると、そこには予想以上の広さの境内(けいだい)が広がっておりました。

 境内の入口――階段の終点の先には赤い大きな鳥居があり、少年は一礼すると鳥居の端を通って境内の中へと入っていきます。

 少し歩くと、立派な本殿が見えてきました。両脇には一対の狛狐(こまぎつね)が鎮座しておられます。

 どうやら稲荷信仰の神社のようです。


 ぱんぱんっ。

 少年はお賽銭入れに硬貨を投げ入れると、二礼して柏手(かしわで)を二回打ちました。

 少しの間、手を合わせたまま目を閉じて拝んでいました。


 その時です。

 彼のゆるくウェーブした濃紺色の髪がふわっと風に靡(なび)きました。

 本殿の方から少年の方へと風が吹き抜けたようでした。

 風で長めの前髪が靡いたことにより、少年の顔がよく見えます。

 日に焼けていない肌は陶器のように白く、筋の通った鼻に、伏せられた大きめの目、細めの眉。優しげで、少し丸顔。

 十代中頃という幼さもあってか、実年齢の同性よりも中性的で可愛らしくも見えます。

 整っているに分類される顔つきは注目を集めそうですが、普段は長い前髪がそれを覆い隠しているようでした。 


 少年は数秒間拝むと、ゆっくりと瞼を持ち上げました。

 暗い色の髪の隙間から明るいグレーの瞳が本殿を捉えます。

 少年は一礼すると、やがて本殿から離れていきました。


 少年が去った本殿の背後にある木々がざわざわと音を立てて揺れました。



「あれ?」



 少年が再び長い階段を下り終えて、右手に曲がって一本奥の通りに差し掛かった時でした。

 踏みしめた地面の感触が変わったことに気づいた少年が、足元に視線を落とすと、

 そこにあったのは今までのアスファルトではなく、大きな石が無造作に散らばる石畳でした。

 おかしいな、と少年は目を瞬かせました。

 今まで何回何百回何千回と通り歩き慣れたはずの道ですが、石畳の道は記憶にありません。

 それどころか自分の普段歩く行動範囲の道に、石畳で舗装された道を見たことがありませんでした。

 無意識に、いつもは通らない路地に入り込んでしまったのでしょうか。

 とすれば、どこの路地に入り込んでしまったのでしょう。 


 少年は顔を上げて辺りを見渡します。そして息を呑みました。



「……、」



 顔を上げた先にあったのは石畳で出来た道、そしてその両脇にはレンガ造りの建物が綺麗に並んでいました。

 その風景は、ここが日本だとは到底思えません。まるでヨーロッパのようでした。


 少年は思わず頬をつねりましたが、手には頬の柔らかい感触、頬にはつねられた痛みがあります。

 目を擦っても目の前の風景は消えません。

 頬の痛みに、反対の頬を風が撫でる感触、踏みしめている石畳の感触は、紛れもなく夢ではないようでした。


 少年は混乱しましたが、取り乱す前に見えた一軒の建物に目が釘付けになりました。



「アン、ティー……骨董、屋……?」



 壁にぶら下がっている木の看板には、アンティークショップつまり骨董屋と書かれています。

 他にも書かれているようでしたが、少年に読めたのはそのローマ字の綴りだけでした。


 少年は惹かれるようにふらふらと骨董屋に近づき、やがて入口の扉に手をかけました。

 ギィっと古い扉が開くような音がして、ゆっくりとレンガ造りの店にしてはやたら豪奢(ごうしゃ)なその扉が開きます。

 薄暗い店内はよく見えませんが、奥につれて所狭(ところせま)しといろいろなものが置いてあるように見えました。


 一歩店内に足を踏み入れれば、つま先に何かが当たりました。

 入ってすぐ左手のところには、木で作られた子供用のおもちゃ――木馬が前後にゆらゆら揺れており、

 どうやらこのおもちゃに足が当たってしまったようでした。


 少年は後ろ手で扉を閉めると、店内をゆっくりと歩いて回りました。

 木製のテーブルに様々な形の燭台(しょくだい)、色あせた蝋燭(ろうそく)に色あせたテーブルクロス、様々な大きさの花瓶、

 古びた銀のお皿に、スプーン、フォーク、ナイフ……はたまた白銀の甲冑まで何でもありました。

