傾く世界の律者達

46km

第1話

「静音、そろそろ学校に行きなさい」

「…はい?」

百合原静音は朝食の焼き鮭をほぐしながら、祖父、泰三の言葉に素っ頓狂な声を漏らした。

「明後日、高校の始業式がある。2年生から通えるように手配しておいた」

と、泰三は続ける。

「ちょ、いきなりすぎるよおじいちゃん…。心の準備が…」

静音は食事の手を止め、うつむく。彼女は小学校1年夏頃から学校に通えていない。そこから10年間を祖父母宅で過ごしていた。

「そうねぇ。そろそろ学校行ったほうがいいと私も思うわ」

泰三の食べ終えた食器を片付けながら、祖母滝江も柔らかに彼の言葉に同意する。

「今の静音ちゃんならきっと大丈夫よ。ね、泰三さん」

「そうだな…。今なら問題はないだろう」

止めていた箸を再度口へ運びながら、

「もう。わかったよ…明後日ね」

静音は再度学校へ、高校2年生として通うことを渋々決めたのであった。




嫌なことでも一歩を踏み出してみれば、スルスルと事は流れていくものである。

足が鉛のように重かったのは通学初日だけで始業式、クラスでの自己紹介等を終え、何事もなく2週間ほどが経つ。

静音自身、社交的とは言えないものの滝江から当たり障りのない人付き合いの仕方を学んでいたためか、友人と呼べるであろう人間関係を複数人と持つことが出来た。その事実に彼女自身、驚きを隠せないでいた。

―そっか。これが普通の学校生活、ってものなんだ。

10年間離れていた、学校という環境にすこしずつ慣れ始めていた時だった。

この環境が生む一つの側面が、“またしても”彼女に咬みつくのである。


午後の授業開始10分前を知らせる、鐘を模倣した電子音が鳴る。

次の授業は確か―。

「次は化学室だよ! 一緒行こ、静音ちゃん」

「うへぇー、課題やってないよぉー」

友人と呼べるであろう人間1号、2号ことポニーテールの小鳥遊葵とショートヘアの矢崎佳奈が後ろから声を掛けてきた。

彼女たちと話すようになったきっかけは至極単純。前と右隣の席の人間が彼女たちだったからである。後ろと左隣はロッカーと窓ガラスの無機物たちの席だ。

「うん、一緒に行こ」

静音は彼女たちとの関わりを少しずつ心地よく感じてきていた。始めはもちろんうっとおしく感じていたわけであったが。ドラマやアニメで度々見た、友達という関係性はこういうものなのだと、理解に実感が伴ってきたのである。

静音たちのクラスの教室から化学室までは少々距離がある。談笑しながら少々駆け足で向かっていた時である。静音は曲がり角で誰かとぶつかった。

「いった!」

静音は一歩よろめいただけであったが、ぶつかった人間は大きくしりもちをついた。ジャラジャラと邪魔そうな何かがついたポーチから様々なものを廊下にまき散らして。

「あっ…。遅れちゃいそうだから先いくね」

「そ、そうだね…。遅れないでね」

何かを察したように、葵と佳奈はそそくさとその場を離れた。

静音はその様子に違和感を覚えるも、散らばったもの―口紅やら香水やら、随分とけばけばしいものばかりだ―を拾い、持ち主のもとへ駆け寄った。

「ごめんなさい。大丈夫ですか?」

ぶつかった人間を見ると髪は金髪、やたら濃い化粧と甘ったるい香りのする、この高校とは違う制服を着た派手な女であった。

「ちっ、なにすんだよいってぇなぁ!」

声を荒げながらこちらを睨み付ける。

「あの、これ」

なぜ、この女はこんなに高圧的なのか。疑問に感じつつも拾ったものを差し出す。

「お前勝手に触ってんじゃねぇよ!」

化粧品たちを乱暴に受け取り、再度睨め付ける。そして、

「お前、覚えとけよ」

と吐き捨て、わざと肩をぶつけるようにして大股で歩いていった。ドラマなどで見る典型的な不良みたいだと思っていると午後の授業開始の鐘が鳴る。結局3分の遅刻となった。

授業中、葵と佳奈がこそこそと静音のもとに寄ってきた。

「ねぇ、さっきは大丈夫だった…?」

「? 別に何ともなかったけど」

「そっか、ならいいんだけど…」

それだけ聞くと二人はなぜかバツが悪そうに、自分の席に戻っていった。なぜ、二人の様子が変だったのか、その理由を静音は翌日知ることになる。



翌朝、クラスへ入ろうとすると人だかりが出来ているのを見つけた。人の合間をするすると抜けて教室へ入ると、彼女の席には、先日のけばけばしい女とそれを取り囲む、これまた典型的な不良といった体の男3人と女1人、計5人が居た。

女は静音に気付くと声を荒らげ、指をさす。

「あーこいつこいつ! あたしのメイク道具ブチ撒かしたやつ!」

待っていましたと言わんばかりにぞろぞろと、不良たちが静音を取り囲み、

「お前か、アミちゃんコカしたのはよぉ!」

「調子コいてんじゃねぇぞお前さぁ、あぁ!?」

「こんなブスにぶつかられた、アミちゃんかわいそぉ~」

「どうする? 一発ヤキってやつ入れちゃう?」

ニヤニヤと下賤な笑みを浮かべながら様々な暴言を吐き捨てる。そんな中、現状の理解に静音は理解に苦しんでいた。

―私は何かを彼女にしたのだろうか。確かにぶつかりはしたが、謝ったし物だって拾ったし。こんなことされるようなことはしてないのに。なんで?

