バイバイ! 天使は微笑んで自ら逝った

仲瀬 充

バイバイ! 天使は微笑んで自ら逝った

虐待こそなかったが子育てに全く関心がない親だった。大学進学を許してもらえなかったことをきっかけに僕は家を出た。ところが自活は簡単ではなかった。奨学金だけでは足りず早朝からの新聞配達、夜も遅くまで中華料理店で皿を洗った。やがて体がを上げ講義中の居眠りが増えた。何のためのアルバイトか分からず心の糸が1本また1本と切れていった。4年目の夏の夕方のことだった。アルバイトに出ようとアパートの自転車置き場に行くとサドルが切り裂かれていた。心の糸の最後の1本が切れた。死に場所はどこでもいい、気が付くと行く先も確かめず電車に乗っていた。1時間も走っただろうか、車窓を流れる沿線の家並みの1軒の窓明かりが目に入った。父親がランニングシャツ姿でビールを飲んでいる。いがぐり頭の男の子とおかっぱの女の子がちょこんと正座して母親の給仕を待っている。幸せというものがここにある、僕は目頭が熱くなって電車を降りた。ポケットのなけなしの金は帰りの電車賃にもならない。ふらふらと線路沿いの道を歩くと女の子が手招きした。

「おじちゃん、こっち」

「こっちって?」

「お父ちゃんが助けてくれるから」

脇に2トントラックが停めてある玄関から父親らしき人がランニングシャツ姿で出て来て女の子の横に立った。あの親子だった。


「入りなさい。待っていた」

肩を叩かれて上がり込み車窓から見えた居間に導かれた。

「あのう、待っていたって?」

「照美がもうすぐ君が来ると言うもんでね」

そう言って父親は横に座ったおかっぱの女の子の頭を撫でた。僕は驚いて女の子を見た。

「この子には予知能力があると思ってください。君が今日うちへ来たのも運命なんだろうよ」

「何が何やら僕には……」

話の意外さにとまどったが体の方は空腹を訴えた。

「おじちゃんのお腹、ぐうって鳴った」

「ははは、まあとにかく飯を食べよう」

奥さんがご飯をよそってくれた。

「イワシの煮つけしかないけどたくさん食べてね」

味噌汁をすすりイワシとご飯を口に含んだところが限界だった。ありがたくて嬉しくてご飯を食べながら泣いてしまった。父親もそんな僕に同情したのか、いがぐり頭の男の子がはやし立てた。

「お父さんも泣いてる!」

食事がすむと問わず語りに僕は実家を出て以来の窮状を訴えた。父親はいちいち頷いて聞いてくれて別れ際には数枚の1万円札を僕の手に握らせた。

「これからも辛いことは降りかかると思う。しかし、どんなことがあっても生きなさい、生きるのです」

自分は生きていい人間なのだ、僕はまた涙した。


学生時代を振り返れば宝物のように輝くあの一夜。自分もあんな家庭を築きたい。願いはしかし30を過ぎても35を過ぎても叶わなかった。ある時ディスカウントストアをぶらついていると電化製品の小ぶりな天ぷら鍋があり一目で気に入った。好みのネタを揚げながらビールを飲む自分の姿を想像した。しかしそんなふうに落ち着けば結婚はいよいよ遠のきそうにも思われた。天ぷら鍋を諦めた甲斐あってか40歳目前で3歳年下の敏子と出会った。結婚を機にマイホームも建て、高齢出産だったが子宝にも恵まれた。けれどもせっかく叶った願いは10年ほどで崩れ去った。一人娘の弥生が小学4年生の時、下校途中で車にはねられて死んでしまった。運転していたのは18歳の会社員の女性で車は横断歩道のたもとの信号機の支柱にぶつかって大破。弥生が赤信号で横断歩道を渡り出し慌ててハンドルを切ったがよけきれなかった、これが女性の言い分だった。娘は赤信号で渡るような子ではないという僕ら夫婦の訴えは退けられた。対向車の証言があったからである。事故の瞬間は見ていないが自分の車と女性の車は同じタイミングで横断歩道にさしかかったから車道の方が青だったはずだと。妻の敏子は心労が積もり娘の後を追うように翌年病死した。