 そこには中世のヨーロッパぐらいの頃から最近まで使われていたであろう商品が、年代関係なくずらーっと並んでいます。

 なんとなく古いな、日本には無いものだなと感じるぐらいで特別詳しくない少年には、どれが古くて新しいものなのかは解りませんでしたが、

 書物の中でしか見たことのないものが、実際に目の前に並んでいるということだけは理解できました。

 そしてそのどれもが、うっすらと白い埃を被っていました。



「凄い……」



 身近にはない、資料としては知っているだけだったものが実際に目の前にあって少年のテンションが緩やかに上がります。

 少年はまるで誘われるように奥へ奥へと足を運びました。


 途中には、どこかおどろおどろしい割れた仮面や死神が持ってそうな大きな鎌が壁に飾ってあったり、

 昔話でしか見たことのない大きな糸車が針剥き出しの状態で奥の方に置いてあるのが見えたりと、

 万が一のことがあったらと思うと、危険で少しひやりとするものや不気味なものがあったりもしましたが、

 そんなものよりも少年の目を奪ったのは、一つの大きめの人形(ドール)でした。


 その子がいたのは、入口からは死角になっていた場所にあった階段を上った先にある部屋の中です。

 今までいた部屋がキレイとはお世辞にも言えませんでしたが、この部屋はより一層酷い有様(ありさま)でした。

 長年、人が訪れていなかったのか中に入った瞬間に埃が舞い、少年は小さくクシャミをしました。目も開けていられず涙が自然と溢れます。

 そんな濡れる眼(まなこ)が捉えたのは、静かな微笑みを称える美しい貴婦人(ドール)でした。


 絹のように滑らかな印象を受ける黒色の長髪に、深い赤もしくは深い紫のような色のドレスを身に纏(まと)い、

 ドレスの中央には大きめの赤い宝石が輝いています。

 お顔は美しい陶器のように白くなめらかで透明感があり、ふっくらとした頬は薄く薔薇色に色づいていて軟らかそうで、

 宝石のようなガラス製の赤い瞳と、赤く紅を引きぽってりとしている唇が妖艶な雰囲気を醸し出しています。

 まるでそこに生きている美少女がいるかと錯覚するような人形が、豪華で真っ赤なソファーにちょこんと座っていました。



「わぁ、」



 この世のものとは思えない程に整いすぎている西洋風の顔立ちゆえに、その子が人形だとはひと目で分かるのですが、

 あまりに完成度の高い人形に、少年は思わず声を上げました。



「ビスク……ドール…………ビスクドール?」



 人形の座るソファーの前に木の板があり、そこにはビスクドールと書かれていました。

 ビスクドールとは、19世紀にヨーロッパのブルジョア階級の貴婦人や令嬢たちの間で流行した人形のことです。

 100年が経過した現在ではアンティーク・ドールという呼ばれ方でも親しまれているそうですが、

 人形に特別詳しくない少年は、ビスクドールと書かれていてもそれがどんな人形なのかはよくわかりませんでした。

 かろうじてヨーロッパの着せ替え人形かな、と思っただけです。


 少年が首を傾げた時に、視界の端に別の人形がちらりと見えたような気がしました。

 辺りを見渡せば、そこには一体だけではなく、かなりの数の人形がずらーっといっぱいありました。

 黒髪の彼女(ドール)を中心に、たくさんの人形たちが飾られてあります。



「っ……、」



 それに気づいた瞬間、少年は身の毛がよだつ思いでした。

 それもそのはずです、多くの人形の目と視線が交わったのですから。


 多くは西洋人形のようでしたが、それだけでもさまざまな時代、さまざまな種類の古い人形(アンティーク・ドール)達がいました。

 先ほどの黒髪の美少女の種類にあたるビスクドールだけでも、いくつか種類があるようです。

 初期の貴族の貴婦人へ流行のファッションを伝えるための観賞用人形であるファッションドール、

 子どもの姿を模した着せ替え人形であるべべドール、

 べべドールと同じ時期ぐらいに作られた、大人のブロポーションをもち服の宣伝用に用いられたレディドール等……。

