第一章「暗夜からの解放 / What She Didn’t Know」

 満月が浮かぶ真っ暗な夜空、青々とした芝生の広がる丘の上に、彼女は立っていた。

 彼女の深海を思わせる紺碧色の瞳に、はっとするほど胸を締め付けられたことは今でも思い出せる。なぜならその瞳の中に、無数に尾を引く光の軌跡を捉えたからだ。

 確かめるように天を仰ぐも、その夜空には、星のひと欠片も見つかりやしない。

 見えないはずの星空を垣間見てしまうように――ここにはいないはずの彼女を幻視した。

 ……これは幼き日の目に焼き付いた繰り返しの光景。ひとつの終わってしまった物語。

 ――君に、ヒーローになってほしいんだ――

 彼女は青の瞳に星々の煌きを湛えて、染み入るような優しい声で、華やぐように微笑む。

 ――困っている人を助けるの。悲しみにくれる人がこれ以上悲しまないように。理不尽に遭う人が、これ以上理不尽を背負わないように――

 僕にそんな大それたことはできないと言うと、彼女は首を小さく横に振って否定する。

 ――ううん、君にはそれをできる力がある――

 今の僕には何もないと言うと、彼女は優しく口にした。

 ――その時は、私のをあげるから――

 何でもないように微笑むと、ふと引き離されるように、彼女はゆっくりと遠のいてゆく。 

 それはこの光景が終わる合図だ。なのに、無駄だと分かっているはずなのに、どうしても去りゆく彼女に手が伸びる。ここで何を言っても意味がないのに、いつも決まって言葉が漏れ出した。

 そんなものはいらないんだ。本当に助けたい人は、他の誰でもない――


 ――ハルミの手は虚しく宙を切った。

 想像以上の力で空振りしたハルミの手が行く先は、枕元に置いていた目覚まし時計へ。金属製の硬質なベルへと突き立てるように指がぶつかり、ガチンという衝突音が六畳一間のリビングにこだました。紛う事なき突き指だった。

「痛ッ――敵襲かッ!?」

 果たしてそれは、起床直後の混濁した思考が成す技なのだろうか。指先に痛みを覚えたハルミは、どういうわけか辺りを警戒するように、すぐさま布団を剥いで飛び出す。

 すると今度は、ハルミの体が盛大に宙を舞った。寝入る寸前まで読み耽っていた漫画雑誌を下敷きにして、つるりと足を滑らせたのである。

 ――ドタンッ! ものの見事に背中から床へと着地し、「おべふっ」という聞くに堪えない叫びと共に肺の中の空気が全て吐き出される。ハルミは目を白黒とさせ、背中の痛みにのたうち回ることとなった。そして極めつけに、ばたつかせた爪先から嫌な音がした。布団のすぐ横に備えられたちゃぶ台に、足の小指を思いっきりぶつけたのであった。

「うう……寝起きには敵が沢山……」

 ――ジリリリリリッ!

 今度は固定電話が鳴る。寝起きに見舞われた不運の連続でもはや立ち上がることすら面倒になったハルミは、体ごと転がるように移動して受話器を取る。

『ちょっとうるさいのだけど静かにしてくれるかしら!?』

「すみません、敵が現れたのでつい。今すぐ静かにさせますんで」

『はあ!? 敵ってナニよ? そもそもハルミさん、あなた一人暮らしでしたよね? まだお若いのに、普段学校にも行かずに家に引き篭もり、いったい何をしているんですの? もしかしてハルミさん、オタクというやつかしら? 世間ではそういう人を見る目が……』

「すみませんすみませんすみません……」

 やがて相手の説教が終わり、ハルミは力なく受話器を下ろした。

「あれも敵だ……これも敵だ……みんな敵だ……」

 ハルミは寝起きの胡乱な目つきで、呪うように呟いた。なんでこんな目に遭うんだ、と。

「ハルミの旦那、何を勝手に暴れてるんで?」

 ふと、ハルミを憐れむ声がした。四十半ばを過ぎたような男の渋い声色だ。

「……フッ、片時も気が抜けなかったあの頃を思い出して、体が勝手にな……」

「は、はあ。それは厨二病ってやつかいな」

「人は睡眠時に最も無防備となる。俺ぐらいのレベルになると、寝込みを襲われてもすぐに応戦できるがな」

「わしには旦那が一人コントを演じているようにしか見えなかったが」

 ところで、ハルミは一人暮らしの身である。その言葉通り、この部屋に居る人間はハルミ一人だけだ。では、ハルミに応答する声の主はいったい何者なのであろうか。

「――冗談だよ。おはよう。起こして悪いな、クロハラ」

 ハルミはちゃぶ台の上に乗った声の主に、照れ隠しの苦笑いを浮かべて挨拶した。

「旦那、今はもう“こんばんは“の時間ですぜ」

 言葉を発する人ではない生き物――”クロハラ”と呼ばれたハムスターが、呆れるようにハルミを諭した。小さな体躯を覆う体毛は白と茶が交互に入り混じっているが、腹部だけは墨汁を垂らしたかのように真っ黒だ。見た目こそ手のひらサイズの愛くるしい愛玩動物であるが、その身に纏う雰囲気がどこかおっさん臭く思えるのは、きっと気のせいではないだろう。そんなクロハラが、ミニチュアのような指先で窓を指した。

「外の景色は見えやすかい?」

「ああ、満月の見事な夜空だな……」

 クロハラが二本足で器用に直立し、愛くるしい見た目でハルミを見やる。その瞳は、この世の辛酸を味わったかのように黒く澱んでいる。

「わしゃハムスターだから夜の方が動きやすいが、人はいつから夜行性に進化したんだか」

「……いやあ、おかしいなあ。朝起きて学校に行くつもりだったんだが」

「引き篭もりがよく言えますな。それにおかしいもクソも、ゲームして漫画とラノベを読んでアニメを見てを朝までやってりゃ、眠くなってそのまま寝るのは自明だろうに」

 ハルミは気まずくなってそっと目を逸らす。

「旦那は寝ぼけて敵、敵、敵と言っていたが、この平和なご時世で何言ってんだって話ですぜ。旦那が今相手にすべきなのは、他でもないこの現実なんじゃないですかい?」

「うう、やめてくれ~!」

 ハルミは情けない声をあげて頭を抱える。自らの自堕落な生活を自覚しているハルミだが、いざ他人に突きつけられると辛いものがあった。

「はあ……こりゃ、旦那の先が思いやられますな」

 クロハラは、この話はもう終わりだとばかりに、スンスンと鼻を鳴らして餌を催促した。

「さっさっ、こちらをどうぞ」

「おお! ハッピーホリデーじゃねえか。気前がいいねえ」

 一袋四百円弱する最高級のひまわりの種を差し出されて、クロハラは一転して上機嫌になる。種を両手で抱えて嬉しそうにガシガシと噛り付くクロハラを傍目に見て、どうやら機嫌が直ったようだ。ハルミはほっとする。これ以上ガミガミと言われたら堪らないのだ。

「そうやって黙って餌食ってると、ちゃんと可愛く見えるんだがな」

「気持ち悪いことを言わねえでくだせえ。わしゃ見てくれこそどうしようもないが、男の意地ってやつを捨てたつもりはありませんぜ」

「分かってるって。昔のクロハラは、めちゃくちゃかっこよかったもんな」

 ハルミはどこか懐かしむように思いを馳せると、次いで少し寂しそうな微笑を浮かべてしまう。ふいに生じた寂寥感を振り払うようにハルミは深呼吸を行うと、起床後の日課となっている自主トレーニングを開始した。

 その場で腹筋や背筋、腕立て伏せを一通りこなした後は、わざわざリビングに設置している鉄棒で懸垂を始めだす。手馴れたものなのか、汗ひとつ流さずに体を動かしている。

「旦那は引きこもりの癖に筋トレはするんだよな」

「引きこもりだからするんだ。意外と落ち着くんだよな、これ」

 起きた後に何かをするわけでもないのは、クロハラの指摘するとおりハルミの自堕落な生活が証明している。今のハルミに何かを成したいと思える気力は存在しないのだ。それなのにこうして変わらずに肉体を鍛えているのは、自ら言う通り単なる酔狂なのだろうか。

『――本日のニュースをお知らせします。……【暗夜戦争】の終戦から、今日で丁度三年が経ちました。それに伴って、各地では終戦セレモニーが開かれており――』

 ふと、女性のナレーションがリビングに流れ出す。ひまわりの種を夢中で頬張るクロハラが、気づかぬうちにテレビチャンネルを足蹴にして電源を付けていたらしい。

「時間が経つのは早いものですねえ、旦那」

「もう、三年か……」

 ハルミが感慨深げに、目を細めて呟く。

『星なき夜に続いた、一二年間にも及ぶ悲しき争いの日々……』

 ニュースキャスターの言葉に釣られるように、ハルミは意識を過去へと向けた。

 ――かつて、この世界には争いが満ちていた。

 時は、夜空から星々が消えた一五年前に遡る。星空の消失と時期を同じくし、人の理から外れた超常の力“異能”を備えた者たちの存在が、爆発的に観測され始めた。

 【奇跡を立証するもの S I G N ― A L C H E M Y 】――シグナルと名付けられた彼らは、何もせずとも、ただそこにいるだけで人々に恐れられた。過ぎた力を持つ者は、持たざる者にとって異物足り得る。日を追うごとに増していったシグナルの数は、やがて世界の許容量を飽和した。

 何が本当のきっかけだったのかは今でも分からない。シグナルがその力で無辜の人々を傷つけたからなのか、あるいは人々がシグナルを恐れて不当に虐げたからのか、ともすればその両方か。広がる戦火が全てを覆い隠し、真実は歴史の裏側へと葬られた。

 確実に言えることは二つだけだ。

 シグナルとそれ以外の人々が二分され、世界中が争いに満ちていたということ。

 そしてその争いは、シグナル側が折れる形で終戦を迎えたということである。

「――旦那? 大丈夫ですかい?」

 クロハラの声に、ハルミは現実へと引き戻される。どうやら考え事に没頭していたようだだった。クロハラには、そんなハルミがどこか危うく見えたからなのかもしれない。

「ああ、なんでもないよ」

「どうやら気が滅入ってますな。気分転換に散歩でもいきやせんか」

「……そうだな」

 そう言ってハルミはさりげなくニュースを消すと、あり合せの黒のパーカーに黒のジーンズを身に纏う。言い出しっぺのはずのクロハラは、そんな光景を呆然と眺めていた。

「な、な……旦那、いったいどういうおつもりで?」

「クロハラの言う気分転換だよ。悪いか?」

「高校には一度も登校せず、食っちゃ寝で日がな一日を過ごすニートの旦那が? 食料品すら通販で頼む出不精の旦那が、こともあろうに自ら外に出るですかい?」

「全部事実だけどひでーなおい……このまま寝たくなってきた」

「冗談ですぜ、気を取り直してくだせえ。にしても、旦那が外出とは珍しいですな。今夜は槍でも降ってくんじゃないですかい?」

「そしたらクロハラを盾にするよ」

「ひでえ旦那だ」

 そうやってハルミはクロハラと冗談を言い合いながら、その相棒をフードの中へと運ぶ。

 そしてハルミは玄関を抜け――ふと夜空を仰ぎ見た。

「……やっぱり、綺麗な満月だな」

 ハルミの口から感嘆の言葉が出る。同時に、とある記憶が過ぎてしまう。

 いつも夢に見る彼女の光景だ。それが俗にいう悪夢であったとしても、彼女との思い出に違いはない。だからハルミは、幼き日に起きた全ての出来事を、大切に心に留めている。

 何年経っても色褪せない記憶に引きずられるように、いつもハルミは、見えないはずの星の光を求めて夜空を見上げてしまう

 ……だからだろう。

「あれ?」

 今日の夜空に、見慣れないものを見つけることが出来たのは。

「……なんだ、あの航空機? それに、銀色のカラス……?」

「どうしたんだ? わしには何も見え――」

 ――その瞬間、ハルミとクロハラの声が止まる。目撃した光景のあまりの衝撃に、思考回路が停止してしまったからだ。

 それはハルミたちに限ったことではない。この都市に住まう人々は、その日、その時、その瞬間、誰もが夜空を仰ぎ見た。

 その光景を例えるならば、夜空に現れた青きバベルの巨塔。あるいは、より鮮明にその光景を目撃した者ならば、巨大な氷柱つららが満月から垂れ落ちるかのように見えたことだろう。


 ――突如として高度数万メートル上空に出現した青き巨塔は、夜の帳を引き裂いて静かに滑り落ちる。神話に語られる大槍の一撃にも似たそれは、恐るべき速度で夜空を滑り落ち、都市沖合の海上に着水した。

 巻き上げられた水飛沫は高層ビルの高さにも匹敵し、巨大な爆弾が炸裂したかのような重低音が各地へと響き渡る。次いで、着水と同時に発生した衝撃波が遅れて吹き荒れ、ハルミの居る住宅地まで伝わった。


 +++++


 日本上空、高度数万メートルを飛行する輸送機があった。

 積載された“モノ”の重要性からか、輸送機には特殊な調整チューニングが施されている。結果として万能迷彩マルチカバーとも呼べる隠密特性を獲得した輸送機は、熱量、金属、電波、光波、現存するあらゆる探知機から捕捉されることがない。勿論のこと、目視できるはずのない代物だ。

 そのような輸送機が、海上にて唐突に消息を断った。

 ――上空にて発生した“氷の塔”の落下軌道に巻き込まれ、撃墜されたからだ。

 それは本来、誰も知る由のない出来事であるはずだった。


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 暗闇に覆われた水底で、唐突に発生した衝撃は、リットの華奢な体を吹き飛ばした。生まれて初めての体験にリットは戸惑う。しかし、彼女の居る場所は完全に密閉されており、吹き飛ばされたのなら端の壁にぶつかるだけだ。

 知識によれば、ぶつかると“痛い”らしい。それがどのような感覚なのか、身構えていたリットに――痛みはやってこなかった。

 吹き飛ばされた衝撃のまま、リットは液体で満たされた密閉空間――培養槽から飛び出したのである。リットの肉体を包み込んでいた温かな培養液が剥がされ、その身一つで何もない空間に踊り出す。

(……ここが、外の世界?)

