お母さんの花刺繍
長月いずれ
第1話
お母さんの花刺繍
うっすらと眠りから覚めると、黴た畳の臭いが鼻をつく。春特有の優しい雨の音が狭くて古いこの部屋をいっぱいにする。私は布団替わりに敷いていた誰かの高校の制服であろうセーラー服の上からおもむろに身体をおこして、目をこする。そして、自分のお腹をさする。そこにあるお母さんが私に施した十三個の花刺繍をひとつひとつ丁寧に人差し指でなぞると、悲しい気持ちがこみ上げる。
「ひとつ、足りない」
花刺繍は、お母さんが大好きなタンポポ畑をモチーフにしていて、花の茎が全部で十四個描かれている。だけど、私の体には茎の上に十三個しか花がない。完成する前に、お母さんが刺繍するのをやめてしまったからだ。はっきりとした理由はわからない。たぶん、私が悪い子だったからだと思う。
私が幼い頃、毎晩決まって八時から九時の間に、お母さんは私の身体に刺繍を施した。八時になると私はお母さんに言われる前に自ら上着を脱ぎ、刺繍をされる準備をした。震えながらいつもの椅子——木製の子供用の食卓椅子、の上によじ登った。
そんな裸の私の身体に刺さるのは、注射針より何倍も太い、刺繍針だった。本物のタンポポの色とはかけ離れた、真っ白で丈夫な刺繍糸を針に通すと、お母さんはそれを人差し指と親指でしっかりと持って、昨日の続きの場所に刺繍を施す。針が肌に刺さるとき、プツンっと細胞がはじけるような音がして、その音がするたびに私から何かが飛び散った。そして、それは飛び散ったまま二度と帰ってこなかった。
白の刺繍糸はあっさりと赤く染まった。最初から赤い糸を使えばいいのに、と思うくらいだった。そして、それはやがて空気に触れて黒ずんだ。八時半を過ぎるころには私もお母さんの手も血だらけで、鉄の臭いが鼻をついた。特に夏はひどい匂いがした。だけど、そんなことにはお構いなしに年中刺繍は続いた。
お母さんの刺繍針はまだ出来上がる前の私の小さくて弱い内臓を貫いて、時には骨にさえ穴をあけ、私の腹と背を行き来した。
私は痛くてたまらなかった。特に、心臓を貫かれている間、苦しくてたまらなかった。だけど、それでも声をあげなかった。あげればお母さんがせっかく刺繍をしてくれているのに、私に関心を寄せてくれているのに、その時間が終わってしまうと思ったからだ。
ただ、耐えきれずに涙だけがいっぱいにあふれた。そして、それはだらだらと頬と顎を伝い、刺繍をするお母さんの手を濡らした。私から零れ落ち、冷めるまもなく手を濡らす、生ぬるい涙はお母さんを喜ばせた。
そして、そんな八時から九時を何度も繰り返し、あと一個で花刺繍が完成する、そこまで我慢したのに、その日は唐突に訪れた。
「お母さん、幸せになることにしたから、あなたとは今日でさようならよ」
お母さんは長く伸びたまっすぐな黒髪を風になびかせながら、優しい日差しに包まれた春の午後のタンポポ畑の真ん中で、つないでいた手をあっさりと離し、淡々とした様子で私にそう告げた。
いつもお母さんの爪には真っ白のポリッシュでタンポポの花が描かれていたのに、その日はなぜかネイルを施していなかった。さわやかな風がタンポポを撫ぜるたびに目をほそめて気持ちよさそうにするお母さんは、いつになく綺麗だった。そんなお母さんの美しさに見惚れて、振りほどかれた手をもう一度つなぎなおそうとした。
すると、お母さんは私を切った。裁ち鋏で切った。まるで、失敗作を壊すみたいに。そして、私が痛みでのたうち回るうちにどこかへ行ってしまった。それから私はこの部屋に住むようになった。
二畳ほどの部屋にあるのは、古くなりすぎてところどころ剥げた畳と、どこの誰のものだかわからないセーラー服——私が持っている唯一の服。それから、あの日わたしを切った裁ち鋏。他のものは何もない。あまりにも何もなさ過ぎて、こんなにも狭いのに、がらんとした感じがする。私は年中、窓から外を見て過ごした。
そして、この季節——タンポポが咲く季節にだけ外に出た。
その日は夜から未明にかけて雨で、浅い眠りから覚めた私は焦って外に出た。靴は無いから裸足のままで、傘もないからどこかでくすねて、タンポポの綿毛を探し、そして、それに傘を差すために。