 他にも、中にはいろんな種類のヌイグルミなんかもありました。


 しかし他の子は少年にとって目の前の 黒髪の彼女(ドール) のような目を引く子達ではなかったようです。

 一通り見回ってはきましたが、最後には再び 黒髪の彼女(ドール) のもとへと戻ってきました。

 そして日が落ちかけるまで魅入ってしまっていました。

 薄暗い部屋は少し日が沈んだだけでも、より一層暗くなります。

 少年は部屋の暗さで長時間、自分が人形の前にいたことに気づいて慌てて骨董屋を出ました。


 外に出ると、夕暮れになろうとしているぐらいの時間帯で、まだまだ外は明るいようでした。 

 しかしあれほどまでに魅入っていたのに店の中にもう一度入ろうとは、なぜか思えず少年は帰路に着くことにしました。


 石畳の道を今度は行きとは逆に歩いて見知った場所まで抜けようと、少年は歩みを進み始めます。

 どこで道が変わるのだろうと意識していましたが、気がついたら見知った場所へと出ていました。

 いつの間に曲がったのかも、どこを曲がったのかも記憶にありません。

 気がついたら、石畳の場所に行く前に寄った神社の通りにいました。



「……なんだったんだろう」



 少年は不思議そうに背後を振り返りますが、その道もまた見知った道でした。

 あの場所はなんだったのでしょう。

 稲荷神社の通りに戻ってきたので、もしかして狐につままれたのでしょうか。まさか、そんな……。

 そうふと思いましたが、そんな考えを振り払うかのように少年は頭を振ります。



「最後にもう一度だけ、あの子を見たいなぁ……」



 もう二度とあの場所に行けることはないんだろうな。

 少年は目に焼き付いたあの美しい彼女(ドール)に二度と会えないこと実感すると、最後にもうひと目だけでも見たい気持ちになりました。

 それ程までに彼にとって、美しく素敵な人形だったのです。


 それからというもの、何をしていても彼女(ドール)のことが頭をよぎります。

 彼女(ドール)のことを忘れられず悶々としたまま、数日が経ちました。



「あれ……」



 もう一度あの美しい人形を一目みたい、そんなことをずっと思っていたからでしょうか。

 少年は気が付くと、再びあの骨董屋にいました。


 ここまでやって来た記憶すら今回はありません。

 日課になっている神社にいつもの通りお参りして、それから……。

 そこから記憶が途切れていました。


 目の前には、あの美しい黒髪の人形(ビスクドール)。


 前回に見た姿のまま、何も変わっていません。

 相変わらず妖艶な程に美しい彼女(ドール)が、豪華で真っ赤なソファーに座っています。


 ここに来た記憶がないのに、行き方もわからない路地にあるとある骨董屋で美しい黒髪の人形(ビスクドール)を見に来ている。

 言葉にして理解するとホラーでしかないこの状況でしたが、自然と恐怖はありませんでした。

 まるで夢の中を彷徨っている感覚でした。

 行き方がわからない場所というのは、もしかしたら存在しない場所だからなのかもしれません。

 夢だから存在しない場所に行けて、そんな場所にある――存在するかもわからない年代を感じる骨董屋に、この世のものとは思えない程に美しい人形がある。

 怪しくも美しい風景を眺めている気分になる、感動しているのだ。これはいい夢だ、そう夢を見ているだけ。そんな感覚なのです。

 現実で体験しているとは頭では理解しているのに、理解できないことだから理解したくないのか。現実逃避なのかもしれません。

 不思議だと思うだけで、怖さや危機感が全く湧いて来ないのだから、本当に悪いことではないのかも。


 そんな風に思うのも、不思議な骨董屋には毎日迷い込むわけではなく、決まって日課の神社を参拝し終わった後、

 少年が彼女(ドール)に会いたいと強く願った時にだけ、

 いつの間にかまたあの裏路地に迷い込み、彼女(ドール)に会うことができるからなのでしょう。

