硝子の宝石箱 ~悲しみを集める無垢な少女の物語~

塞翁猫

ガラスの宝石箱

 栗色の柔らかい髪の女の子がふわふわのベッドに座ってしくしくと泣いていた。

「どうして泣いているの?」

 ベッドの横にいつの間にか黒髪のエプロンドレスを着た少女が立っていた。

「大切なお人形を失くしたの。とっても悲しいの」

 大好きなクマさんのぬいぐるみ。

 お引越ししていったお友達と遊園地に行ったときに買ってもらった大事なものだったのに。

「悲しいのはいや?」

「うん。だってとっても胸が苦しいんだもの」

「じゃあ、その苦しみを無くしてあげようか?」

「できるの?」

「ぬいぐるみを取り戻すことはできないわ。でもあなたの悲しみを取り除くことはできる」

「ほんとう?お願い」

「そのかわり、あなたの思い出を少しもらうわ」

「いいわ。こんなに悲しいなら、いっそなかったことにしたほうがいいもの」

「わかったわ。契約成立ね」


 にっこり微笑む少女の目を見つめるうちに、女の子は深い眠りに落ちていった。

 横たわる女の子の胸のあたりがぼんやりと輝きだす。やがて淡い光の中からキャラメル色のクマのぬいぐるみの幻が現れた。


「まあ、かわいいクマさん。わたし、気に入ったわ。ん?」


 クマと一緒に女の子が大好きだった友だちの姿も現れる。


「あなたは要らない」


 黒いドレスの少女が手を振ると、少女の幻影は淡い細かい光の砂粒になって霧のように消えていった。


 ◇◆◇


 数年後、栗色の髪の女の子は中学生になっていた。


「ももちゃん?ももちゃんじゃない?」

「どなた?」

「あかりよ。幼稚園のとき、よく一緒に遊んだよね。偶然ってすごい!」


 そういえばそんな子もいたっけ。


「そうね、お久しぶり」

「私、ずっとあいたかったのよ。年賀状だって小学校の三年生まで出してたのにお返事がなかったから、ももちゃんもお引越ししたのかなって思ってた」

「いいえ、ずっと同じ家よ」

「お互い中学生かあ。ね、せっかく久しぶりにあったんだし、うちに遊びにこない?」

「いえ、そんな知らないおうちにいきなりお邪魔するなんて申し訳ないし」

「なに他人行儀なこと言ってるのよ。ママだってももちゃんのこと覚えているわよ。そうだ、あのぬいぐるみもまだ大切にしているよ。ベッドの脇においてあるんだ」

「ぬいぐるみ?」

「ほら、小熊のぬいぐるみよ。一緒に買ってもらったじゃない。おそろいで」

「さあ?覚えてないわ。私、ぬいぐるみとかお人形とかあんまり持ってないから」

「……そうなの」

『おーい、ももちー』


 教室の反対側で、ももと呼ばれた少女の小学生のときの友達が数人固まっている。


「友達がよんでいるから、私行くね」

「……うん。引き止めてごめん」


 消え入りそうなあかりの声を聞き流して栗色の髪の少女はその場を離れていった。


『なにやってんよ』

『ごめんごめん、なんか引き止められちゃって』

『なに?知り合い?』

『んー?わかんない。なんか幼稚園のときの子らしいんだけど』

『マジ?そんな大昔のこと覚えてるわけないじゃん。マジウケる』


 風に乗って笑い声が聞こえる。

 あかりはうつむいて立ちつくしていた。


「ただいまー」


 あかりの暗い声が玄関に響く。


「おかえり。新しい学校どうだった」

「……べつに」


 あかりは暗い声で呟いて自室のドアを閉めた。

 そのままベッドに倒れ込むように突っ伏す。

 肩が小刻みに震えている。泣いているようだ。

 部屋には茶色のカラーボックスが置かれていて、あかりの宝物たちが飾られていた。

 カラーボックスの天板の上にきれいには白いレースのマットが敷かれていて、白い小熊のぬいぐるみが鎮座している。

 ぬいぐるみは何度も洗って少しくたびれているが、ブラッシングもしてありきれいに手入れがされていた。

 あかりはしばらくして横を向くと、赤い目で白いクマのぬいぐるみを抱き寄せた。


「ももちゃん、覚えていなかった。あんなに約束したのに」

「ごはんよー」

「いらない」

「どうしたの?」


 部屋からは鼻をすする音が聞こえる。


「花粉症かな。食欲ないんだ」

「そう?取っておくから、おなかが空いたらいってね」

「……うん」


 お母さんにもうそをついちゃった。

 ああもう、学校行きたくないなぁ。

 いつの間にか外は日が落ちて宵闇が部屋にまで忍び込んできていた。

 電気を消した部屋に住宅街の道をゆっくりと通りすぎる車のヘッドライトが入り込んで少女の泣きはらした横顔と白いクマのぬいぐるみを浮かび上がらせる。


「悲しいの?」


 ヘッドライトの明かりが暗い部屋を走査したあとに黒髪のエプロンドレス姿の少女がたたずんでいた。

 黒髪の少女は胸にキャラメル色のクマを抱えている。

 あかりは違和感を覚えつつも心が麻痺したように黒髪の少女の存在を受け入れていた。


「うん、とっても」

「どうして?」

「ずっと会いたかったお友達が、私のことを覚えていなかったの」

「それは悲しいこと?」

「悲しいわ。だって楽しかった思い出も全部なかったことになってしまったみたいで……」

「なら、あなたもその思い出をなかったことにすれば悲しくなくなるんじゃない?」

「……そうね。あんな小さかったころの思い出なんてなくなっちゃえばいいんだわ」

「じゃあ、その思い出を私にくれる?そうしたらあなたの悲しみもなくしてあげる」

「……お願い……しようかしら」

 泣き疲れて抜け殻のようになったあかりは機械的に答えを返す。


「じゃあ、契約成立ね。だいじょうぶ、ちっとも痛くないから」


 黒い髪の少女はくすりと微笑んだ。

 少女のくすくす笑いが耳の奥に優しく響いてあかりのまぶたを押し下げる。

 あかりは深い眠りに沈んでいった。


 眠った少女の胸のあたりから淡い光が浮かび上がる。

 黒髪の少女がその光をそっと両手で包み込む。

 次に手を開くと、水色やレモンイエローやピンクのフロストカラーに染まった金平糖の形をした結晶が少女の小さい手のひらにいくつも乗っていた。


「まあ。なんて純真な悲しみなんでしょう。きれいだわ」


 黒髪の少女は白い金平糖を一粒つまみ取り口に放り込んだ。


「甘い」


 少女はにこにこと笑みを浮かべて金平糖を頬張った。


