エリーゼとかいう悪魔に供物を7つ与えれば不老不死にしてもらえるらしい

@kuhanani

前編

 凍は雪山の頂に立ち尽くしていた。冷たく鋭い感覚が凍の裸足に容赦なく打ちつける。体を包みこんだ薄手のワンピースが風に揺れる。凍の体は寒さで震え始めていたが、その感覚を無視し、前を見据えていた。

 氷点下の気温の中、何らかの準備不足らしく撮影は始まらず、スタッフが慌ただしく動き回っている。しかし凍は何も言わなかった。彼らに対する不満や苛立ちはない。ただ、自分が今、この場にいる理由を再確認するように、凍は冷静に状況を見つめていた。


「よーし! じゃあシーン67――独白のシーンだ!」


 監督が、カチンコを弾く。それを受けて凍は自分の台詞を喋りだす。

 監督の雲母坂雲母(きららざかうんも)は、新進気鋭の――というには歴の長い監督だ。三十年程、低予算、短納期の映画を取らされ続けていた弊害からか、三年前の「毒ブルーベリー畑で捕らえて」でその年の映画賞を総ナメし、地位と権力を得たあとも、創意工夫とノンCGで突き抜ける変人監督へと変貌していた。

 それは決して貧乏性などではないのは凍も理解していた。並々ならぬ情熱があり、観客に対して本物の感動を与えるために、限界を追い求めている。凍自身も、だからこそ彼の映画に出演することを選んだ。しかし、この吹雪の中で、凍の体が徐々に限界を迎えているのも事実であった。足先の感覚がなくなり、指先は凍つくように痛む。それでも凍は眉一つ動かさず、ただ喋り続ける。この映画の主人公が自分と向き合っている重要なシーンだ。凍も何よりも力を入れて演技する。

 主演を任されたからには、その責務を果たさなければならない。監督も、カメラマンも、照明、音声、それらすべてのスタッフ一同全員がそれぞれの持ち場でベストを尽くしている。それなのに、主演の自分が倒れるわけにはいかないと強く心を込める。


 主人公の感情を浮かべ、口から本音を吐き、寒さなど微塵も感じていないかのような振る舞いをする。

 心の中は寒い、冷たい、凍えてしまうと三段活用のように繰り返して、誰に求められたわけでもないというのに――果たして凍は、主人公が自分の心の奥深くにいる本音を明かす6分45秒ワンカットのシーンを一発で取り切ったのであった。


「カット! よし、完璧だ!」


 監督の雲母坂の声が吹雪の中に響いた。凍は監督が満足したのを確認して、ようやく足元の緊張を緩めた。撮影が終了した瞬間、体中の力が一気に抜けた。寒さと緊張感が一気に押し寄せ、凍はその場に崩れ落ちそうになる。しかし、凍は膝をつかず、ぎりぎりのところで体勢を保った。目の前に広がる白い世界が、次第に視界から消えていく。

 スタッフが駆け寄り、急いで毛布をかけ、凍の体を包み込んだ。温かさがゆっくりと体に染み込んでいくが、凍の意識はまだ遠くにあった。凍はただ、寒さに耐えきれず震える自分の体を抱きしめる。


「レイさん、大丈夫ですか?」


 スタッフが心配そうに声をかける。凍はわずかに微笑みを浮かべて、うなずいた。


「大丈夫よ。撮影が成功したんだから、これで十分」


 凍の声は震えていたが、その言葉には確固たる意思が感じられた。どんなに過酷な状況でも、凍は自分の役割を全うする。それが凍の信念であり、女優としての誇りだった。自分がやるべきことはやった。それが、凍にとって何よりも重要だった。

 身体は冷え切っているが、心には満足感があった。凍はこれまでのキャリアの中で、何度も困難なシーンに挑んできたが、この撮影は特に厳しいものだった。それでも、凍はやり遂げた。


「いいシーンが撮れたわね」


 凍はスタッフの一人に向かって微笑みかけた。凍の顔には、冷たい風に晒されて疲れた様子がありながらも、満足感が漂っていた。スタッフもその笑顔に安心し、凍に対して心からの称賛を贈った。


 撮影に夢中で凍は気づいていなかったが、すでに時刻は夕刻を優に超え、もう三十分もすれば日が落ちる時刻であった。凍はかじかむ手足を引きずりながらでも、気合だけで山を下り、ロッジへたどり着いた。


「ふぅー……」


 お湯の張られたタライに足をつけながら一息つく。今日の撮影はとても苦しいものだったと思い返す。まず早朝から集まり、そこから雪山の中腹まで登った。しかしこれもだいぶ妥協したそうで、監督が山の中で、できれば頂上で取りたいというのをなんとか説得し中腹まで降ろしてきたのだ。