 自分が強く願うという行為が、夢のような感覚を助長させていたのかもしれません。


 そんなことを何回か繰り返した、ある日のことです。



 ――ねえ、会いに来て。私に会いに来て。



 少年が日課の神社参拝を終え、今日は寄り道せずに帰ろうとしていた時のこと。

 どこからか可愛らしい声が聞こえてきました。

 辺りを見渡しましたが、少年の近くには誰もいません。

 神社の長い階段を降り終えた直後だった少年の近くの道路には車が数台走っていましたが、可愛らしい声は少年の近くで聞こえました。

 例えるなら少年に話しかけるように――隣ぐらいの距離にいて会話するような声量でした。

 しかしいくら探しても、それらしき人はいないのです。


 少年は首を傾げます。

 もしかしたら気のせいかと思いましたが、声は再び聞こえました。

 今度は先ほどよりも近く、囁くような声量でした。



 ――お兄ちゃん。会いたいよ。



 可愛らしい声は、小さな子供が甘えるように囁きます。

 少年はびっくりして囁かれた方の耳を反射的に手で塞ぎましたが、

 心のどこかで、この声はあの美しい黒髪の人形(ビスクドール)ではないかと思いました。

 なぜだかはわかりませんが、漠然とそう思ったのです。


 そして同時に会いに行かなくちゃ、とも思いました。

 最近は忙しくて彼女(ドール)に会いたいと思う暇さえなく、そういえば何日もあの場所に行っていなかったのです。

 それに気づくと、今日は早めに帰ろうと思っていたのに唐突に彼女(ドール)に会いたくなりました。

 次々に会いたいという気持ちが溢れ出し、止まらなくなりました。



 ――お兄ちゃん。



 可愛らしい声が少年を呼ぶ声が聞こえ、

 次の瞬間には、少年は彼女(ドール)の前にいました。



「あれ、何で……さっきまで神社の、あっ……」



 少年は急に場所が変わったことに心底驚いた様子でしたが、

 美しい黒髪の人形(ビスクドール)を見つけると、次の瞬間そんなことはどうにでもよくなりました。

 美しい彼女(ドール)に目が離せなくなり、彼女(ドール)のことしか考えられなくなったようでした。

 やがて少年はぺたんとその場に座り込むと、彼女(ドール)を見つめたまま微動だにしなくなりました。



 ――うふふ。



 彼女(ドール)が妖艶に笑います。

 いえ、実際には笑い声が聞こえただけで陶器で出来た顔は微動だにしていませんでしたが、少年には笑っているように見えたのです。

 赤い紅が引かれたぽってりとしている唇が、いつも以上に目を惹きます。



 ――ねえ、お兄ちゃん……私、外の世界に行きたいの。



 彼女は自分の声が少年に届いており、かつ少年がそれを理解していると確信するといなや目を合わせてそう願いました。


 これまでに少年は彼女(ドール)に会いに来ては、ぽつりぽつりと自分の話を聞かせていました。

 最初は何もせず、ただぼぉっと彼女(ドール)を眺めているだけでしたが、

 ある日、生きている者が自分以外は誰もいない空間ということもあり、どうしても抱えきれなくなった愚痴をぽろりと呟いたところ、

 目の前の彼女(ドール)に聞いてもらっている気分になったのです。

 それからというもの、少年は彼女に会うたびに外の世界の話――独り言を聞かせたのでした。

 彼女がこの骨董屋に長くいることは埃の状態からわかっていました。

 だから知らない外の世界に興味があるのではないかと、楽しんでもらいたい一心で話していたのです。


 だからきっと彼女(ドール)はそんなことを言い出したのでしょう、外へと行ってみたくなったのでしょう。

 完全に少年――僕のせいです。


 彼女(ドール)の願いを聞いて少年も思うところがあったのでしょう。

 自分が外の話をしてしまったから、知ってしまったから、彼女(ドール)がそんなことを言い出したのだと自覚があったようです。



「僕でよければ――」



 だから少年は返事をしてしまいました。

 僕と一緒に外に出よう、と続けようと思った言葉は。



 ――ダメじゃ!!!!



