【アップ】2024年10月20日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】2024年10月20日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=O3e_PkUpOsA


【ブログ】

ブログを見て下さると、聖書や讃美歌の歌詞などもご覧になれます。

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前奏

招詞 哀歌3章22〜25節

詩 編 歌 65編5節

神は、海の響き 波のひびき

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

スコットランド教会新カテキズム

「アダムとわたしたち」

こどもさんびか

うたいましょう[改126(1,2節)]

牧 会 祈祷

讃美歌 517番

聖書

創世記3章1〜9節

使徒言行録9章1〜9節

説教

「神が問いかけられる人生への招き」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 518番

みことばの交読文 テサロニケ一 5 章 9〜11節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 544番

祝 祷

報告



讃美歌~♬


讃美歌517番(歌詞付)54年版「われに来よと主は今」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=8K-2uOJ6M-Q


1)我に来(こ)よと主は今 優しく呼び給う

   などて愛の光を 避けてさまよう

 Chorus: 帰れや、我が家に 帰れや、と主は今呼び給う

2)疲れ果てし旅人 重荷を下ろして

   来たり憩え、我が主の 愛のみもとに

 Repeat Chorus.

3)迷う子らの帰るを 主は今待ち給う

   罪も咎(とが)もあるまま 来たりひれ伏せ 

 Repeat Chorus.


「命の絆の」讃美歌518

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=aTjbJh2JJgc



2024年10月20日 礼拝説教 聖書箇所


アダムと女が、主なる神を顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

創世記3章8,9節


サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

使徒言行録9章4節


はじめに

神との交わりを失った人間に問いかけ、語りかける、神の声を聞く(学びつつ)。

命の祝福 祝福された状態からの堕落(堕罪)

 神のご意志により、人間は、「神にかたどって」造られた(「神のかたち」)。神は霊である。霊を見える形にすることはできない。つまり、人間が「神のかたち」であるとは、人間は神と応答する魂(命の息)あっての人間(霊的存在)。命のあるものを治める者。大いなる神の安息(憩い)の中にある勤労と結婚(社会生活の基礎)。人間関係の基本(互いに、対等に、向き合える、よきパートナー、「裸」体も心も通い合うもの)。聖書は、はじめから、神と人間との交わり、人間同士の交わりとその祝福を証ししている(伝説ではなく神の歴史)。

罪の実相 神との交わりの喪失(罪の方向)

 主なる神は、人間に最初の約束を与えられた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2章16,17節)。「蛇(悪魔)は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』」。わたしたちは、ここに、神の命令を知りながら、その言葉を聞く人に疑いを起こすように、しかも、神ではなく、悪に引きつけるように誘う。「女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んでもいけないから、と神様はおっしゃいました。』」神の命令は、人間を永遠の安息と祝福の中に守るもの。それを破る時、人間は、自分の思いのままに善悪を判断し、聖なる神との交わりを疎んじる者となる。主イエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2章27節)と言われた。安息日とは、神のご意志による天地創造(人間の目的)と永遠の安息を覚える日。「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。』主イエスが、悪魔の誘惑を受けられた時、悪魔は同じように、神の言葉を利用し、「非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」(マタイ4章8,9節)。女は自分の目の見るままに、それを食べ、男にも渡し彼も食べた。

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とは、互いに恥じを隠し合ったこと。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」」神の呼びかけは、「なぜ隠れるのか、出て来い」と命じるのではなく、二人を捜し求める声として呼びかけられた。「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」羊飼いのように(ルカによる福音書15章4節)。

救の希望 十字架の主イエスからの声(使徒パウロ(サウロ)の場合)

人間の堕落は、人間同士の責任転嫁に表れる。不和と争いの根源に、神との交わりを失った人間の深い闇がある。原福音(創世記3章15節)は、「敵意」を砕くお方の到来を告げる。このお方こそ、イエス・キリスト。使徒パウロ(サウロ)は、十字架の主の声の聞き回心した。

おわりに

「今日、御声を聞いたなら、心をかたくなにしてはならない」。「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう」。



(Mynote)


二〇二四年一〇月二〇日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を、神様に感謝する。

今日は、歓迎礼拝の日曜である。

(子供メッセージ)