 妥協させた負い目から、凍のあの体の張りがあったのだが、監督も満足げだったので良かったと心の底から凍は安堵していた。

 すでに日は落ち、暗闇と白い雪がコントラストを表現していた。こんな視界で山を下るのは自殺行為なので、今日はこのロッジに泊まりの予定だ。


「じゃあ、私はそろそろ休みます」


 スタッフにそう告げて、凍は自分の部屋に足を運ぶ。

 部屋に入ると、冷たい空気がわずかに残っていた。凍はベッドに横たわり、撮影の疲労が体中に広がっていくのを感じながら、ふかふかの毛布に身を沈めた。


「今日は大変だったわ」


 ほっとした気持ちで目を閉じる。深い眠りに落ちそうになったその時、不意にコツ、コツ……と、窓をつつく音が聞こえた。


「……何?」


 うっすらと目を開けたが、音は再び繰り返される。寝ぼけたように身を起こし、音の方向に目をやると、そこには小さな影が見えた。白い吹雪の中で動く小さなシルエット――よく目を凝らしてみると、それは一羽の小鳥だった。窓の外に凍えるようにして止まっており、小さなクチバシで窓をつついているようだった。


「小鳥? ……どうしたのこんなところに来て」


 凍は小さく呟いたが、鳥はかすかに頭を傾けるようにして彼女をじっと見ている。まるで、窓を開けろと言わんばかりに。彼女は一瞬、迷うようにその鳥を見つめたが、なぜか不思議と引き込まれるような気持ちになり、そっと窓に手を伸ばした。


「……少しだけ、ね」


 鍵を外し、窓をわずかに開けた瞬間、突風が凍を包み込むように吹き荒れた。


「……っ!」


 突然の風圧に、凍は驚いて窓を閉めようとした。しかし、手をかける間もなく、風はますます強くなり、彼女の体を一気に引き寄せた。思わず叫び声を上げた瞬間、彼女は窓の外へと投げ出され、白い雪の中に吸い込まれていった。

 吹雪の冷たさが全身に突き刺さるように感じた。空を漂い、地面もなく、ただ雪が宙を舞い、体を凍りつかせていく。何が起こっているのか分からないまま、意識が次第に遠のいていった。







 それは、凍がまだ小学生だった頃の教室。昼休みのざわめきの中、同級生たちの楽しそうな笑い声が教室中に響き渡っている。凍はその中で、ただ一人黙々と次の配役の台本を読んでいたが、耳には無邪気な遊び声が響き、心の奥で微かな羨望が膨らんでいた。


『レイちゃん、一緒に遊ぼうよ!』


 朗らかで、優しい言葉を掛けてもらう。彼女は思わず嬉しくなりかけたが、すぐにその表情を消し去り、少し無表情な顔で断る言葉を口にした。


『ごめんなさい、私はやめとくわ。次の役のセリフ覚えなくちゃ』


 すでに他の演者の台詞ですらそらで言えるほど読み込んでいた台本を持ち上げながら、断りの言葉を口にする。その瞬間、胸にわずかな痛みが走る。

 実際には遊びたくてたまらなかった。しかし、すでに周りからは「冷静で、何でも自分でこなす子役の凍」というイメージが定着しつつあり、他の子どもたちの遊びに混じる姿を見せれば、そのイメージが壊れてしまうのではないかという恐れが、彼女を縛り付けていた。


 周りの子供達は、彼女の断りに対して寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに別の友だちと遊びに戻っていった。彼女はその光景と台本を見比べ、自分がいなくても問題のない校庭と、自分が主演で必要な撮影場所を耽って、目を閉じた。


 凍は完璧な演技ができる子役として周囲の期待を背負い、自分に「冷徹な少女」という役を課していた。だが、その役割を守ろうとするたび、心の中の本当の気持ちが少しずつ遠ざかっていくように感じていた。


 ただ、そんな凍が唯一といっていいほど仲良くなった少女がいた。

 それは転校生の少女で、親の転勤の都合で二週間ほどではあるが、凍と同じクラスだった。

 父親がアメリカと日本のハーフ、母親がオーストラリアと日本のハーフで、彼女は日本生まれ日本育ちのクォーターだった。三国の血をいいとこ取りしたように、顔立ちは端正で、おとぎ話にでてくるようなお姫様に見えたことを覚えている。

 しかしまだ未成熟な小学生たち、自分たちとは違う黄金色の髪や、宝石のような青い瞳を前に不思議がったり、無遠慮なからかい方をしたり、それどころか「お姫様」のような扱いをするクラスを諌めたことが、二人の出会いの始りだった。




『やめなよ。髪色なんて彼女がどうにもできないことじゃない』


 凍は静かにそう言うと、クラスメイトたちは驚いて凍を見た。凍の普段の冷静な態度にどこか気後れしていた彼らは、彼女に諭されると、それ以上ヴィオラをからかうことなく引き下がっていった。


『ありがとう……』


 そっとつぶやかれたヴィオラの小さな声に、凍は驚いて彼女の顔を見た。ヴィオラは優しく微笑み、澄んだ青い瞳で彼女を見つめている。凍はその時、自分もまた天才子役「凍」の殻を脱ぎたいと思っていることに気がついた。


『……私も、周りの子とうまくなじめてるわけじゃないから』


 思わずそう漏らした凍に、少女は少し戸惑ったが、すぐにその表情は和らいだ。


『私、転校したばかりで……まだ何も分からなくて。もしよかったら仲良くしてくれる?』


 その言葉に凍は驚いたが、すぐに頷いた。彼女にとって、少女は初めて役者として見知った「凍」ではなくクラスで出会った同級生の「凍」に声をかけてくれた友達だった。どこか大人びて見られている彼女にとって、ヴィオラの微笑みはどこか救いに感じられた。