 少年でも彼女(ドール)でもない声――第三者の声に遮られました。

 今まで一切感じなかった嫌な感じがしました。

 そして少年の世界は暗転し、まるで糸が切れた操り人形のようにその場に倒れ伏してしまいました。


 徐々に黒に侵食される視界の端で、少年は何かが自分に向かって手を伸ばしているのが見えたような気がしました。

 同時に、耳を劈くような、



 ――きゃはははは!!!



 甲高い笑い声が脳内に響き渡っていました。





 ◇◆◇◆





 少年が目を覚ましました。

 最後の記憶では倒れこんだような気がしたのですが、視界の状態から言ってどうやら座り込んでいるようでした。



「起きたのじゃな」



 どこからか声が聞こえました。聞き覚えのある声でした。

 しかし見渡してもあるのは人形と、……どこにも生きている人の姿はありません。



「?」



 疑問に思っていると、視界の下方で何かが動いたような気がしました。

 視線を向けると、少年の膝の上に何かが乗っています。



「狐」


「……ぅぐ」


「の、ヌイグルミ?」


「~~~っだぁああああ!」



 膝の上に乗っていたのは、リアルな狐のヌイグルミでした。

 毛艶が大変よく、丸まっていた後ろ姿だけ見れば本物かと見紛う出来栄えの……ヌイグルミです。

 似たようなのを手品師が、生きている動物に見せる手品をする時に使っているのを見たことがあるような気がします。

 つまり体長が肩乗りサイズなので、明らかに本物の狐ではないとわかったのでした。


 少年が声のするそれを、狐のヌイグルミだと言うと、

 膝の上でそれは顔を顰め、最後に嫌そうに声を荒らげました。動物型だというのに器用に頭をかかえています。



「お前のせいじゃぞ!! 何でワシがこんな目に……っ」

 


 そして少年の膝の上でキャンキャンと吠え始めました。

 狐なので表現の仕方が違うような気もしますが、見た目が子犬サイズなのでさほど間違ってはいないでしょう。


 狐のヌイグルミが少年に向かって怒りを顕にしますが、少年は困惑した様子でそれを眺めるだけでした。



「なーにを他人事のようにしておるのじゃ!

 元とは言えばお前が気をしっかり保っておらんかったから、っ……?」



 そんな少年に狐のヌイグルミは怒りをヒートアップさせますが、

 それを聞く少年の様子に疑問を持ったのか徐々にその熱は萎んでいきました。

 そしてジッと少年の目を見つめ、



「お前」


「……はい」


「……。……自分の名前を言えるか?」



 少し考える素振りを見せると、少年の名を尋ねました。

 少年は同じように考えた素振りをし、やがて口を開くと……そのまま何も言わず口を閉じました。

 それは知らない人に名前を聞かれたので答えるべきか悩んだ、と言った様子ではありませんでした。

 


「……、お前……わからないんじゃな?」



 名前を言おうとして、思い当たらなかったといった様子でした。

 狐のヌイグルミの言葉に、少年は困ったように眉を下げ、やがて小さく苦笑しました。



「すみません、なぜか記憶が曖昧で……。

 あの、君の口調で何かあったのかは分かるのですが……その、……私は何かしてしまった、んですよね?」



 ……大変失礼なのは承知なんですが、私たち……知り合いでしたか?


