わたしのおうち
魚崎 依知子
一、
第1話
小さく弾けた静電気に、思わず手を払う。不快感の残る指先を確かめたあと、控えめにドアノブを握り直した。
開けば、タイルの幅木と高い上がり框が古臭い、昭和の玄関が迎える。これも板張りの壁も寄せ木張りのフローリングも、全て母が選んだものらしい。
――この家は、私が自分の力で建てたのよ。
昔から母の自慢は変わらない。ビール片手に部屋を見回しながら、満足そうに赤く染まった頬を緩ませた。ただ私が大人になってからは、そこに新たな言葉が続くようになった。
――私はね、あんたを女手一つで育てたのよ。借金もせず大学までいかせたの。
でもそれは、親孝行を強いての台詞ではない。女としても母としても自分の方が優れていると認めさせたいのだ。この家は母の城で、城主は母。それを揺るがすものは、全て敵だった。
声を掛けて和室を覗くと、母は定位置でテレビを観ていた。
「おかえり、冷蔵庫に刺身あるわよ」
「ありがと。
「二階で宿題してるわ。新しく来た男の先生になったって、嫌がってた」
簡素な報告を聞きながら髪を下ろし、台所へ戻る。冷蔵庫から刺身と発泡酒、蝿帳の中から磯辺揚げを引っ張り出して簡素な夕飯を始めた。
やがて缶が軽くなり始める頃、階段を下りる音が響く。程なくして姿を現した桃花は、少しはにかんだ様子で挨拶をした。ただいま、と返して笑うと今度は嬉しそうに笑う。切れ長の目尻がすっと伸びる、父親譲りの笑顔だ。笑うと下がる眉尻や細く通った鼻筋も、私から転写されたものではない。
「これ、プリント。書いてもらわないといけないのもあるよ」
「そう。新しいクラスはどんな感じ?」
「仲のいい子と一緒で良かったよ。でも担任が男で最悪」
笑顔から一転、今度は口を尖らせながら斜向かいに腰を下ろした。
「痩せてて髪がもっしゃーってしてて、猫背で顔色も悪くてさ。いかにも理科の先生って感じ。ネクタイもしてないんだよ。それで面倒臭そうに『お前らー』とか言うの。もう最悪」
項垂れると、二つ結びの毛先も揺れる。柔らかにうねるその流れも、この短時間に二回も「最悪」と言わせた理由も、辿れば同じところへ行き着く。
「女の先生がいいって頼んでたのになあ」
「そんな我儘、聞いてもらえないよ」
苦笑しつつクラス通信に滑らせた視線が、ぴたりと止まる。湧いた動揺を宥めるために髪を結び直し、ひとまず残りを呷った。しかしそれで事実が変わるわけではない。
先行きの不安に揺れながら磯辺揚げを突き刺していると、空き缶片手の母が現れる。できれば余計なことは言わないで欲しいが、期待はするだけ無駄だ。
母は予想どおり、学年だよりを覗き込んで、あら、と言った。
「担任、
途端に、ええ、と桃花が眉を顰める。
「お母さん、知り合いなの?」
「同級生ってだけだよ」
「何言ってんの、仲良かったじゃない。小学校から一緒の幼馴染みなのよ。昔はうちにもよく遊びに来てたわよ」
もう何も言い返す気になれず、弾む磯辺揚げを噛み潰す。滲み出た古い油に持ち上げた缶は軽く、諦めて腰を上げた。
「先生には言わなくていいからね」
「でも、先生だって家庭環境票で気づいてるでしょ」
「気づいてても大人だから言わないの。向こうだってやりにくいんだから」
まあ、あれから三十年近く経っているのだ。大人の気遣いを身につけていたっておかしくはないし、願っている。祈っている。頼むから、大人の男になっていて欲しい。
掻き消せない不安を祈りで拭いながら、ご飯を盛る。背後で母が、指輪はあったの、と余計なことを尋ねて桃花の顰蹙を買っていた。
八時過ぎに出勤して最初の仕事は掃除と片付け、それが終わる頃に姿を現す社長と副社長と朝礼を行う。そのあとはネットに掲載中の物件管理とメール対応、物件資料や広告の作成で一日を終える。物件案内や契約などは、宅建持ちの二人が行うから私はノータッチだ。経理も、月末になると社長夫人が現れてものすごい勢いでそろばんを弾いて去っていく。勤め始めた頃にはもう一人男性社員がいたが、私と入れ替わるように辞めていった。最後は社長の悪態の中を、逃げるように出て行った。
確かに社長は癖のある爺さんで、他人の意見はほぼ聞かず、二日に一度は喧嘩腰の電話をしている。周囲の評判は良くないし、私も決して得意なタイプではない。しかし母の一件で泣きついた時も仕事が決まらず焦っていた時も、救ってくれたのは社長だった。二度の救いがなければ今頃どうなっていたか、考えただけでぞっとする。その恩の前では今の問題など、きっと些末なものなのだ。
「いい加減、独り寝が寂しいんじゃないの」
指先はいつものように私の背を伝い下りて腰を辿り、スカートの尻を撫でる。小さく揺れたスプーンから零れ落ちた角砂糖は、シンクで角を潰した。
「いえ。家族を養うのに精一杯で、そんなこと気にする余裕はありませんから」
カップへつまみ入れ、落とさぬようにもう一つ追加する。僅かな嘲笑のあと、手は握るように揉み始める。耳元へ顔を寄せ、温い息を吐いた。
「だから、援助してあげるって言ってるのに。月二十万だよ。借金も楽になるし、娘にだって好きなもの買ってあげられるじゃない」
「たとえそうだとしても、子供に出処を言えないお金を頂くつもりはありません」
堅いねえ、とまた嘲り、耳の縁を軽く噛む。背後で、来客を告げるドアチャイムが鳴った。
「僕が出るからいいよ。コーヒーもあとで」
最後に尻をもう一撫でして、副社長は給湯室を出て行く。吐き出した息は震え、さすり上げた肌は粟立っていた。最初は笑えない冗談だったのが日に日にエスカレートして、今ではこのとおりだ。社長が外回りに出掛けて二人きりになると、必ず手が伸びる。五十手前のおっさんによる四十過ぎのおばさんへのセクハラなんて、端から見たら地獄絵図でしかない。でも一番目を背けたいのは当事者である私だ。
もちろん、正しい選択肢が浮かばないわけではない。でも社長が私を選んで息子を辞めさせるとは思えない。百歩譲って詫びたとしても、引導を渡されるのは私だ。そうなれば年齢を重ねた一層不利な履歴書を引っ提げて、また町内を駆けずり回る日々が始まる。それでも、今以上の待遇を得られるとはとても思えない。
ここは町民六千人、平均年収二百二十万の寂れた田舎町だ。手取り二十万の正社員なんて、そうありつける職ではない。社長は私の必死さを買い、境遇に情けを掛けてくれた。この仕事を失うわけにはいかない。桃花とも、約束したのだ。
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