 状況を確認するための身体機能、視力をリットは持ち合わせていない。リットは生まれてから現在に至るその生涯を、光一つない培養槽の底に沈められて過ごしてきたのだ。培養槽には生命維持に必要な機能が最低限備えられており、リットは何もせずとも、ただそこに居るだけで生存することができる。そうして自ら何も為すことなく生き長らえたリットの肉体は、本来人が生きるために必要な身体機能の大部分を放棄していた。

 暗闇で過ごす深海魚に視力が存在しないように、使われることの無い機能は退化によってやがて失われてゆく。ゆえにリットの瞳は何も映すことはなく、そのまぶたは閉じられたままだ。リットの見る世界は、果てのない深淵が芒洋と続いていた。

 培養液から飛び出したリットの肉体が、急速に不調を訴え始める。

(――ぁ、ぅ……!)

 まず初めに、リットは息苦しさを覚えた。人間は呼吸によって酸素を取り入れる。培養液から酸素が供給されていたリットには必要の無かった動作だ。見よう見まねで口を動かそうとするも、肺機能はとっくの昔に退化しており、リットは胸を抑えてもがき苦しむことしかできない。

(なに、これ……?)

 次いで、体温が急激に低下した。リットの肉体は現在、極低温下の外気に晒されている。温かな培養槽でその身を保全されていたリットには、極寒の外気は耐え難い洗礼だった。

 リットの全身が声なき悲鳴を上げる。体の先から生じた喪失感が、即効性の毒のように全身を蝕んで満たしてゆく。どこからどこまでが自分の体なのか、もはやリットには分かり得ない。真っ暗な視界から、その黒色すらも失われて意識が明滅してゆく。

 それはまさしく死の予感だった。

(からだがわからない……頭がまっしろになる……これが、死ぬ、ってこと……?)

 リットは問いかけるが、あの少女の言葉が返されることはない。リットの胸を、別の苦しみが貫いた。それは、他のどの苦痛よりもリットの心を摩耗させる。

(もういない……わたしも死ねば、同じところにいける?)

 耐え難い苦痛の中、何もかもを諦めかけたリットの心に――一つの楔が打ち込まれた。

 ――あなたはこの世界を生きて、色んなことを知っていくの。

 リットの脳内で、少女の優しげな言葉が弾けた。一語一句大切に心の中に仕舞ったモノが、リットの心中を何度も何度もリフレインする。

(色んなことを、知らなくてはいけない……)

 あの人がくれた大切なものは、紛い物ではない、純粋なる願いへと生まれ変わる。

(それに、まだ会っていない。わたしの傍にいてくれる人を、わたしはまだ知らない……)

 やがてリットの心の中に、ひとつの意思が芽生えた。それは生まれて始めて覚えた強烈な渇望。爆発的に精神を攪拌かくはんしてゆくその気持ちを、リットはもう抑えることはできない。

(……何も知らないまま――終わりたくない……っ!)

 心の中で生を叫んだ瞬間――唐突にリットは光を感じた。それはリットの肉体へと浸透し、止まることなくリットの内部を駆け抜ける。やがて光は肉体を通り越し、精神の最奥、魂の眼前へと到達する。一瞬にして、剥き出しのリットの心と向かい合う。

(――お願い、来て)

 リットは光を受け入れる。そうして、リットと光は一つになった。


『――【世界の記憶レコード】への接続率99,99%――【光の等価交換ソーラー=システム】を起動――身体機構を復元、外部環境を最適化――』


 リットの苦しみが、ふと和らいだ。

 どういうことか、さきほどまでリットの全身を蝕んでいた喪失感が、今や霞のようにかき消えている。極低温下の外気に晒された肉体が、あるべき体温を取り戻していたのだ。

 変化はそれだけではない。リットは、自らの胸部が上下していることに気がついた。

(呼吸、している……?)

 失われたはずの肺機能が作用して、生命の律動を物語る。

「……すぅ……すぅ……」

 そして驚くべきことに、リットは自らの呼吸音を認識していた。それが指し示す意味はすなわち、五感が機能しているということだ。

 リットは胸元へと手を伸ばす。呼吸に連動して僅かに上下する胸部をゆっくりとなぞると、言い表しようのない温かな感覚に包まれた。リットはたった今初めて、自らの存在を知覚したのだった。

「――わたしは、ここにいる」

 呼吸のやり方すら知らなかったリットの口から、不思議な音が零れ出た。

「……わたしの声?」

 それはあの人のような、明るくて元気なものではない。消え入るほどにか細くて、抑揚がなく無機質的で、それでいてどこかじめっとした響きの声色。けれどもそれは、紛れもなくリットだけが持つ自分の声。

「触れる、話せる、聞こえる……なら、見える?」

 リットは光一つ無い暗闇の中で生きてきた。けれどもリットは、様々なことを知っている。もちろん、世界が色づいていることは知っている。途方もなく膨大な色彩で構成されていることを理解している。この瞳を開けば、外の世界を確かめることができる。

「……知りたい……知りたくない……見たい……見たくない」

 真っ暗が好きだったかと言われれば、リットにとってもよく分からないだろう。何せそれ以外の景色を知らないのだから。けれども、嫌いではなかったと確実に思える。あの光ひとつない昏がりの水底は、赤子が眠る揺り篭のような安心感をリットにもたらしていた。

 そんな暗闇に、リットはさよならを告げようとしている。外の世界を知ってしまったならば、見てしまったならば、もうこれまでの暗闇には戻れなくなる。リットは未知なる世界への第一歩を踏み込もうとしているのだ。

 変わってしまうことへの恐れを胸に秘め、両手を握り締め、唇を僅かにかみ締め――


 ――生まれて初めて、目を開けた。

「わあ……」

 そこには、黒色で延々と覆われた光景――夜空が広がっていた。

 雲ひとつなく、どこまでも広がる無限の黒。けれども、これまでリットが経験してきたような、何一つ見えない暗闇ではない。どこからか差し込んできた光が眼下の景色――地上をうっすらと照らしている。

「下が、地上。上は、月?」

 光源を追いかける形で見上げると、真ん丸く輝く球体が、天高く悠然と浮かんでいた。

「大きい、あれは満月。……これは?」

 見上げた視界を覆うように、真っ白い糸を束ねたようなものが無数に翻っている。バサバサとたなびくそれらを手繰り寄せると、自身の頭部から伸びる髪の毛だと理解できた。

 暗闇でその生涯を過ごした弊害か、色素を失い真っ白に脱色された毛髪は、自由奔放に上へ上へと舞い上がる。それはまるで自分の髪の毛が、満月に吸い込まれ、天上へと飛び上がっていくかのように思えた。

「――違う、わたしが夜空を落ちている」

 だが、自らが置かれている現状を認識した瞬間、ごうごうと宙を裂く風切り音が耳元でこだました。リットは夜空を落下するさなか、両手を広げて風の感触を味わう。

「……わたしは、どうすればいい?」

 返答を期待するように、声を潜めてじっと待つ。

 しかし……いや、やはり、あの人の言葉が返されることはなかった。

「分かっている。言ってみた、だけ……」

 ふと、胸の中を走る疼痛にリットは顔をしかめた。このよくわからない痛みは、身体機能が回復した今でも、どうやら消えそうにないらしい。

 けれども。分からないことはまず考えるべきだと、そう彼女は言っていた。だからリットは気持ちを切り替え、何らかの手がかりを探すために、眼下へと目を凝らす。

「陸と、海と……氷の塔……?」

 知識の通り、地上は陸と海に分かれていた。そしてこのままだと海の方に落ちるということは理解したのだが、真下に屹立と佇む氷の塔が気がかりだった。あのようなオブジェクトが自然に発生するなどという知識をリットは持たない。そして、現代の科学技術では生成できないものであるということも認識している。ならば、必然的に結論が導出される。

「あれは、シグナルの異能? ……もしかして、あれがわたしを――」

 リットの言葉は、夜空をつんざく無数の鳴き声で遮られた。

 ――カア! カア! カア! 

 夜空を落ちながら、リットは鳴き声のする方へと顔を向ける。

 そこには鳥類と思しきモノが、数百匹の群れを成して飛行していた。どうやらその群れは、リットの方へと向かってきているようだ。

「……カラスがたくさん?」

 飛行するそれらの姿かたちは、知識の中にあるからすという生き物に酷似している。だが、どこかがおかしい。カラスは黒い体毛を生やしているはずなのだが、目の前のカラスたちは全て、眩い銀色の金属で覆われている。そしてそもそも、普通のカラスなら、リットの居るこの数万メートル上空を飛んでいるはずがない。

「もふもふ、してない」

 リットはどこか不満げに、感想を口にする。

 銀ガラスたちは群れなして狭い空間をひしめいて飛行するせいで、お互いの体が絶えずぶつかりあっている。そのせいで、いわゆる“食器にスプーンを擦りつけたかのような”金属の悲鳴があちらこちらで発生していた。あまり聴き心地のよくない音である。

「カラスのにせもの――それも、シグナルの異能?」

 かつて暗闇の中で、あの人に教えられた言葉を反すうする。


 ――【世界の記憶レコード】の閲覧権を有するあなたは、あらゆる知識にアクセスすることができる。そしてその知識の中には、シグナルに関するものも含まれている。でもね、再確認をしておきたいの。近い将来、貴方がいろんなシグナルと接した時のために。

 ――……シグナルって、なに?

 ――人の枠組みから外れた力、“異能”を得た人たちの総称よ。ごく少数の例外を除いて、シグナルは一人につき一つの異能を保有しているの。既存の言葉で言うなら、超能力者みたいな人のことを指すのかな。

 ――スプーンをこすって曲げたりする人?

 ――リット、あれは手品師よ。シグナルの中には、スプーンどころか、金属そのものを生み出したり、自在に操れる人だっているんだから。

 ――シグナル、とてもすごい。

 ――あなたがその中でも一番すごいシグナルなのだけれど、一応自覚しておいてね? ……ともかくリット、シグナルに会ったら、まずは気をつけて。シグナルの中には、その異能で誰かを傷つけようとする人もいるからね――


 銀ガラスの群れは月光を照り返しながら、夜空を落下するリットへと接近してゆく。

「にせものカラスは、わたしの味方? それとも敵?」

 宙に投げかけたリットの問いかけは――一匹の銀ガラスの突進という形で返答された。

 群れの先頭を行く銀ガラスが羽を大きく広げると同時に、その身がぶれるほどの恐るべき速さで飛来してきたのだ。目標はリットの肉体、傷一つ付いたことのない真っ白な柔肌。それは宙を落ちるリットにとって、避けることの能わない先制の一撃である。

 ――ゆえに、紙一重の距離で銀ガラスの突進を避けることができたのは、何らかの不可思議な力が働いたとしか考えられなかった。

 ぼう、とリットの周囲に、いくつもの光の珠が浮かび上がる。それらは蝋燭の残火のような、蛍火のような、見るものに癒しをもたらす安らぎの光だ。光の珠は、淡くうっすらと光の軌跡を空間に残しつつ、落下するリットの隣を併走する――その珠の正体を、リットは誰に教えられるまでもなく直感で理解した。そう、これは誰のものでもない――

「わたしの、異能」

 この光の珠――シグナルとしてその身に宿す異能が、リットを死の淵から救ったのだ。

「助けてくれて、ありがとう」

 光の珠たちは、リットの周囲をくるくると回る。まるで主の復活を喜んでいるかのようだった。すると飛び回る一つの光が、リットの注目を逸らすかのように背後へと移動する。

 光の珠を追いかけるように宙を振り向くと、先ほど躱した銀ガラスが、再びリットの元へと向かっているところだった。

 もう一度躱したところで、また同じように突進してくるだろう。ならば、その動きを止めればいい。そのために、リットは想像して、連想する。やるべきことは、わかっていた。

「空飛ぶ鳥を人は落とす。それは狩猟――在るべきものは解き放ち穿ち貫く、弓と矢」

 リットはか細い人差し指を、こちらへと飛来する銀ガラスに向ける。まるで誘われるように、指先に光の珠が一つ留まる。

『――【世界の記憶レコード】へと接続――索引対象【弓矢】――任意形成を開始――』

 指先に止まった光の珠が弾けて――次の瞬間には巨大な弓矢が目の前に出現していた。

 リットの全長ほどの大きさを誇る強弓と、腕の長さに等しい一本の矢。それらは、リットが触れるでもなくひとりでに装填され、迫り来る銀ガラスへとその矢尻を向ける。瞬時に弦が引き絞られ、シュッと空気を引き裂く音を取り残して、矢は放たれた。

 空間を一直線に駆け抜ける神速の矢は、正確に銀ガラスの眉間を貫いた。羽を広げた銀ガラスは、その後一寸たりとも動くことはなく、自由落下にその身を委ねて果てた。

 リットは周囲に光の珠を漂わせながら、銀ガラスの群れへと視線を戻した。

 ――カア! カア! カア!

