夕闇 蛍火 夢の続き

黒川亜季

at the end of all hallow's eve (1)

*1


 ――忘れられない夢を見た。

 普段はあんまり行かないけど、知っている場所。

 普段はほとんど接点がないけど、知っている人。

 色とりどりの電球で飾られた街路樹たち。

 仮装姿で行き交うたくさんの人たち。


 ハロウィン。

 ロウソクの入ったカボチャと幽霊と魔法使い。


 ざわめきが途切れ

 電飾の明かりがぼんやりと暗くなってゆき

 だけどその人の輪郭だけが

 世界から浮き出てくるみたいにくっきりとして


 ゆっくりと、私の方に近づいてきて

 目の前に立ち

 その細い指先で、私の頬と顎に触れて


 その視線に捕らわれて

 私は身動きすることもできず

 行き交う仮装姿の人たちは

 まるで中の人がいなくなったみたいに

 カラカラと音を立てては通り過ぎ

 抜けるような白い肌と

 人形の様に整った顔立ちに私は魅入られて


 その人が指先に少し力を込めて

 私の顔を上向かせ

 もっと近づいて。

 息のかかるくらいに近づいた肌は

 信じられないくらいに透き通っていて

 その人が目を細めて、私を促して


 手を伸ばし、その人の体に触れ、私も瞳を閉じて

 ――それから、唇の感触に身を委ねる。



*2


 あまりに鮮明な夢は、眠りと目覚めの境界線をいつもよりもずっと曖昧にする。私は今、目の前の世界が夜の町中じゃなかったことに驚いていたし、さっきまで手の中にあった感触が心の作り物だとはどうしても信じられなかった。

 秋も深まり、日も短くなった中で部屋に満ちる光はまだ仄暗い。私は枕元のスマホに手を伸ばし、取りあえずメモ帳を立ち上げた。

 夢は、ものすごい速さでその輪郭を失ってゆく。

 たくさんの出来事があった。たくさんの人がいた。だけど確かに意味のあったエピソードの連なりは端からばらばらになって、記憶の海の中に沈んでゆく。


 私は覚えている限りの出来事を、眠気でぼやける画面の中に打ち込んだ。

 どうしてこんなに必死になるんだろう? 自分でも不思議だ。

 さっきのあれは、ただの夢じゃない。何かきっと、意味のある……


 忘れられない夢。

 だけどこの後、目が覚めてしまったら、「忘れられなさ」だけが私の中に残るだろう。何があったかは本当に思い出せなくなるだろう。昔から、そうだった。


 どこかで、警報のような音が響いた気がした――多分、気のせいだ。


 ばらばらになったエピソード。付箋紙のように付けたキーワード。大丈夫だ。もう忘れることはない。

 安堵とともに、意識が急速に「あちら側」から遠ざかる。思い出せることは全部書いた。後は忘れてしまっても仕方ない。

 だけど――。その「大切」なエピソードに、その意味するところに、現実に戻ってきた私が困惑する。


 ハロウィン。夕闇に沈む町。近づく二人。そしてキス。

 どうして? どうして――彼女が私に、キスなんてしてきたんだろう?



*3


 冷たい水で顔を洗い、トーストとインスタントスープの簡単な朝食を取り、派手すぎもせず地味すぎもしない秋物の服を着てアパートを出る。

 北海道よりは遅く関東よりはずっと早く冬が訪れるこの町では、もうコートが手放せない。地下鉄駅ゆきのバスに乗り込む。

 起きることも、朝ごはんを食べることも、講義に出ることも、誰かとお昼を食べることも、全部自分で選択する。大学生になるのはそういうコトだって分かってるけど、未だに選択が自分の手にあることに慣れない。


 誰か決めてくれないかな。

 誰か正しい方向を示してくれないかな。

 誰かこうしたらこうなるよって教えてくれないかな。


 何をしても、何をしなくてもあなたの自由。それは大人に近づいた自分にならできること。だけど、どこかそれが怖い。

 そんな怖さを感じるのは寝る前とか、家を出る時とか、そういう一瞬だけで、普段は普通の大学生として普通に暮らしている。

 田舎町に住んでる親との連絡は週に1回。ちょっとまめすぎかも?

 2週間に1度くらいは大学に入ってできた友達と買い物とかお出かけとかに行く。これも、きっと普通だ。うん、普通にやれている。


 うだうだと考え事をしていたら、危なく乗り過ごすところだった。慌ててバスを降り、地下鉄に乗り換える。

 町中までバス、そこから地下鉄で大学なんて、ちょっと都会っぽくて最初は気分が上がってたけど(乗り間違えも何回かしたけど)、最近はだいぶん慣れて生活の一部になってきた気がする。

 改札を抜けて、秋の気配が深まってきた構内へ。1限は英語。これは必修科目だから真面目にやらないと。


 教室には、まだ2割くらいしか学生が来ていない。いつも一緒に受けている三奈みな心愛ここあも、朝はギリギリに来る方だからまだ姿は見えない。


 でも、もしかしたら――。


 教室をキョロキョロと見渡していた私の視線が、一点に釘付けになる。ううん、彼女も私の方を見てたから、視線は絡め取られたって感じだ。

 彼女が座ってるのが教室の一番前の席。私がいるのが教室の後ろの入口。そのまま声をかけるのは無理な距離だった。

 私は心を決めて、彼女に近づく。


「つ、なみさん、おはよう」

「――おはよ。えっと、鷺森さぎもり……さん?」


 鈴の音の様なその声に、心のどこかが共鳴して震える気がした。なんて綺麗な声なんだろう。


「おーす。花音かのん、おっはよー」


 ぱーん、と軽く後ろから肩を叩かれて、びっくりしてふり返る。噂をすればって、こういうコト!? こんな時間帯に(こんな時に限って)三奈から声をかけられた。


「おっ、おはよう、三奈」

「花音って、いつもこんなに早く来てるの~? 私、むっちゃ頑張って早起きしたのにもういるし」

「あはは、そんなコトないって。今日はいつもより…… 少し早いだけだよ」

「あと何か珍しい~。津花波さんと話してるの~」

「いやっ、べ、別にそんな珍しいとか……」

「面白い話あったら、後で教えてね~」


 独特の語尾を伸ばす話し方でひとしきり言いたいことを言い終えると、三奈はそのまま後ろの方の席に向かった。教科書とノートを開いて、ものすごい勢いで何かを書き始めている。