 それからというもの、二人は自然と一緒に過ごすことが増えた。放課後、教室に残って本を読んだり、校庭の隅で二人きりの話をしたりと、彼女と過ごす時間が凍にとって特別なひとときになっていった。


『レイちゃんって、本当に優しいよね』


 少女が控えめに微笑みながらそう言った時、凍は驚いて言葉を失った。自分が「優しい」と言われたことなど、今まで一度もなかった。凍は少し照れたように顔を逸らしたが、少女はその姿にさらに優しく微笑んでくれた。


『レイちゃんといると……なんだか安心するの』


 その言葉に、凍は心の奥で温かな感情が芽生えていくのを感じた。周囲のイメージに縛られずにただ自然体でいられる時間を、少女は凍に与えてくれたのだ。彼女にとって少女は、ただの友達ではなく、「本当の自分」を理解してくれる存在だった。

 だが、そんな日々も長くは続かなかった。。ある日、突然少女が転校することになり、別れの時間がやってきた。


『いや、嫌だ……嫌だよ、行かないで』


 凍は年相応の少女のようにボロボロと涙を流した。泣いても無駄なことも、ワガママを言っているこの時間が無意味なことも理解出来ているのに、涙が、言葉が止まらなかった。

 そんな凍を少女は優しく抱きとめた。少女の温かさに包まれながら、凍は強く宣言する。


『私、もっともっと映画に出るから、それを見て、私のこと思い出してくれる?』

『うん、もちろん、レイちゃんのことずっと見てるからね』


 二人は抱き合い、泣き合いながら、将来また出会うことを約束し、別れた。


『……またね、ヴィオラちゃん』

『うん、バイバイ、レイちゃん』


 ヴィオラは微笑んで手を振って去っていった。凍は手を振り返しながらも、心の奥に大きな喪失感が広がっていくのを感じていた。





「ヴィオラ……」


 凍が無意識にその名前を呼んだ瞬間、冷たい感覚が消え、温かい布団に包まれていることに気づいた。ぼんやりとした意識が戻り、瞼を開けると、見知らぬ木の天井が目の前に広がっていた。


「ここは……?」


 体を起こそうとした時、静かに扉が開かれた。ふわりとした優しい気配が部屋に入ってくる。凍はその姿を認め、息を呑んだ。

 そこに立っていたのは、成長したヴィオラの姿だった。かつてのままの穏やかでおしとやかな雰囲気を纏い、凍に歩み寄ってきた彼女は、幼い頃の記憶そのままだった。


「久しぶりね、レイ。こうしてまた会えるなんて……」


 ヴィオラの声には懐かしさと共に、わずかな悲しみが含まれていた。凍はその言葉に安堵と喜びを同時に感じながら、彼女に問いかけた。


「ここは……どこなの?どうして私がここに?」


 ヴィオラは柔らかに頷き、凍に穏やかに答えた。


「ここは私たちのコテージよ。母があなたを見つけて、ここまで運んでくれたの」


 その言葉に凍は少しだけ安堵を覚えたが、同時にこの場所に漂う異様な空気が、胸の奥で静かに膨らんでいった。再会の懐かしさと、見えない不安が混じり合う中で、凍の心は静かに揺れていた。


「大丈夫? 寒いの?」


 不安からくる凍の身体の震えを見つけたヴィオラは、そっと凍の手を握った。たったそれだけのことで、先程まで感じていた不安や異様な空気が一気に雲散霧消していく。ヴィオラの手はとても温かく、凍に安心を与えてくれた。

 震えも収まったところで、凍は体を起こし、深呼吸をしてからヴィオラの方を向いた。雪山で倒れていた自分を助け、ここまで運んでくれたことへの感謝の気持ちが、時間が経つにつれて次第に大きくなっていた。自分の命を救ってくれた人に、直接お礼を言わずにはいられなかった。


「ヴィオラ、助けてくれたあなたのお母さんに、直接お礼を言いたいんだけど……」


 凍のその言葉に、ヴィオラは少しだけ躊躇するように表情を曇らせたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、静かに頷いた。


「もちろんよ。きっと喜ぶわ」


 ヴィオラはそう言うと、部屋の扉に手をかける。

 扉を開くと、その先はリビングらしき部屋、八人がけの大きな机が置かれ、その奥には暖炉で燃え盛っている。

 そして、その一脚の椅子に少し猫背の老婆が座っていた。彼女は凍を見るなり、にっこりと笑みを浮かべて椅子を軋めかせた。


「あら、起きたのかい、身体はどう? どこも悪くないかい?」

「ええ、どこも。あの、助けていただいて、ありがとうございます」


 凍が頭を下げると、老婆は愉快そうに笑いながら、「そんなに大げさにしないでよ」と手を振りながら返した。


「いいのよ、そんな大げさにしないで。身体が無事で何より。お礼だなんて、わたしゃただちょっと、あんたを運んできただけだし。そんなことより、まだ冷えてるだろうからね、しっかりあったまるといいわ」