一人身になった僕は自炊を始めた。朝はトーストと目玉焼き。昼は会社で出前をとるが夕食は会社帰りに食材を買う。イワシの煮付けも時々作る。ただ思い出の味は再現できない。できた料理はきちんと皿に盛りつけるようにした。食事だけでなく掃除機も毎日かける、休日も起きたらすぐに着替える等々、規則正しく生活すること自体をあえて生きる目的にした。そのうち新たな災難がふりかかった。定年を目前にして業績悪化を理由に退職金50%カットの通告。家のローンの残額は退職金で一括払いする契約なので途方に暮れてしまった。結局家を手放して賃貸マンションに移ったのだが65歳になる現在、年金生活は楽でなく時々宝くじを買う。

「いらっしゃい山本さん。先月の宝くじは?」

「だめだめ、また外れ」

近所のスナックでの息抜きが唯一の贅沢だ。カウンターでママを相手に飲んでいると30代くらいの女性の二人連れが入ってきた。一人は同じマンションの野上知世だったので会釈えしゃくを交わした。女性たちは僕と椅子二つ空けて座った。


「アタシ、パチンコ屋に転勤あるなんて思わなかった、おまけに今度の店に知世がいたんで二度びっくり」

「高校以来だから15年ぶりよね。明子んとこ沙耶ちゃんだっけ、大きくなった?」

「1年生。でさあ、夕方まで預かってくれるとこ知らない? 学校終わって一人で置いとけないし」

「知ってれば私が預けるわよ。うちの彩葉もまだ2年生だからシフトを3時までにしてもらってる」

「知世は旦那と2馬力だけどアタシは一人だからそんなんじゃ食べていけない」

「とりあえずどうするの?」

「引っ越す前の学童保育にそのまま。でもこの町からだと遠いんだよね」

「迎えに行く時は気をつけなよ。この辺、スマホのながら運転と一時停止をめっちゃ取り締まってるから」

「ながら運転は高校出たての時にりてる」

「あれ、スマホで事故ったの?」

「ガラケーだったけどね。助手席側に落としたんで拾おうとしたらさ、」

そう言いながら明子という女性は右手1本でハンドルを握る格好をして上体を左下に傾けた。

「ね、ハンドルを左に切る形になるじゃん。気づいたら信号機に突っ込んでたってわけ」

15年前に高校出たてで信号機に衝突……、酔いが急速に醒めた。


女性二人の話は続いていたが席をたって急いで帰宅した。古いメモ帳を繰った。加害者の名前は……興梠こおろぎ明子(18)。さっきの女だとしたらやはり娘の弥生が信号無視をしたのではない。横断歩道のたもとの信号機の側に立っていたのだ。僕は全身の血が逆流するように感じた。これまで淡々と生活してきたのはこんな激情にふたをするためだったのだと思えた。数日後、先日のスナックに出かけた。野上知世が先客でいた。

