第2話
――お母さん、絶対再婚なんかしないで。おばあちゃんみたいに、一人で私を大学まで行かせてよ。
桃花が涙を拭いながら男との決別を訴えた時、私はほぼ無職だった。
郁深は国家公務員で、三年に一度の転勤で地方の中を回っていた。単身赴任を望まない郁深に、地方公務員だった私は退職せざるを得なかった。そしてそのまま、郁深の希望した専業主婦に収まった。
最初は生活に慣れるので精一杯だったし、桃花を出産してからは子育てに掛かりきりだった。その頃は子供を預けて働く女性の姿に羨望と焦燥を感じる一方で、専業主婦で許される状況に安堵と優越も抱いていた。ただ桃花が育つにつれ手に職のない、稼ぐ術のないまま年を重ねていく現状を、恐ろしく感じるようになっていった。
とはいえ郁深はやはり家にいることを願ったし、尋ねた学童の枠は激戦過ぎて、ぽっと出の私が頼めるような雰囲気でもなかった。
そんな時に見つけたのが、在宅でも可能なネット記事作成の仕事だった。最初は一文字一円にも満たなかった報酬は続けるうちに少しずつ上がり、離婚話が降って湧いた頃には二円弱になっていた。月八万の収入で無邪気に喜んでいた私の前から突然、五十万弱の月収が消えた。そして、八百万の借金が湧いた。
今日の母は、定位置で発泡酒片手にスルメをかじっていた。
「清太郎くんが『お母さんなんか言ってなかったか』って聞いてきたって言ってたよ」
「あの馬鹿」
見事に裏切られた祈りを投げ捨て、項垂れながらバッグを置く。解いた髪を掻き上げ、手櫛で散らした。
「いいじゃない、全く知らない人に任せるより安心よ」
「私は余計心配だけどね」
「別に、そんな警戒しなくたって。かわいいお付き合いだったじゃないの」
事もなげに触れる軽い口振りに、眉を顰める。
「桃花に言ってないでしょうね」
「言わないわよ。あんた怒るでしょ」
そうじゃないでしょ、と言い掛けた次を飲み込む。このまま続けても、何もいいことはない。勝ち誇ったように缶を傾ける母から逃れ、台所へ向かう。とにかく胸を鎮めたくて開けた冷蔵庫に、私の分は残っていなかった。
一本引き抜いたら一本追加しておけと何度も言っているのに、碌に実行された試しがない。傍らのダンボールから移すだけの作業が何故できないのか。苛立ちを抑えながら四本移し、中途半端に減った赤ワインを選ぶ。
少し酸い匂いを確かめている時、ふとゴミ箱脇のレジ袋に気づいた。確かめなければ何も起こらないのは分かっているが、そういうわけにもいかない。開いた袋の中には予想通り、惣菜の空パックがぎっしり詰まっていた。
料理ができないのは分かっている。父がいなくなってから私が作れるようになるまで、朝食は菓子パンで夕食は惣菜か具のないラーメン、弁当は前日の惣菜を詰めこんだだけのものだった。カレーすらレトルトで、まともな手料理を食べたことはない。「働いてるんだから仕方ない」が口癖で、包丁を握ろうとすらしなかった。
まあ私だって弁当に冷凍食品を入れることはあるし、レトルトや惣菜に頼ることもある。手作り至上主義ではないが、食費や栄養の面からできれば手作りがいいと考えている層だ。しかし母は昔のまま、少しの理解も協力もしようとしない。私が節約のためと夕飯を作り置きして出ても、何やかやと理由をつけて惣菜を買ってくる。それならせめて値下げ品にして欲しいのに、意地でも選ぼうとしない。「そんなものを選んだら馬鹿して金がなくなったからと笑われる」らしいが実際、その通りなのだ。
母は二年前、どこかからやって来た不動産会社の口車に乗せられ、サブリース契約でこんな田舎にメゾネットタイプのアパートを二軒も建ててしまった。サブリース契約は不動産会社の一括借り上げで管理も何も全てやってくれるから、旨い話に見えたのだろう。おまけに家賃保証だのなんだのと、耳障りのいいサービスまでついてくる。しかし予めそのリスク分を上乗せされた建設費は、普通に建てるよりも高額だ。契約にも縛りがあり、途中で解約や売却をしようにも「サブリース」が邪魔をする。最悪なのは、その不動産会社が倒産した場合だ。
その最悪に、母は当たってしまった。会社は物件が建った二ヶ月後に倒産。大家業などしたこともないド素人の母が、物件と借金と共に突然放り出されてしまったのだ。