 仲間を撃墜されたことに腹を立てているのか、より一層鳴き声を響かせてリットを威嚇している。そうして今度は、何十匹もの銀ガラスがリットめがけて一斉に加速した。

 対するリットは、鷹揚と腕をひと薙ぎする。まとわりついていたいくつもの光の珠が、リットの意思に応じて周囲へと散開してゆく。

「もっと、たくさん」

『――索引対象【弓矢】――任意形成を開始――量産へと移行――』

 夜空のあちらこちらで光が弾け、そこには先ほどと同じ巨大な弓矢が現れる。リットと一定の距離を保ちつつ落下するそれらの強弓は、自動的に矢を番い、こちらへと殺到する銀ガラスに向けて手当たり次第に弦を引いていった。

 射出された無数の矢が、銀ガラスの眉間と言わずに胴体や羽翼を、無造作に貫いてゆく。矢を撃ち放った強弓には即座に新たな矢羽根が番われ、それは止むことのない掃討の嵐を生む。空を飛ぶだけの銀ガラスは、飛び交う早矢はやの猛攻をただ受け入れるしかなかった。

 夜空に舞い散る銀翼が、月光の下に煌めいた。

 手負いの銀ガラスが、その苦痛を表すかのように鳴き喚いたのだ。そんな彼らが狭所でもつれあうことにより、金属質の羽根が激しく擦れ合い、不協和音が奏でられる。

 それは狩猟ではなく、一方的な蹂躙である。弓矢の猛撃に銀ガラスは怯むことなく突撃しているが、リットが攻撃をやめない限り、一匹たりともリットに近づくことが許されない。それだけを見れば、戦況はリットの方が優勢に進んでいるように思える。だが――

「……きりがない」

 その状況を言い換えれば、攻撃をやめた途端、果敢に押し寄せる銀ガラスの群れが、一斉にリットの下になだれ込むことを意味している。

 現在、リットは夜空を高速で落下し続けているが、この空の旅路は有限である。まだ地面までの距離に余裕はあるが、真下は海であり、そろそろ次なる方針を打ち出さなければならないところだ。この落下速度で海面に叩きつけられた肉体がどうなるかをリットは理解しており、ましてや着水の間際まで銀ガラスに付き合っている余裕などない。

 つまり、今リットに必要なものは、この状況を打破するための一手――銀ガラスの群れを一掃するための決定的な一撃である。

 必要なものは理解した。ならば、それを生み出せばいい。

 リットが両手を広げると、舞い踊る光の珠が横列を成す。

 空想して、夢想する。リットの唇から溢れ出た言の葉は、力を得てあまねく真実となる。

「人の狩猟は進化する。それは戦争――在るべきものは不可避の業火、飛翔する爆弾」

『――【世界の記憶レコード】へと接続――索引対象【飛翔する爆弾】――必要条件を入力――検索結果【直接攻撃誘導弾“HYDRA-70(ハイドラ・セブンティ)”】――任意形成を開始――量産へと移行――』

 横一文字の光の珠が同時に弾けると、そこにはいわゆる“ロケット弾頭”と呼ばれる金属製の鉄筒が、ずらりと空宙に並んでいた。

「はいどらせぶんてー……弓矢のほうがわかりやすい」

 知識として理解はしていても、リットにとって現代兵装の概念は複雑だった。けれども、使い手の苦手意識など何ら考慮しなくてもいいことが、規格化された兵器の強みである。「目標、にせものカラスの群れ」

 横に広がる全てのロケット弾頭が銀ガラスの群れを捉え、甲高いアラート音を響かせる。

「えーっと……発射ふぁいあ?」

 どこか張りのないリットの号令により、ロケット弾頭は一斉に爆進した。あまりの速さに、リットからは、推進剤が吐き出すギザギザの白煙しか見えない。

 次の瞬間には、目標に到達した複数のロケット弾頭が眩い閃光を放っていた。

 天地を揺るがすかのような轟音と共に、膨れ上がる灼熱と破砕の領域が辺り一帯を飲み込んだ。強風によってすぐさま爆煙は取り払われ、ロケット弾頭の成果があらわとなった。

 飛行する銀ガラスの群れに、ぽっかりと穴が空き、集団密度を大幅に欠落させていた。

 狙い通り、リットは現状を打破する決定的な一撃を放つことに成功したのである。


 ――しかし、その成果をリットが確かめることはなかった。


 +++++


 “氷の塔”落下という異常現象に震撼する都市住民。非現実的な光景を目の当たりにした人々は、それがシグナルの異能によってもたらされたものだと感づいていた。

 人々の間に、戦禍の記憶が蘇る。

 【暗夜戦争】――本来、それは戦争とも呼べない代物であるはずだった。

 あらゆる国々が“打倒シグナル”を旗印に共同戦線を踏まえた世界連合。それに対して反乱者たるシグナルは、国も、言葉も、宗教も、肌の色も違う有象無象の集まりである。横の繋がりを持たない彼らシグナルが少数で抗ったところで、世界そのものに敵うはずもない。まるで蟻を踏み潰すかのように、彼らは容易に鎮圧される定めであるはずだった。

 しかし、世界の予想に反して、シグナルの抵抗、反乱、テロリズム行為は次第に強まっていく。争いの日々は凄惨を極め、終戦に至るまで十二年もの月日を要することとなった。

 戦争の長期化、その主因とされる人物こそが、【星詠みの魔女】と称された、悪名高き一人の【災厄指定レッド】シグナルである。類稀なる求心力を持つ彼女の下にシグナルが集まり、やがて強大かつ強固な反体制勢力レジスタンスを築いたのだ。

 終わることのない泥沼の大戦――それを身を以って味わった者たちにとって、“氷の塔”落下という信じがたい出来事は、地獄の再演に等しかった。

 シグナルへの恐れから、その場で立ちすくむ者もいたことだろう。すぐさまその場から逃げ出し、都市外への脱出を図ろうとする市民も少なくない。彼らは “氷の塔”が着水した沖合現場から少しでも離れようと、避難行動を取っていたのである。


 ――そんな群衆の中を全力で逆走していたハルミは、突如立ち止まり大声をあげた。

「自爆して吹っ飛んだァ!? オイオイ今度は逆方向にいくのかよ!」

 周囲がハルミの言動に訝しむ中、ハルミはその場で踵を返し、元来た道を辿るように走り出した。群衆からは「邪魔だ」「どけ」と不満の嵐が投げかけられる。しかし、当の本人はそれらの野次に反応することは一切ない。それほどまでに、走ることに無我夢中だった。

「ちょっと旦那! 待ってくれ! 旦那には何が見えてるってんだ? そもそもなんでいきなり海岸線に向かって走り出したんだ? そしたら今度は道を引き返すしよ。いい加減話してもらえねえとわしゃ理解が追いつかねえぞ!」

 群衆の中をかき分けるようにひた走るハルミに、クロハラの声が投げかけられる。

「あとでちゃんと話す! このままだと間に合わないんだ――だから、やるしかない」

「やるって何をだ!?」

「今から空を飛ぶ」

「……え?」

 端的なハルミの一言に、クロハラの息ががふと詰まった。

 普通の人間は単身で空を飛ぶことができない。極めて自明のことである。だがクロハラが黙り込んだのは、そんなハルミの「空を飛ぶ」という無茶な放言に呆れたからではない。

 ――衆人環視の状況下でソレを実行しようとするハルミに、仰天してしまったからだ。

「お、おい。飛ぶってまさか、こんな所で!?」

「しっかり掴まってろよ!」

 クロハラがハルミを諌めようとしたが、もう遅い。蠢く群衆の隙間、人のいない空白地帯を見つけ、ハルミは躍り出す。足腰に力を入れて、めいっぱいジャンプした。

「【衝撃放射ブラスト】」

 ハルミが一言呟くと、ゴウ、と周囲に突風が吹き荒れた。

 ――そこには、空中をでたらめなスキップで飛び続けるハルミの姿があった。

 例えるならばそれは、ゲームなどではよく見る存在する空中ジャンプ。何もない虚空を蹴りつけるように飛ぶ姿は、まさしくゲームの如き非現実的な光景といえよう。

 けれども、目撃者たちは不可能を可能とする力の存在を知っている。

「シ、シグナルだあああ!」

 誰かが大声で叫び、その動揺が群衆に伝播してゆく。そのような騒動を引き起こしたハルミ本人は、ちらりと眼下を一瞥しただけで、構わずに夜空を駆け出した。

 向かう先は、海岸都市沖合とは打って変わって逆方向、山間部である。

 現在ハルミの移動速度は、高速道路を走る車両にも匹敵しており、夜空に紛れる黒いパーカー姿も相まって、街行く人々は誰もハルミの存在に気づかない。

(三年ぶりに使ったが、案外体が忘れてないものだな……)

 少し複雑そうな表情で――シグナルであるハルミは、自らの異能の使い心地を判断した。

 ハルミが【衝撃放射ブラスト】と呼ぶ異能は、衝撃波を生み出す力である。ハルミの皮膚表面より数センチ先で生成されるそれは、イメージとしては手足から衝撃波を放つ感覚に近しい。その衝撃波によって生じた反作用を利用することで、現在のハルミは空中を飛翔している。

「……旦那ぁ。わしゃそれだけは……旦那に異能だけは使ってほしくはなかった」

 ただ一人で夜空を駆けるハルミに、クロハラが無念そうに告白する。

「旦那にはシグナルじゃなくて、普通の人間として暮らして欲しかったんだ……」

「……」

 ハルミは押し黙った。クロハラはハルミのことだけを考えて胸を痛めている。それが分かっているからこそ、返す言葉が見当たらない。

「……この三年間、学校にもいかずに家に引き籠もり食っちゃ昼夜逆転、アニメ、ゲーム、漫画、ラノベ三昧の残念な旦那を見てよく呆れたものだが、それでもわしゃ嬉しかったんですぜ。何も生み出すことがない無為で自堕落な日々だったが、それでも旦那は普通の人間として生きていた。……ああ、ウンコだけは生み出してたか」

「言いすぎじゃねえか!?」

「まあともかく、さっきの騒動で旦那は【保護都市】に通報されただろうな。存在が明るみになったシグナルがどういう末路を辿るかは、言わなくても知ってるだろう」

 シグナルが一般市民に通報される、あるいはシグナルでしか起こし得ないような異常現象が観測された場合、近隣の【保護都市】から子飼いのシグナルが派遣される。

 対象が【安全指定グリーン】、あるいは人を害する力を備えた【危険指定イエロー】と判断されたならば、勧告を経て、武力を伴う強制連行任務へと移行する。しかし、そのどちらでもない三つめの分類、人どころか国、あるいは世界に害をもたらしかねない【災厄指定レッド】と判断されたのであれば、強制連行ではなく、その場で殲滅――殺害する義務が課せられている。

「ただでさえよく分からん大事件が目の前で起こったんだ。じきに【保護都市】の使いっぱしりが駆けつける。間違いなく旦那はお尋ね者だ。この街には居られなくなるだろうよ」

「……ごめん」

 ハルミは何の弁明もできず、それでも自分を気遣ってくれたことに、ただ一言謝った。

「湿ったいのはここまでだ。終わったことはしょうがねえ。旦那がしたいと思ったことができたんだ。なら、わしには手伝うしかねえだろうよ――教えてくれ、何があったんだ?」

 ハルミができないでいた話題の転換を、クロハラが代わりに行った。積もる話はあるだろうに、ハルミの切迫した様子を見て我を引っ込めたのだ。

 ハルミは小さな声で「ありがとう」と呟くと、一転して真面目な口調で言い切った。

「空から素っ裸の女の子が落ちてくるんだ」

 クロハラは黙り込む。何かを考えているわけではない。いや、むしろ何も考えることができなくなったと言った方が正しい。まるで意味が分からないといった様子である。

「……………………は?」

「正確には高度数万メートル上空からなんだが」

「……え?」

「とても華奢な体つきだったな。……あんまり食べてないんじゃないか。肌は真っ白、髪も白色。瞳の色だけは真っ赤だった。その女の子、最初は胸を抑えて苦しそうにしてたんだけど。でも、途中から元気になったみたいで」

「……で?」

「すると今度は、女の子のもとにカラスの大群が押し寄せてきたんだ。ただのカラスじゃない、銀色のカラスだった。見た感じ金属質だったと思う」

「……はあ」

「襲いかかるカラスの群れに、女の子はいきなり無数の弓矢を生み出して応戦したんだ! 