「さてと」


 少女は眠るあかりの髪をいたわるように撫でたあと、ベッドから立ち上がりカラーボックスのほうに振り返った。


「この子はもう用無しね」


 そういって白いクマのぬいぐるみをすくい取り、自分がもっていたキャラメル色のクマとならべて抱きかかえる。


「お似合いのペアだわ」


 そういって少女は両腕におそろいのクマのぬいぐるみを抱えてくすくす笑った。

 いつの間にか少女の姿は消え、暗い部屋にくすくす笑だけがいつまでも響いていた。

 翌朝、目覚めたあかりは着の身着のままで寝込んだことに気づき慌てた。


「いっけない。シャワー浴びなきゃ。入学早々チコクなんてサイアクだよ~」


 あかりは慌てて身支度を始めた。


「あーん、制服がしわだらけ」


 だがブラウスのボタンにかけた手がふいに止まる。

 あかりはカラーボックスの上の空っぽになったレースのマットを見つめた。


「何が置いてあったっけ?」


「あかりー、朝ごはんよー」

「いい、いらないー。シャワー浴びるー」


 あかりは大声で返事をしながら部屋を出ていった。


「あなた、昨日の晩御飯も抜いたじゃない。朝食食べていきなさい」

「あれ、そうだっけ?でも、遅刻しちゃうよ~。それよりママ、ブラウスのしわ取れる?お願い~」

「もう、しょうがない子ね」


 主を失ったレースのマットの上に窓からこぼれた光線が差し、小さな埃が光に舞っていた。


 ◇◆◇


「これ、直し入ったから。昨日の案に戻して明日までに仕上げて」

 目の前にバサッとファイルが落とされる。

「えっ、今の作業は……」

「ちっ。こっちを先にやるからいま言ってんじゃん。そのくらいの優先順位付けはできるようになってよ。いつまでも新人じゃないんだから」


 この資料作成だって今朝最優先だって積んでいったくせに。


「じゃあオレ、今からクライアントと打ち合わせあっから。あとよろしく」

 先輩は音程のずれた口笛をかすかに鳴らしながら上着をひっかけて出ていった。

 オフィスにかかっている時計はとっくに二十一時を回っている。打ち合わせと称した接待だな、という思いが頭をかすめるが、いまさら腹も立たない。


「はあ……」

 私は大きくため息を吐いてさっきまで作業をしていたファイルを閉じる。

 自分の列だけ残った照明の下でキーボードを叩く乾いた音が響いた。


 なんとか日付が変わる前に資料の作成を終えて終電一本前の電車で帰宅する。

 疲れた足でアパートの階段を上り、部屋の鍵をバッグの底から取り出す。

 薄暗い明りの中で鍵穴を探る手が滑り、鍵を取り落としてしまう。


 拾わなきゃ……


 かがもうと、モルタル打ちの床を見下ろしたところで不意に手が止まる。

 ぽた、ぽた、ぽた。

 灰色の床に丸い染みが広がる。


 あれ?私、泣いている?なんで?


 堪えきれない嗚咽がのどを逆流し、唇をこじ開けて漏れ出してくる。

 あわてて部屋の鍵をすくい上げて部屋に入り、明かりもつけないままパイプベッドの枕に顔をうずめて泣いた。


 そのまま小一時間も過ごしただろうか。

 私はいつの間にか、普段使われていない非常階段の踊り場で手摺りを握っていた。


 涙も枯れてぼうっと空っぽの駐車場を見下ろす。

「どうして泣いているの?」

「……わかんない」

「悲しいの?」

「……わかんない」

「なぜ泣いているのかもわからないの?」

 私はこくりとうなずく。

 傍らで黒い髪の少女がめいっぱい手を伸ばし手摺りにつかまった姿勢で私を見つめていた。

「からっぽなんだ。わたし」

「楽しいことがないの?」

 今度はもう、うなずく気力もわかなかった。


 夢を叶えるためにこの業界に入ったはずだった。目を閉じると高校の卒業文集の寄せ書きがまぶたの裏に浮かび上がってくる。『○○になる!ぜったい!!』と書いた文字がぺラリと剥がれ落ち、くねりくねりと長虫のように踊りながら宙に消えていく。

 何になりたかったのかも、なぜそう思ったのかも、言葉では覚えている。

 でも、希望に満ちていたあのころの気持ちが思い出せない。


 過去の自分が、まるで他人事のように薄っぺらい二次元映像になって再生される。

 その口が語る夢はただの記号になってぺラリぺラリとはがれて宙に舞う。


『午前中に仕上げて』

『午後には用意しろっていっただろ。クライアントを待たせる気か?』

『先週のアレ、どうなった?』

 幻聴がぐるぐると頭の中を駆け回る。手摺りを引き付ける腕に力がこもる。


「その悲しみを無くしてあげようか?」


 袖を引く小さな手の感触に、手摺りから乗り出した上半身を戻す。

 振り向いた私の目に少女の瞳が映る。

 それは黒と見まごうばかりの深い青色を湛え、ときに揺らめくような輝きを宿した宝石のようだった。


「できるの?」

 黒い服の少女はにっこりと微笑んだ。

「そのかわり、あなたの夢をもらうわ」

「いいわ。こんなにすり減ってしまって苦しみばかり生み出す夢なら、いっそなかったことにしたほうがいいもの」

「わかったわ。契約成立ね」


 微笑む少女の瞳から目が離せなくなる。

 瞳の奥で瞬く光が夜空のように広がって意識を呑み込んでいった。


 気が付くと自分の部屋で寝ていた。

 顔にかかる陽の光が眩しい。

 昨日の出来事はどこからどこまでが夢だったのだろうか。体は疲れが溜まっていたが、頭はすっきりとしている。それもそのはずだ。もう十時を回っている。

 先ほどからフローリングの床でブブブと振動を続けている携帯電話を拾い上げて電源ボタンを長押しする。電源オフのメッセージが出る前に画面に映っていたのは会社の電話番号だった。

 いつもなら焦って飛びつくところだけれど、不思議となんの感慨も浮かばない。


 なんであんな会社に必死にしがみついていたんだろう。

 とりあえず部屋にいてもなにもやることを思いつかないな。

 久しぶりに実家にでも帰ってみるか。


 黒髪の少女は真っ白な部屋のドレッサーの前で猫脚のスツールに腰掛けていた。

 部屋の調度品はすべて無垢の硝子ガラスでできている。よく見ると部屋の壁も床もすべて硝子だった。真っ白に見えたのは白く塗られていたからではなく、部屋も調度品もすべてが色彩を持たない無色透明だからである。

