第25話

岩の陰から飛び出し剣を構えれば、熊は私を敵と認識しさらに大きく吠え。興奮からか、よだれもしたたらせていた。


(一撃目をかわせれば、あるいは……!)


 そのためには先手必勝。

 あの日のアシュリー様を真似して、今度は私が石を投げつける。


「グァッ……!?」

(あたった!)


 また顔めがけて石を投げ距離を狭め、反撃の余地を与えず腕を斬りつける。


「ガアアアッ!」

「浅かったか……!」


 手応えはあっても、これぐらいで怯んではくれない。


「……グォォッ!!」

「くっ!?」


 太く大きな熊の腕が、勢いづいて私に振り下ろされる。

 一撃目を交わし脇腹へ蹴りを叩き込めたが、なんて硬さ。


「っ、この……!!」


 立て続けに決めた蹴りも渾身の力を込めたのに、熊は怯みもしなかった。

 剣でガードするにも限界があり、ついにその剣は払われる。


「っぅ……!」


 ガランッと音を立てながら、剣は離れた所まで飛んでいく。

 剣を取りに向かうなどさすがに無謀過ぎるし、今、熊から視線を外したら間髪入れず襲いかかられるだろう。


(ここまでですか……)


 それでも、これだけ時間稼ぎをしたのだ。きっと、あの少年は無事のはず。


(信じております、アシュリー様)


 ああ、けれど最後に一目でも。

 いいえ、ちゃんと謝罪してからわたくしは――。


「ギャッ!?」


 熊が大きく仰け反った直後、足元に石が転がり落ち。私の横を金の風が駆け抜け、河原には赤い点が一本の筋を描く。


「グアアアアア……!」

「あ――……」


 熊の懐へ飛び込み剣を突き刺しているのは、会いたいと願っていた相手。


「エマちゃん、逃げろ! こいつ、でかいだけにしぶとい!」


 アシュリー様が、腰の短刀も抜いて熊の胸元へ突き刺した。

 