挙句の果てにはロケットミサイルみたいなものをぶっぱなして――」

「旦那、ストップだ。そこでストップだ。もう喋るんじゃあない」

 クロハラは憐れみさえ含ませた声色でハルミを嗜めた。これ以上ハルミに喋らせると、大切な何かを失ってしまうような気がしたのだろう。

「……もしかして、アニメやラノベの見すぎなんじゃないか。言ってることがめちゃくちゃすぎるぞ。そういえば前期に、メインヒロインが空から落ちてくるやつがあったよな」

「あれはなかなか面白かったな。BD予約したから家に届くのが楽しみ――って俺、シグナルだってこと通報されたから帰る場所がないんだった!?」

「旦那、きっと疲れてんだよ。今日のことは忘れて、お家に帰ってゆっくりしようや」

「違う! 信じてくれ本当なんだ! あと帰れねえよ!」

「旦那も昔は、色々あったもんな。そうやって妄想したくなる気持ちは分かるぜ……」

「だ・か・ら、その女の子が爆風に吹き飛ばされて、山の方まで飛んできてるんだよ!」

「引きこもりで出会いがないからって、ついには痛い幻覚まで……」

「ええい! 時間がない! もう落ちてくる!」

 ハルミは衝撃波の出力をあげて、限界まで速度を引き出す。肉体のあちらこちらに響く負荷の痛みを押し殺し、最高速度を維持したまま山間部へと突入した。

 そこは、かつて星空を一望できる観光名所として知られていた丘陵きゅうりょうだった。しかし、一五年前の星空消失事件を境に管理が放棄され、今では雑草が無造作に生い茂る有様だ。

 荒んだ丘の上空にて、ハルミは言い切った。

「いいか、一度しか言わない。今からクロハラをぶん投げる。あとは頼んだぞ!」

「おいちょっと待ていきな――」

 突如として空中で姿勢を反転させたハルミは、クロハラを右手で鷲掴みにすると、自分がやってきた方向――正しくは斜め上空に向かって、あらん限りの力を込めて投げつけた。それだけでは終わらない。ハルミはダメ押しとばかりに【衝撃放射ブラスト】を発動、手の甲裏側に衝撃波を発生させて、投擲の勢いを劇的に加速させたのである。

「――なにしやがんだあああ!?」

 ハルミの手元からカタパルトのように射出されたクロハラの速度は、ゆうに時速数一〇〇キロにも及んでいる。両の頬袋が張り裂けそうなほどの風圧を受けて飛翔するするクロハラは――ふいにこちらへと勢いよく迫る存在を察知した。

 ……ハムスター、ひいては齧歯目に属する生物は、視覚ではなく嗅覚で危険を察知する性質を持つ。敵対生物の体臭を把握し逃走することは勿論、近年の研究では天変地異の前触れを“何らかの臭い”で察知し、事前に逃避行動を取るとも言われている。そういった齧歯目の性質を備えたクロハラは、真正面に人の匂いを捉えたのだった。

(……なんちゅう速度で落ちてんだ。このままだと地面に激突してぺしゃんこじゃねえか)

 クロハラは真正面へとつぶらな瞳を向ける。このままの飛翔軌道では、クロハラは少女と正面衝突することになる。人間大の物体にぶつかれば、ハムスターのクロハラは無事では済まないだろう。齧歯目としてのクロハラの本能が、危険を回避しろと訴える。

(久しぶりに旦那に頼られたんだ――ここで守らなきゃ、男がすたる)

 しかし、クロハラはただのハムスターではない。――シグナルの力によって知能と異能を与えられた、頼れるハルミの相棒である。クロハラの持つ察知能力は、危険から逃避するためにあるのではない。生じた危険から、誰かを守るために存在するものなのだ。

「【守護者ハムハムバリア】ァァァァ!」

 クロハラが裂帛の気合を叫ぶと同時、空中に淡く光る水色の壁――防護障壁バリアが出現した。

「おりゃあああああ!」

 クロハラの飛翔軌道上を追い超すように、水色の防護障壁バリアが幾重にも生み出されていく。そのようにして多重展開された防護障壁バリアには、その全てに中心からひび割れのような亀裂が見受けられる。それは、クロハラが少女を受け止めるために付与した性質であった。

 ――例えば飛来するボールが厚紙を貫通した場合、その分だけ確実にボールの勢いは落ちる。それと同じように、意図的に脆く仕立てた防護障壁バリアを幾重にも重ねる。すると、少女がひび割れた防護障壁バリアを突き破る度に、落下の勢いを殺す緩衝材となるのである。

 防護障壁バリアの多重展開を終えたクロハラは、徐々に落下速度を減衰させてゆく少女を見据える。更にクロハラ自身も防護障壁バリアにぶつかることで、少女との衝突を回避する予定だ。

 勿論のこと、クロハラの小さな体格では防護障壁バリアを割ることなど叶わない。

 それでも、少女に直接ぶつかるよりかはマシであった。

「旦那、後はまかせ――バブベッ」


 +++++


「――よくやった! あとで好きなだけハッピーホリデー食わせてやる!」

 何も言わずとも、ハルミが必要としたものをクロハラは最善の形で実現してくれた。両者は文字通り以心伝心の関係にあるのだ。

 ――パリン、パリン、パリン――

 クロハラの尽力で、少女の落下速度を大幅に減衰させることができた。しかしそれでいて尚、少女は未だ驚異的な速度を保っていることは確かだ。

(空から女の子が落ちてくる展開、現実だと洒落にならねーな!)

 思うところは沢山ある。だがそれらの雑念を振り払い、為すべきことだけを考える。

 ――君にヒーローになってほしいんだ――

 ついぞ果たすことの無かった約束を守るために、ハルミはできる限りの最善を尽くす。

 そして両手を広げたハルミの元に、少女が衝突する――その寸前に、

(勢いを受け流すッ!)

 武術の達人は殴られる直前に自ら身を引き、打撃の勢いを和らげるという。正にそれを、ハルミは空中で行おうとしていた。衝突時のインパクトが伝わる寸前に、【衝撃放射ブラスト】を向かって正面に発動させる。するとハルミは、まるで空中で唐突にバックステップを踏んだかのように、少女を抱えて後ろへと――少女の落ちる方向へと一緒に吹き飛んだ。

 このようなハルミの行いによって、少女に及ぶダメージを抑えることには成功した。だがそこには、急激に逆方向へと転換したハルミ自身への肉体負荷は考慮されていない。

「――ガフッ!」

 そして現在、ハルミは地面に背を向けるようにして落下している。そこで今度は、背中から衝撃波を連続噴出させることで、落下の勢いと相殺しようというのである。

 ――バスッ、バスッ、バスッ――

 背中に衝撃波を発生させるたびに、ハルミの口元から血液が飛散する。少女を受け止めた段階で、体内のどこかが損傷したのだろう。ハルミの行いは、そのような傷口に鞭を打って塩を塗りこむようなものでしかない。どだい無茶苦茶なことをしているのだ。

 何のため、誰のために無茶をするのか。ハルミは腕の中の温もりに意識を向ける。

 ――すぴぃ、すぴぃ……

(図太いなコイツ!?)

 寝息によって少女の無事を確認しつつ、この状況で眠りこける少女の胆力に心底感服した。この短い間に苦痛ばかりを味わったハルミだが、その表情はどことなく緩んでいた。

 守るべき誰かが目の前にいる、その喜びを感じながら――

 すぐそこまで、丘陵の地面が迫っている。接地直前、ハルミは大きな衝撃波を放つ。

 落下直前――ガクンと、二人の肉体が僅かに浮き上がった。

 高度数万メートル上空より落下した少女の勢いを、今この瞬間に減衰しきったのである。名も知らぬ一人の少女を、ハルミとクロハラが、墜落死という運命から解き放ったのだ。

 ハルミが安堵を覚えたのも束の間。二人は一瞬だけ宙に静止した後、純粋なる重力の勢いで地面に落下した。もちろん、ハルミの背中からである。

「おべふっ」

 衝突と同時に、思い出したかのように何かが喉元までがせり上がってきた。きっと一段落がついて安堵したせいなのだろう。

(うえ、吐きそ……)

 無理もない。三年ぶりに起動した衝撃波の異能を、リハビリもなしにぶっつけ本番で、それも滅茶苦茶な用途に使ったのだ。生じた酔いは凄まじく、今の今まで吐き気を堪えられていたことが奇跡的と言えた。

 ハルミは少女をさっと地面の上に避難させると、たまらずその場で蹲り、嘔吐した。

「う……ゲホッ、ゴホッ……」

 ハルミの両眼に涙が溜まる。それは嘔吐によって生じる生理的な反応か。それともせっかく命懸けで少女を助けたのに、最後にとんだ醜態を晒す自分自身に向けてのものか。

(助けた女の子のすぐ横で、吐くヒーローなんているわけないだろ……)


「――あなたはどうして、そのようなメソメソした顔をしている?」

 後ろから、声がした。

 ハルミにとって、その言葉は不意打ちであった。思わず心臓がどくんと跳ね上がる。

 おそるおそる振り返り、その場で金縛りにでもかけられたかのように固まった。


 裸体の少女が、赤い瞳で、ハルミをじっと見つめていた。

 それはまるで、どこかの絵画から飛び出してきたかのような、非現実じみた絶佳の容貌。

 一糸まとわぬ姿でありながら、地面すれすれまで伸びた白い長髪が、少女の小さな肢体をドレスのように包み込んでいる。網膜に焼き付くほどの鮮烈な白さを放つが、瞳だけは熟れた林檎のように真っ赤である。少女の怜悧な表情からは、一切の心情が伺えない。

 ――その瞳が、口端から血液と胃液を垂らした、涙目のハルミに向けられている。

「あ……ッ!? ごめん!」

「なぜ、あなたが謝る?」

 びゅんと顔を背けるハルミに、再び少女が問いかける。囁き声のような、幽かな響きだ。それに責め立てるような感情の抑揚もない。なのに不思議と、耳の奥に残る声だった。

「いやその! は、裸を見てしまったりとか! 目の前でゲロったりとか! ……うぅ」

 ハルミは少女に背を向けて、恥ずかしさやら居た堪れなさの篭った卑屈な表情を浮かべる。そもそも、なぜ裸で夜空を落ちていたのか。その理由を真っ先に問いただすべきである。しかし、少女の最初の一言と、見目美しさによって、ハルミは冷静さを失っていた。

「裸を見て? ……問題ない。わたしの裸を、初めて見たのはあなた。知識によるとこの場合、あなたは責任というものを取らなければいけないけど……大丈夫」

「全然大丈夫な言い方じゃないけど!?」

「それに、あなたの嘔吐も問題ない。その鼻を突くような異臭のおかげで、わたしは意識を覚醒させることができた。あなたの吐瀉物の臭さに、むしろわたしが礼を言うべき」

「それ皮肉だよな!?」

 放たれた少女の言葉が、ぐさりぐさりとハルミの心に突き刺さる。もうどうにでもなれと自暴自棄になったハルミであるが――背中に、柔らかな感触を覚えた。

「……こうすると気分が落ち着く、らしい」

 耳元で声がする。少女がその小さな手で、ハルミの背中を精一杯さすっているのだ。

「俺を責めてるんじゃ……?」

「――助けてくれて、ありがとう」

「なっ……」

 不意打ちの連続だった。ついさきほどまで、ハルミはひと時も気の抜けない命のやり取りをしていたのだ。それを、ハルミが一番聞きたかった言葉で、思い出させてくれた。

 ハルミは笑んでしまいそうな自分を戒めるように、唇を噛み締めた。久しく味わうことのなかった、温かな感情を自覚する。

「あなたがいなければ、わたしはそのまま地面にぶつかり、死んでいた。わたしがこうして目を見開き、世界を知ることはできるのは、きっとあなたが頑張ってくれたおかげ……だから、わたしのために傷を負ったあなたに、わたしができることをしたい。それは看護」

 少女の献身さに当てられて、ハルミは自身の頬が熱を帯びてゆくのを感じた。

「別にそこまでしなくても……」

「――身体機構の復元」

 それはあまりにも唐突な変化だった。

「――ッ! なんだこれ……痛みが引いた?」

 唐突に肉体内部で生じた変化に、ハルミは驚く他なかった。

「む……、【世界の記憶レコード】との接続が途絶えた」

 しかしなにやら、リットにとってその結果は不服であるらしかった。

「痛みを感じる?」

「まだ少し痛いけど……レコードって? ていうか今の何? 俺の体を治したの?」

「いいえ、麻酔を投与しただけ。あなたの体は治していない……今から、対症療法を行う」

 ハルミの疑問を無視して言い切った少女は――いきなりハルミのズボンをずり下ろした。

「なにすんの!?」

「痛み止め成分を直腸吸収させる」

 そう言う少女の手には、なぜか、指の大きさほどの白い錠剤――座薬が鎮座していた。

「いやいやいやいやおかしいでしょ!」

「一番吸収効率がいい」

「そういう話じゃなくて!」

「摂取形態に不満? 経口摂取に切り替える」

「というかなんでそんなの持って――」

「【ペインキラー】」

 蛍火のような光が、ハルミの視線を横切る。光は少女の手のひらに吸い込まれると、次いで弾ける。一瞬のうちに霧散した後、そこには白い粉末状の物質が存在していた。

「【コップ】。【ミネラルウゥーター】」

 今度は、光が二つ現れた。ハルミが呆気に取られているうちに、いつのまにか光は弾け、少女の指には――液体に満たされた、陶器製のコップが引っ掛けられていた。

(これがこの子の力なのか……? こんなでたらめな異能、見たことないぞ)

 極めて何事もなかったかのように、少女はコップの液体に粉末を溶かし込んだ。

「なんだそ――ムグッ」

「飲んで。早期に対処するほど、病状は緩和される」

 ハルミは訳も分からず、されるがままに差し出されたコップを空にした。

(ほんとに水だ……光から液体を生成した? それに、ちゃっかり苦い……)