 少女は皮膚を突き破りそうに硬くとがった結晶を人差し指と親指の間につまんでいる。結晶の表面は素晴らしい透明感を湛えていて、元は混じりけのないサファイヤブルーに輝いていたのがうかがい知れる。だが少女が手にしている宝石の中身は漆黒に塗りつぶされていて見通せない。


「きれいな、真っ黒に染まった夢だこと。うふふ」


 少女は切り子模様の刻まれた硝子の小箱に宝石をコロリとしまいこんだ。


 ◆◇◆


 その日、白い車に乗せられていく後ろ姿の母さんを見つめてぼくは言った。

「ママ、どこに行くの?」

「ママはね、ちょっと具合が悪くて入院するんだよ」

「じゃあ、ぼくお見舞いにいくよ」

「うん、でもちょっと遠いから……」

「ぼく、電車もバスもひとりで平気だよ」

「ひとりで電車に乗れるなんて偉いね。そうだ、今度電車のおもちゃを買ってあげるよ」

 そのときぼくの手を引いていた人は誰だったろうか。

 父さんだったかもしれないけれど、女のひとだったような気もする。


 そのあとどうしたのかよく覚えていないけれど、ひとりぼっちで公園のベンチでひざを抱えていたような気がする。

 記憶の中では母さんを見送ったときと同じ洋服を着ていたから同じ日のことだと思うけれど、あんまりたくさんの服は持っていなかったので違う日かもしれない。でも頬に大きなガーゼを貼り付けていたから、やっぱり同じ日じゃないだろうか。


「悲しいの?」

「ううん」

「なら、なぜ泣いているの?」

「泣いてなんかないよ」


 乾いた瞳でぼんやりと宙を見つめる視界の端で、ベンチの隣に座る黒いドレス姿の女の子の髪がふわりと揺れた気がした。


「涙がこぼれていなくも心が泣いているわ。わかるもの」

「……ママが病気になっちゃったんだ。ぼくのせいで」

「あなたのせいなの?」

 こくりとうなずく。

「どうして?」

「ママはぼくの顔を見ると悲しくなるんだ。いつも『なんであの人じゃなくてあんたなの?あんたの顔なんて見たくない』って怒ったあと泣きだすんだ」


 ぼくには母さんが怒る理由がわからなかった。

 だから、とにかくいい子にならなくちゃってがんばった。

 保育園の先生が「お母さんにいっぱい好きだよって言えばきっと伝わるよ」って教えてくれたから、いっぱい伝えたんだ。

 でも、ぼくが好きだよって言うたびに母さんは悲しい顔になってしまうんだ。


 ぼくは公園に咲いているタンポポやヒメジョオンを摘んで届けたりしたけれど、母さんは受け取ってはくれなかった。

 そのうち母さんはぼくのことが見えなくなった。


 母さんはいつもガラスの小箱の中を見つめながらぶつぶつとつぶやくようになった。

 まるでガラスの小箱の中に誰かがいて、そばにいるぼくのほうがどこにもいないみたいだった。それでも無理やり母さんに気づいてもらおうとして体を揺すると、母さんはとても恐い顔になってぼくをぶった。


 母さんが出て行った日、ぼくは間違ってガラスの小箱を落としてしまったんだ。

 母さんは狂ったように素手でガラスの破片をかき集めた。止めようとしたぼくを振り払ったときに母さんが手にしたガラスの破片がぼくの頬を切り裂いた。

 誰かが救急車を呼んで、あたりは回転灯の赤い光であふれていた。

 もしかしたらパトカーも来ていたかもしれない。

 その日の夕方に母さんは連れられて行ってしまった。

 だから母さんが病気になったのはぼくのせいなんだ。


「その悲しい思い出を無くしてあげようか?」

 女の子はお菓子をあげようかというように朗らかに言った。

「ううん」

「いいの?でも、悲しいのはいやでしょう?」

 ぼくはまた首を横に振った。

「悲しい思い出ばかりだけれど、でも大好きなママの大切な思い出なんだ」

「そう。ならそれもいいわね」

 横を振り向いたときには女の子の姿はもう消えていた。


 その日からずっと、母さんには会っていない。

 大人たちに病院の場所を聞いても言葉を濁して教えてはくれなかった。

 誰かが「おまえが会いに行くとお母さんの病気が悪くなってしまうんだよ」と口を滑らせてからは病院を探すことはしなくなった。


 父さんはぼくが小学校の高学年のときに単身赴任で海外へ行ってしまった。

 もともとあまり交流はなかったし、同じ家に住んでいても朝早く出て夜遅く帰ってくる父さんとはほとんど顔を合わせなかったから、父さんがいなくなっても困ることはなかった。ただ、子供がひとりで暮らすのは外聞がはばかられたのか、ぼくは親戚の家に預けられた。


 親戚の家を転々としながら中学校を卒業したので友達はいなかった。友達ができてもすぐに転校することになり、手紙を書いても音信不通になってしまうばかりだったから。


「悲しいの?」

「ううん。いや、『うん』かな」

「どっち?」

「悲しい気持ちも含めて、大切な思い出だからね」

「悲しみに慣れてしまったのね」

 ぼくは首を振った。

「慣れるというより、悲しみと友達になったって感じかな。だって悲しい気持ちのぶんだけ楽しかったりうれしかったりした思い出があるってことだからさ」

 ぼくは声の主を振り向いて言った。

「それに悲しいことがあると、きみに逢えるからね」


 そこにはぼくと同い年くらいの黒いドレスの少女がいた。

 ゆるくウェイブするつややかな黒髪が白磁のように透きとおる白い肌を縁取っている。

 黒髪は緑のサテンのリボンでとめられて、レースの縁取りのある白いブラウスの襟にかかっていた。墨を流したような光沢のない黒のドレスが髪や肌の透明感を引き立てている。

 瞳は光の届かない地底湖の水のようにどこまでも深く澄んでいた。


 彼女はとても悲しいことがあるといつもそばに現れた。

 はじめはぼくの空想の友達なのかと思っていた。けれど、いつしかこうして向き合って話すようになり、その存在感は回を重ねるごとに現実になっていった。

 ただ、彼女とぼくのあいだには薄い硝子のような見えない壁があって、触れ合うことはなかった。


「あなたはとても変わっているのね」

「ぼくが?」

 少女がこくりとうなずく。

 髪がさらりとこぼれて濃く深いエメラルド色に光を反射する。

「ほかのひとはみんな悲しみを手放したわ。だって悲しみを持ち続けるのは苦しいってみんないうもの。あなたは苦しくないの?」

「ぼくは……」


 悲しい記憶がフラッシュバックする。胸がしめつけられる感覚がよみがえる。しかし、その感覚の先にとろりと暝い闇があってどこか温かく懐かしい匂いが感じられる。ぼくにとって悲しみは母さんとつながっていると感じられる唯一の感覚なんだろう。