「ぐ、ぅ……――があああっ!」

「うあっ!!」

「アシュリー様……!」


 突き刺した剣のつかを掴んだままの相手を引き剥がそうと、熊が暴れだす。

 その勢いに負け彼の体は横に吹っ飛び、地面に叩きつけられた。


「よくもアシュリー様を……!」


 彼が落とした剣を拾い上げ、今度は私が熊の懐へ飛び込む。

 すでに手負いで動きも鈍くなり始めていたおかげで、心の臓を突き刺すのは容易たやすかった。


「ギャアアアア……!」


 ゆっくりと、仰向けに川へ倒れる巨体。大きな水しぶきが静まっても、熊の体はピクリとも動かない。

 絶命したのを確かめ、アシュリー様の元へ駆け寄る。

 普段とは違う真っ白い正装は、木の枝にでも引っ掛けたのかあちこち破け。足元も土で汚れ、ここまでどれだけ急ぎ、必死になって駆けつけてくれたかを物語っていた。


「アシュリー様! アシュリー様……!」


 頭を打っているかもしれない。乱暴に抱き起こすわけにもいかず、耳元で必死に名前を呼ぶ。


「アシュリー様! わたくしです、エマです! どうか返事を……!」


 体に傷はない。

 けれど、徐々にこめかみから血が流れ始めているのに気づいた。それはすぐに、金の髪も、白い襟元も赤く染めていく。


「お願いです、アシュリー様! 目を開けてください……!」


 この人が、こんなところで死ぬはずがない。誰よりも強く美しく、騎士としての自分に誇りを持って努めている人が。

 ああ、けれど。アシュリー様も自分の父親に対して、同じように信じ切っていたのだ。

 簡単に死ぬわけがない、と。


「っアシュリー様……!」


 この人を失ってしまうかもしれないという現実が、私の体を震わせた。

 熊に牙をむかれた瞬間でさえ怖さはなかったというのに、今は怖くて怖くてたまらない。


「行かないでください! どうか、ここにいてください! アシュリー様……!」


 止血を行いながら呼べば、ぴくり、瞼が動いた。


「ぅ……っ……」

「アシュリー様!」

「……エマ、ちゃん……? ど、したの? 泣きそうな顔して……。大丈夫だよ、君は、俺が守る……」

「はい、ありがとうございますっ。おかげでわたくしは、このとおり無傷です!」

「うん……良かった……。俺は、君の盾だから……もっと、頼って……」

「わたくしも同じ気持ちです。なのに、アシュリー様ばかり痛い思いを……!」

「あー……そだね、痛いかなぁ……。けど、君を守れたから……俺、今、幸せよ……? そっか……親父も、こういう気持ちで――……」

「アシュリー様!?」


 ほほ笑みが消え、かすかに開いていた瞼も閉じ、カクンッと頭が傾く。


「駄目です、お願いですっ、どうか目を閉じないで……! 子猫キトゥンブルーの瞳に、わたくしを映してください!」


 必死に叫んでいると、また背後が騒がしくなる。

 見れば多くの松明と、その数以上の人間の姿。


「助けが来ました! アシュリー様、今すぐ医師の元へお連れします!」

「…………」

「アシュリー様……!」


 城の医務室へ運ばれる間も、私は必死で名前を呼び続けた。けれどアシュリー様の瞳は、私を捉えぬまま。


「ふむ……。お前さんが止血をしてくれたおかげで出血はひどくないが、傷は浅くもない。地面に叩きつけられたというが、河原は土でなく石だらけじゃ。その石に、こめかみをしたたか打ったのだろうな」

「熊に飛ばされ、高い位置から叩きつけられておりました……」

「体にも、まだ緊張感が残っておる。熱が出始めているのも心配どころか」

「……っ……」

「まあ、疲労もあっての熱。薬でこれは下がるはずだが……」


 額に浮かぶ汗を、丁寧に拭う。

 何度も布を絞っては額に当て、少しでも熱を奪えるよう努めた。


「お前さんも、いい加減休んだほうが良いぞ?」

「アシュリー様が苦しんでいらっしゃるのに、わたくしが休むなど」

「世の中にはな、看病疲れという言葉もある。お前さんが倒れてしまっては、アシュリーも悲しむのではないかのぉ」

「ですが、アシュリー様はわたくしのせいで……!」


 あの時、もっと早くに剣を掴んでいれば。

 あの時、もっと早くに動けていれば。


「わたくしの判断が遅れなければ、こんな怪我を負わずに済んだかもしれないのです!」

「あの場でお前が下した判断は、最善だったのではないか? お前が先に逃してくれたおかげで、子供も無事に保護出来た。アレクセイ陛下も、お前を評価されておった」

「アシュリー様も怪我なくここに戻っていれば、その評価もありがたくお受けいたしましたが……」

「結果から過程を悔やんだところで、どうしようもなかろう。悔やむ暇があるなら結果を受け入れ、これからどうするべきかだぞ」

「ならば、アシュリー様のお傍にいる許可をいただけますでしょうか」

わしの話を聞いてなかったのか? それがいかんと言っておる」

「わたくしに、先生ほどの知識はまだありません。ですが看病は出来ます。包帯を巻き直す、食事や着替えの世話。そういった部分を、わたくしに命じていただけませんか。もちろん、寝ずの番などはいたしません。ですからどうか……!」

「…………ふむ、まあよかろう。今はまだ、陛下は街で後処理を行っておる。山狩りも、後日仕切り直すようだしの。戻り次第、お前さんの日中の任務として、小僧の世話を入れてくれるよう伝えておく。今夜も、あと少しであれば側にいて構わん」

「ありがとうございます!」


 先生も出て行き、部屋には私とアシュリー様だけになる。


「愚かで馬鹿なわたくしをお許しください……」


 貴方が傷ついて、貴方を失うかも知れないという恐怖で、ようやく自分の感情に気づくなんて。

 抱きしめられても嫌でなく、嬉しさも苦しさも貴方だから覚えたというのに。


(いえ、とっくに捉えられていたのです。それをわたくしが、ひとり頑なに拒んでいただけで……)


 本当に馬鹿な女なのです、私は。


「お強いアシュリー様……」


 そっと、髪にも触れる。

 金の髪は今日も変わらず美しいのに、どこかひんやりと冷たい。


「お美しいアシュリー様……」


 美しい子猫キトゥンブルーの瞳は、閉じた瞼で隠れてしまっている、それでも。


(愛しいアシュリー様)


 もっと早く自分の気持ちに気づけば良かった、と嘆いても仕方がない。

 であるならば私は当初の目的通り、立派な騎士となりましょう。

 そうして、貴方を守る盾となりましょう。


(目覚められたら、わたくしにも誓わせてください)


 剣を掲げ、私が貴方の足元を照らす灯火になると――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る