『スコットランド教会新カテキズム』

「私達は、アダムの罪の為に罰を受けなければならないのですか。」

「そうです。私達は、アダムの腰の中に居て、アダムに於いて罪を犯した者として、アダムの属性を継ぐ者であるからです。」

これは原罪の話であり、エデンの園でのエピソードである。神様は初め、人間をご自分の姿に似せて造られ、人間は清い生き物としてエデンに住まわせられて居た。エデンは生き物にとって必要なものが全て揃って居り、人間はその神様の恵みと愛の中で生きる事が出来た。しかし人間は自らの罪の為にそのエデンを追放され、罪人としてその後を生かされる事になった。

(公同礼拝)

『創世記』(第三章一〜九節)

『使徒行伝』(第九章一〜九節)

『創世記』では人の原罪が語られ、人の何たるかが教えられる。アダムとエバを、現代人の男女にそのまま置き換えて良い。アダムとエバは人間であり、自ら罪を心に持ち合わせた罪人である。神様はこの事をも前以てご存知であった。だからこの中央の木の実の約束は、人間を試す試練と心得て良い。

そしてエデンに現れた蛇。この蛇は悪魔の象徴であり、又、人が本来持ち合わせた罪の象徴にあろうか。その悪魔・罪が人の中から形として生まれ、神様との約束を違(たが)える様に(その約束を破る様に)教え諭した。この瞬間に注目する必要がある。譬えこの様に諭されても、それでもし本当に自分が死ぬ・殺される事が分かって居たなら、現代人にとってみても、その神様との約束を自ら違える事をするだろうか?詰り、その約束を違えて良いとする程の巨大な欲望を人は生まれながらに持ち合わせて居り、「自分がそうしたいからそうした」として良い程、蛇(悪魔・罪)の誘惑に乗る姿勢を自ら以て居た。この蛇とは、アダムとエバと言う人間の内から生まれたもの、そう捉える事も出来ようか。だから現代人でもこの時のアダムとエバと変わりなく、この時エデンに居れば、皆同じく、中央の木の実を必ず取って食べたのである。またアダムは直接神様から「木の実を取って食べてはならない」と言われ、エバはそのアダムからその事を聞き、神様から直接教えられた訳でないとして、アダムの罪の方が重いとする者も在るが、両者の罪は「神様との約束を破った」と言う点で同等に在る。エバにしても、アダムを通して神様の事を聞き、その約束を知って居た事から信仰の問題となり、その信仰に於いて神様に背いたと成る。

これを以て人類はアダムとエバの原罪を知り、罪人として後世を生かされる事になった。それでも神様は人を愛され、それまで知らなかった恥を知り、身を衣で隠そうとして居た二人の為に皮の衣を与えて着せ、エデンの園から追放した後も二人の為に、エデンとは別の生きる場所(地上)を与えた。そして今日に至る。

アダムは第一の清い人間とされ、時にイエス様は「第二のアダム」と呼ばれる事がある。これは蛇の誘惑により堕落する前のアダムを指して居る。完全なる清い人として存在したのがイエス様であり、そのイエス様を清かった時のアダムを通して「第二のアダム」と呼ぶ。詰りこの点で人は両面を以て居り、清い善の自分と、悪の自分を持つ者と知る。

罪人となる前の(堕落する前の)アダムとエバは、神様と本来交わる事が出来て居た。その清い状態の人間から離れ、罪人となった為、神様から隠れる存在になってしまった。そこで神様は、

「あなたはどこに居るのか」(『創世記』第三章九節)

と言われ、それ迄通りに交わる事が出来ない人間の姿が描かれる。この状態に陥らせたのが悪魔であり人間の罪であり、人の中に本来、この状態に陥らせる切っ掛けがある事を知る。

悪魔とは、人と同化するほど身近な存在で、目に見える形でやって来る。悪魔が差し出すものは手に触れる事が出来、それだけ刺激がある分、人は簡単に騙される。そして何より人が興味を持つもの・欲望を全面に押し出す刺激をそのまま見せ、それを与える様に仕向けて来る為、人は自らそれを欲し、悪魔の側に立ってしまうのである。この時のアダムとエバもまさにそうだったろうか。

聖書とは、時に恐ろしい書物ともなる。それは人の都合の良い曲解により自己基準で読み、解釈し、それを他人に伝え、邪教を作り出す事があるからだ。その際にし易い事が「情報の一部をくり抜いて覚え、それを信仰に保ち、又そこで覚えた自分の考えを他人に教え諭す」事。実はこの手法が、悪魔の常套手段に在る。