 老婆はにこやかに凍を部屋に招き入れ、椅子を勧めて座らせると、すぐにヴィオラに優しい声で言った。


「ヴィオラ、レイちゃんのために温かいお茶をもう一杯用意してあげて。せっかく来てくれたんだから、あったまってもらわなきゃね」


「うん、すぐに持ってくるね」


 ヴィオラはにっこり笑い、頷いてすぐに部屋の奥へ。凍は微笑みながら、改めて礼を述べる。


「本当にありがとうございます。あのまま倒れていたら、どうなっていたか……助けていただいて、えっと、お名前は」


 凍が深々と頭を下げると、老婆はやわらかく手を振って「まあまあ」と笑いながら返した。


「エマリーよ、それにそんなにかしこまらないで。あんたが無事で何よりだわ。こっちも久しぶりに若い子が来てくれて、少し家の中も賑やかになるし、むしろありがたいぐらいなのよ」


 エマリーは気さくに話しながら、凍に優しい眼差しを向け続けていた。その話しぶりに安心した凍は、少しだけ笑みを浮かべて頷いた。

 やがて、ヴィオラがお茶を運んで戻ってくると、エマリーは「ああ、ありがとうね」とにこやかに声をかけ、凍にお茶を勧めた。


「はい、これで少し温まってね。雪山なんて、ただでさえ寒くてしんどかったでしょうに……ほんとによう無事でここまで来られたわねぇ」

「ありがとうございます……とても助かります」


 凍が静かに礼を言いながらお茶を飲むと、エマリーはヴィオラにも笑顔で頷きながら言葉を続けた。


「ヴィオラもあんたが起きるまでずっと横で看病してたのよ、この子にもお礼言ってあげて」


 その言葉で、成長と共にヴィオラの性格が変わってしまっていないかと心配だった凍が、安心する。

 ヴィオラの顔をじっと見つめる凍。そして、深く心の底から言葉を吐き出した。


「ヴィオラ、ありがとう」


 そう言って、凍はヴィオラが差し出してくれたお茶を飲む。ほっとするような温かさが体に染み渡るのを感じていた。昨日の極寒の雪山の記憶が塗りつぶされる程には温かい一口だった。

 そこでようやく、凍は自分が今映画撮影中に行方不明になっていたことを思い出す。きっと撮影クルーの皆が凍のことを探しているだろう。もしかしたら救助隊まで出ているかもしれない。焦りが一気に胸を満たし、凍は慌てて椅子から立ち上がった。


「すみません、私、撮影に戻らないといけないんです! 今、何時ですか!?」


 凍の突然の申し出に、ヴィオラとエマリーが少し驚いた表情を見せた。ヴィオラは少し心配そうに凍を見つめ、優しい声で言った。


「落ち着いてレイちゃん。まだ夜中の12時よ。それに……」


 ヴィオラは窓に掛かっていたカーテンをシャッと開く。窓の外にはますます激しさを増す吹雪が広がっていた。雪が横殴りにコテージの窓を叩きつけ、外の景色は白いカーテンで覆われたように何も見えない。

 窓を見つめる凍の顔が、次第に不安で曇っていく。彼女はこのまま撮影に戻れないかもしれないという不安が頭をよぎり始めた。


「無理して出ると命に関わるわよ。こんな吹雪じゃ、ここから先はとても歩けないわ。せっかく助かったんだから、少し落ち着いてここで待っていきなさい」


 エマリーの言葉に、凍は少しだけ考え込んだ。確かに、無理して外に出れば命を失うのは分かりきっている。しかし、撮影に戻らなければという焦りがどうしても消えなかった。


「とりあえず、連絡だけでも入れたいんですけど……電話とか貸してもらえませんか?」


 凍は当たり前だが、手荷物を何一つ持っていない。そのため、クルーへの連絡をするためエマリーに電話を貸してほしいと頼むが、エマリーは残念そうに首を振る。


「この吹雪で電話線が切れちまってね、今はどこにも連絡できないのさ」


「そんな……どうすれば……」


 凍の肩がわずかに震えたのを見て、エマリーが優しく微笑みながら肩に手を置いた。


「落ち着いてここで暖まっておきなさい。あんたが無事でいることが一番の安心なんだから。それに、吹雪が収まれば必ず帰れるわ。焦っても仕方ないから、ね?」


 エマリーの言葉に、凍は深く息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。外の吹雪が収まるまでは何もできない――それがわかってはいても、心の中の焦りを消し去るのは簡単ではない。それでも少しだけ、エマリーの温かく優しい手の感触で、不安が和らいだ気がした。


 ここで吹雪が止むのを待つしか無いと納得した凍は、戸惑いながらも椅子に座りなおした。

 その時、エマリーはふと、楽しげな笑みを浮かべた。彼女はゆっくりと凍の方へ向き直り、テーブルの上に真新しいトランプのデッキを並べ始める。ヴィオラもじっとその様子を見守りながら、静かに息を呑んでいるのがわかった。


「ねえ、レイちゃん。どうせ嵐が収まるまでここにいるんだし、時間つぶしに少しゲームでもしてみない?」


 エマリーは何気ない様子でトランプを丁寧に並べ始めたが、その手つきはあまりにも滑らかで、凍は思わずその光景に目を奪われた。遊び慣れている以上のものを感じさせる、熟練の動きがそこにあった。