「なにしてるの?」
綿毛を見つけ、傘を差しながら胸をなでおろしていると、ふいに後ろから話しかけられて、ビクりとする。低めの青年の声だった。ゆっくりと振り向くと、そこにはK君がいた。
「あ、K君。こんばんは」
K君は短髪で日に焼けた好青年だ。だけど、名前を知っているのに、K君がどこの誰なのかわからなかった。
「こんばんは。こんな雨の日に、自分じゃなくて地面に傘を差して何してるの?」
「タンポポの綿毛が、雨に濡れるのが可哀そうだから、傘を差していたの」
そう言いながら、私は地面の綿毛を見つめた。綿毛が濡れて、飛べないまま地面に落ちるのが可哀そうでたまらなくて、私は雨の日はいつも綿毛にさしてあげるために傘をくすねた。そして、綿毛がいつか花を咲かせるところを想像した。
「私にも、あと一輪だけ、必要なの」
そう言いながら、ガリガリに痩せた左手で自分のお腹をさすった。
K君が私のほうを心配そうにのぞき込む。普段いつも一人でこうしているのに、心配してくれる人がいるのがなんだかくすぐったかった。だけど、花刺繍のことは私とお母さんだけの内緒だった。K君に私の秘密を打ち明けることはできない。私は平静を装って、「うん、大丈夫」とだけ答えた。
すると、K君は何を思ったのか、その辺に生えているタンポポを掴めるだけつかんで、ブチン、と汚い音を立てながら容赦なく引きちぎると、その辺に投げ捨てた。あまりにも乱暴に引き抜いたものだから、私がタンポポに差してあげていた傘はころん、とK君のほうへ転がった。
「君を困らせるものなんか全部なかったことにしてしまいたい」
K君はそう言って私を見つめた。そして、タンポポの青臭さが残るその指で、今度は私の左頬を優しく撫でた。その手が触れた瞬間、私の心は震えた。生まれて初めて震えた。
「なんてことするの」、という気持ちと、「ずっとそうしてくれる誰かを探していた」という気持ちがない交ぜになって、胸をいっぱいにした。
そして、私は生まれて初めて声をあげて泣いた。伝う涙を雨のせいにして泣いた。K君はそんな傘のない私を、自身にだけ傘を差したままただ黙って見ていた。その視線はまるで春の日差しのようだった。
泣くだけ泣いて、家に帰ると、濡れた制服を脱いで、畳に投げた。そして、湿ったままのその上に胎児のように丸まって、いつものように眠りについた。
その夜、夢の中でどうしてか足りない花刺繍の数を数えなかった。代わりに、K君の指を思い出した。ふしばったお父さん指、ささくれがあるお兄さん指、少しだけ短めのお姉さん指、爪の形がまん丸の赤ちゃん指。そして、私の左頬に触れたお母さん指・・・。
翌朝、晴れた。
「今日は傘は要らない」
気分が良くてそう呟いた。いつものように柔らかい日差しの下で咲くタンポポを探しに、生乾きで皺くちゃのセーラー服を着て部屋から出かけようとした。なのに、ドアを開けるとすぐそこにお母さんがいて、私の部屋に無理やり押し入った。
「××ちゃん」
お母さんは私を呼ぶと同時にすぐそこにあったあの日の裁ち鋏——あの日からもう何年も経っているのに錆びることなく、切れ味がするどいままの茶色の重い裁ち鋏を手に持って、私を切った。
私はあまりの痛みにその場にしゃがみこんだ。
「ごめんなさい・・・」
消え入るような声でそう呟きながら、声を押し殺し、涙を流した。
「お母さんが愛情の証にくれた花刺繍を思い出す代わりにK君の指なんかを想って、花刺繍と同じに扱うなんて、なんて悪い子なの!お母さんの愛情と、知らない男の子の好意を比べるなんて!」
お母さんは思い切り怒鳴り散らし、私に血を流させた。
その日以来、どんな雨の日もK君は現れなかった。まるで、お母さんがK君に命じたかのようだった。ある日、いつも通り、傘をくすねに行こうとすると、K君の代わりに、警察の人来た。女の人と、がっしりとしたK君だった。
「少女が夜な夜な傘を盗むと通報があったのですが」
「K君?」
「はい?」
「K君は二人いたの?」
「・・・・・・」
警察官はこそこそと話し合い、私はいろいろな場所にたらいまわしにされたあと、精神病院に強制入院させられた。そして、そこにお母さんがやってきた。