 そう言うと少年は、申し訳なさそうに、言いにくそうに狐のヌイグルミに尋ねました。

 名前だけでなく、どうやらなぜここ――骨董屋にいるのかもわからなくなっている様子です。

 そんな少年を見て、狐のヌイグルミは真剣な表情――比喩ではなく本当にそう見える、で少年に向き合いました。



「よいかの」


「はい」



 狐のヌイグルミの様子に、少年は背筋を伸ばしました。



「お前の名前は……イヅナ、イヅナじゃよ。

 してワシの名前は……そうじゃの、オサキとでも呼べばよい」


「オサキさん……」


「敬称はいらん。オサキでよい」


「……オサキ」


「うむ」



 オサキと名乗る狐のヌイグルミは、名前を呼ばれると一瞬固まったのちに深く頷きます。

 なぜかどこか嬉しそうに見えるオサキの様子に、少年――イヅナが不思議そうにすると、

 それに気づいたオサキは咳ばらいをし、話を続けました。



「お前はこの骨董屋に呼ばれ、そしてあの人形に魅入られたのじゃ」


「人形……、赤い、ドレスに黒髪の……?」


「! 覚えておるのか?!」



 人形、という単語にイヅナは何か思い当たるような表情をし、見事彼女(ドール)の特徴を言い当てました。

 どうやら彼女(ドール)のことは記憶にしっかりと刻まれていたようです。



「あの人形の名前は、ミシェル」



 オサキは一瞬どこかへと姿を消すと、すぐに何かを咥えて戻ってきました。

 イヅナの前に咥えていたものを置くと、彼女(ドール)の名前を教えました。

 咥えていたものは木の板でした。そしてその板には、横文字でMichele――ミシェルと書かれています。

 ミシェル以外にも文字は続いているようにみえますが、なにぶん筆記体で書かれており、達筆すぎて英語表記に慣れていないイヅルには読めませんでした。

 ミシェルという文字はそう言われれば読める気がするので読めるだけです。



「……ミシェル。彼女に名前あったんですね」



 彼女の特徴などは事細かに覚えているのに、そういえば名前があったことを知らなかったイヅルは驚きの表情で名前が書かれている板を見つめていました。

 人形に名前がついているとはそもそも思ってもいなかった様子で、探そうとも思ったことすらないようでした。


 そんなイヅナの様子に、オサキは顔を顰めました。

 盲点だったと少し悔しそうでもあります。



「あるに決まっておる、あれだけの力を持っとったんじゃ。名前持ちに決まっておるじゃろ」



 どうやらお前に知られたくなくて隠しておったようじゃがな。

 そういうとオサキは、ふんっと鼻を鳴らしました。気に食わない、といった様子です。



「……、……力?」



 イヅナはそんなオサキの様子に、なぜそんな顔をするのかわからないようでした。

 それよりも力があったという言葉に引っかかったようで、聞き返しました。



「なんじゃあ……? お前、自分が呪いをかけられたことに、もしや気づいていないんか?!」


「呪い、……?」


「……、嘘じゃろ……。お前はあの人形に呪いをかけられ、人形になったんじゃぞ!?」


「……、」



 驚きの表情でイヅナを見たオサキは、悲痛な表情でそう吠えました。


 しかしイヅナは「はぁ、そうですか……」と特に思うことはないと言った様子で自分の体を確認し始めます。

 確かにオサキの言うとおり、体の部位がツギハギのように部分によって分かれ、関節部には球体が埋め込まれておりました。

 いわゆる球体関節人形です。

 しかしそんな自分の体を見てもイヅナは特に驚いた様子もなく、淡々と自分の体をあちこち触りながら観察しています。



「……メンテナンスが大変そうですね」


「……っ、そこじゃないじゃろ!?」



 イヅナの他人事のような感想に、オサキは思わずツッコミをいれてしまいました。

 しかしイヅナは、なぜそんなにオサキが慌てているのかがわからないと言った様子で見つめていました。



「お前は人間だったんじゃぞ!? それなのに呪われて人形にされてしまったんじゃぞ、理解しておるのか?!」


「そう、だったんですね……?

 では私が人形になったということは、彼女は人間になったということですか……」



 どうやら人間だった私は、彼女に外の話を一方的に聞かせてしまっていたようなので……人間になりたかったんですかね?


