GHOST night (単話版)

@kamin0

ブリテンの亡霊

この世には常世ならざる力が存在する。それは大気に満ち、大地に満ちて人知れず漂う無味無臭の力の源として、古くからごく一部の人間たちに使役されてきた。その名も魔力。そしてそれを扱う人々のことを魔術師と呼んだ。更に、この魔力を操るのは生者だけではない。強い執念を持つ死者もこの魔力を使って現世に留まり、ゴーストと呼ばれる悪霊となって生者を襲っていたのだった。




 男はかれこれ1時間以上も奴から逃げていた。それでもあの不吉な騎士は、今だ男のことを追っている。ゴーストに疲労の概念は存在しない。ゴースト自身が必要としない限りは。


「汝、逃げることなかれ……」


 突然、暗闇の向こうから低い声がした。聞いたものを恐れさせ、畏れさせるような背筋が凍る声だった。


「待て!分かった、俺が悪かった!不意打ちをした事は謝る。だから一度見逃してくれ!」


 男はその声に後ずさりしながら、暗闇に向かって叫んだ。だが答えは無く、今度はガチャガチャという、甲冑がこすれあうような音がし始めた。そして、


「汝、ブリテンの禍となる者なりや?」


 声は男にそう問うた。その時男の体は、今いる狭い広場から逃げ出す体勢を取っていた。幸い声の主は目の前の通路から動かない。自分の魔術なら十分に逃げ切れる。男は腰に下げた小瓶を手に握り込むと、すぐに詠唱を始めた。


『今は遠くの奇蹟をここに 以て七天の加護と成さん


 呼応するは我が血身 光を齎せ カレイド…」


「往け、ガラディーン」


 その瞬間、男の体に異変が起こった。胸のある部分が急激に冷たくなっていくのだ。そこは心臓だった。男はその場に力なく両ひざをつくと、死の際にまたあの声を聞いた。


「汝は罪科をなす悪逆者により、ここに誅することとした。己が行いを悔いて死ぬがよい」


 男はそれを理解する気力もなく、儚く平凡な人生を終えた。


 この日、ロンドンでは外傷のない変死体が12人見つかった。すでに3日連続の出来事である。






 その頃日本では、ベッドに寝転がったある男が、気だるげにスマホを取り出していた。滅多にこない着信通知が10件も入っている。


(朝の5時だぞ…)


 男はベッドから起き上がることなく、その番号に折り返して電話をかけた。電話は1コールもたたずに繋がった。


「はい、網代藤次ですが」


「……アナタがアジロトウジ?」


 どうやら電話口のお相手は若い女性のようだ。それも流暢なイギリス英語を話す。藤次は日本語から英語に切り替えた。


「えーっと、はい、俺が網代藤次です。ご用件は?」


「その前に、貴方『悪霊祓い』でよろしいのよね?」


「確かに俺は悪霊祓いですが、なにかのご依頼で?」


「ええ、あるゴーストを祓ってほしいの」


「なるほど。ではまずお名前を伺いましょう」


 藤次はベットから起き上がると、寝間着のまま近くの椅子に腰かけた。そして別の椅子からメモ帳を取る。我ながら実に珍妙な部屋だ。必要最低限の家具すらない。あるのはベッドといくつかの椅子だけだ。


「私はレイン・エーリア。エーリア本家と言えば分かるはずよ」


「エーリア本家……イギリス魔術師の名門ですね。一体何が?


「昨日の深夜、大学の帰り道に騎士のゴーストを見かけたの。しかも人を剣で貫いてた。私も追われたけど間一髪で助かったわ。それでお母さまたちに事の顛末を聞かせたのだけど、一向に取り合ってくれないの。だから私一人で対処することにした」


「では地元の悪霊祓いに任せては?確かイギリスには国立の魔術師団があるはずだ。エーリア家なら掛け合えるでしょう?」


「それじゃあ足が付いちゃうじゃない。家の者に知られてしまうわ。あくまで内密にしたいの」


「だからフリーランスの俺に、ですか」


「ええ、貴方相当に評判がいいんでしょう?」


「依頼者からは、ですよ。同業者からは散々な評価を頂いてます」


「『異端の魔術師』なんて呼ばれているものね」


「そうそれ。まるで中世の魔女か何かみたいだ。別になりたくてなったわけじゃないってのに」


「その話はまた今度お聞きしましょう。私はもう少し詰めた話をしたいの」


「依頼料ですか。一応ご希望の額を聞いておきましょう」


「そうね……2万ポンドでどうかしら。今自由に使える資産がそれぐらいなの」


 金持ちならではの発言である。それにしても予想外の大金だ。これなら……


「380万円ですね。飛行機代も付けてもらえますか?」


「構わないわ」


 やはり交通費も出してくれるらしい。


「では契約成立だ。その依頼、引き受けよう」


「本当に?感謝するわ!」


「お礼は全て終えた後に聞かせてもらう。それで、いつそちらに向かえばいい?」


「明日の5時にヒースロー空港で待ち合わせましょう」


「明日のイギリス時17時にヒースロー空港ね。依頼金は全て完了した後に貰おう


「分かった。それじゃあ宜しく頼むわ」


「こちらこそ」


 藤次は電話を切ると、椅子から立ち上がって伸びをした。


「さて、支度するか」


 藤次は寝室のすぐ横の部屋に入った。藤次にとっては仕事部屋と呼べるこの部屋には、大小様々な本が所狭しと納められていた。壁は本棚で埋まり、本棚は本で埋まり、床は本の山で埋まっていた。だが藤次はそれを綺麗に整頓しようとは思わなかった。少し埃っぽくて、古書の古めかしい匂いがするこの乱雑な空間が、藤次は好きだったのだ。それは、大好きだった父の書斎を思い出すからに他ならなかった。魔術などとは縁も無かった、あの頃の幼く儚い記憶。それでいてかけがえのない記憶が今なお藤次の胸に突き刺さっている。