「裕子、あんた、また私に迷惑かけてどういうつもりなの」
「・・・・・・」
お母さんはなぜかいつもは変わり果てた姿をしていた。
長くてしなやかな自慢の黒髪は短く切りそろえられて、白髪を隠すために安っぽい茶色に染められていた。白で塗られていた爪は、ネイルをしていない自爪で、その周りは処理をしていない甘皮やささくれだらけだった。人は短期間でこんなにも老け込めるものなのだろうか。
「ごめんなさい・・・」
私は、私を睨みつけるお母さんから目をそらし、俯いたまま謝った。
「お母さんが花刺繍をしたのに、傘をたくさん盗んでしまって、ごめんなさい」
そう言いながら、私はまた切られるんだと覚悟したのに、飛んできたのは鋏ではなくて言葉だった。
「花刺繍?そんな昔のことよく覚えてたわね。いつの話よ」
「えっ・・・」
それを聞いて、すぐに次の句が出なかった。私の身体の、花刺繍はお母さんの中では遠い記憶になっているのだ。私はたまらなくなって、服を一気に脱ぎ捨てた。
「忘れられるわけないじゃない・・・!」
こんなにミミズ腫れになって、黒ずんで、食い込んでいるのに。
「そんなになる前に、自分で抜糸すればよかっただけでしょ。私のせいにしないで。ばかばかしい。もう二度とこないから」
お母さんは怒鳴ったあと、私に一瞥をくれると、呆然と立ち尽くす私を気にも留めずにそのままどこかへ行ってしまった。窓の外はもう暗くて、雨が降っていた。私は、綿毛が雨に降られてダメになるところを想像した。だけど、もうくすねる傘はなかった。
二度とこないと言ったくせに、お母さんはその夜またお見舞いに来た。髪は黒くしなやかに戻って、数時間前の安い茶髪はウィッグだったのだと思った。私があんまりにも悪い子だから、恥ずかしくて親子だと思われたくないから、変装をしたのだと思った。
「ごめんなさい・・・」
「ごめんなさいじゃないわよ!お母さん、さっき自分で抜糸しなさいって言ったよね?なんでまだしてないの?いつも、いつも、グズグズして!嫌になる!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!・・・ごめんなさい!」
私はそう叫びながら、うわっと泣いた。K君の前で声をあげて泣いたあの日から、私は我慢がきかなくて泣くときには声を出すようになってしまっていた。
すると、看護師のK君たちが来た。そして、注射を打たれ、気を失うように眠った。夢を見ないほどぐっすりと眠った。
窓のないこの病室は一人部屋で、静かすぎるくらいに静かだった。そのせいでどこからか外の雨の音がきこえた。とてもはっきりと聞こえた。もっと言えば、白いシーツを何となく撫でたときの手と布がすれる音さえ聞こえた。消毒液の匂いもしない、無臭のこの部屋は、すこしだけ不気味で、まるで非現実の世界に迷い込んだようだ。そう、例えるなら、お母さんのいない、遠い世界に。
それでも、お母さんは私のことを見つけてくれた。
お母さんは壁をすり抜けて私のところへ来た。来るたびに私に怒鳴りつけ、お母さんの怒鳴り声は私を激しく刺激した。怖かったけど、花刺繍のことなんて忘れたと言われるよりも、関心を寄せてもらえる方がずっと良かった。自分は悪い子なんだ、だからお母さんに叱ってもらわないといけないんだ、としきりに思った。
私はお母さんに、どんなに怒鳴られたってかまわないから、花刺繍をしてほしかった。完成する前に抜糸したくなかった。だって、抜糸したら、完成から遠のくどころの騒ぎじゃなくなってしまう。お母さんが私にくれたものはひとつも手放したくなかった。そんな私を、お母さんは毎晩、愚図だと責めた。
入院した日から毎日、一日三回、Kくんに薬を飲まされた。そして、二週間に一回、診察を受けた。
「××さん、こんにちは」
「Kくん、こんにちは」
「まだ先生のことがKくんに見える?」
「・・・・・・」
初老のK君はいつも変なことばかり聞いた。
「わかりました。良いですよ」
何がいいのかさっぱりわからない。だけど、私はK君が私のことを想ってくれているのを知っていたから、——君を困らせるものなんか全部なかったことにしてしまいたい——素直にKくんのおままごとに付き合って、処方されたそれを飲み込み続けた。そして、その薬のせいで少しだけ何かがかわりはじめた。