「ゲーム……ですか?」


 凍がそう問い返すと、エマリーはにこやかにうなずいた。


「ただのカードゲームよ。でもね、これは特別なゲームなの。私が勝てば、あんたにはちょっとした『代償』を支払ってもらう。けど、あんたが勝ったなら……望むものを一つだけ叶えてあげるわ」


 エマリーの言葉に、凍は一瞬、得体の知れない不安を感じた。「代償」という言葉が胸に引っかかり、心がざわついた。しかし、すぐにエマリーが親しげに微笑むと、その不安が和らいでいく。


「……それって、怖い罰とかじゃないですよね?」


 凍が尋ねると、エマリーは微笑みを崩さずに肩をすくめた。


「そうねぇ、腕……とか」

「えっ?」


 予想外の単語が飛び出して、凍はぎょっとする。そんな凍の反応にエマリーはフフフと笑うと、リビングの奥にあるキッチンを一瞥して答えた。


「いや、なに、少しお腹が空いてきたと思ってね」


 その言葉を聞いて、凍はそうかと納得する。意図を汲むように頷くと、安心して答える。


「……あ、ああそうですか。じゃあ私が負けたら、手料理をごちそうします」


 エマリーはフッと微笑むと、トランプのデッキに手を伸ばした。


「さあ、準備はいいかしら……『エリーゼのために』」


 エマリーのその言葉が宣言のように響いた瞬間、部屋の空気がぴんと張り詰めた。凍はその言葉の持つ不思議な力を感じたが、心のどこかで好奇心が芽生え、エマリーの目をしっかりと見据えた。


「はい……!」


 凍が決意を口にした瞬間、エマリーは再び満足げに微笑み、テーブルの上に並べたカードを整える。その場には、ヴィオラの息をひそめた気配も感じられたが、凍は気づかないふりをして、目の前のゲームに意識を集中させた。


 凍がエマリーの提案に応じ、覚悟を決めたその瞬間、エマリーは満足げに笑みを浮かべ、周囲に声をかけた。


「ヴィオラ、あんたも来てちょうだい。お客さんにちゃんと付き合わなくちゃね」


 ヴィオラは一瞬ためらいがちにエマリーを見つめたが、やがて静かに頷き、凍の隣に座った。その表情は穏やかだが、少し不安げな色が見え隠れしていた。凍は彼女の様子が気になったが、すぐにエマリーのさらなる呼びかけに気を取られた。


「ジャン、あんたも来なさい。久しぶりに皆で一緒に楽しむんだからね!」


 エマリーの声に応え、奥の部屋から無言で現れたのは、二十代後半の、どこか影を感じさせる男だった。ジャンと呼ばれたその男は、エマリーの息子であるらしい。彼は一見冷ややかな表情を浮かべながらも、凍に軽く会釈し、凍の隣の席に座った。黙って座るその様子に、彼の内に秘めた何かしらの緊張が伝わってくるようだった。

 エマリーはテーブルを囲む四人を満足げに見渡し、再び微笑みを浮かべた。そして彼女はテーブルの中央に置かれていたカードを手に取ると、口を開いた。


「さて、まずはルールを説明するわね。ゲームはポーカーよ。大まかなルールと役は普通のポーカー。ただ、少しばかりこの家の特別なルールでやることにするわ」


 エマリーがそう前置きをすると、凍は少し緊張しながら耳を傾けた。隣にいるヴィオラとジャンもじっとエマリーを見つめ、いつものルールの説明を待っているようだった。


「まずね、みんなに手札を五枚ずつ配るわ。配られた手役を見て、最初にチップを賭けてもらうわ(BETする)」

 

 エマリーはそう言って、テーブルの中央にチップを一山置いた。凍はそれを見て、少しだけ顔を曇らせたが、エマリーは構わず続けた。


「BETが終わったら、今度は自分の手札の中で不要なカードを一枚、右隣の人に渡すの。そしてまたチップをBETする」


 凍はそのルールに少し戸惑いながらも、静かに頷いた。自分の不要なカードを隣に渡すなんて、普段のポーカーにはないルールだが、エマリーのわかりやすい説明に引き込まれていた。


「BETが終わったら、もう一度カードを右隣の人に一枚渡す。そして、最後にもう一度チップをBETして、出来上がった手札で勝負を決めるってわけ」


 エマリーはテーブルの上を指差し、チップを指で弾くように示した。


「最後に手札を見せ合って、チップは勝者が全部持っていく。もし同じ強さの手札が出て引き分けになった場合は、チップをここに供託して次の勝負に持ち越すのよ。あと、もちろん普段のポーカーのようにチップをBETするときは降りることもできるわ。今回は6試合で、一番チップを多く獲得したプレイヤーの勝利にしましょうかね」


 その説明に凍は少し戸惑いながらも、なんとかルールを理解し、隣のヴィオラとジャンを見渡した。ヴィオラは彼女に優しく微笑みかけ、ジャンは無言のままだが軽く頷いている。


「わかったわ。やってみます」


 凍がそう決意を伝えると、エマリーは満足げに微笑んだ。


「いいわね。じゃあ、さっそく始めましょうか」


 エマリーがカードを手際よく配り、テーブルの上には各自の手札が並べられた。異様な静けさの中、ゲームの幕が静かに開いた。





 それぞれ、チップは百枚。試合ごとの最小BETは十枚。つまりは一試合最後までいくとなると、三十枚のチップを賭け皿に乗せる必要がある。今回は六試合あるので、負け続けるとチップがあっという間に空になってしまう。勝負する場はしっかりと見極める必要がある。