久し振りの電話に、血の気が引くのが分かった。急いで実家へ戻り確かめた資料は、とんでもないものだった。月収十万もざらなこの土地で、メゾネットの家賃設定は十二万。不動産会社の出したシミュレーションは、都会ですら難しい利回りで夢のような儲けを謳っていた。何故こんな杜撰な資金計画で融資が引けたのか、年金暮らしの六十八に無茶なローンを組ませたのか、未だに銀行からの回答はない。
幸いだったのは、その高額な家賃設定のせいで入居者が一人もいなかったことだ。契約資料一式を抱えて飛び込んだ私に、社長はその場で買取を承諾してくれた。しかしそれはサブリースを取っ払い、近隣相場と照らし合わせて弾き出された「適正価格」だった。
その売却代金に母の資産を加えても、まだ残債は千五百万以上あった。実家を売ればほぼ完済だと言われたが、それを伝えた途端、母は豹変して私を罵り始めた。それでもう、嫌になって家へ戻った。平和で平穏な「私の家庭」に戻りたかった。しかし待っていたのは、郁深の土下座だった。
「お母さん、おかえり」
呼ぶ声に記憶を断ち、グラスを揺らす手を止める。
「ただいま。今日は学校、どうだった?」
「オリエンテーションみたいなのして終わり。あと今日の模擬茶会、見学に来てくれた一年がいたよ。入りたいって言ってたから、部員増えるかも」
「そうなの、良かったね」
桃花は頷いて、今日も斜向かいに腰を下ろした。
小学校では三年間、バスケ部に所属していた。いつもスタメンに選ばれるわけではなかったが、チームのムードメーカーとしてかわいがられているようだった。卒業式では幾つも『これからもバスケを続けてね』と書き込まれた色紙を受け取った。引っ越し前に渡されたプレゼントの中には、フェルトで作られた背番号のキーホルダーもあった。
しかし桃花が選んだのは、自分を含めて部員数僅か三人の茶道部だった。必要なのは指定の茶筅と袱紗、布巾だけ。三つ揃えても、バスケシューズ一足にも満たない値段だった。安堵したが、それ以上に罪悪感があった。
それでも桃花は、少しも私を責めない。季節に絡めた和菓子や器の話をして、男子のいない環境を褒め称えるだけだ。安いものだが茶器のセットを買ったら喜んで、以来私達にもお点前を披露してくれる。初めて振る舞われた薄茶は、涙が出そうなほど美味しかった。
それで、と怪しくなった雲行きに気づいて皿を置く。
「先生に『お母さんがなんか言ってなかったか』って聞かれたよ。フツーに自分から同級生だって言ったんだけど。大人じゃなかったよ」
明らかに不満そうな表情で報告し、私を窺う。
「まあ、悪い人ではないから大丈夫よ。寧ろそういうところを除けば多分、いい人だから」
「空気が読めないって感じ?」
「空気っていうか、そうだね、気遣いがちょっと足りない感じかな」
「分かる。自己紹介の時に『大学の時に養豚場でバイトしてたせいか、見るだけで人の体重も分かるようになった』って言ってて、女子皆で『はあ?』ってなった」
ここが同窓会の二次会なら「分かる」と返して激しく頷くところだが、生憎相手は娘だ。苦笑で返し、酢豚の人参をかじるくらいしか手はない。
「お母さんは、どう? 仕事、忙しいんでしょ」
突然振られた話題に、箸先が揺れる。こんな風に大人びた台詞を選ぶようになったのも、環境がそれを強いてしまったからだろう。私に再婚を禁じた時、桃花は自分の結婚も封じてしまった。最期まで男の力など借りず一人で生きていくのだと、絵本作家だった夢も弁護士へと変えた。どうにか解いてやりたいが、今はまだ傷も生々しい。それに私が下手な言葉を並べるよりもこれから知る恋の方が余程、桃花を内から癒やしてくれるはずだ。
「まあ、ぼちぼちかな。覚えることがまだいっぱいあって、一日がすぐに済んじゃう感じ」
「お母さん、真面目だもんね。会社の人も、いい人が来てくれたって思ってるよ」
「ありがと。そうだったらいいね」
少し背伸びした評価を素直に受け入れ、照れくさそうな頭を撫でる。やめてよ、と照れて逃れる仕草までかわいらしい。どうして私の中からこんな素晴らしいものが出てきたのか、産んだだけで現世での役目は八割方済んだ気がした。残り二割の重さなど、考えたこともなかった。一息ついて、温いワインを空けた。
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