まず、お母さんが来てくれなくなった。
毎晩、壁をすり抜けてでも会いに来てくれていたのに。
そして、Kくんは何人もいると思っていたけど、Kくんだと思っていた人はKくんじゃない男の人で、同時にそれはKくんでもあった。
そのことをわかり始めたころ、私は外出を許されるようになった。もちろん、引率のK君と一緒に。
初めて外に出た日にはもうすでに、コスモスが咲く季節になっていた。この頃は朝の散歩が日課になっている。部屋が近い二人とK君と一緒になって散歩に出かける。二人のうち、若くてガリガリな男の子はいつも、東京電力から電波を受信していて、もう一人の太ったおばさんは、あと数週間で宇宙飛行士として宇宙に旅立つと豪語していた。わたしはそんな二人を哀れに思った。
だけど、なぜかとてもとても愛おしかった。
三人とKくんで手を繋いで病院の勝手口から外へ出ると、裏庭は雑草が生えたままになっている。そのことに構わないまま河原へ向かった。大の大人が四人も手を繋いで歩く様子は奇妙に見えたと思う。
通学中の小学生が指をさそうとして、上級生であろう身体の大きな生徒に止められていた。だけど、他人にどう見えたっていまさら何も思わない。花刺繡が完成しないこと以外、今の私にはなにもかもどうでもいい。
秋口の朝の散歩は本当に気持ちがよかった。少しだけ寒さを帯びた、絹のようにきめ細かくやわらかな空気を、肺いっぱいに吸い込んで、何度も深呼吸する。
いつもの河川敷にくると、五分間自由時間が与えられる。つないでいた手を離してもらえる。その後は、川辺に座るもよし、K君の目が届く範囲で運動するもよし。
私は川辺に咲いたコスモスの香りをかぎたくて、川のほうへ向かった。薄いピンクと濃いピンクが交ぜ混ぜになって咲いている。少し湿り気のある薄い花びらを愛おしく思ってなでようとしたとき、コスモスの中から突然お母さんが現れた。お母さんに会うのはとても久しぶりな気がした。そして、お母さんは十メートルほど先の川の対岸のほうを指さしている。そちらを見ると女の子とその母親らしき女性の二人が歩いていた。
女性のほうをよく見ると、それは入院した日に一度だけ現れた老けたお母さんだった。少女はピンと糊のきいたセーラー服を着ている。二人は穏やかに笑いあっていた。
私はそれを目の当たりにして、すぐにすべてを理解した。もしかしたらずっと前から本当はうっすらと気付いていたのかもしれない。
お母さんはあの子と一緒に歳を重ねるために私を捨てたのだと。あの子と幸せになることにしたから花刺繡をやめたのだと。
お母さんはあの子の歯が生え変わるのを見守り、肺や脳が出来上がっていくのを手作りの料理で応援し、ついに初潮を迎えた彼女を、綿毛を抱くかのように優しく抱きしたのだ。そんな想像が一気に頭の中を駆け巡った。そして、頭が灼けるように激しく痛んだ。
「きゃああああああ!」
私は思い切り叫んだ。そして、両手で頭を押さえてその場にしゃがみこんだ。真っ暗な闇の中でぐるぐると自分だけが回っているような感じがして、それが気持ち悪くて、冷汗が一気にこみ上げて止まらない。私の叫び声はすぐにKくんに届いた。そして、二の腕に針が刺さるのを感じて、気を失った。
私は夢の中で声をあげて泣きながら、怒りに震えた。許せない。私は花刺繍を久しぶりに服の上からなぞった。
「もう、絶対に完成しないのに、こんなにもそれを待って、バカみたい」
私はぶつぶつとつぶやきながら、渾身の恨みを込めて裁ち鋏を持った。そして、花刺繍のその糸をついに切った。血がしみこみ、酸素に触れて黒ずんで、時間が経ち、脆くなった糸はあっさりと切れた。そして、私はその糸を一本ずつそっと引き抜いた。刺した時の痛みを思い出しながら、どんなに痛むかを想像して、恐る恐る引き抜いた。なのに、痛くなかった。皮膚を突き刺し、内臓を貫き、さなかまで達している糸を麻酔も打たずに引き抜いているのに。
私は、その時、刺繡針を刺した時にはじけ飛んだ何かを思い出した。あれは・・・、もしかして。