「ぼくの思い出はぜんぶ悲しみでつながっているからかな。ひとつひとつは苦しくても、ぜんぶひとつにして思い起こすと辛さが薄れる気がする。だからぜんぶの悲しい記憶を大事にしたいんだ」

「ふーん」

「きみは?」

「わたし?」

「うん。きみは悲しいことはないの?」

「わたしはよその悲しい記憶しか知らないわ。だから悲しい気持ちがどんな感じなのか知らない。楽しいっていう気持ちも」

「え?」

「わたしはずっとこの部屋にいて、鏡に映った悲しみを集めるだけの存在。わたしの世界にはわたしひとり。だから悲しみも喜びも何もないのよ?」

「でもきみは、ここにいるじゃないか」

「あなたにはわたしがすぐ横にいるように見えるのね。でも本当のわたしは壁の『窓』からあなたの世界を覗きこんでいるだけなの」


 驚いた。彼女はこんなに近くにいるのに、本当は遠く離れた世界にいるなんて。

 ぼくと彼女を隔てる薄い硝子の壁がにわかに実在をもって冷気を放つように感じられる。


「寂しくないの?」

 やっとのことで絞り出した言葉が、乾いた響きで硝子の壁を打つ。

 口にしてから、それは聞いてはいけないことのような気がした。


「寂しい?それもよく知らない気持ちだわ」

「ずっとひとりぼっちなんでしょう?」

「そんなことはないわ。すっと『窓』ごしにいろんな人たちを見たりお話ししたりしているもの」

「じゃあ、友達はいるんだ」

 ちくん。

 ひとりぼっちじゃないと聞いて安心する気持ちの奥で、なぜか少し胸が痛んだ。

「どうしたの?いま、あなた少し悲しくなった」

「ううん、何でもないよ。それよりよかったよ、きみにたくさん友達がいて」

「友達はいないわ」

「えっ?でもいま、たくさんの人とお話ししているって……」

「ええ。でも二度会ったことがある人はあなたが初めてだから」

 ぼくはびっくりした。

「わたしがお話しするのは大きな悲しみを抱えた人だけ。そして悲しみを思い出と一緒にもらったら、みんなわたしと出会ったことは忘れてしまうの」

「じゃあぼくは……」

 彼女がこくりとうなずく。

「悲しい記憶を手放さなかったのはあなただけ。

 もう一度出会うほど大きな悲しみを抱え続けているのもあなただけ。

 だからあなたはとっても変わっているわ」

 そういって微笑んだ彼女の笑顔が眩しかった。


 ◆◆◆


 むかし、ある美しい森に生まれつき強い魔法の力を持った娘が住んでおりました。

 森には娘のほかには人間はいませんでしたが、娘は森の動物たちと仲良く暮らしておりました。

 ある嵐の夜、森に一人の男が迷い込んできました。娘は泉のそばの小さな家に倒れた男を運び込むと、甲斐甲斐しく看病しました。男は少しずつ回復し、二週間もすると歩き回われるまでになりました。

 男は娘の肩を借りて泉の小道を散策しながら感謝の言葉をささやきました。

 男はすっかり元気になったあとも娘のもとにとどまりました。

 男は娘に甘い言葉で愛を語り、娘も男の胸に顔をうずめて幸せなため息をつきました。

 ある日、男は国に帰らなければならないといいました。そして娘に一緒に来てほしいと求婚しました。娘は天にも昇るほどの幸福に包まれて求婚を受け入れました。男は求婚の証として花かんむりを送り、娘は婚約の証として身に着けていた護符を与えました。