「いったいこのちか」 

 ハルミの口に、少女が人差し指を押し付ける。

「喋らない。今度はリラックスのために深呼吸を」

「…………すー、はー。すー、はー」

「数十分後には薬効が表れる。それまでの辛抱」

「あ、ありがとう。ところでこのちか」

「深呼吸」

「すー、はー。すー、はー」

「そう、その調子」

 呼吸によって上下するハルミの背中を、少女は優しく丁寧にさする。

 満月が浮かぶ夜空、雑草の広がる寂れた丘で、ハルミと少女は、奇妙な無言の時間を過ごしていた。そうしてハルミが言いあぐねているうちに、少女の方が先に口火を切った。

「初めて出会った人とすること、それは自己紹介。わたしは、わたしを助けてくれたあなたの名前を知らない。そして知りたい。だから、あなたの名前を教えて」

「俺の名前はハルミ……君は?」

「わたしはリット。そう呼んで、ハルミ」

 相変わらず、リットの表情は無表情のままだ。けれどもハルミには、リットの態度がどこか柔らかくなったように感じた。

「――旦那、そりゃお医者さんごっこか何かですかい?」

 いつの間にか帰還を果たしたクロハラが、ふと目にした光景は、全裸の美少女であるリットに背中をさすられているハルミの姿だった。

「旦那、何があったかは知らねえけど……とりあえず見なかったことにしておく」

「やましいことはしてねーよ!」

「……ネズミ?」

「嬢ちゃん、わしゃハムスターですぜ。名前はクロハラってんだ」 

「喋るハムスター? ……【世界の記憶レコード】に載っていない。知らないことが、いっぱい」

「いろいろと訳ありなもんで……ところで旦那、とりあえずこの嬢ちゃんに服をだな」

「すまん! すっかり忘れてた!」

 驚愕の連続ですっかり頭から抜けていたハルミは、慌てて自身の黒いコートを脱ぐ。

「……そのゲロまみれのコートを着せるんですかい?」

「うわ、ほんとだ……」

「わたしもそれは遠慮する」

「旦那。男の肌と女の肌、どっちか大事かは、言わなくても分かるんじゃないですかい?」

「ああ、分かってるよ!」

 やっきになり自分も裸になろうとしていたハルミに、リットが待ったをかけた。

「脱がなくてもいい。必要であれば生成する」

 クロハラがリットの言葉の意味を図りかねている間に、リットはすぐさま実行に移した。

「人は果実を戴き心を知った。それは羞恥――在るべきものは、その身を隠す纏いの衣」

 ハルミの背後から、光の残滓が溢れでた。クロハラが興味深げに目を丸める。

「ハルミ、こっちを向いても大丈夫」

 リットの言葉に釣られてハルミは振り返り――神速で目を背ける。

「全然大丈夫じゃないぞ!」

「いやいや、お嬢ちゃん。それは服というより、ただの布なんだが……」

 端的に言うならば、リットは原始人のような格好をしていた。胸と下半身の必要最低限の部位だけを、茶色い藁のような荒布で覆っている。リットは腰に手を当てて堂々と言う。

「これは服。かつて人間が初めてその身に装ったもの。【世界の記憶レコード】にもそう書いてある」

「いったい何万年前の話なんだ!」

「お嬢ちゃん、ちゃんと素肌を隠してくれ」

「分かった。なら違うものに」

 再びリットの周囲に光が弾ける。今度の衣服は、先ほどのものと違ってちゃんと素肌が隠れている。ただし、隠れすぎているとも言えた。

「ここは日本。だから日本の伝統的な装束をチョイスしてみた」

 リットは弛んだ袖を摘んで、両手を広げる。伸ばした白髪に赤眼という異国人じみた風貌に、絹地の着物を何枚も羽織っている姿。ハルミはリットの艶やかな装いに息を飲んだ。

「めちゃくちゃ重ね着してない? ……すごい歩きにくそう」

「旦那、これは十二単じゅうにひとえって言うんですぜ。しかし、今度は着膨れしすぎなんじゃないかい? もう少し機能性ってやつを……」

「機能性? 理解した」

 そうして三度光が弾けると、リットは迷彩模様のミニタリーウェアで全身を固めていた。頭にはヘルメット、手足にはプロテクターという完全防護っぷりである。

「これならジャングルの中でも問題なく走破できる。機能性抜群」

「そんな重装備でどこに行くっていうんだ」

「ちょっと極端すぎやしないかい」

「あれもだめ。これもだめ……ではハルミ、わたしは何を着ればいい?」

 唐突に選択権を委ねられたハルミは、咄嗟に脳裏を過ぎったものを言う。

「えーっと……白いワンピースとか?」

「流石旦那、発想が貧困ですな。あと下着と履き物は忘れないでくだせえ」

「わかった、そうする」

 四度目の閃光。淡く発散する光の中から、リットは姿を現す。

 ハルミの発言通り、リットは白のワンピースを纏っていた。生地のくり抜かれた衣袂からか細い肩を露出させ、その指でスカートの先端を不思議そうに摘んでいる。

 リットは装着感を確かめるように、その場で小さく飛び跳ねる。くるりと一回転する。慣れない足取りでステップを刻む。

 するとどうだろうか。リットの周囲に、幾つもの光の粒子が現出した。それらはリットの異能に由来するものであろう。その光の群れが、リットの動きに呼応するかのように、軌跡を残して宙を舞う。光はリットよりも感情豊かに喜んでいるかのようであり、それはまるで宿主たるリットの生存、あるいはその行動一つ一つを祝福しているようであった。

 温かな光に包まれた、白百合の如き美しさを誇るリットに、ハルミは言葉を忘れていた。

「なるほど、これは確かに動きやすい――ハルミ、どう?」

「…………えっと」

「はあ‥…ったく。こういう時に何も言えないから、旦那はいつまで経っても童貞なんですぜ。嬢ちゃんは感想を聞いてるんだ」

 ハルミは高鳴る鼓動を抑えて、努めて冷静そうに言う。

「とても、似合ってる」

「……しかしなるほど、お嬢ちゃんの異能は物質の創造ってわけですな」

「肯定する。これは空間に遍在する光粒子を消費することによって起動する、全物質任意形成能力――【光の等価交換ソーラー=システム】」

 リットが告げる自らの力の大きさに、クロハラの目が見開かれた。

「おいおい、ってこたあもしかして……」

「どうしたんだクロハラ? 何か考えでも」

「ハッピーホリデー!」

「これ?」

「おい」

 リットの手の中に光が生じ、そこにひまわりの種が形成された。クロハラの大好物である至高の嗜好品だ。どこにそんな力があるのだろうか、クロハラはひとっ飛びでリットの手に着地する。つぶらな瞳をこの瞬間だけは愛らしく輝かせて、無心で種に齧り付いた。

「おお、本物だ! うめえうめえ! しかも新鮮、これが出来立てほやほやの味!」

「ひまわりの種に出来立てなんてあるのか……?」

「あと美味しい水もくれ!」

「どうぞ」

 ハムスター用の飲み皿を生成し、そこにどこからともなく水が注ぎ込まれる。

「んぐっ、ぷはあ。こりゃあたまんねえ! こんなに旨い水初めて口にしやしたぜ」

「……リットは、ハムスターを飼っていたのか?」

「いいえ、知識としては理解しているけど、この目で見たのは初めて。……でも、喋るハムスターなんて知らない。ハムスターは無口で愛らしい生き物であるはず」

「おっさんで悪かったな嬢ちゃん」

 リットとクロハラの会話をよそ目に、ハルミは考え事をしているようだった。

(クロハラの言う通り物質創造系の異能だとは思うが、そもそも何を元にして物質を生み出しているんだ……? それに俺を看護してくれた時は、何も言わなくても、何も調べなくても、リットはその場で的確な薬剤を生みだした……単に物知りなだけなのかもしれない。でも、他に可能性があるとするれば)

「リットって、漫画とか読んだことある?」

「いいえ、一度もない。娯楽を目的にした情報媒体だということは理解している」

「なんだ? 旦那も何か欲しいのか?」

「ハルミが必要であれば生成する」

「……言っていいのか?」

「大丈夫。この世界にあるものなら、何でも」

「本当に何でもいいんだな? ちょっと確かめたいことがあるんだ。ただこれを言うと勘違いされそうっていうか。別に他意があるわけじゃないんだ、単なる確認というか……」

「はやく言って」

「男がモジモジしても誰の得にもならないですぜ」

 リットとクロハラに急かされて、ハルミは意を決したように一息で言い切った。

「週間青年ザンプ今週号の袋とじの中でグラビアアイドルが着てたもの!」

「――索引完了」

 リットの周囲に光が生まれて、掻き消える。光のカーテンから姿を現したリットは――自身の小柄な体躯をそのままさらけ出すような、極めて過激な水着を着用していた。

「……これは裸と変わらない」

「……旦那、ドン引きですぜ」

「ち、違ーう!?」

「これはハルミが指定した、マイクロビキニというもので間違いない。……ちゃんと見て」

 リットはハルミの否定に不服を感じているのか、目を背けようとするハルミの両頬を、小さな手でぎゅっと挟み込んで自身の身体へと視線を固定する。

「これで合ってる?」

「いや合ってるけど! 着てくれとは言ってない!」

「渡せばいいの? わかった」

 リットは間髪入れずに脇の下に手を伸ばし、水着の結び目をしゅるりと解いた。

「――おおっと手が滑っちまった!」

「ばぶべっ」

 リットの突拍子もない行動に体を硬直させていたハルミが、いきなり吹っ飛んだ。クロハラが異能【守護者】で防護障壁バリアを発生させ、ハルミの頬に叩きつけたのである。

 あられもない姿のリットは、地面に倒れ伏すハルミを不思議そうに眺めている。

「何をするの? ハルミがかわいそう」

「お嬢ちゃん、嫁入り前は自分の身体を大切にしてくだせえ。それにわしゃ、旦那の健やかな成長を見届ける義務があるんでな。健全に段階を踏まえるのなら口出しするつもりはねえけども――旦那には悪いが、ラッキースケベは絶対起こさせねえ」

 うつ伏せのハルミは、声のするほうを見やる。そこにはゴマ粒のような肉球を握り締めて使命を果たさんとする、小さき守護者がそこにいた。

「……ありがとうクロハラ。あとリットは着替え直してくれ」

「いらないの? これはハルミが欲しかった水着」

「だから確認したかっただけなんだ! それはもういいから!」

 ハルミが立ち上がる頃には、リットは白いワンピース姿になっていた。

「いったい旦那は何がしたかったんですかい」

「要は……リットは漫画を読んだことはない。勿論、袋とじの中身なんて知らないはず。なのにこうして、知らないはずのものをそっくりそのまま生み出した」

 リットが平然と成したその行為の意味に思い当たり、クロハラは唸り声をあげた。

「……ほう、そりゃあ物知りなんて言葉じゃ済ませられねえな」

「見たことも聞いたこともないことでも、こうやって目の前に作り出すことができる。つまり、リットの異能は物質を創造するだけじゃない。それを作るための知識をどこからか仕入れることができるんだ。……そうだよな?」

 ハルミの推論に対し、リットは小さく頷いて肯定する。

「何かを生成するためには、対象の構成情報を掌握することが必要不可欠。そのためにわたしがアクセスする場所が【世界の記憶レコード】。この世界の過去と現在、その全てを記す情報媒体」

「おいおいおいおい。そりゃいったいなんだ……つまりお嬢ちゃんは、何でも知ってるし、何でも作れるってのか?」

「その認識でおおむね正しい」

 驚愕するクロハラとは対照的に、ハルミは深く考え込んでいるようだった。

「待てよクロハラ。その理屈だと……リットが、俺の名前を知らなかったことに説明がつかない。クロハラだってそうだ。確かあの時、“【世界の記憶レコード】に載っていない”と言っていたぞ」

「【世界の記憶レコード】とは過去と現在、確定された理を記すもの。けれどもそこに不確定の情報は存在しない。つまり、ハルミとクロハラは不確定的な存在ということ」

「どういう意味だ?」

 流暢に説明していたリットが、ここにきて初めて歯切れが悪そうに言葉を紡いだ。

「……それについては……わたしにも分からない。ただひとつ言えることは、あなたたちの存在はこの世界にとってイレギュラーなもの……心当たりはない?」

「いや、そんなこと言われても……」

 とびきりイレギュラーな存在であるリットにそう問われて、ハルミは困惑するしかない。

「そういう突っ込んだ話は後でしようや。現状確認として、要は嬢ちゃんはほとんどのことを知ってるが、たまたまわしらのことは知らない。そういう解釈でいいんですな?」

「それでいい。ハルミの肉体的損傷を復元することができなかったのも、そのせい。対象の構成情報を知り得ることが出来なければ、完全に生成することはできない」

「じゃあ逆に、その構成情報が分かれば――人を生き返らせることだってできるのか?」

「その問いに答えることはできない。なぜなら今のわたしは、まだ力が安定していない」

 リットはそう言うが、仮に力の安定を果たすことができたならばどうなのだろうか? ハルミとクロハラは、改めてリットが持つ力の強大さを把握した。

「なるほどな……誰がどう考えても【災厄指定レッド】クラスの異能、いや、それ以上のシロモノになるのかもしれねえ。そして嬢ちゃんは、経緯は分からねえが、空から落ちてきた。何らかの事件に巻きまれていると見て間違いないだろうな――そんな嬢ちゃんを旦那は助けたんだ。この意味が分からないってほど、旦那は阿呆じゃねえ」

 普段のクロハラならば、ハルミの人助けには喜んで手を貸すだろうが、今回は話が違う。

 クロハラは真剣な声色でルミへと問いかけた。

「……手を引くなら今のうちですぜ」

 クロハラは長年の付き合いがあるハルミと、たった今出会ったリットを天秤に掛け、ハルミを選んだのである。

「いいや、俺は手を引かないよ――最後まで」

 ハルミはそれ以上言わなかった。それだけで伝わると信じているからだ。

「……旦那が言うなら、わしゃ付き合うしかねえだろうよ」

 そしてクロハラも、それ以上問うことはなかった。

「すまねえな嬢ちゃん、わしを悪く思ってくれて構わねえ」

「いいえ。クロハラも、空を落ちるわたしを助けてくれた。だからクロハラは優しい。けれども、誰であろうと優先すべき事柄というものが存在する。クロハラにとって優先すべきものが、ハルミだったというだけ。わたしはそれを否定しない」