 そう妙に納得した様子で呟くイヅナは、どうやら彼女の記憶はしっかりと覚えているようです。

 逆を返せば彼女の記憶以外の全てを失ってしまっているようでした。

 人間だったときの記憶が全くないので、人形になったことによる悩みや苦しみなども特にないのです。

 どうやって生きていたのかも、家族構成も……生身で生きているからこそ解る幸福や苦痛などの全てのこと、その記憶がないのです。

 だから何を言われても経験が残っていないので言葉通り 他人事 でした。


 ……幸いだったのかもしれません。

 その記憶を持ったまま人形になり、それが感じられなくなったとして……人間は正気を保てるのでしょうか。

 温度も、味も、痛みも、何もかも感じない……知っていてそれで全てを感じない状態ではいずれ発狂するでしょう。

 だから、よかったのかもしれません。


 しかしそんな様子のイヅナに、以前から彼を知っているらしいオサキは開いた口が塞がらないようでした。

 何かイヅナに言おうとして、やがて何も言わずに口を閉じました。

 なんと声をかけていいのかわからなかったようです。



「その、人形になってしまったのはわかりました」



 そんなオサキの様子を見て、イヅナは考えるそぶりを見せると、おずおずといった様子でオサキに話しかけました。

 記憶がなくても自分のことを心配してくれているのは伝わったからです。

 自分のことを思いやってくれていることに嫌悪感を抱く理由が見当たらないので歩み寄ろうと思った結果でした。



「ですが記憶がないので、人形になったと言われても実感がなく……そもそも、私はどういう人間だったのですか?」


「……本当に記憶がないんじゃな」


「はい」


「っ」



 特に躊躇するわけでもなく淡々と返すイヅナに、オサキの方がショックを受けているように見えました。

 しかしイヅナのオサキを見る瞳がまっすぐで。

 本当に自分のことを知りたがっていた様子だったので、オサキはぽつりとぽつりと記憶に残るイヅナのことを話し始めます。



「お前は……っ、そんなに落ち着いた雰囲気じゃなく、もっと生意気じゃった……じゃが決して人を傷つけたりはせんかった。

 一人称は私じゃなく僕で、周りが俺を使い始めておったので練習しておったがしっくりこなかったのか定着せんかったみたいじゃの」


「なんだか……可愛いですね」


「っそうじゃ、お前は可愛いやつだったんじゃ……。

 からかわれれば顔を真っ赤にしていたし、それが嫌味を含んでおれば、その場では気丈に振舞っておっても後になって凹んでおった」



 暗にオサキは「そんなに落ち着いてもいなかったし、上手に流せるような性格ではなかった」と言っていましたが、

 今のイヅナには「そうなんですねー」と他人の自慢話を聞かされているようにしか捉えられていないことがわかり、視線を落としてしまいました。

 それからもオサキは知っていることを紡ぎましたが、イヅナの反応は変わりませんでした。


 そのやり取りが何回か続けば、オサキの心情にも変化が訪れたようです。

 悲しみからだんだんと 怒りが込み上げてきたようで、



「そもそもじゃ、お前が人形なんかに魅入られなかったらこんなことは起きなかったんじゃ!!

 お前は昔から好奇心が旺盛すぎる!! 前にもワシが助けてやって忠告してやったというのに全く反省しとらんようじゃしな!!」



 と声を荒上げ、噛みつくように吠えますが、

 イヅナには見た目も相まって、自分のことを昔から見てきてくれた親戚で飼っていた動物に見えて可愛く思えてきていました。



「……随分と前から私のことを見ていてくださったのですね、ありがとうございます」



 素直にお礼を言えば、今度はオサキの照れる番でした。



「っ、~~そうじゃ!! お前はもっとワシに感謝せい!

 ワシがお前の名前と人形の名前、どっちも知っておったからお前は消えずに済んだんじゃぞ!!」


「ありがとう、ございます……?」



 分かっているのか分かっていないのか、微妙な顔でお礼を告げるイヅナに、

 オサキはため息を吐くと重要だからよく聞くように、と真剣な顔で口を開きました。


 名とは重要な意味を持ちます。

 特に「真(まこと)の名」と書く「真名(まな)」とは、実名または本名のことを指します。

 真の名を知ることは相手を支配することに繋がるため、

 相手を守ることにおいても、呪いをかけることにおいても真名を知っているかどうかで効果が違ってくるのです。

 だから真名を知られることは危険なのです。

 