「また会いましたね、野上さんはよく来るんですか?」

「いいえ、この前は同僚の歓迎会の2次会でそれ以来です」

「ああ、高校の同級生とかでお名前がアキ……」

「明子です。彼女、苗字が超珍しいんです。興梠こおろぎっていうんです」

僕の心臓がドクンと脈打った。やはりそうだ、娘を殺し嘘をついて罪を逃れ妻の命も縮めた女だ! 目には目を、復讐の計画が瞬時にひらめいた。


「この前お子さんの話をされてましたが私が預かってもいいですよ。遊ばせておくだけでいいなら」

「ほんとですか? でも、」

「あ、女のお子さんだから心配ですよね。ライブカメラを付けましょうか」

「ライブカメラ?」

「監視カメラみたいなものでスマホからアクセスできるんです。預かっている時間帯は私のリビングが見れるようにします」

「そうしてもらえば安心ですけど、」

僕は焦った。遠慮されたら計画に狂いが生じる。

「ほかに何か?」

「預かっていただいてシフトを増やしても謝礼に消えるなら意味がないかなって」

「何だ、そんなことですか。年金生活者の道楽ですからお金はいりませんよ」

「それじゃかえって気をつかいます」

もう一押しだ。

「ならどうでしょう、駐車場みたいに時間制にして1時間100円、おやつ代こみということで」

「それでいいんですか? 嬉しい! 今日も明子と待ち合わせなんです、彼女に話しても?」

かかった! 僕は興奮を押し殺して立ち上がった。

「何人でもかまいませんよ。じゃ私はお先に」


僕のリビングは賑やかな託児所と化した。野上知世の口コミで野上と興梠の子供以外にも2名引き受けた。一人は同じマンションの子だがもう一人は野上を通して次のようないきさつで頼まれた。

「今日は預かってもらわなくて結構ですって山本さんに駅前の小牧医院から電話したことがあったでしょう? それを院長先生が聞いていて」

野上はさらに申し訳なさそうに続けた。

「院長先生の奥さんがぎっくり腰で外出できないので山本さんの方で出向いてお話を詰めてもらえませんか?」

小牧医院の院長宅は僕のマンションから駅の方角に歩いたところにあった。車椅子に座った50代半ばくらいの夫人と男の子が待っていた。憲太郎という名前の男の子は小牧家の娘夫婦の子供で小学校1年生だという。

「娘夫婦が海外旅行に行くので預かったんですけど私がこんなふうになってしまって。世話もできませんし、やんちゃな子なので目が届かず怪我でもしたらいけませんので主人が帰宅するまでの時間帯を預かっていただきたいんですけど」

僕が了承すると夫人は遠慮がちに付け加えた。

「学校とそちら様は近いので直接行かせますけど夕方はここまで送って来ていただけませんでしょうか。10分ほどの距離でも一人だと事故や事件が心配なものですから」

それも引き受けたのだが翌日ちょっと気になることがあった。憲太郎を小牧宅に送り届けた後、用事で駅の方角へ歩いて行くと1台のベンツとすれ違った。その時運転していた男性が僕に頭を下げたのである。通り過ぎた車を目で追うと小牧宅の車庫に入ったので当主の院長なのだろうがこれまで顔を合わせたことはないので不思議に思った。


肝心の興梠明子の方は子供を預かった最初の日に正面から顔を見たが15年前の記憶は蘇らなかった。向こうはなおさらだろう。山本という苗字はありふれているし体形も事故の後10キロ近くやせたままだ。僕は興梠の娘沙耶の殺害にうってつけの計画を実行に移した。と言ってもベランダの手すりと平行に脚立きゃたつを開いて置いただけなのだが。6階から転落すれば確実に命はないだろう。監督責任を問われるのは覚悟の上だ。活発な沙耶は思ったとおり脚立に興味を示した。しかし何度上っても転落することはなかった。れた僕は、ある日、脚立に上って真下の道路を見下ろしていた沙耶の背後に忍び寄った。この背中を一押しすれば娘と妻のかたきが討てる! 僕は後ろから両手で沙耶を抱きかかえた。

「危ないよ」

今はまずい、他の子の目もあるしライブカメラの視角に入っているかもしれない。


ある日の夕方、興梠明子から願ってもない連絡が入った。帰りに寄る所ができたから夜の10時まで預かっていてほしいとの依頼だった。沙耶に簡単な夕食を食べさせた後、後片付けをしながら考えた。目を離したすきに外に出て行ったことにして……、あるいは僕の外出中にガスが漏れて……、さてどうするか。リビングに戻ると沙耶はソファーでうたた寝をしている。見つめているうちにその寝顔が生前の弥生とダブり、たまらない気持ちになった。可愛い子をなくす思いがどんなものかあの女にも思い知らせてやる! 僕は我を忘れて沙耶の首に手をかけた。