「今は何も持たない私だが、身を立てて必ず君を迎えにくるよ」

 男はそう言って森をあとにしました。

 娘は幾日も幾日も指折り数えながら男の帰還を待ちました。

 そうしていくつもの月日が過ぎ去りました。

 娘はとうとう森を出て、婚約者を探すことにしました。

 長い困難な旅の果てに娘がやっとの思いで婚約者のもとにたどり着くと、そこでは婚約者と王女の結婚式の祝祭が執り行われておりました。

 傷心の娘は泣きながら森へと帰りました。

 しかし、優しい森も平穏な泉のそばの生活も、彼女の悲しみを癒すことはできませんでした。

 そうしていくつもの月日が過ぎ去りました。

 娘はずっと泣き続け、森はいつしか厚い雲に覆われた暗い森となっていました。それでも森の動物たちは娘の身を案じ、毎日果物や木の実を届けて娘のもとにとどまりました。

 ある日、娘は風の便りに男と王女のあいだに可愛い男の子が産まれたことを知りました。

 娘は悲しみのあまり胸が張り裂けてしまいました。

「こんなに悲しい思いをするくらいなら、いっそ心を無くしてしまおう」

 娘はもう二度と悲しい思いはしないと強く強く念じながら硝子細工の宝石箱を作りました。そして、ありったけの魔力を込めて自分の中にある悲しみを宝石箱に閉じ込めました。

 悲しみを感じる心を失くした娘は冷酷非道な魔女になりました。

 暗い森から滲み出した魔女の呪いは王国をむしばみ、土は痩せ草木は枯れて絶え間なく疫病がはびこる土地となりました。

 魔女の呪いは王国が滅びた後も何十年何百年も彼の地を苛み続けたといいます。

 その場所がどこにあったか、今となっては誰も知りません。


 ◆◇◆


「ねえ、もっと自由に会えないかな」

「どうして?あなたが悲しい出来事に出会えばいつでも逢えるわ」

「そうじゃなくてさ。もっと普通におしゃべりしたり、一緒に遊んだりできないかな。

 ……その、友達になってほしいっていうか」

 彼女はびっくりしたように目を大きく見開いてぼくを見た。

 ぼくは少し恥ずかしくなって下を向いた。


「それはできないわ」

 彼女の言葉は半分覚悟していたものだったけれど、やっぱり落胆した。でも今日はあきらめないって決めたんだ。

「どうして?」

 ぼくは彼女がよく使う言葉で問い返した。

「それは、わたしが悲しみを集めるだけの存在だから」

「誰が決めたの?」


 彼女はまた目を見開いてしばらくぼくのことを見つめた。


「さあ。最初からそうだったから考えたこともなかったわ」

「だったら試してみてもいいんじゃないかな」

「でも、どうすればいいかわからないわ」

「ぼくを見つけるとき、いつもどうしているの?」

「あなたが悲しい気持ちになるとすぐにわかるわ。あなたの悲しみは特別な色をしているもの」

「だったら次はぼくがきみのことを強く想ってみるよ。そうしたらきみになにかのシグナルが届くかも」

「わかったわ。こんど試してみましょう。うまくいくとは思えないけど」


 彼との束の間の絆が切れたあとも、彼の言葉が耳元で繰り返し響いた。

「わたしと友達になりたいだなんて、やっぱり変な人」

 くすくす笑いが真っ白な部屋に響く。

 部屋は八本のドリス調の柱と八面の精緻な紋様で縁取られた壁に囲まれている。ドーム型の高い天井はつややかな純白のサテン織りで覆われていて、等間隔で並ぶ真珠のビーズが美しい幾何学模様を描く。床には白と黒の大理石のタイルが市松模様に敷き詰められている。

 柱も壁も調度品も、部屋のものはすべて無垢の硝子でできていた。

 壁の硝子は混じりけのない透明だけれど、壁越しに見える風景は合わせ鏡の中のように遠く青緑色の闇を映すのみだった。


 わたしは蜘蛛の巣のように繊細なレースのカーテンがついた天蓋付きのベッドに身を投げて、窒息しそうなほど柔らかい羽根枕に顔をうずめる。


「彼がいうように悲しみ以外の気持ちが本当にわたしに届くのかしら?早く試してみたいわ」

 こんど彼に逢えるのはいつだろう。

 わくわくする気持ちと、じりじりする気持ちが沸いてくる。


「『いつ』?」

 そういえば時間を意識したのは初めてのことだわ。

 生まれたときからずっと、わたしはこの部屋の中でただときおり硝子越しに映る悲しみの風景を見つけては回収するだけの営みを繰り返してきたのだもの。


「『生まれたとき』?」

 わたしは何かから生まれたのかしら?

 わたしは気づいたときからずっとわたしのままだ。

 ずっと前に誰かがわたしに悲しみを集めるように命令したような気もするけれど、どのくらい昔のことかわからない遠い過去の話。


「『過去』?」

 わたしが持っているものといえば、集めたたくさんの悲しみだけだ。それらにはもとの持ち主の悲しい過去が詰まっているけれどわたしのじゃない。わたしはずっと変わらずここにいて、ずっと同じように悲しみを集めているだけ。

「この部屋には時間が流れていないのね。だからわたしにも過去がないのだわ」

 だってこの部屋には悲しみしかないのだから。

 悲しみは心の時間を止めてしまうから。


「あーあ、早くこないかな」

 初めて覚える『つまんない』という感情を持て余しながら、わたしは時間のない部屋で指折り数えながら彼からのシグナルを待つことにした。


 初めてぼくから彼女のもとに訪れることに成功したのは夢の中だった。

 寝苦しい夏の夜に季節外れの冷たい霧が立ち込めていた。周囲には電柱のように真っ直ぐな木々が立ち並んでいる気配が感じられたが、星の無い真っ暗闇の中ではその姿は確認できなかった。

 暗闇でも不思議とつまずいたりぶつかったりすることなく、平坦な地面の上を足音もなく歩く。足元にまとわりつくもやを蹴散らして歩くうちに、前方にぼんやりとした光が見えてきた。

 光の先には大きな硝子でできた建造物があり、ぼんやりとした光は建物自体の内側から発しているようだった。


 硝子の壁は表面が濡れた氷のように波打っていて中を見通すことはできなかった。

 八角形の建物の外壁をぐるりと一周するうちに一面だけ平らになっている壁を見つけて中を覗き込む。その壁は他の壁とは違って額縁のような縁取りがあり、扉のようにも見えた。

 覗き込んだ部屋の中央には天蓋付きの大きなベッドがしつらえてあり、ベッドの端にちょこんと腰を下ろして足をぶらぶらさせている彼女が見えた。

 ぼくは大声で彼女の呼んだ。

 だけどぼくの声はあたりの霧に吸い込まれて壁越しの彼女には届かない。

 ぼくは両こぶしをそろえて力いっぱい硝子の扉を叩いた。扉はびくともしなかったけれど、かすかな揺らぎが注意を引いたのか不意に彼女がこちらを振り向いた。

 彼女はびっくりしたように目を丸くしてからにっこりと微笑んでこちらにやってきた。


「こんにちは。それともこんばんわかしら」

「やっと会えたね」

 分厚い硝子越しだったけれど、不思議と声はよく通った。

「ここがきみの家?」

 彼女がこくりとうなずく。

「外に人がいるのを見るのは初めてだわ」

「この扉は開かないの?」

「これは扉なのかしら?ほかの壁と同じに見えるけれど」

「だってほら、ここに鍵穴みたいなのがあるよ」

 硝子の扉の中央に四角い枠が刻まれており鍵穴のような丸と縦棒で構成されたくぼみがあった。

「だけど取っ手がないわ。ドアノブがないのにどうやって開けるの?」

「うーん。不思議だね」

「それに、鍵だって持ってないわ」

 あたりに落ちていないかと少し探してみたが、もともと足元は靄がかかっていて見通せない。貴重な時間がどんどん過ぎていくことを感じて、鍵の件はまた別の機会に調べることにした。