 リットはその場にしゃがみ込み、クロハラの小さな頭をそっと撫でた。

「くすぐってえ」

「……しかし、わたしには分からない――なぜハルミは、わたしを助けてくれた?」

 リットはそっと立ち上がると、ハルミへと視線を向けた。

「助けたかったから、助けたんだ……これじゃダメか?」

「ハルミにとって、わたしを助けるという行為には少なくないリスクが生じたはず。そしてクロハラにとってハルミが大事なものであるように、ハルミにとって大切なものも存在するはず。それを差し置いてまで、なぜ、見ず知らずのわたしを?」

「えっと……」

 たじろぐハルミに、やれやれとでも言うようにクロハラがフォローを掛けた。

「これは言っても分からねえことですな。なに、誤魔化しているわけじゃありやせん。単なる感情の問題なんだ。助けたいと、そう思った時、勝手に体が動き出すんだ。きっと、嬢ちゃんにも分かる時がきやすぜ」

「分からない……けれども、記憶に留めておく」

 リットが曖昧に頷いて、ハルミがホッと一安心した時――変化が起きた。


「旦那っ!」

 クロハラは鋭い敵意――殺気を嗅ぎ取り、ハルミの背面に防護障壁バリアを展開した。

 瞬間、ガラスが壊れるかのような歪な音した。ハルミとリットが振り返ると、防護障壁バリアにぶつかった青い何らかの物質が、粉々に砕けているところであった。破片は地面に降り注ぐ前に、溶け消えるようにして虚空に失われる。――そこに僅かな冷気を残して。

「助かった……リット、後ろにいてくれ」

 ハルミはリットを背後に隠しながら、鋭い視線を襲撃者へと投げかけた。

「――死角からの攻撃を防ぎ、なおかつ、物怖じしないその立ち振舞い。どうやらただの一般人ってわけじゃなさそうね」

 少し離れた丘の上から、訝しげな少女の声が投げかけられた。

 月夜を背後にハルミたちを睥睨する少女は、日本人のものではない天然の金髪を短く揃えており、くっきりとした彫りの深い顔つきをしている。装いはホットパンツに短めのタンクトップという健康的な出で立ちで、自身の褐色の肌を惜しげもなく晒していた。

 力強い意思を宿す緑眼の瞳に、すらりとした頭身と引き締まったスタイルも相まって、場所が違えば思わずはっとするほどの凛とした美人であろう。

 しかし、あいにく状況がハルミに浮かれることを許さない。

「お前は誰だ? 何をしに来た?」

「アタシ? スフィアよ。そこの女の子を回収しにきたの」

 間髪入れずにあっけらかんと答える少女――スフィアに、ハルミは唖然とした。投げかけはしたが、実際に答えが返ってくるとは思っていなかったのである。

 ――そしてそれは、どうやらあちら側も同じだったようだ。

「……うるさいわね。聞かれたから答えただけよ。何よ、減るものじゃあるまいし。それにこれ、本名じゃなくてコードネームってやつでしょ」

 スフィアは顔をしかめながら一人で問答を繰り広げている。凛とした横顔の近くには、鼠色をしたボールが物音一つ立てずに浮遊していた。話している様子を見るに、その浮遊する球体は通信機能を有しているようで、何者かと話しているらしかった。

「……他にはえーと、よくわからない男の子が一人いて。あとお目当ての女の子、手のひらにネズミ載せてるんだけど」

「ネズミじゃねえ! わしゃハムスターだ!」

「しかも喋ってるし! ――ちょっと博士ディー、どういうこと? 嘘でしょ? あのハムスターがアタシの攻撃を防いだっていうの? ……ということは男の子の異能は別にある、と」

 スフィアは黙り込むようにして、ハルミたちを見つめた。

「想定外に想定外。ちっとも嬉しくないサプライズだわ。――分かったわよディー、やればいいんでしょ、殺れば」

 通信のやり取りをしていたスフィアは、これで終わりとばかりに話を打ち切ったようである。今度はハルミたちをしっかりと見据えると、堂々と言い放つ。

「というわけでそこのアンタとハムスター、まとめて死んで貰うわよ。アタシとしては別に半殺しで済ませてあげても良かったんだけど、それを防いだのはアンタだから……それにシグナルがそこの女の子と関わったからには、生かしておくわけにはいかないの」

 あまりにも理不尽なもの言いだった。しかし、有無を言わせないスフィアの態度に反論は無駄だと察したハルミは、こちらに向かってくる彼女を注視している。

「……相手はわたしの敵。だから、わたしが戦う」

 リットが毅然とした様子で宣言した。それに対して、手の中のクロハラが小さく問う。

「戦えるんですかい?」

「それしか方法がないのなら、わたしは戦い、敵を倒す」

 クロハラはリットの言葉を確かめるように、リットを覗き込んだ。その赤い瞳に何かを見たのか、クロハラは首を横に振った。

「嬢ちゃんは物知りなのかもしれねえが、分かっちゃいねえ。敵を“倒す”っていうのはいい加減な言葉なもんでな。敵がこっちを殺しに来るなら、こっちも殺す気で相手をしないといけねえ――嬢ちゃんには、人を殺める覚悟がありやすかい?」

「それは……」

 リットはこの世界のことを何でも知っている――【世界の記憶レコード】という知識体系へとアクセスすることができるリットならば、その言葉に偽りはないだろう。しかし、何かを知っているということと、それについて分かっているという言葉は同義ではない。

 人と人の争い。それは規模を拡大させ戦争へと至る。そして戦争とは積み重なる人殺しの歴史。そこまでは理解していても、人を殺すという重さをリットは分かっていない。例えばそれは刺し貫いた刃に伝わる、次第に弱まる生命の脈動。血液が流れるほどに命が欠け落ちていく喪失感。引き金に掛かる指先の重みによって、他者の生死を左右するという不釣り合いな冒涜感。スイッチ一つで数多もの命を無に還す、兵器が持つ倫理の重み。

「わたしは、何も考えずロケット弾頭を使用した。……あれは、殺すための武器」

 ハルミが見た夜空での出来事――リットと銀色カラスとの戦闘――を指しているのだろうか、リットはこれまでより弱々しく呟く。

「……それでも、わたしは戦わないと――」

 そんなリットを、ハルミは肩に手を当てて後ろへと下がらせた。

「答えなくていい」

 ハルミはそれだけ言うと、リットの肩から手を離し、前へと歩を進めた。

「……戦うことが殺し合いなら、それは、わたしが背負うべき罪……」

 掻き消えるような声で囁かれたリットの言葉は、もうハルミには届かない。

「嬢ちゃんが気に病むこたあねえよ――旦那は慣れてるんだ」


 +++++


 ハルミとスフィアはお互いを牽制しながら、ゆっくりと丘の中心地へと近づいていく。

「今のって今生の別れ? アタシも別に好き好んで人殺しをしたい訳じゃないんだけど」

「なら、そのまま見逃してくれると助かるんだが」

「できるわけないでしょ、これがアタシの仕事だから。それに、戦うこと自体は好きだから――久々に暴れることができて嬉しいよ!」

 スフィアは好戦的な笑みを浮かべると同時に、クロハラの鼻がひん曲がるほどの殺気を放つ。すると変化が起きた。スフィアは何も動いてない。しかし、彼女の真横に滞空していた浮遊球体が、ぴくりと動いた。スフィアが攻撃に至るための予備動作――

 突如として、青い槍――冷気を纏う氷の槍が空間に出現した。それは静止する浮遊球体から伸び出てくると、恐るべき速度でもって突き進み――ハルミの胸部にまで迫りくる。

 本来、人間が持つ身体能力だけならば、この速度の氷槍を回避することは不可能である。

 しかし、ハルミにはシグナルとしての異能が存在する。

(【衝撃放射ブラスト】)

 ハルミは真横に衝撃波を生成し、その反作用によって右に飛ぶ。そうして氷槍を回避するや否や、すかさずハルミは空中で折れ曲がるようにして、スフィア目掛けて突撃した。

(お互いがまだ相手の異能を把握していない。状況はイーブン、ならばイーブンであるうちにケリを付ける――相手が殺す気なら、こっちもそうするしかないんだ)

 ハルミは自らの心を変革させようと意識に働きかける。情や甘え、道徳心を捨て去り、冷酷であろうと心がける。……シグナルが持つ生死についての倫理観は、一般人のそれよりも荒廃している。それは暗夜戦争を深く経験したものほど顕著であると言えた。

 これは、その時代を生きたハルミも例外ではない。しかし同時に、ハルミには僅かな躊躇いも残っている。それはクロハラと過ごした自堕落で、温かな三年間が齎したものだ。

(……いや、余計なことを考えるな)

 ハルミはそうした雑念を振り払い、空中にて攻撃動作へと体勢を移行する。

 ハルミが回避した氷槍は、未だ空中に留まったまま。この状況下において、他に攻撃手段が無い限り――【衝撃放射ブラスト】によって急加速したハルミを捕捉することは不可能である。

 そしてスフィアの周囲を見る限り、他に浮遊球体は存在しない。

 しかし、ハルミがスフィアの下へと到達する寸前――二つ目の浮遊球体が現れる。

 それは、どこかしらから飛び出てきたわけではない。既にそこに存在していた浮遊球体から、まるで分裂するかのように生じたものである。その身を二つに裂いたならば、小さくなるのは必然だ。しかし、どういう訳か二つになったそれらは、全く同じ大きさを誇っている。

 そうして、ハルミの理解を超えて現れた球体は、二本目の氷槍を射出した。

(この球体……異能じゃないな)

 二本目の氷槍を、別方向に衝撃波を放つことで回避した。想定外の動きからか、ハルミは衝撃波を制御することが叶わず、地面へと転がり込むように着地する。

「保護都市の犬でもない野良のシグナルにしては、アンタ中々いい動きしてると思うよ? ――でも、早くも底が見えたわね」

 ハルミが小さく顔を歪める。スフィアがしたり顔で嗤う。

「アンタの異能は、別に悪くないものだと思うわ。【保護都市】の言う判断基準だと【危険指定イエロー】ってとこかな? でも、単純。アンタを近づけさせないだけでアタシの勝ちなんだから。それにさ、アタシが何もしなくても、アンタ勝手に死にそうじゃない?」

(チッ……その通りだよ)

 衝撃波の反作用による高速機動能力は、肉体に鞭打つ行為そのものだ。そのダメージを防ぐ手段が存在しない限り、【衝撃放射ブラスト】は使えば使うほど己の肉体を蝕む諸刃の剣である。

 先ほどリットに応急処置を施されたとは言え、戦闘前のダメージは蓄積したままだ。

 そして、近距離攻撃のハルミと遠距離攻撃のスフィアでは、相性は絶望的だった。

 しかしまだ、どこかに勝機は残されている筈だ。その為にも、考える時間が必要だろう。

「その球体は何だ? ――それは、シグナルとしてのチカラじゃないだろ」

 そのために、ハルミは言葉で弄することにした。単なる時間稼ぎのつもりだった。

 ――しかし、自ら放ったその言葉が、ハルミをより追い詰める刃となる。

「ええっと、冥土の土産、って言うんだっけ? アンタはもうすぐ死んじゃうし、特別に教えてあげるわ。これは異能じゃない――言うなれば、科学の力よ」

 二つの浮遊球体が、四つに裂ける。裂けた四つは、その身を裂いて八つへと増殖する。やがて八つのそれらが、アメーバのように宙空で分裂と結合を行った。あっという間に、スフィアの周囲には全く同一の形質を備えた、計一二個の浮遊球体が漂うこととなった。

 月夜と浮遊球体を背後に掲げながら、スフィアは獰猛な笑みを浮かべた。

「どこまで生きていられるか――ダンスを踊って見せてよ!」

 一二の浮遊球体は動き出す。それぞれが独立した変則機動を行い、ハルミを射殺すための位置取りを定めた。そして静止した瞬間、生成された一二本の氷槍が、ハルミの居た場所を串刺しにした。大地に穿たれた尖塔が土埃を巻き上げて、轟音を響かせる。

「そうこなくっちゃ」

 スフィアが舌を巻く。ハルミは氷槍の僅かな間隙を縫うようにして、猛攻を凌いでいた。しかし全てを回避することは叶わず、体のあちらこちらに裂傷が刻まれている。

(このままじゃどうすることもできない……被弾覚悟で近づくことしか!)

 しかし、ハルミが接近戦に持ち込んだとしても、認識外の攻撃すら迎撃する相手に対して、何かの突破口があるとは思えない。スフィアに小細工は通用しない。さりとて、氷槍の猛攻を真正面からねじ伏せるだけの圧倒的戦力を――今のハルミは持ち合わせていない。

(リットを助けるって言ったのに――誰かを守れる力が欲しいのに!)

 今のハルミには、氷槍を回避し続けることしかできない。皮膚へと刻まれ続ける裂傷に、極寒の冷気が潜り込んで責め苦を与える。それだけでなく、【衝撃放射ブラスト】を酷使し続けることによって、肉体へと看過できないダメージが蓄積されてゆく。いずれにせよ、ハルミは体に鞭打ってその場を凌ぐことしかできず、それすらも時間制限タイムリミットが迫っている現状だ。

「そろそろ踊り疲れたかなあ!?」

(このままだと……)

 終わりなき氷槍の猛攻によって、ハルミの体力も尽きかけた頃――スフィアは戦闘によって生じた高揚感を乗せるように、ハルミへと言葉を投げかける。

「――暗夜戦争以来ね! アンタみたいな無駄に足掻くシグナルを狩るのは!」

 犬歯をむき出しにしてスフィアが嗤う。その言葉がハルミの下へと届いた時――


 ハルミの表情から焦りが消える。決死の形相が掻き消える。能面を貼り付けたかのように、一切の感情を表さなくなった。陰りが差した瞳で、淀みなくスフィアを見据える。

 そうして、ハルミの思考が忽然と塗り潰された。リットをこの手で守りたいという切なる気持ちも、クロハラと共に過ごした自堕落でいて暖かな三年間の記憶も――かつて彼女に託された願いの言葉も――今この瞬間だけは、ハルミの脳裏から掻き消えた。

 ――ドゴォッ!