「ちょうちょ、ちょうちょ!」

沙耶の声で僕は目を覚ました。インターホンも鳴っている。玄関を開けると沙耶の母親が不審な顔で立っていた。

「何度も鳴らしたんですけど?」

「すみません、知らないうちに沙耶ちゃんと一緒に寝てしまったみたいで」

その言葉に嘘はなかったがなぜ急に寝落ちしてしまったのかは僕自身にも分からない。

「そうでしたか、すみません遅くまで。沙耶帰るわよ」

「ママ、ちょうちょがいない」

「ちょうちょ?」

「おじちゃんの周りに飛んでたの」

「なに寝ぼけたこと言ってるの、早く靴を履きなさい」


沙耶の一件の数日後、僕が憲太郎を送っていくと夫人が玄関に立って出迎えた。

腰がだいぶよくなって車椅子を使わないでよくなったので預かってもらうのは今日限りでいいとのこと。

「今日は主人も帰っておりますので」

これまでのお礼に夕食をと勧められた。ダイニングルームに通されると当主は既にテーブルに就いている。

「初めまして。山本といいます」

「孫がお世話になりました。小牧誠治です。山本さん、私たちは初めましてじゃありませんよ」

車の中から一度会釈されたことがあったがそれを言っているのだろうか。「あなた、ほんとにこれでいいのね?」と念を押して料理を運び終えると夫人は憲太郎を連れてダイニングルームを出た。僕は目の前の料理に目を見張った。ご飯と味噌汁の他はイワシの煮付けとタクアンだけ。驚いたのは質素だったからではない。

「これは……。ということは、あなたはあの時のいがぐり頭の?」

小牧氏は微笑を浮かべて頷いた。

「大学を出て働き出してすぐあなたのお父さんにお金を返しに行ったんですが、引っ越されていて」

「あの家で妹が亡くなったものですから居ずらくなりまして」

「妹さんが? いつのことですか?」

「あなたが来られた次の日です」

「えっ? えっ!」


「順を追って話しましょう。父も若い時は医科大学生だったのですが20歳の時に退学しました。以来ずっと廃品回収で生計をたてて数年前に亡くなりました」

「ずいぶん極端な方向転換ですね、何かあったのですか?」

「過去を見通せる霊視能力に突然目覚めたのだそうです。私の父は過去世かこぜにおいてあなたと兄弟だったと言っていました」

僕があっけに取られているせいか、小牧氏はしばらく間を置いた。

「五百年ほど前の戦国時代、領主の息子兄弟として隣国に攻め入って領主が相手の城主を、私の父とあなたは城主の娘二人を殺害したそうです。殺すか殺されるか、戦に勝てば敵の一族を根絶やしにした時代のことです」

「そんな前世を知ってしまってお父さんはどんなお気持ちだったのでしょう」

輪廻転生りんねてんしょうの中で因果が巡ることを覚ったようです。過去世において非道なことをした自分に幸福になる資格はない、医者の道を断念したのもそんな思いからでしょう。つつましく生きることで過去の罪を消そうとしたのでしょうがそれくらいでは収まりませんでした」


小牧氏の顔が曇った。

「妹に話を移しますが父を上回る能力を備えていて未来も予見できました。父には妹が5、6歳の頃、おかっぱ頭に天使の輪が見えたそうです」

「髪の毛が艶々つやつやとリング状に光って見えるというあれですか?」

「そのリング状の輝きが空中に浮き上がって見えたのだそうです。天使は神のお告げの伝令役だからこの子も何らかの役目を持って生まれてきたのじゃなかろうか、そう言ってました。妹が予知能力を発揮しはじめたのもその頃からです。もうすぐお父さんが帰って来るとか、小学校のバス遠足の日に急にお腹が痛いと言って休んだこともありました。多分仮病けびょうだったのでしょう」

「と言いますと?」

「遠足の貸し切りバスが事故を起こすのが分かったんでしょう。さいわい死者までは出ませんでしたが」

「それなら昔私が線路わきのあなた方の家に向かったのも妹さんにはお見通しだったわけですね。それにしても翌日に妹さんが亡くなられたというのは?」

「仕事に出る父のトラックをいつものように私たちは手をつないで見送っていたんですが妹が妙なことを言いました。『昨日のおじちゃん、次はお兄ちゃんが助けてあげてね、照美はお父さんを助けなくちゃいけないから』」