「私は・・・、私は・・・」
失ったすべては二度と戻らない。なのに、お母さんは・・・。その場でわなわなと震え、唇をかみしめて血を流した。私は子供のまま、女性にすらなれなかったのだ。
それから雨の音が何百時間も続いた。外に出たかったけど、病室にはなぜか鍵がかかっていて、部屋の外に出られなかった。お母さんもKくんも来なかった。代わりに錠剤の量だけが増えた。想像の中の綿毛はすっかり剥げて地面に落ちてしまって、とりわけてひどい土砂降りの日の夜、綿毛だけでなくタンポポの花すらダメになるところを想像した。
その日、とても大きな台風が来た。すると、花刺繡を切ってから初めて、壁をすりぬけてお母さんが会いに来た。手には胸にすっぽりと納まる大きさの段ボールを抱えている。
「お母さん・・・」
私は無感情のままお母さんを呼んだ。お母さんはそんな私の呼びかけに構わず、段ボールに貼られたガムテープを一気に剥いだ。そして、それを投げ捨てると、段ボールを私の頭の上で真っ逆さまにした。中には刺繍針が満杯に詰まっていて、私の頭は針山だったことにそのときはじめて気が付いた。私は両手で耳を覆い、思い切り叫んだ。
「私は布・・・。私は布!私は布!私は布!」
どれだけ大きな声でヒステリックにそう叫んでも、暴風雨の音で誰にも聞こえない。
そして、叫び終わる前に、お母さんは段ボールをもったままどこかへ消えてしまった。
私は頭に刺さった刺繍針を手に取って、思い切りのどに刺した。針はあっさりとのどを貫通して、首の裏から針が飛び出た
「やっぱり、痛くない」
花刺繍とは関係ない、一度もお母さんが針を刺してない場所でさえ、痛くない。それがこんなにも悲しい。
「痛くない、痛くない痛くない」
ぶつぶつと同じ言葉を繰り返しながら。私はわなわなと震えた。お母さん。お母さんの愛ってなに。私をこんなにも気づつける、お母さんの愛って、何。
殺してやる。今日という今日は絶対に許さない、今度会ったときは裁ちばさみで切って殺してやる。そう思うのに、お母さんが今日会いに来てくれたのが嬉しくて、一言も話せないまま去って行ったのが悲しくて、私はもう絶対にお母さんから逃げきることはできないと悟った。
お母さんが置いて行った刺繍針で病室にかかった鍵を器用にこじ開けて、私は外へ向かった。裏口へこっそりと向かって、ドアノブの上についている電卓のような鍵に、いつもK君が押す番号を真似して押した。
外はひどい土砂降りで、それでも生えっぱなしの雑草は喜んでいるように見えた。そして、そこに咲いていたタンポポはなぜか赤かった。だけど、そんなことにはお構いなしに私はそれを引きちぎれるだけ引きちぎって、私は空に投げた。そして、河原へ向かった。
あの日、コスモスが生えていた場所にはやっぱり赤いタンポポが生えていて、私はそれをまた引きちぎった。
「お母さん、大好き」
私はそう言いながら、嵐の中で激流が流れる川の中へ向かった。河原に腰かけて、左の足の指でツン、と川の水をつついた。当然だけど、そんなわずかな刺激では激流の川はびくともしなかった。私は私で、はだしでここまで来て、足の裏が傷だらけのはずなのに、水がしみても痛くないことをぼんやりと感じでいた。
「『××、八時よ』」
そう言いながら左手に刺さった刺繍針を見た。八時を指していた。私は意を決して、左足から川に入って、流されそうになりながら、何とか両足で立った。抜糸して、Kくんの治療を受けてもなお腫れあがったままの花刺繡の跡をゆっくりとなぞった。一、二、三、・・・十二、十三。
「ひとつ、足りない」
欠落を改めてなぞり確かめた後、私は氾濫しかけている濁流に身を投げて、対岸——あの日、あの女の子とお母さんが歩いていた場所、へ向かおうとした。だけど、花刺繍が完成しなかったせいでうまく歩けなかった。
「ここで、ニュース速報です。幼女が川で溺れ死んでいるのが見つかりました。体中に刺繡針が刺されており、他殺と見られています」
お母さんの花刺繍 長月いずれ @natsuki0902
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