 そういえば、和訳当てられてたっけ。今やって大丈夫……? 余計なことをつらつらと考えてたら、私をじっと見つめる津花波さんの視線とまたぶつかった。


「――かのん?」

「は、はいっ?」

「キレイな名前だね」


 いやいやキレイなのはあなたの顔でしょう。思わずそう突っ込みを入れそうになるのを、ぐっとこらえた。


「自分じゃよく分かんないけど……。でも、嬉しいよ。ありがと」


 アイシャドウで縁取られたみたいにくっきりとした目、長くて整った睫毛まつげ。エキゾチックな顔立ちなのに、肌は抜けるように白く、何より顔が左右対称で整いすぎてる。

 南の島の出身だって誰かが言ってたけど、こんな奇跡的なバランスの子ってホントにいるんだ……。お人形さんみたいで、ずっと見ていたくなる。

 近寄りがたい雰囲気とかわいらしさと、本当に絶妙なんだよね。こんなに近くで津花波さんと話すのは初めてだと、その時に気付いた。



*4


「かのん。どんな字書くの?」

「ちょっと恥ずかしいんだけど、花に音で花音」

「”音” の字が入ってるんだ。私も一緒だよ?」

「えーと……。ごめん」

朱音あかね。朱色の音で、朱音」

「そうなんだ……」


 ごめん、下の名前は何だったっけ? そう言う前に先回りするように、名前を教えてくれた。

 朱音か――。ちょっと古風で、でも彼女にはぴったりな気がする。ううん、この顔だったらどんな名前でもきっと似合うって思えそうだ。


「こっち、座ったら?」

「あ、うん……。ありがとう」


 ぼーっと突っ立ってたら、津花波さんに引っ張られてそのまま隣に座ることになった。

 どうしよう。何、話したらいいんだろう……。

 隣に座っても、特別な反応はなし。私が何も言わないので、津花波さんは読みかけだったらしい本を読み始めた。

 左手で髪を耳にかける。香水やコロンの人工的な香りじゃない、微かな花の様な香りがふわっと漂う。

 この香りは、夢にはなかった。――って、夢で匂いって感じるのかな。


 夢。その言葉を思い出しただけで、今朝のあの夢の光景がよみがえってきた。


 私の頭の中の出来事だから、誰も見てないし誰も聞いてない。だけど恥ずかしさと緊張で走りだしそうになってしまった。

 そうだよ、私、津花波さんと……。


 授業の準備をするフリをしながら、こっそりと津花波さんの横顔をうかがう。当たり前だけど、横顔もすっごくキレイだ。睫毛の長さと形の良さが、はっきりと分かる。

 薄くリップを塗った唇は透明な膜を被ったみたいで、「触れたくなる唇」って化粧品のCMで流れていたフレーズを思い出す。


 どうして、津花波さんなんだろう……?

 どうして、キスしたんだろう……?


 津花波さんとは同じ学部、同じ学科だけど、授業を同じ教室で受ける、以外の接点はほとんどなかった。誰かと一緒にいるのも、そういえば見たことがない。

 他人を拒絶している、というわけでもない。誰かに話しかけられれば応えてるし、講義が終わった後に雑談っぽい感じで話してるのも時々見かける。

 女の子たちが「すっごいキレイだよね」って話題に出すくらいの容姿。男子学生も声をかけるのを遠慮してるみたいだし、何となく近寄りがたい。それが一番近いかも知れない。


 こうやって近くにいても、津花波さんは全然気にならないのか、読書に集中してる。

 私の視線にも気付かない。

 これ、現実なのかな……。


 今、いる場所に本当に自分がいるのか分からない。心細さが急に押し寄せてきて、心拍数が勝手に上がった。

 子供の頃から何度も経験して、だけど全然慣れないこの感覚。

 みんなで遊んでいるとき、一人で本を読んでいるとき、眠りから覚めたとき――。一人暮らしを始めてからは、久しぶりだ。


 世界に一枚、薄い膜がかかっていて、私だけが隔てられているという焦り。


 学生がどんどん入ってきて教室のざわめきは大きくなってきてるのに、人がいなかったさっきよりもみんなが遠ざかってしまった、そんな気がしていた。

 津花波さんとせっかく席が隣りになったのに、結局は話せずじまい。津花波さんは(たぶん挙動不審だったのに)私を気にすることもなく、英語の講義が終わったらそのままどこかに行ってしまった。


 今日の講義は必修も選択もみっちりと入ってたけど、ちっとも集中できずに終わった。理解するのに頭を使った以上に、疲れた気がする。

 三奈はサークル活動に精を出してるし、心愛からは「ゴメン、今日無理だった」ってメッセージが昼に来てそれきりだったから、帰りはひとりだ。


 地下鉄で今度は町中に出て、バスに乗り換えてワンルームのアパートに帰る。

 大学にも一人暮らしにも慣れて、ちょっと単調になり始めた私の日常。

 別に不満はないけど――。

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