 まず凍は配られた五枚の手札を見る。すると交換するまでもなく、手札の中でQのスリーカードが揃っていた。

 思わず、ガッツポーズを取ろうとしてしまう自分を律し、手札に視線を戻す。内訳はスペード、ハート、ダイヤのQ、それとクラブの4、ダイヤの8だった。


 ここは攻めるべきだと判断する。


 エマリーのBETは最小。続くヴィオラも最小で、凍の番が回ってきた。少し悩んだあと凍は最小BETの十枚を賭けた。誰も強く張ってこない以上、自分を強く見せることは無意味だと思ったからだ。ジョンもまた最小BETだった。


「いいわね。それでは、右隣の人に不要なカードを一枚渡しましょう」


 エマリーが、手札から一枚のカード札を机に伏せ、ヴィオラへ渡す。それを見て全員が同じように不要なカードを右隣へ。凍はクラブの4を渡した。そしてヴィオラから渡されたカードを開く。カードはハートの7。不要のカード。

 スリーカードのまま、凍はまた十枚BETする。他の三人も同じようにBETしていった。凍はこのあたりで誰か一人ぐらいは降りると思っていたのだが、降りないなら好都合だった。


「じゃあ、最後の交換会ね」


 エマリーがそう言うと、カードを交換する。今回凍は、先程受け取ったハートの7をそのまま渡した。そして受け取ったカードを開くと、なんとクラブのQ。フォーカードが揃った。


「レイズ、三十枚BETします」


 凍はチップを強く叩きつけて宣言した。凍の宣言を受けて、ジョンとヴィオラは降り、エマリーだけが残った。

 

 場に出たチップは合計で百四十枚。これを総取り出来れば勝利にぐっと近づく。

 凍は、勝ちを確信しながら自分の手札を公開する。


「フォーカード、です」


 エマリーは驚いた表情で、凍の手札を見る。しかしすぐに平静を取り戻すとにやりと笑って、凍に見せつけるように手札を公開した。


「ごめんなさいねぇ、わたしゃストレートフラッシュだよ」


 そこにはクラブの4から連なるストレートフラッシュが出来上がっていた。


「じゃ、これは私のものだね」


 エマリーはテーブルに乗ったチップをすべて自分の下へ寄せる。そしてカードを回収すると混ぜ始める。

 凍のチップは百枚から残り五十枚まで減った。しかし負けたわけではない。一試合で百二十枚のチップが行き来するゲーム、重要なのはチップを減らさない立ち回り。これ以上無駄に失え無い。

 

 ニ試合目が開始される。凍の手札はワンペアすらないブタ手札。大きな手に移行しそうな気配もない。あっさり降りる宣言をした。

 それからも、ワンペアが出来て降り、ツーペアが出来て勝負に行くもスリーカードの出来ていたエマリーに敗北。それでも意地の粘りを見せ、凍はどうにか最終六試合目まで生き残っていた。しかしチップの数は残り二十枚。


「これ、どうすればいいんですか?」

「一試合分のチップを用意できないときは、オールインが出来るわ、いや、オールインしか出来ないといったほうが正しいかねぇ」


 オールイン、残ったチップをすべて賭ける。この場合チップが最小のBETに届いて無くてもゲームに参加できるという特別ルールである。


「じゃあ、オールインします」


 残ったチップをすべて押し出し。凍はカードを受け取る。手札には8と9のペアが出来上がっていた。ツーペア。幸先が良い。フルハウスも狙える上々なスタートだった。

 ペアになっていない一枚を捨てる。そしてやって来たカードは8でも9でも無かった。だが、それで良かったとも言える。

 このゲームはニ回の交換がある、逆に言えば必ずニ回交換しなければならないのだ。一回目の交換でフルハウスが出来上がってしまえば、次の交換でフルハウスを崩さなければならないことになる。だから一度目の交換でフルハウスが出来なくて少しホッとする。


 そして、二度目の交換、凍は8、9が来るように念じながらカードを手元へ、開く。願いが届いたかのように、そこには9があった。フルハウスが完成した。


 これは確実に勝った。そう思った瞬間、首の後ろ辺りに寒気が走った。嫌な予感。これからとても不幸なことが起こる、そんな予感。

 しかし、だからといってこの手札を変えることも、降りることも出来るわけではない。凍はただ、この手を開いて結果を受け入れるしかないのだ。それに負けたとしても少しの家事をするだけ。何も失うものはない。


 ――そう、思っていた。


「あら、フルハウス。いい手が入ってるねぇ」


 エマリーが凍の手札を見て笑う。そして自分の手札を公開すると同時にさらに深く笑った。


「けどごめんねぇ、わたしゃ、フォーカードさ」


 テーブルに開かれるエマリーの手札は、Aが四枚揃ったフォーカードだった。




「じゃあ、払ってもらおうか……代償をさぁ」


 エマリーの表情が、醜悪に変わっていく。それは、凍が今まで騙されていたと理解するには十分な変化だった。


 そして凍はエマリーのフォーカードに敗北した瞬間、突然右腕に走る猛烈な痛みに襲われた。まるで腕全体が焼かれ、ねじられ、粉砕されるかのような苦痛が彼女を貫く。その痛みは、鋭い刃で骨の芯まで切り裂かれるような容赦のないものだった。