「はぁ……そうなんですね」



 そこまで説明しても、イヅナは分かっているのか分かっていないのか微妙な表情でした。

 一応聞いておこうといった様子で頷いているのがバレバレです。



「……イヅナ、お前さては分かっておらぬな」


「いえ……理解はしたのですが、わかっているのかといわれれば……まぁ」


「……はぁ」


「ということは、教えていただいたイヅナやオサキという名は真名ではないんですね?」



 その話をするのでしたら教えてくれたこの名は本名ではないんですねー、と話の流れで何気なしに確認するイヅナに、

 オサキは頷きかけて、言われたことを理解すると固まってしまいました。



「……、気づいた、んじゃな……」



 あんぐりと口を開けて、びっくりした様子で聞き返すオサキに、イヅナは苦笑しました。

 その反応は、以前は言われたことを鵜呑みにすることが多かった、と暗に言われているようなものです。



「いや、まぁ……話の流れ的に考えれば……?

 ……待ってください……、その反応をするってことは昔の私、バカでした?」


「いや、バカでは……純粋じゃったんじゃ……」


「言い換えただけでは。というより、今の私は純粋じゃないみたいな言い方しないでください。

 まぁ別にいいですが……そういえば。少しに気なったのですが、オサキさんは私にとってどんな人だったんですか?」


「……、」



 妙な間が空きました。

 今までテンポよく帰ってきてきた会話が、ふと何気なく質問したことによって返ってこず、イヅナは首を傾げます。

 そして少し考えて、閃いたのか口を開きました。



「……私と面識ありました?」


「……ない」


「ああ、ストーカでしたか」


「違うわ!! そんな屈辱的な呼び方をするでないわ!!

 よいかの! ワシは、ワシらは代々お前の家系を守り見守ってきたんじゃぞ!!」


「ああ、神様でしたか。それは失礼いたしました」


「い、いや……神では」


「え? あー……眷属のかた?」



 驚くこともなくすんなり受け入れられて、良かったかような残念なような……何と言っていいのかわからくなりました。

 そもそも信仰対象者という存在の有無の話をすんなり理解されたこともですが、

 眷属の方という保護者の方ですね、の言い方のノリもどうなのか……とか、どこから突っ込めば良いのでしょう。

 そしてやがて何を言っても無駄だと悟ったのか、めんどくさくなったのかはオサキのみぞ知ることですが、

 オサキはため息を吐くとそれ以上は言わなくなりました。


 オサキが話をしなくなったので、自然と話は途切れました。

 


「これからどうすればいいのでしょう」



 困りましたね、と困っていないような表情で言うイヅナに、

 オサキは何度目かわからないため息を吐きました。



「お前は戻りたいのかどうか知らぬがの、ワシは一生屈辱的なヌイグルミなんぞでいるつもりはない」


「……なるほど、では私にオサキが元に戻れるようお手伝いさせてください」


「お前は戻りたくないように聞こえるが?」


「……うーん、どうでしょう。

 正直記憶がないので戻りたいかと言われれば、肯定も否定もできないが正解な気がします」


「…………。そうかの、じゃあせいぜいワシの役に立つよう精進するんじゃの」



 準備ちゅう準備なんぞ特にないじゃろう、ほれ彼女を追いかけるんじゃ。

 そう言ってオサキは疲れたようにジト目でイヅナを見ると彼の肩に上り、器用に寝始めました。

 歩く気は更々ないようです。


 そんなオサキをイヅナは笑うと、歩き出しました。



「とりあえず、これから何卒よろしくお願いしますね。オサキ」



 ふて寝を決め込むオサキの反応はありませんでしたが、しっぽが不機嫌そうに揺れたので聞こえてはいるようでした。

 イヅナはそんなオサキに口元を緩め、まずは骨董屋を出ようと出口に向かって歩き出しました。






 これは元人間の人形と、元神の眷属だった狐のヌイグルミの旅物語。

 はたして彼らは元に戻ることができるのでしょうか。


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