静音は彼女を囲む不良たちの合間をするりと抜け、アミと呼ばれた女の前で、言う。

「私、アンタに何かしました?」

瞬間、場の空気が凍ったのをさすがの静音も感じた。しかし、彼女には原因が分からなかった。ただ疑問をぶつけただけ、ただ分からないことに問を投げたという認識に過ぎなかったからである。

ガァン!

アミが静音の机を蹴り飛ばした音が凍り付いた空気に響き渡った。

「お前、マジで覚えとけよ。あたしらに喧嘩売ったこと後悔させてやる」



その日から、アミらによるいじめが始まった。

机や体操着への落書きや上履き隠し、事実無根の噂の流布等と典型的ないじめの類である。しかし、それらは静音が得た心地の良い友人関係のことごとくを破壊し、孤立させるには十分すぎる効果を発揮した。後にアミらは3年の有名な不良グループで、何人もの生徒をいじめで不登校にし、また反社とつながりがあるとか、警察沙汰に何度もなったとか悪い噂が絶えないことを知るが、あとの祭りであった。

嫌がらせの始まりから、約一週間が経つある日。

日直であった静音は、日誌を提出し、一人で教室へ戻っていた。彼女はいまだに、理解に苦しんでいた。今日に至るまで、自分の言動にアミとやらの神経を逆撫でした問題点を発見できずにいたからである。

―私はただ、普通に友達作って、普通に過ごしたいだけなのに。私何にもしてないのに。なんで、高校でもこんなことになるんだろう。なんで、こんなにうまくいかないんだろう。

ズンと重く、不快な感情が胸に居座り続ける。いや、再び住み着いたというべきか。この感情には覚えがあった。未だに名前の分からないこの不快で黒い感情には。

答えの出ない問がぐるぐると頭を回るなか、教室の戸を開けると、そこにはあられもない姿で横たわる葵の姿があった。

「葵…ッ! 大丈夫…?」

駆け寄り、手を差し伸べると、

「やめてッ!!」

その手を払いのけ、葵は俯いた。そして震える声で話し始めた。

「あいつらね、静音ちゃんの財布奪おうとしてたの。流石にやりすぎじゃん。それ言ったらさ、こんなことになっちゃった…」

ぽろぽろと涙を流しながら、続ける。

「静音ちゃんがアミ先輩にぶつかったとき、怖くて逃げちゃったから…。これくらいはって、自己満足だったんだけどさ…。なんでこんなことなっちゃったのかな…。ねぇ? 静音ちゃん、私何か悪いことしたかな? なんでこんな目に合わなきゃいけないの!? ねぇなんで!?」

震え声はいつの間にか激情に変わり、静音の胸襟をつかみ叫んだ。

静音はかける言葉を見つけられずにいた。誰かにこんな風に激情をぶつけられたことがなかったから。なんでって、そんなの私だって分からないから。この胸に居座る感情の名前さえも分からないから。

―分からないなら聞くしかない。

葵の手を胸襟から解き、聞く。

「ねぇ、その先輩たちどこにいるかわかる?」

「…え?」

予想外の問いだったのか、涙でいっぱいの目をぱちくりさせながら答えた。

「え、えと。放課後はいつも屋上で屯してるって聞いたことあるけど…」

「そっか。ありがとう」

静音はそれを聞くと、

「待って! 行くのはやめたほういいって! 何されるかわかんないんだよ!?」

葵の静止には目もくれず、屋上に向かった。



そこには葵の言う通り、件の5人組が屯していた。屋上の扉を開けると、一瞬驚いた顔をしたがすぐいつもの下賤な笑みを浮かべ、静音を取り囲んだ。

「あら~静音ちゃんじゃない? 何しに来たんでしゅかぁ?」

アミは挑発的に言い放つ。

「ねぇ、なんでこんなことするの?」

静音は挑発をまるで意に介さず、問う。するとアミはより一層笑みを浮かべ答えた。

「そりゃあお前が気に入らないからよ。あたしはね、気に入らないお前みたいなやつをいじめるのが大好きなの」

「私、あなたに何かした?」

「ちっ、ウザいなぁ。ねぇちょっとこいつ懲らしめてやって」

アミの指示で、男の一人が静音を羽交い絞めにする。もう一人の男が指を鳴らしながら彼女の前に立つ。今にも殴り掛からんといった様相である。

そんな状況の中、静音はどうしてこんなことになったのか、その問いへの答えを探していた。

―気に入らないから、いじめる? しかもなんで私だけじゃなくて葵まで? ただぶつかっただけで? なんで? 私はただ、普通に過ごしたいだけなのに。なんでこんな目に合うの。なんでこんなうまくいかないの。小学校の時もそうだ。私は何もしてないのに。なんで? なんで? なんで? あー、もう考えるのめんどくさい。もういっそ。


ああ、そうだ。この感情は、小学校のあの時と同じ感情だ。

そうだ。こんなうまくいかない世界なんて。いっそ―


「この世界の全部、私の思い通りになっちゃえばいいのに」


同時に左頬に衝撃が走り、口に血の味が広がる―刹那。

バツンッ!

まるで電源を抜いたテレビのように、彼女の意識は暗闇へ沈んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る