 ハルミの背後でとてつもない爆音が響く。それは今のハルミが出せる【衝撃放射ブラスト】の最大火力だ。皮膚が張り裂け、肉が抉れ、まるで背中から翼を生やしたかのように血霧が噴き出す。そのような捨て身の一撃を――スフィアの下へと近づくためだけに行使した。

 飛び交う無数もの氷槍の、ごく僅かな間隙に、ハルミはその身をねじ込んで直進する。

「――ッ」

 ハルミの形振り構わない行動にさしものスフィアも驚いたようだ。滞空していた浮遊球体の一つが迎撃態勢に入り、ハルミを穿ち捉えんとする。

 迫り来る氷槍を、ハルミは左手で受け止めた。

 無論、それだけでスフィアの氷槍を防ぎ切ることなどできるはずもない。しかし、眼の前の死を回避するだけならば可能である――その身の代償を考えないのであれば。

 手の平を食い破った氷槍を、ハルミは鷲掴みにするかのように力を込める。そして至近距離にて衝撃波を生成し、左手もろとも異能の力を注ぎ込んだ。

 ハルミとスフィアを繋ぐ氷槍は、一気に砕け散り虚空へと掻き消える。同時に、ボロボロになったハルミの左手から血潮が噴き出し、ハルミの頬を真紅に染めた。

 一連の攻防を経ても、ハルミは一切の勢いを失わないままスフィアの下へと到達した。

 まるで地獄へと誘うかのような血に塗れた左手を、スフィアへと突き出す。

「――爆ぜろ」

「アンタがなァ!」

 無数に滞空する浮遊球体の一つが、ハルミ目掛けて飛来する――カチリ、と音がした。

 ハルミの眼前に爆炎が広がった。浮遊球体内部に仕込まれたそれは、異能の力ですらない、純粋なる爆弾の炸裂現象。シグナルの異能は一人につき一つ、その法則セオリーを熟知している歴戦のシグナルにほど、異能の枠組みから抜け出したこの不意打ちは有効だ。

 ――しかし、だからこそ、ハルミには予測できる攻撃だった。

 咄嗟に両腕を突き出して衝撃波を放ち、爆発の威力と相殺させる。生じたエネルギーの奔流は、両者を大きく後退させることとなった。そうして再び距離を分かつ二人。

「フゥ……フゥ……」

 ハルミの被害は甚大だ。皮膚は張り裂け、口からは少なくない血を流し、肉体内部ではあちこちが損傷を受けている。ボロ布のように垂れ下がる両腕は、既に握力を失っている。

「……野良犬に噛みつかれるって、こういう気持ちなのね」

 ハルミとは対照的に、スフィアは未だ無傷を誇っていた。強いていうならば、持ち駒の浮遊球体が数を一つ減らしたぐらいであろうか。スフィアの優勢は何ら傾いてはいない。

博士ディー、応援はまだなの? ――コイツ危険だわ」

 だというのに、浮遊球体越しに通信を行うスフィアの表情から、笑みが薄れていた。

「――お前だけじゃないのか。お前が話している相手も、そうなのか」

 底冷えのするような落ち着いた声で、ハルミが問う。

「なんのこと?」

「お前は暗夜戦争当時、シグナルを狩っていた」

 それは異能を手にして異端となったシグナルと、それ以外の人類“世界連合”が一二年もの間対立した、人類史に刻まれし最も悲惨なる戦争。そこにおいて、レジスタンスとして徒党を組んだ少数のシグナルは――ハルミの記憶によるところでは――常に“狩られる側”であったはずだ。しかし、そう簡単に言えるほど、シグナルという存在は一枚岩ではない。中には存在していたのだ。――シグナルを狩ることを専門にした、シグナル達が。

「お前は連合側のシグナルか」

「……となると、アンタは元そっち側レジスタンスて訳ね。どうりで動きが素人じゃないと思ったわ」

 スフィアは得心したように微笑みを深めた。対してハルミは、笑みを無視して尚も問う。

「お前はそうやって、同じシグナルを殺していったのか」

「――アタシには夢があるの。そのためだったら、なんだってしてやるわ」

「そうか……だったらお前は――紛うこと無く俺の敵だ」

「何を強がってるのか知んないけど、アンタもう動けないでしょ? そのままじっとしてれば、楽に殺してあげるからさ」

 宣言と共に、スフィアの周囲に、先ほど一つ欠けた、一一個の浮遊球体が集う。そして数を同じくして一一の氷の槍が現出し、ハルミの下へと収束する。

 スフィアの言葉通り、ハルミが動くことはない――否、動く必要もなかった。


「承認しろ、【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】」

 ハルミがそう呟くと同時――世界が止まった。実際に時間が停止した訳ではなく、ハルミの体感時間だけが極端に引き伸ばされたのだ。その中でハルミは動くこともできず、考えることもできない。ただ、自らの身に起こる“儀式”を眺めることしかできなかった。

 ハルミの右腕から、一匹の蛇が飛び出した。傷一つ付けずに皮膚から抜け出た蛇は、ハルミの内理でとぐろを巻く戒めの象徴である。蛇は一匹だけでなく、体の至る所から痛み無く食い破っては抜け出ていく。そうして総数七匹もの蛇がハルミの内から解き放たれる。

 たった今、ハルミを縛るものは何もなくなった。


 再びハルミの見る世界は動き出す。氷槍の猛攻を眼前にして、ハルミはただ一言。

「“踊る刃”」

 何の前触れもなく、空気を切り裂くような金切り音が辺り一面にが鳴る。そして――氷槍一つ一つに際限ない切断痕が刻まれ、瞬時にして細切れと化した。

「……へ?」

 何が起きたのかをスフィアが理解する前に、ハルミは行動する。

「“射撃”」

 今度は、ガスが抜けたかのようなスプラッシュ音が幾重にも連なった。追うように続いた物音は、宙に漂っていたはずの浮遊球体がバタバタと地面に落下していく残響音だった。

 スフィアは笑みを引き攣らせて、恐る恐る足元に転がった浮遊球体を見やる。いつの間に穿たれたのか、ぽっかりと空いた風穴から、電装部の焼け焦げた黒煙を漂わせている。

「三個……外したか」

「アンタ、何をしたの」

 ハルミはそれに答えず、代わりに己へと命じる。

「“強化”」

 ハルミの肉体内部に、行き場のないエネルギーの激震が生じた。暴れ狂うかのような衝動を無理矢理に押さえつけ、己がものへと取り込んでいく。

 唐突に、スフィアの視界からハルミが消える。否、消えたように見えただけだ。背後に衝撃波を放ち加速した後、丘の上を恐るべき速度で疾走しているのだ。

 駆け抜けざまに、ハルミは軌道上に存在した浮遊球体の一つを、血塗れの素手で殴り飛ばす。その拳は球体の金属外装をいとも容易く突き破った。

「来るなァ!」

 一連のハルミの行動は、まるで複数の異能を同時に使役しているかのようだ。常識外の光景に、スフィアは笑みを奪われ、焦りすら浮かべている。最後に残された二つの浮遊球体で迎撃を行わんと、接近するハルミ目掛けて二本の氷槍を放つ。

「“刀”」

 スフィアの思惑から外れ、二本の氷槍は四本へと数を増し、そして目標であるはずのハルミを通り過ぎた。スフィアがそのように命令したはずがない。ハルミがそうしたのだ。

 ハルミの真っ赤な両手にはそれぞれ、鍔が無い抜き身の刀が握られている。月光を照り返すその曲刃によって氷槍が切り裂かれたのだとスフィアが気づき、その二つの刃がスフィアの両肩に差し込まれたのは同時だった。

「あぁッ!」

 悲鳴を上げるスフィアから、ハルミは決して目を逸らさない。その瞳の奥に何を視たのか、スフィアは唇をキュッと噛み締めると、手持ちの浮遊球体を目の間で自爆させた。爆発の被害を直に受けてでも、ハルミの傍から一刻も離れるべきだと決断したのだろう。

 スフィアは丘を転がり全身を強打しながらも、咄嗟の判断から後退を果たす。痛みに顔を顰めながらも立ち上がると、強がるようにハルミを睨みつけて――そして、愕然とした。

 同じように至近距離での爆発を受けて尚、ハルミはその場から一歩も動いていないのだ。

「――【守護者クロハラ】」

 ハルミの正面には、淡く光る水色の壁――防護障壁バリアが展開されていた。

「わしが守り、旦那が攻める……もうこんなことはないと、そう思ってたんだがな……」

 ハルミの肩に乗ったハムスターが、物寂しそうに呟いた。ハルミは言葉を返さない。陰りの差した顔つきで、じっとスフィアを見つめていた。

 スフィアは恐怖に負けたのか、ハルミから僅かに視線を逸らす。逸した先に、防護障壁バリアに守られるリットがいた。リットの手の中には――スフィアを見つめる、ハムスターの姿。

「お嬢ちゃんを助けたのが旦那だった……それがお前さんの運の尽きってやつだ」

 スフィアは自分の目を疑ったことだろう。それが見間違えでなければ、クロハラと呼ばれるハムスターが、全く違う場所に、二匹同時に存在していることになるのだから。

「なんだソレは! なんだソレは!?」

 スフィアの困惑が頂点に達した。まるで理解ができないのだ――ハルミが衝撃波を放つだけでなく、幾つの氷槍を瞬時に消し飛ばし、十数もの浮遊球体を瞬く間に無力化し、途方もない怪力と驚くべき速度を誇り、更にはどこからともなく金属の刀を生み出すことが。

「まだ分からないんですかい? ……喋って、防護障壁バリアを貼って、更には分裂する――そんなハムスターが居るわけがなかろうに。わしの存在すら、旦那が持つ異能の一つですぜ」

 気がつけば、立場が逆転していた。重傷を負い、それでも歯を食いしばり大地を踏みしめるスフィア。方や、そのようなスフィアを冷酷に見下ろすハルミ。

「いったいアンタは何をしてんの! なんで幾つも異能を持ってんのよ!」

 スフィアは犬歯を剥き出しにして懐疑を投げかける。

 ――暗夜戦争において、シグナル対一般兵、あるいはシグナル同士の戦いは、先ず相手の異能を把握することから始まる。一つの異能の、限られた制約の中からできることとできないことを切り分け、その間隙を突く。

 そして、そのようなシグナルの法則セオリーから抜け出そうとしたのが、かつて暗夜戦争で世界連合側に付き、レジスタンスと交戦していた特殊部隊――その一員であるスフィアだ。

 スフィアの持つ“氷の槍を生み出す”異能と、浮遊球体という異能からかけ離れた科学の産物は、レジスタンスとの戦闘において相手の意表を付き、より有利に戦況を進めるように組み合わされた画期的なものであった。

 であるならば、スフィアにとって、目の前のハルミというシグナルの存在は――

「……旦那、早めに済ませてくだせえ」

「ああ」

 ハルミは小さく頷くと、自らの右の瞳を指で触れる。 ――そこに紺碧の輝きが宿った。

「【虚空索引リズ・スキャルフ】……世界連合側おまえたちなら、よく知っているはずだ」

 神秘的な青の光を右目に灯し、ハルミはスフィアへと問いかける。

 ――スフィアは体中の痛みすらも忘れて、この時ばかりは表情を凍りつかせた。それは無理もないことだろう。なぜなら、“青く光る瞳”という異質な特徴は――かつて世界を混沌に陥れた、とある人物の象徴であるからだ。

「それは【星詠みの魔女】のッ!」

 この世界に住まう人々は、決してその恐怖を忘れないだろう。千里先を見渡し百年先を見通すと称された、この世で最も忌み嫌われる【災厄指定レッド】シグナルの力を。

「……あの魔女の力を持っているって、そう言うの?」

 暗夜戦争が終結までに一二年もの歳月を要したのは、ひとえに【星詠みの魔女】が持つ未来予知能力が主因であると語られている。そして暗夜戦争末期に彼女が討伐され、終戦から三年が経った今でも、彼女の残した爪痕は世界に深く刻まれているのだった。

 その魔女と全く同じ特徴の瞳を、ハルミはその右目に宿している。

「片目だけだからか知らねえが、旦那のこれは目が良くなるぐらいの力しかありませんぜ」

 ざっくばらんにクロハラは言うが、ハルミの持つ【虚空索引リズ・スキャルフ】の力は絶大である。

 ――上空数万キロメートルを落下する小柄な少女を、その目に捉えるほどなのだから。

「……俺はシグナルと生前に契約を交わすことで、死後にそのシグナルの異能を引き継ぐことができる。それが俺の持つ力だ」

 目の前で【星詠みの魔女】と同じ特徴を見せつけられた今、スフィアはハルミの言葉を否定することができなかった。単一の異能のみを保有するシグナルという枠組みの中で、“死者の異能を引き継ぐ“というハルミの力は、あまりにも逸脱したものだ。

「なぜそれをアタシに」

「旦那の異能は、そういう“ルール”なんだ。契約を交わす為には説明する必要がある」

 スフィアは己の運命を悟る。……どちらにしろ、自分は殺されるしかないのだと。

「早く選べ。頷くか、断るか」

 ハルミの端的な二者択一の問いに――スフィアはそのどちらでもない選択を取った。

「――【嘆きの氷樹グレイシアル・グレーター】ッ!」

 スフィアは宙を仰ぎ見て吠える。

 ――轟と、満月の夜空が鳴動した。クロハラが背後を仰ぎ見ると、そこには――

「こいつは!?」

 今宵の騒動の先駆け――夜空を満たすほどに巨大な青き氷の塔が生まれ、轟音を響かせながら、ハルミたちの居る丘へと墜落を開始した。それが誇る速度と質量は膨大なものであり、ハルミがどのような異能を駆使した所で、落下を防ぐことはできないものであろう。