悪魔は人を欺き、神様の側から引き離す為、その人が確実に興味を持つ物事をテーマに取り上げ、その時の心・興味を満たす様に働き掛ける(木の実)。これは日常でも普通に起きて居り、誰もが必ず一度以上その経験をして居る。心の中で経験して居れば、それは経験した事に成る。人は善悪の二面性を持ち合わせて居り、生来、そう言う生き物だった…そう捉えられるとここでは思える。神様は、その罪人である人間を愛された。その上で全ての人が信仰を持ち、もう一度自らの歩を以て、神様の側に立ち返る事を願って居られる。そしてそう出来る様に、全ての人の内実とその環境を整えられる。それに気付くかどうか、人間にとってこれが非常に大きな契機になる。

『使徒行伝』でも、このアダムとエバに起きた事と同様の事が起きたと分かる。サウロはパウロに成る前、キリスト教を迫害し、イエス・キリストを徹底して迫害して居た。それがイエス様(神様)から直接の語り掛けを承け、その後、一八〇度真逆の人生を歩む事に成った。これは罪人から信仰の途(みち)への立ち返りに在り、まるでアダムとエバからパウロを見る時、その原罪を憶え、償う途(みち)へ返された様にも思えて来る。この時もサウロは神様から隠れた存在・遠く離れた存在にあった。それを神様がイエス様を通して見付けられ、ダマスコの途上でパウロに語り掛け、道を正した。そしてパウロはイエス様に諭され、神様の使徒として遣わされる準備とし、三日間目が見えない状態になり、食べる事も飲む事もしなかった。それから罪の淵より逃れさせられ、神様の側、即ち神様が創られた本来の光の園、あのエデンの光へ真っ直ぐ歩める途(みち)が与えられた。

人が原罪を以て今を生きて居ようと、神様はその人を愛される。人は自分で生きて居るのでなく、神様に生かされて居る。自然を見れば気付く事に在り、自分を見て気付く事に在る。自律神経を、人は自分で動かして居ない。自然にしても、人が分かる範囲は限られて居る。これまで人が見知って来た全ての歴史に於いても、その出来事の一つ一つで、偶然では片付けられない物事がある。

神様が創られた本来のエデンの園は、今の人間の世界では考えられない程の美しい世界に在った。その美しい世界と聞いて、人にそのまま想像する事が出来ようか?明るいものを美しいと感じ、また暗いものを美しいと感じる曖昧な人間である。美しさの基準も人には曖昧で、救いの基準も、幸福の基準も、処罰や辛さの基準も人には曖昧である。善悪の基準も人により分かれて曖昧で、その最たるものが戦争に在ろう。人は自分の正義を以て、悪を行うのである。その悪の行為は、悪魔が為す行為に在り、罪の行為に在る。詰り人は今、混沌(カオス)の中に在る。堕落してからそう成った。悪魔が、神様と人間との本来の基準を人間に対してだけ、曖昧にしたからである。何故そうなったか?人間がその悪魔の刺激に興味を持ち、悪魔の側に歩を進め、神様と本来の自分の在り方から離れたからだ。人は自らその様に離れたのである。だから戻らねば成らない。神様と人間との、本来の在り方が成らないのである。神様は、人が自力でも努力して、信仰の道に戻ろうとするその努力を待って居られるのではなかろうか。人にとって罪から離れる事は中々に手強い。何度も罪の中に舞い戻る。だからその都度、悔い改めが必要になり、神様が本来人に教えた、信仰に生かされる為の努力が必要になる。

その「悔い改めの力」は人の自力では成らず、必ず神様の御力と、聖霊の働きに依って成るものである。その事を覚え、本来神様から生まれた全ての人が、本来人が歩まされて居た筈のあの道、今は戻らねば成らないとするその信仰の道へ立ち返る事、これを神様の下(もと)で祈り願うのである。

(御言葉の交読文)

『テサロニケ人への第一の手紙』(第五章九節から一一節)

神は、私達を怒りに遭わせる様に定められたのではなく、私達の主イエス・キリストに依って救いを得る様に定められたのである。キリストが私達の為に死なれたのは、覚めて居ても眠って居ても、私達が主と共に生きる為である。だから、あなた方は、今して居る様に、互いに慰め合い、相互の徳を高めなさい。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw


対イ○ン3時間ノンストップ空爆作戦 / 目隠しをかけられたタコの頭

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=oLGgFdjjB8M&t=282s


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%86/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)

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【アップ】2024年10月20日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります 天川裕司 @tenkawayuji

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