「来るのが遅くなってごめん。ずいぶん待たせちゃったかな」

「そうなの?誰かを、何かを待ったのは初めてだから、これが長いのか短いのかよくわからないわ。でもそうね、次は今回よりも早く来ること。いいわね?」

「わかった。約束するよ」


 そうしてぼくたちは透明な硝子の壁ごしに他愛のない話をした。

 楽しい時間はあっという間に過ぎていき、あたりの霧がほの白く輝きだすころ、猛烈な眠気がぼくの意識におおいかぶさってきた。


「そろそろ時間切れみたいだ」

「またすぐ逢えるわね?」

「うん。きっと」

「約束よ」


 そういって厚い硝子越しにお互いの手のひらを合わせる。

 まわりの霧がいっそう光を帯びて影のない白一色に世界を染めていく。

 いつの間にか硝子の家も消え失せ、白い闇がぼくの意識を飲み込んでいく。

 空に向かって落ちていくような感覚に声にならない悲鳴を上げて目を開けると、いつものベッドの上にいた。


 彼がいなくなったあとのこの部屋はやけにがらんとして空虚に感じられた。もともと何もない部屋だったけれど、そのことにいま初めて気づいた。

 宝石箱をあけて中を覗き込む。

 冷ややかな黒曜石の輝きを放つ結晶がいくつも入っている。その中のひとつを選んでつまみ上げようと触れてみる。

「いたっ」

 パチッと静電気がはじけるような痛みが指先を走った。

 以前はこんなこと無かったのに。

 別の結晶を選んで、こんどは慎重に触れてみる。パチッとはこなかったけれど、すごく冷たい。ずっと手にしていると骨まで冷気がしみてきそうだった。滑らかな表面をぺろっとなめてみる。

「うえっ」

 ほんの少しなめただけなのに、喉の奥までいがらっぽくなるほど苦い。

 そのまま宝石を小箱に戻した。

 硝子の壁に映るいくつもの悲しみのシーンをぼんやりと眺める。視線を合わせるとそれぞれの物語の主人公が放つ悲しみの波動が胸を締め付けてくるから。

 ついこの間まではそんなことも気にならずに悲しみの主たちに話しかけていたのに、いまはもうしたくない。

「わたし、どうしちゃったんだろう」

 彼の訪れを待つ時間が前よりももっと長く、そして辛く感じられた。


『そんなこと言ったって、あの子の父親からはもう半年も養育費の入金がないのよ。こっちだって限界よ』

 少し早く学校が終わって帰ってきたぼくは、廊下の奥から聞こえる養母の声にぎくりと足を止めた。電話越しに話をしている相手はひとつ前にお世話になった家の人らしい。

『そうなのよ。お行儀が良くて手がかからないのはいいんだけれど、ちっとも心を開かないっていうか。陰気な感じでいっしょにいるとこっちが滅入ってくるわ』

 ぼくは気付かれないようにそっとドアを閉めて家を出た。


 家を出て働こう。これ以上いまの家の人たちに迷惑はかけられない。

 住み込みの働き口がないかと新聞販売店やパチンコ店なんかを見て回った。けれど、思いつきで探したってそんなに都合のいい話しがあるはずもなかった。

 水を飲みに立ち寄った公園のベンチに座り込む。あたりはすっかり日が落ちて昏かった。

「この世界にぼくの居場所なんてないのかもな」

 ぎゅっと目をつむる。

 気がつくと硝子の森の中に立っていた。

 悲しみの中でしか希望に逢えないのは皮肉か必然か。そんなことを頭の片すみで考えながら硝子の家を目指す。

 硝子の扉を叩いて合図を送ると、彼女がベッドからつらそうに起き上がのが見えた。


「来てくれたのね」

「どうしたの?ずいぶんと具合が悪そうだけど」

「ううん、なんでもないわ。わたしは大丈夫よ」

 ぜんぜん大丈夫そうじゃなかった。

 顔色は悪く歩く姿にも元気がなかった。

 こうして話をするだけでも体力を消耗するようで、硝子の扉に肩を預けるように寄りかかり床に座っている。


「元気なさそうだよ。ちゃんと食べてるの?」

「……うん」

 彼女の様子は心配だったけれど、硝子に隔てられて彼女の言葉以上のことはわからなかった。

 もっとそばに行きたい。

 同じ空気を呼吸して話がしたい。


「そっちにいく方法はないのかな」

「無理よ。ここは閉じた世界。あなたの世界とはつながれないわ」

「試してみなくちゃわからないさ。何かないかな、この世界の成り立ちとかヒントがさ」

「この部屋は悲しみしか存在しない世界なの。この世界に入り込めるのはきっと悲しみだけなんだわ」

「じゃあぼくも悲しみだけの存在になればそっちに行けるかも知れないね」

「こちらに来たら二度ともとの世界に戻れなくなるわ、きっと」

「それでもぼくはそちら側に行きたい。きみのそばにいたいんだ」

 ぼくの世界なんてどうなっても構わない。

 無言で見つめ合う彼女の瞳にはぼくと同じ渇望が映し出されていたと思う。


 次の日、出掛けに郵便受けを覗いたのはなにかの予感があったからなのだろうか。

 郵便配達員のバイクが遠ざかる音につられるように開けた受け皿には、知らない病院の名前が書かれた封筒が入っていた。

 ぼくはとっさに封筒を抜き出して上着のポケットに滑り込ませた。ふり返って誰にも見られていないことを確認にしたい衝動を抑えて歩き出す。

 駅のそばにある図書館でノートを広げ、勉強をするふりをしながらこっそりと封筒を取り出した。

 予感に震える指で開いた封書には大きく印刷された病院名と母さんの名前があった。

 ノートのすみに病院名と住所を書き写して破り取る。図書館に備え付けのパソコンを借りて検索サイトに病院名を入力する。目的の情報は検索結果の一番上に表示されていた。病院のホームページを指すリンクをクリックする。さらにリンクをたどって病院の最寄り駅とそこからの案内図を探し出し印刷した。

 ウェブサイトが示した目的地は電車を乗り継いで一時間くらいの海辺の町だった。

 駅から少し離れた病院まで歩く。わりと大きめの病院で、待合室を兼ねたロビーの正面に受付カウンターがあった。追い返されないだろうかと内心びくびくしながら名前を告げる。

「ここにお名前と入館時間を記入してください」

 面会の手続きは拍子抜けするほどあっさりと完了した。受付で教えられた病室に向かう。

 部屋は硝子で仕切られた前室とベッドの置かれた病室が分かれた構造になっていた。

「中には入れないんですか」

「いまの時間は無理ね。先生の診察時間なら同席できるかも知れないから確認してみるわ」

 看護師さんは引き戸になっている扉を開けてぼくを前室に送り出すと忙しげに廊下を去っていった。


 硝子越しにベッドに横たわる人影を見つめる。

 青白く痩せこけた頬に生気はなく、まるで死んでいるみたいに呼吸が細い。

 記憶の中の母さんと眼の前に横たわる女性の姿が重ならなかった。

 こみ上げる涙で視界がぼやけていっそう現実味が薄れてしまう。

 あんなに逢いたかったのに、ぼくは母さんを忘れてしまった。

 いくら懸命に思い出そうとしても、記憶の中の顔は逆光に隠されたように曖昧だった。

 ぼくは声をあげて泣いていたんだと思う。

 だけどぼくにはもう何も聞こえなかった。


 どのくらいそうしていただろう。ぼくは膝を抱えて上も下もない灰色の空間を漂っていた。

 気がつくと硝子の家が足元に浮かんで見えた。

 いつもの森もなく地面もなく、ぼくも硝子の家もただ一面灰色の空間に浮いている。

 やがて吸い寄せられるように硝子の家に近づいていった。

 硝子の家はいつになく透明で、ほとんど存在していないくらい薄く感じられた。透明な硝子の屋根越しに見下ろすと彼女がベッドに伏せていた。やつれて顔は紙のように白く血の気が無かった。