「!?……っ、あ……ああっッ!!!」


 目の前の光景がぼやけ、視界が暗闇に飲まれていく。その瞬間、五感がすべて遠のいていき、ただ右腕の痛みだけが存在していた。右腕の激しい痛みは凍の脳内を支配し、あらゆる思考を奪い尽くしていた。周囲の音も匂いも温度も、すべてが遠ざかり、唯一右腕の痛みだけが残る。悲鳴をあげようにも声が出ず、凍はただ痛みの闇に飲み込まれるように震えていた。

 そして、ある瞬間、痛みが突如として消え去った。暗闇から戻ってこれて、そこにある右腕の安否を確認しようとすると――凍の右腕はどれだけ力を込めても動かず、電池の切れた人形のように、だらんと身体にくっついているだけだった。

 凍がぼんやりとその空白を見つめていると、やがて彼女の意識に戻ってきたのは、対面で不気味に笑うエマリーの顔だった。それまで穏やかな微笑みで「優しいおばさん」を演じていたその顔は、まるで別人のように歪み、冷酷さと狂気を隠そうともしない、腐った性根が露わになっていた。


「どうしたの? レイちゃん。腕の感覚が無いのが、そんなに不思議かい?」


 エマリーは嘲るように笑い、凍の喪失した右腕を指差した。その声はこれまでの柔らかさとはまるで違う、冷たく乾いた響きを帯びていた。


「最初に言ったじゃないかい、腕を賭けてもらうってさぁ! あんたはそれを勝手に「料理を作ってくれ」だと勘違いしたみたいだけど!」


 エマリーは勝ち誇ったように、笑い声をあげた。その嘲りに満ちた様子は、凍の無力さをこれでもかと嘲るようで、まるで楽しんでいるかのようだった。


 凍は痛みが突然消えた右腕をぼんやりと見つめていた。感覚が消え去り、まるでそこには何もなかったかのような虚無感が広がる。彼女ははっきりと自分がエマリーに騙され、何かを奪われたことを理解していた。しかし、どうして自分の腕から感覚が完全に失われたのか、その理屈が飲み込めないまま、右腕の空虚を何度も確かめる。


「……どうして……私の、腕が……」


 かすれた声で呟く凍を見て、エマリーは薄気味悪い笑みを浮かべた。それはまるで、凍の困惑と絶望を心の底から楽しんでいるかのようだった。今までの親しげな態度など微塵も残っていない。


「どうしてか、ですって?負けた代償ってものよ。あんた、まだ理解していないのかい?」


 エマリーの言葉に、凍はさらに混乱した。腕の感覚を完全に失ったことは事実だが、それがどうして「ゲームに負けたから」なのか、彼女の頭の中では理屈が繋がらない。理解が追いつかないまま、彼女はただ動かなくなった自分の腕をぼんやりと見つめ続けた。


「驚くのも無理はないわ。けれどね、こうして腕を失ってから気づくっていうのも、なかなか滑稽なものよ」


 エマリーは嘲るように笑いながら、凍の前でその醜悪な本性を隠そうともしなかった。そのままエマリーは携帯電話を手に取ると、どこかへ掛けだした。


「あんたぁ! 今度はなにか出たかい!?」


 それは先程まで無いと言っていた電話だ。凍はここに来てようやく自分が鍋に誘い込まれた鴨ネギだったのだと知る。


「何? 油田!! そいつぁすごいじゃないか!! まさかこの小娘がそんな価値のある人間だったとはねぇ!!」


 電話をしながら、興奮しっぱなしのエマリー。

 凍は失った右腕を見つめたまま、胸の奥に鋭い痛みが広がっていくのを感じていた。自分が完全にエマリーにハメられ、騙されていた――その事実がようやく真の意味で理解できた。エマリーは始めから「ゲーム」に勝てる見込みを持っていなかった凍を冷酷に計算し、彼女の欲望のままに陥れたのだ。

 しかし時は既に遅く、失われた右腕は取り戻す術もなく、ただ虚しく空虚な感覚が残るだけだった。凍はエマリーの不気味な笑みと、今やあらわになった彼女の腐った本性を見つめながら、絶望に身を震わせた。取り返しのつかないものを失ったという事実が、彼女の心を容赦なく締め付けてくる。


 ふと、凍の視線がヴィオラの方に向けられた。そこには、何も言えずに俯く彼女の姿があった。ヴィオラがこの場にいて、エマリーと共にゲームのルールを知っていながら、自分に真実を伝えなかったこと――それに気づいた瞬間、凍の心の中で信頼と友情が崩れかけていくのを感じた。