 それは、同じくスフィアにも言えることだ。

「ここで一緒に果てろ!」

 スフィアが秘めていた捨て身の一撃に対し――ハルミは微動だにすることはない。

「“破線”」

 ハルミは頭上の氷塔に見向きもせず、必死の決意を宿したスフィアの瞳を見つめ、冷静に異能を行使する。刹那の内に、スフィアの目の前で小さな変化が起きた。

 スフィアの瞼の上を、“何か”が駆け抜けた。それは一瞬にしてスフィアの両眼を横切ると、カシュッという掠れた音と共を立てて――唐突に弾ける。刻まれた一本の線に沿うかのように熱されたエネルギーが噴き出し、夜空に鋭い閃光を走らせた。

 それは極めて小規模な爆発現象。生じたオレンジ色の一閃は――スフィアに致命傷は与えることなく、的確にその両眼だけを焼却した。

「あアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 断末魔の如きスフィアの悲鳴と入れ替わるように、夜空に響く鳴動が掻き消える。クロハラは、すぐ近くまで迫ってきていた巨大な氷塔が、跡形もなく消失する光景を見た。

(お前の異能は“円球”と視認したものを底辺とし、そこから氷の槍を生み出す。そして浮遊球体は、氷槍を任意の場所から放つためのツールだ)

 潰えた両眼を抑えて苦悶の声を漏らすスフィアに、ハルミは淡々と歩みを進めた。

(そして今、お前は夜空に浮かぶ満月を円球と認識した。しかし視認できなくなれば、その異能は効力を果たさない)

 己を見下ろすハルミを、スフィアがその目で確かめる方法は、もう存在しない。

「……何、したの……?」

「“裂傷を爆破する“異能だ。お前と交錯したタイミングで、小さい傷を付けさせて貰った」

「なによ、それ……。こんな化物が、暗夜戦争で……生き、残っていたなんて、ね……」

 ハルミの重い足音を聞き、やがてスフィアは何もかもを諦めたのか、眼を覆う両手を外し、だらりと大の字になってハルミへと問う。

「……そんなアンタが……なぜ……アタシを生かす、のよ……?」

 スフィアは血に塗れた両眼を深く閉じる。絶えず喘鳴を繰り返しながらも、不敵な笑みを取り繕うように浮かべる。血だらけとなった顔面を歪ませて、にやりと犬歯を見せた。

 さしものハルミもその精神力に驚いたのか、僅かに眉をひくつかせた。しかし、追撃の手を緩めることはない。

「言っとくけど、アンタの契約には、死んでも乗ってやらない、から」

「もう、そのつもりはない。ただ、お前には喋ってもらう……なぜリットを狙う?」

「アンタに言う必要がある? ――ッァァァア!」

 大の字に寝転ぶスフィアの右手を、虚空に生まれた金属の刀が、地面ごと串刺しにする。

 するとスフィアの右腕を縫い付けた刀が、ひとりでにグルリと回転した。刃の動きに伴い、ぐちゃりと粘つくような音を立てて右腕の肉が刳れてゆく。

「ぐあァ!……このッ……!」

「時間がない。あと三回聞く……なぜリットを狙う?」

「ッ……さっさと、殺したら?」

 同じようにスフィアの左腕に刀が差し込まれ、回転し、ドリルのように穿孔痕を開く。

「……お前の所属する組織の名は?」

「ばあ、か!」

 今度はスフィアの右足に。

「……お前の所属する、組織の目的は?」

「バイ、バイ……」

 そして、スフィアの左足にも同様の行為が行われた。これ以上スフィアに拷問を掛けようものなら、たちまち生命を失いかねないことだろう。

「もう、お前に聞くことは無い」

 ハルミの頭上に刀が生まれ、滞空する。その刃先は、スフィアの心臓を捉えていた。

 視力を失ったスフィアに、目の前の情景を確かめうる術はない。しかし、僅かな無言の間に自らの死期を悟ったのか、張り詰めていた全身の力を緩め、息も絶え絶えに呟いた。

「……見たかった、なあ」

 それはおそらくスフィアの遺言とも言うべきものだろうか。その言葉が何を差しているのかはハルミには分からない。考慮するつもりもなかった。ハルミは一切躊躇うことなく、浮かぶ刃に墜下を命ずる。刀は風切り音を残して、スフィアの胸部へと迫り――

 ――ガチャン! と音を立てて、刀はあらぬ方向へと弾かれた。

 気づかぬ内に、スフィアと刀の間に遮蔽物が存在していたのだ。金属製の障害物は一見して“盾”と呼ぶべき見た目を成していた。

 そのような盾が、寸前にてスフィアの命を守ったのである。勿論ハルミの異能ではない。クロハラの半透明状の防護障壁バリアとは形質が違う。ならば、その盾を生み出した者は――

「……リット?」


 +++++


「やっこさんから長年こびり付いた血の臭いはしていたが、やはり世界連合の関係者かい」

 時間は少し遡る。それは、ハルミとスフィアの形勢が逆転した頃の話だ。

「どうして、いきなり?」

 リットの手の中に座るハムスター、クロハラが俯きつつぼやいた。

「……何年も昔の話だ。嬢ちゃんみたいなお人好しのシグナルが、旦那にとある呪いを掛けた。“本当に戦わなければいけない相手だけを考えて。誰も憎まないで”ってな。その呪いがある限り、戦闘において旦那は凡百のシグナルに過ぎねえ。けれどもな――大切な仲間たち(レジスタンスのシグナル)を殺した者と相対した時、旦那の呪いは解けちまう……七つの異能を同時に使役する、冷酷無比な【災厄指定レッド】シグナル。それが旦那の、もう一つの顔ってやつさ」

 ハルミが本来持つ異能はたった一つである。それは契約を司る異能、【愚者の天秤ウロボロス・ロウ】。

 かつてのハルミは、契約によって複数の異能を獲得した。それを戦闘に用いる際己に課した条件は、クロハラが“呪い“と述べた通りだ。そして、その呪いの解除条件にスフィアが合致したが故に、ハルミは全力を発揮することができていると言う。

「わたしは知らなかった。優しいハルミが、あんな険しい顔つきをすることを。戦うことに躊躇いがないことも……クロハラ、ハルミの過去に何があった?」

 クロハラは小さく首を横に振る。

「そればっかりは旦那の口から聞いてくだせえ。まあ、答えてくれるとは思えねえですが」

 リットはもどかしさと呼ばれる感情を覚えた。これまで暗闇の水底で過ごしてきたリットは、知りたいと思ったことはすぐに知ることができた。その身が幽閉されていようとも、【世界の記憶レコード】を通じてあらゆる情報を知ることができたのだ。

 ――それがこの世界のすべてだと、そう思っていたのだ。

 しかし、現実は違った。ハルミやクロハラのことをリットは知らない。また、どういうわけか、【世界の記憶レコード】にも載っておらず、索引して知ることもできない。目の前で戦っているハルミが、どうしてあのような表情を浮かべているのか――どうして人を傷つけることに躊躇が無いのか、リットには分かり得なかった。

 閉ざされた暗闇で長年の時を過ごした弊害か、リットの顔つきは何があろうとも無表情から移ろうことはなく、また、リット自身ですら自分の感情を理解することが叶わない。けれどもクロハラは、嗅覚で他者の感情を察知する生物だ。小さく燻るリットの心の機微を嗅ぎ取ったのか、優しい声で話しかける。

「やっぱり嬢ちゃんは、人殺しは受け入れられないってのかい」

「戦いたくないわたしの代わりに、ハルミが戦っている……なのにわたしは、ハルミに戦ってほしくないと思ってしまった。また、相手の少女にも、死んでほしくないと、そう思ってしまった――これはダメなこと?」

「いいや、そうは思わねえぜ。優しいってのは良いことだ。わしゃそれを甘ったれだなんて切り捨てるつもりは毛頭ねえ――旦那が嬢ちゃんを守るってんなら、その考えは大事に持っていてくだせえ。きっと旦那には、嬢ちゃんみたいな人が必要なんだ」

 クロハラの言葉は一見して慈愛に満ちているように見えるが、その実とても残酷なことを述べている。リットには、おぼろ気ながらそれが分かってしまった。

 リットはそれを言葉に出すことは無かった。憚ってしまった。

(……わたしの代わりに、ハルミが戦い続けるってこと?)

 目の前で繰り広げられるハルミとスフィアの戦い。いつの間にか形勢が逆転し、ハルミがスフィアを圧倒していた。まるで大人と赤子が戦っているようなものだった。有無を言わせないハルミの反撃にスフィアは驚き、苦渋を飲み、その身に傷を負っていく。

(……いや)

 ――リットにとっては、この日初めて眼にしたものが世界の全てだった。それは銀色のカラスに始まり、ハルミ、クロハラ、そしてスフィア。クロハラに死生観を説かれたこともあるだろう。だからだろうか、今しがたリットは、不可解な感情を抱いてしまった。

(……傷ついてほしくない)

 その感情の矛先は、ハルミやクロハラだけでなく、スフィアにまで向けられていた。ハルミは身を呈してリットを助けようとしているというのに、リットは明確な敵たるスフィアまで気遣ってしまっていた。

 ハルミがスフィアに傷つけられる度に、リットはその痛みを想像した。それと同じように、ハルミに傷つけられるスフィアの痛みも想像してしまう。そしてスフィアへの責め苦は過酷さを増す。眼球を失い、四肢に穴が空く。スフィアの死が近いのだと理解できた。

(人を殺し、殺される。それ以外の方法は……ある?)

 それは何と高慢な願いなのだろうか。

 殺されないためには殺す必要があると、そうクロハラに説かれたばかりだというのに。リット自身ですら、その論理を認めてしまったというのに――痛めつけられるスフィアを見ると、どうしてもリットはそれを止めさせたいと思ってしまう。

(――いったい何が正しい?)

 ――正しさなんてどこにもないの。

 リットの中に明るい声が響いた。それは一語一句心にしまったあの人の言葉。今それが必要だとでも言うように、リットは追憶を辿り、大切な言の葉を拾っていく。


 ――人は何かを判断するとき、いろんなことを頭に浮かべるの。必ず誰かの考えや他の価値観に判断が左右される。誰かにとって正しくても、誰かにとっては正しくない。リットの言う絶対的な正しさなんて、どこにもないの。

 ――では、どうすればいい?

 ――いい、リット? 大切なのは、何をすべきかを自分で考えることよ。そして世界に誓うの、その一挙手一投足の責任を全て背負うってね。他の誰かの物差しを言い訳に使わない。あなたが信じて、あなたが行う。……それが、正しくあろうとすることだから。


 リットは回想から現実へと意識を浮上させる。

 ハルミとスフィアの戦いは終わりを迎えようとしていた。

「……見たかった、なあ」

 やがてハルミの刃が、スフィアへと振り降ろされる。

(――わたしは、どうしたい?)

 答えは出ている。リットは戦いへと介在し――


 +++++


 ――どうして止めるんだ?

 ハルミがそう言う前に、リットは小さな両手で、ハルミの背を優しく包み込む。ただそれだけで、ハルミは何も言うことができなかった。

 背後のスフィアは幽かな声で、しかしそこに瞭然たる意思を込めて口にした。

「わたしは、自分の行為が正しいとは思えない。ハルミの行為が間違っているとも思えない――けれども、わたしはわたしに正しくありたい。その為には、話す時間が必要」

 ハルミは思う。いったい何を言っているんだ、と。倒れ伏すこの少女は紛うことなき敵だ。ハルミを殺し、リットを奪おうとする怨敵だ。それも今に限った話ではない。暗夜戦争当時、世界連合側に付き、同族たるシグナルを殺し回った宿敵だ。例え今死に瀕していようと、同情する価値など一欠片もない。話す暇など与えなくてもいい。今すぐにスフィアを殺すべきだ。なのに――

「――だからハルミ、その手を止めて」

「……っ、あ……」

 リットに背中から抱擁され、たった一言の願いを囁かれただけで、ハルミは何もできな

くなった。何も考えられなくなった。

「スフィア――いいえ、ナフィーサ・ランティーエ」

「……どうして、アタシの、名前を……」

「――わたしはあなたと取り引きがしたい――そう、これは契約」

「……意味が、分からない、んだけど……」

 スフィアの言うことは最もだ。リットへと明確なる害意を向けていたスフィアの死を、他ならぬリットが回避させる。ハルミには到底理解のできない行動だった。

 そして次にリットが述べた言葉は、ここにいる彼らの想像の更に上を行った。

「今からあなたを助ける。その代わりに、わたしの仲間となる」

「……は、え?」

 リットの突拍子もない言葉に、スフィアは混乱した。つい先程、どちらを選んでも死に至る絶望の契約をハルミに突きつけられたばかりだからだ。

「この契約は無条件の善意ではなく、双方が利益を享受するための選択。そう、これはいわゆる……うぃん、うぃん」

「……バッカ、じゃないの……どうし、て……」

「さっき、【世界の記憶レコード】からあなたの過去を読み取った……現在に至るまで、あなたの行動理念は一つの願いを叶えるため。わたしは、それを叶えることができるのかもしれない」

「……」

 死の淵に瀕してまで強がっていたスフィアが、リットの言葉を受けて黙り込んだ。

「もう、あなたに時間はない――選んで。生きるか、それとも死ぬか」

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