 ぼくは両手を握りしめて硝子を叩いた。

 薄い硝子が押し返す抵抗を感じる。だけど音はしなかった。

 伏せていた彼女のまぶたが重たげに開かれる。

 生気を失って乾いた口唇の端がわずかに持ち上がり微笑みを形作る。


『来てくれたのね』

 彼女の声が直接心に響いた。

『なにがあったの?どうしてそんなに……』

 心で直接話しかけているのに言葉が出てこない。


『……わたしね、あなたに出会っていろいろお話して、いろんな気持ちを知ることが出来たわ。楽しかった』

『何を言っているんだい。これからだってもっといろいろ話して、もっといっしょに過ごそうよ』

 彼女は力なく首を振った。

『ごめんね。もう時間がないみたい』

『何言ってるんだい。病気なんてすぐ治るよ。ぼくが看病するから』

『ありがとう。でもだめなの』

『どうして』

『わたしね、悲しみを食べられなくなったの』

『え?』

『ほかの気持ちを知らないころは悲しみを食べてもなにも問題なかったわ。でも嬉しい気持ちとか楽しい気持ちとか待ち遠しい気持ちとかいろいろ知って、悲しみの本当の味がわかるようになったの』

 彼女は息が切れたようにしばらく黙り込む。

『悲しみって硬くて苦くて冷たくて痛いのね。とても喉を通らないわ。まえはどうやってあんなものを飲み込んでいたのかしら』

『じゃあ、きみは』

『あなたが初めてここに来たときから何も食べていないの。ここには悲しみしか無いから』

『そんな。それじゃ死んじゃうじゃないか』

『死ぬっていうのとは違うと思うわ。わたし自身が悲しみでできているから、ときどき悲しみを取り入れないとだんだん薄れてきてしまうみたいなの。命っていうか存在っていうか、そういったものがね。

 でも無くなったりはしないと思う。だってここには時間が流れていないから。ここにあるものは永遠にここにあるの。わたしっていう存在が薄れるだけ』

『だめだよ。そんなのだめだ』


 なんてことだ。ぼくのせいだ。

 ぼくが彼女と一緒にいたいと望んだから。

 ぼくが彼女を変えてしまったから。


『自分を責めないで。わたしはうれしいの。あなたが悲しみ以外の気持ちを教えてくれたから、わたしはわたしが生きているっていうことに気づけたの。ううん、わたしはあなたに逢ったあのときから生きることを始めたんだわ』

 彼女は見ている間にもどんどん透き通るように存在が薄くなっていく。

 ぼくは彼女とぼくを隔てる薄い硝子をがんがんと殴りつける。

 ちくしょう。どうやったらそっちに行けるんだ。

 ぼくはどうなってもいい。二度と戻れなくても構わない。きみのそばに行きたい。

 彼女がぼくの手を探るように震える右手を宙に差し上げる。


 いかないで。


 絶望がぼくの心臓を鷲掴みにする。

 体中の血流が凍りついたように停止する。

 伸ばしたぼくの右手がこんどは薄い硝子を突き抜ける。

 だけど力尽きた彼女の腕はベッドに落ち、ぼくの差し出した手は空を切る。

 ぼくは世界を隔ててる硝子を通り抜け、水中を落ちる銅貨のように揺らめきながら彼女のそばへと降りていった。

 ようやくたどり着いた彼女の枕元にひざまずき、力なく胸に添えられた彼女の手を握ろうとした。けれど、青白いぼくの手はすでに幻のように薄れた彼女の体をすり抜けて触れることはできなかった。


「やっと逢えたね」

 細い呼吸の下で彼女が薄く目を開き儚げに微笑んだ。

「うん」

 すべてが遅すぎた。

「いっしょに外の世界を歩きたかったなあ」

「うん」

 悲しみが深すぎて涙も出なかった。まるで時間が止まったようにすべての感情が凍りつく。ぼくはただ彼女をじっと見つめた。

 向こう側が透けるほどに薄れた彼女の心臓のあたりで何かがきらりと光を反射した。ぼくはそっと彼女の胸に手を差し込みそれを掴み取る。


 それは硝子でできた鍵だった。ずっと探していた硝子の扉の鍵だ。そのことに気づいたとき、止まっていた時間が動き出した。

「この鍵で扉を開けて外に出よう」

 だけど彼女は力なく微笑みながら首を振った。

「もう動けないの。わたしはもうすぐ消えてしまう」

 彼女の体を抱き上げて運び出そうとするけれど、ぼくの腕は彼女の体をすり抜けてしまう。

 再び絶望が押し寄せてくる。

「そんな。せっかくこうしてそばに来れたのに。鍵も見つけたのに。なんで」

 こんどは涙が頬を伝う。握りしめた手のひらに鍵が食い込む。

「泣かないで。わたしは生まれ変わってきっとあなたに会いに行くわ。だからあなたもここから出てわたしを探して」

「……そうだ。そうだね。きっと見つけ出す。何年かかっても」

「さあ、行って。扉を開けて、わたしの魂をここから解放して」

 彼女は目を閉じ最期の息を使い切ったようにベッドに沈み込み、淡い光の粒となって消えていった。


 ぼくは抜け殻になったベッドの枕元で、彼女がぼくと同じ世界に再び生を受けますようにと祈リを捧げた。

 どれほどの時間そうしていただろう。一分だったかもしれないし、丸一日経ったのかもしれなかった。ここでは時間が意味を持たいないようだった。

 主の居なくなった部屋を見渡す。テーブルの上に硝子の宝石箱があった。宝石箱はこの部屋とそっくり同じ形をしていた。その脇に小さな革表紙の本が置かれていた。題名のない本を手に取り、開いてみる。そこには悲しい魔女の物語が描かれていた。ぼくは本をポケットに入れ、硝子の宝石箱を残して扉へ向かった。