ここで小牧氏の表情はいっそう暗くなった。

「そう言って私とつないでいた手をふりほどき、動き出した父のトラックに身を投げ出しました。後輪にひかれて即死でした」

僕は生唾を飲みこんだ。

「母親が家から飛び出してきて半狂乱で妹を抱き上げましたが父親は車を降りて茫然と突っ立ったまま、これはどういうことなんだと思っていました。妹の死の意味を必死で考えていました」

「ちょっと待ってください。ご自分の気持ちならともかく、お父さんが思っていたとか考えていたとかって?」

「妹の死をの当たりにした瞬間に私も潜在能力が覚醒したんです。と言っても他人の思いを感じ取るくらいのテレパシー的なものですが。妹はトラックの荷台の下に身を投げる直前に私をちらっと見て微笑ほほえんだんです。そのとき私の脳内に『バイバイ!』という妹の明るい声が響きました」

「お父さんの心中もそんな感じで汲み取れたんですね」

「妹の葬儀が終わってから私は妹が残した言葉を父に伝えました」

「お父さんを助けるということですね」

「はい。それを聞いて父は深く納得できたようで、さっきあなたに話した戦国時代からの因縁もその時初めて父から聞かされたのです。つまるところ、妹は我が身を犠牲にすることで父の過去世の罪をあがなったというわけです。妹はそのために生まれてきたのでしょう」

小牧氏の説明を聞いて考え込んでいた僕は顔を上げて言った。

「小牧さん、私も娘を交通事故で亡くしました。それも私の過去の因縁によるものだったのでしょうね」

「そういうことになります」

「私はかつてあなたのお父さんに言われました。これからも辛いことが起こるだろうと。だから私は毎日をあえて淡々と過ごすことで娘の死の衝撃を乗り越えたつもりです。妹さんがあなたに私を助けるように言ったのもやはり娘の死を予知していたのでしょうか?」

小牧氏が厳しい目で僕をみすえた。

「問題はその後です。私はあなたのどす黒い想念をキャッチしました」

「!!」僕は虚を突かれて息を飲み、その後で長嘆息した。

「そうでした……、娘の死よりも大きな試練でした。するとあなたがお孫さんを私に預けたのも?」

「ええ。娘夫婦を旅行に行かせてあなたとの接点を作りました。そして暇さえあればライブカメラの映像を見ていました」

「では女の子に手をかけた私が失神したのはあなたが?」

「現実に介入する能力は私にはありません。着信音で正気を取り戻してもらうために電話をかけようとしたのですがその前にあなたは気を失いました」

僕はふと思い出したことを口にした。

「母親が迎えに来た時あの子が言うには、私のそばでちょうちょが舞っていたと……」

「ああ、それは無垢な子供だからあなたの守護霊が見えたのかもしれません。蝶は死者の霊魂の化身けしんですから。さて、戦国時代にたんを発した私の話は以上ですが荒唐無稽こうとうむけいに思われたでしょうね。そもそも山本さんは輪廻転生を信じますか?」

厳しかった小牧氏の目が和らいだ。

「宗教のことはよく分かりませんが信じるほうが人間らしく生きられるとは思います。今回のことにしても亡くなった娘が蝶となってやって来て私を眠らせ、結果として凶行を止めてくれたと考えることもできそうに思います」

思いつくままを口にしたのだが小牧氏は表情を引き締めて頷いた。その真剣さが僕の洞察を一歩進めてくれた。興梠明子を許すことで僕自身も救われるのだと。そう考えると彼女への恨みが消滅しただけでなく自分の方が昇天しても構わないほどの解放感に包まれた。心が晴れ渡る思いだった。


小牧氏が箸を手に取った。

「すっかり冷めてしまいましたが食べましょうか」

「いただきます」

僕も箸を手にしてまずイワシの煮付けを口に運んだが、びっくりして小牧氏を見た。

「この味です、40数年間ずっと求め続けていました。生姜しょうがを入れて煮ても僕はこんなにスッキリと仕上げることはできません」

「母は生姜の他に梅干しも一緒に入れていました」

「ああ、そういうことだったのですか」

「ありがたいことに妻が味を受け継いでくれています」

「今日は胸のつかえがすべて取れました。お伺いして本当によかった……」

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