「……ヴィオラ、どうして……」


 かすれた声で問いかける凍に、ヴィオラは何も答えられず、ただ怯えたように目を伏せたまま震えていた。その沈黙が、凍にとってはさらに大きな痛みとなって押し寄せる。

かつて親友だと思っていたヴィオラが、エマリーの陰謀を黙って見過ごし、何も伝えなかった――その事実に、凍はこれまでに感じたことのない裏切りと孤独を感じたのだった。

 エマリーは、凍の絶望を隠さず見つめ、冷たく微笑んでいる。その目には、かつての温かさなど微塵もなく、凍がどれだけ傷ついても知ったことではないという冷酷な光が宿っていた。


「ねえ、レイちゃん。その腕、取り戻したいかね?」


 エマリーの声が、蛇のように絡みついてくる。凍は痛みと悔しさを胸に滲ませ、うつむいたまま答えなかった。それでも、エマリーはそのまま続ける。


「もう一度、同じゲームをするんだ。次に勝てれば腕を取り返せばいいのさ、だけど負ければ……また一つ、なにか大切なものを失うけどねぇ」


 凍は心のなかに渦巻く感情に、自分が飲み込まれていくの感じていた。痛みも悔しさも、そして絶望も全てが一緒くたに、凍を狂わせようと膨れ上がっている。


 役者として五体満足の身体を失ったというのは先ほど感じた痛みより強力な痛みだった。右腕が動かせない役者が、まともに演技を出来るだろうか。カメラの前に立てるだろうか……

 これ以上失っても、何も変わらない。失ったという事実があるだけだ。それならば、残った自分の全てを賭け皿に乗せて、腕を取り返すために戦うべきだと、凍はそう考えた。


 凍は顔を上げ、冷え切った視線でエマリーを見つめた。虚ろな瞳の奥に、決意とは違う、どこか捨て鉢な光が灯っていた。


「……もう一度、勝負してあげる」


 その言葉にエマリーは満足げな笑みを浮かべ、まるで予想通りだと言わんばかりに肩をすくめた。


「いいわよ、レイちゃん。あんたがその気なら、楽しませてもらうわ」


 凍はエマリーの言葉に応えず、ただ視線を逸らした。そのまま俯いたままの声で、静かに言葉を続けた。


「その前に……少しだけ時間が欲しい。トイレに行かせて」


 一瞬の沈黙の後、エマリーは「構わないわ」と軽く手を振り、再び不敵に笑みを浮かべた。

 凍は冷静を装って席を立ち、ゆっくりと部屋を後にしたが、その足取りはどこか重く、戦いに赴く覚悟というより、むしろ死に場所を探すようだった。




 虚ろな足取りでトイレに向かっていた凍は、ふいに背後からかけられたヴィオラの声に足を止めた。追いかけてきたヴィオラの目には、戸惑いや後悔が滲んでいる。その視線を見た瞬間、凍の中で張り詰めていた何かが崩れかけた。


 凍は一瞬だけ、ヴィオラにすがりつきたくなる衝動に駆られた。涙がこみ上げ、彼女の肩に抱きついて声をあげて泣きわめきたくなった。信じたかった――今まで親友だと思っていたヴィオラが、心からの味方であると。裏切りなど、ほんの気の迷いだったと言ってほしかった。

 だが、それを口にすることはできなかった。すがるような気持ちを必死に飲み込み、凍は涙をこらえたまま、冷ややかな眼差しをヴィオラに向けた。ここで心を許してしまえば、再び傷つくことになる。目の前のヴィオラの行動が本意でなかったとしても、結局今はエマリーの側にいる「敵」に過ぎない――そう自分に言い聞かせ、胸の奥で深く傷つきながらも、冷静な声を絞り出した。


「こうなるって……わかってたんだよね?」


 意地悪な質問を口にすると、凍の視線には冷たい光が宿っていた。ヴィオラは言葉を詰まらせ、かすかな罪悪感と痛みがその表情に浮かんだ。だが、凍はその表情さえ見たくないとばかりに、すぐに視線を外し、再び歩み始めた。

心の奥で、凍は自分が誰も信じられなくなっていることを痛感していた。それでも彼女は、一切の弱さを見せまいと冷酷な表情を装い、トイレの扉を見据えたまま虚ろな足取りで進んでいった。


「ヴィオラ、アナタと私は敵同士よ。それを忘れないで」


 最後に、残った一本の牙を見せつけるように冷たい声で、凍はヴィオラにそう言った。


 トイレの扉を閉め、一人きりになった凍は、深く息を吐き出して鏡の前に立った。静まり返った室内で、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。右腕を失った喪失感と、今しがた放った冷酷な言葉が胸に重くのしかかっていた。

 鏡の中に映る凍の顔は、どこか他人のようだった。冷たく、無表情で、どこか鋭い目つき。その目には、かつてヴィオラと無邪気に笑い合った時の面影は微塵も残っていない。心の奥底で、自分が壊れていくのを静かに感じながら、凍はその表情の硬さを確認すると、自嘲気味に笑った


「これが……女優の顔だなんて」


 かすかに動いた唇が、乾いた空気の中で音を立てた。自分自身が、まるで凍てついた何かで覆われたような無機質な表情をしていることに気づき、心が冷える。だが、今の彼女にはそれ以外の表情を浮かべる術もなかった。温もりや微笑みなど、とうに消え失せてしまったかのようだ。

 凍は、ふいに胸の中にこみ上げる孤独感を噛み殺し、無言のまま鏡の自分を睨み返した。

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