 硝子の扉の鍵穴に彼女の残した鍵を差し込む。鍵は滑らかに回転し、最後の瞬間にわずかな抵抗を示してからカチリと小さな音を響かせた。

 次の瞬間、澄んだ鈴のような音を立てて硝子の扉に亀裂が入った。亀裂は生き物のように壁を伝い屋根を横切ってどんどん広がっていく。やがて部屋全体が氷が解けるときのような軋んだ音を立てながらほどけるように細かい断片となって崩れ落ちていった。


 ◇◇◇


 魂だけの存在になっても硝子の扉が開いたことがわかった。

 時間が凍りついた部屋から解放されて暖かい光のほうへ漂っていく。

 神さま。どうかわたしをあの人のところへ届けてください。生まれ変わっても何万人何億人の中からあの人を見つけ出せるように、決して切れない絆でつないでください。

 そう祈りながら光に向かって加速していった。


 ◇◇◇


 私が生まれ育ったのは都会に近い海辺の町だった。穏やかだが何もない町で、あの人がここにはいないことはすぐにわかった。中学生になるとすぐにあの人を探しに街に出るようになった。週末ごとに都会へと足を運ぶ私を回りの大人たちや同級生たちは不良と呼んだ。だけど私は回りの雑音には一切構わずにあの人を探し続けた。

 大学生になるころには薄々気づいていた。ここがあの人の生きる時代ではないことに。

 同じ国に産まれたことを神さまに感謝したこともあった。

 ある街があの人の過ごしたところだという確信もあった。

 だけど、ここだと思った場所には古い家屋が立ち並び、遠い記憶にかすかに残る公園は存在しなかった。

 あの人とわたしの間にはいつも越えることのできない見えない壁があって、触れ合うことができない運命なのだろうか。

 大人になるころには心の大半を絶望が占めていた。だけどあの人を探すことは私の存在理由そのものだったから、社会に出てからも自動人形のように探し続けていた。

 そんなとき彼に出会った。自信に満ちていて少し強引なところがある人だったが、優しい言葉で私の心を慰めてくれた。性格は違ったけれど、顔立ちがどこかあの人の面影を感じさせた。

 私はあの人を探すことをあきらめたかのように思考を停止して、上辺の人生を続けるようになった。

 結婚。

 出産。

 だけど上辺だけの生活は長くは続かなかった。

 家庭に入り育児のためだけに人生を捧げる生活が硝子の部屋の記憶を呼び起こした。なぜ私はあの人を探すことを止めてしまったんだろう。鬱々とした気持ちは彼を家から遠ざけ、彼は次第に家庭を顧みないようになっていった。

 私の時間と気力をすべて奪っていく息子のことが疎ましかった。さらに息子に愛情を持てないことへの自己嫌悪が私を追い詰めていった。

 硝子の外の世界がこんなにも多くの苦しみに満ちているなんて。

 わたしは悲しみ以外のものを望んだりしてはいけなかったんだ。

 悲しみだけに囲まれていれば、苦しみも辛さも感じることなく穏やかに永遠の時間を過ごせたのに。

 私の心はとっくに壊れていたのだろう。あの人を探すことを止めたときから。もしかしたら産まれたときから私の心には欠陥があったのかも知れない。だってわたしは悲しみだけでできたまがい物だから。

 そうして私は自らの心に作り上げた硝子の部屋のイミテーションに閉じこもり、周囲の声も音も光も感じなくなっていった。


 どのくらいそうしていただろう。何月たったろうか、それとも何年か。時間は意味を持たなかった。

 近くで誰かが泣く声が聞こえた。悲しみに満ちた、だけどどこか懐かしい嘆きの涙。

 私は前にこの悲しみに触れたことがある。この悲しみの色を見たことがある。

 顔を上げて声のするほうを探す。

 あっちだわ。

 立ち上がって声のほうに一歩を踏み出す。

 そのとき、澄んだ鈴のような音を立てて世界に亀裂が入った。

 亀裂は蜘蛛の巣のように広がって、破片となって剥がれ落ちる。

 亀裂の向こう側には硝子の破片に囲まれたあの人が立っていた。


「やっと逢えた」


 私の声に驚いたようにあの人がふり返った。

「母さん?」

 懐かしい声が耳を優しく撫でる。涙が溢れた。それは私が生まれて初めて流した涙だった。


 ◇◇◇


 硝子の部屋が軋みを上げて砕け散った。ぼくは部屋の外を見た。硝子に走った亀裂は部屋だけにとどまらず、灰色の空間にまで広がっていた。何もない空間に走った亀裂から世界が剥がれ落ちる。背後でひときわ大きく砕ける音がした。


「やっと逢えた」


 ぼく以外誰もいないはずのこの世界にコントラルトの声が響く。

 ぼくは驚きのあまり手にした硝子の鍵を取り落としてしまった。硝子の鍵は薄い玻璃のグラスのような澄んだ音を立てて粉々に砕けた。だけどそんなことにも気づかず、ぼくの目は女性の姿に釘付けになっていた。

「母さん?」

 姿形すがたかたちは病室にいた母さんだった。だけどその顔には生気が宿り、別人のように輝いていた。

 この笑顔には見覚えがある。ぼくが触れたいと願い、叶わなかった笑顔だ。

「きみなのか?」

「こんなに近くにいたのに気づかずにごめんね」

 声は大人の深みを増していたが、その口調は彼女のものだった。

 ぼくは戸惑いながら足を踏み出し、すぐに駆けだすように彼女を目指した。彼女も、いや母さんも同じように駆け寄ってくる。

 両腕でしっかりと抱きしめたとき、遠い記憶にしまい込まれていた母さんの温もりが蘇った。当時は小さかったぼくもいまは母さんを見下ろす高さになっていることに戸惑う。だけど見上げてくる瞳は深く澄んだ地底湖を思わせる彼女のものだった。言葉もなくさらにきつく抱きしめる。

「長い間、あなたを悲しませてごめんね」

「ううん、ぼくのほうこそ。二度もきみを救えなかったんだ。ごめん」

「そんなことないわ。こうして逢えたんだもの。あなたはわたしを救ってくれたんだわ」

「もう離さない。二度と」

「ええ。もう離れないわ。二度と」

 二人だけの世界で、ぼくたちはきつくきつく互いを抱きしめた。


 【了】

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硝子の宝石箱 ~悲しみを集める無垢な少女の物語~ 塞翁猫 @yam-yam-cat

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