「また依頼だよ、父さん。今度は剣を使う悪霊らしい。シャルルマーニュかな、それとも……」


 藤次はそう独り言をいいながら手を伸ばして、本棚から一冊の本を取り出した。表紙には壮麗な甲冑を身にまとった騎士が剣を構えている。背表紙には金張りで、『アーサー王物語』と書かれていた


「……これは一応持っていくか。翻訳版は効果が薄いんだけどな」


 藤次は他にも数冊の本を見繕うと、それをリビングに空っぽで放置されていたトランクに丁寧に仕舞った。他にも着替えや生活用品を放り込んでケースを閉めると鍵をかけた。


「あとは面倒なのが一つか」


 藤次は適当な服を選んで着ると、その上から黒いロングコートを羽織った。夏場にこの服装は酷ではあったが、外出時に着ておかないと色々と面倒なのだ。


 それにしても暑いので、


「略式詠唱しておくか」


 藤次は魔術を使うことにした。この略式詠唱は、その用途を身体強化に絞る事で、魔術行使に必要な詠唱を大幅に省略した魔術で、その仕組みは単純な為、信頼性も高い。藤次は胸に手を当てると、


『部位指定、皮膚 出力循環150 ブーストオン」


 極めて簡潔に魔術をかけた。すぐに嫌な暑さが消え、随分快適な温度に落ち着いた。


 便利で手頃な魔術だが、それ故に使える者も限られている。一般に悪霊祓い、術師祓いと呼ばれる者たちだ。彼らは強力なゴーストや凶悪な魔術師を退治することを生業としており、その危険な職業柄、略式詠唱の使用が認められているのだ。ちなみにその他の魔術師は研究者と呼ばれ、自身の魔術に関する研究や実験が認められている。


「さて、またあそこに行かなければな」


 藤次は住んでいるアパートを後にすると、霞ヶ関に向かった。行く先々で通行人から好奇の目を向けられたが、本人は慣れているし、何より涼しいので別に気にしなかった。日差しが眩しいなと思ったくらいだ。


 霞ヶ関に着くと、真っ直ぐに国会議事堂に向かった。藤次の目的地はここだった。顔見知りの守衛と挨拶を交わすと、裏口から建物の中に入り、エレベーターを使って地下に降りた。エレベーターは最下層に到着してもなお降下し続け、3分ほどひたすら地下に潜り続けて初めて止まった。チーンという音がして扉が開くと、そこには教会のような広い空間が広がっていた。地下だからか薄暗く、何人か長椅子に座っている。彼らは全て魔術師だった。


 ここは日本魔術組合の本部。日本人魔術師を管理している国の公的機関である。日本に在住するほぼ全ての魔術師はここに属しており、仕事の斡旋や金銭的、法的支援を受ける事が出来る。そして藤次はこの組織に属していなかった。


(毎回ここで海外渡航の申請するの嫌なんだよな。でもこれを忘れると国内に入れないし)


 藤次はフロア奥の祭壇に歩いて行った。長椅子に座る魔術師たちの視線が痛い。これにはいくらたっても慣れなかった。


 祭壇にはいつもの受付が立っていた。藤次はこの受付も苦手だった。なぜなら、


「お久しぶりです。組合申込書をお求めですね?」


 事あるごとに魔術組合への加入を勧めてくるのだ。藤次は私情とはいえ組合に入りたく無いので、苦笑いをしてやり過ごすしかない。


「いえ、渡航申請をしたいのですが」


「組合加入じゃ無いんですか」


「イギリスで依頼を受けたんですよ。申請書類をお願いします」


「はあ、それじゃあ宝の持ち腐れですよ?大体…」


「あの、書類を」


「そうでした。用紙はこちらになります」


 受付は祭壇の中から申請用紙を取り出した。藤次はそれに慣れた手つきで書き込んでいく。


「藤次さん、もうすっかり魔術師が板につきましたね」


 不意に受付がそう言ってきた。まだ諦めないのか。


「そんな事ないですよ。この仕事はいつまでたっても慣れない」


「それでも途中で投げ出さなかった。藤次さんは真面目ですから、時間が経つほど貴方の魔術は洗練されて行きます。私はそれを見るのが好きですからよく分かるんですよ」


「…そう言ってくれるのは受付さんぐらいです」


 この人は時々こういうことを言う。彼はあくまで他人の魔術を見るのが好きなのだ。他の魔術師から自身の生い立ちによって敬遠される藤次にとって、彼のような人は少なかった。


「書きました。郵送お願いします」


「…確かに承りました。藤次さん、今回もご武運を」


「ええ、いつもありがとうございます」


 藤次が祭壇から降りようとすると、不意に受付に呼び止められた。


「待ってください!」


「どうしました?」


「僕としたことが忠告するのを忘れていました。実は3日ほど前からイギリス組合が厳重警戒令を出しています。なんでも国の魔術師がゴーストに殺されたそうで」


「…分かりました。ありがとうございます」


 藤次は受付に礼を言うと、本部を後にした。


(国の魔術師、つまりは軍の精鋭、洗礼十字師団の隊員が殺されたのか。そして今回の依頼はイギリスの悪霊退治。まあ、今更どうこうと考えても、依頼を受けたのは俺だ。面倒なことになる前に終わらせてしまえばいい)


 藤次は家に戻ると、最後の支度に取り掛かった。

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