第7話 磯貝君は合唱がやりたい

翌朝。


支倉ハイムが登校すると、教室の廊下で北条セナが他のクラスの男子と話していた。


セナは、


「おはよう!ハイム!」


と言うと、手を振って嬉しそうだった。


ハイムは、


「おはよう!」


と言うと、男子の方を見た。男子は磯貝という隣のクラスの男子だった。


磯貝は、


「支倉さん。おはよう」


と気さくに挨拶をした。




ハイムは、初対面でも明るい磯貝に戸惑いながら、セナに、


「…誰?」


と聞いた。


磯貝は笑顔を崩さなかった。


「2年生の頃に北条さんと同じクラスだったんだ」


セナは、


「いま隣のクラスだけど磯貝君っていって、長空北高校を受けるんだよ」


と言う。




ハイムは、立ち位置が前田よしとと同じ磯貝に、


「そうなんだ!よろしくね!」


と言った。ハイムは志望校を長空北高校から日根野谷高校に変更しないかと昨晩親に打診されたが、まだ変更したわけではなかった。よしとと親しくすると決断をして以来、志望校が同じという理由で他者と親しくなる事は、相手が男子であっても協調的に対応すべきだと考えるようにしていた。




「はじめましてだよね!」


「そうだね!支倉さん、はじめまして。磯貝です」


磯貝はそう言うと照れくさそうに笑った。


セナは、


「磯貝君は前田と同じ駅前の集団塾に通ってるんだよ。真面目なんだよ」


と言った。


磯貝は紳士的に振舞いながら、


「前田は受かる気でいるね!支倉さんは余裕でしょ!」


と少し冗談の混じった言葉を、爽やかに言う。


ハイムは自分の学年順位が1位である事を知ってるんだろうなと思いつつ、


「そんな事ないよ…」


と言った。




すると、


「北条に磯貝、おはよう!支倉さんもおはよう!」


とよしとが会話に混じって来た。




磯貝は、


「おっ!バレーボールをやりたいが為に長空北高校にした前田!」


と言う。磯貝は決して御調子者ではないのだが、冗談は好きな方だった。ただよしとは本当にバレーボール部に入りたくて長空北高校を志望したのだった。偏差値的にはハイムの親が推す日根野谷高校に挑戦しても構わないレベルなのに、都大会3回戦レベルの長空北高校男子バレー部に入ってインターハイや全国大会に行きたいと本気で思っている。




よしとは、あえてハイムの方を向いて少しカッコつけた様子で、


「変かな?俺がバレーボール選手である事が…」


と言った。




ハイムはキョトーンとして、よしとを見ると、


「でも部活動で選ぶって素敵だね!」


と言って笑った。ハイムは部活動をあまり熱心にやらなかったから、よしとのバレーボールにかける情熱には理解が及ぼないものの「きちんと志望校を選んだ」という点で、偉いなと思った。実際バレーボールと言われても、背の高い人の球技としか思えない。




磯貝は、


「僕は合唱がやりたいです」


と言った。




ハイムも、


「合唱もいいね」


と言った。ハイムは「そうだよね」と思った。皆、高校生活を謳歌する為に行きたい高校を受験する。その準備期間が今なのだ。高校には沢山の新しい仲間や友達が待っているし、いま同じ中学で同じ高校を目指す人達との関係性で悩む事も無いかなと思った。




セナは、


「部活動も盛んな高校だよね」


と嬉しそうだった。ハイムは「やはり皆気持ちが高校生活に向かっているんだな」と思って、長空北高校受験グループへの認識が追いついて来たのだった。




ハイムが自分の席に行くと、穂谷野が、


「おはよう」


と挨拶をした。




ハイムも、


「おはよう!」


と明るく挨拶をして、




「今日も晴れたね!模試の日は雨が降らないといいね!」


と笑った。当たり障りのない挨拶や言葉を投げかけて、ストンと自分の席に座る。




穂谷野は、後ろ姿になったハイムに話しかけずに、自分の友達と言葉を交わした。今度の日曜日に受ける模試は皆にとって大事なものだ。穂谷野は、勉強熱心で高いレベルの高校を目指すハイムの妨げにならないようにと思っていた。




穂谷野は友達といくらか言葉を交わすと、またハイムの方を見て、ただハイムの髪の毛が揺れる様子を見守っていた。




ハイムがふいに穂谷野の方を振り返って、


「穂谷野君は剣道部の強い高校に行くの?」


と聞いて来た。




穂谷野は、


「え?…あ…高校も剣道部入ろうかはちょっと悩んでいるよ…」


と言った。穂谷野はハイムが好きだが、あまり好きだという情熱に浸っていても、何も生み出さないとは思うのだ。住む世界が違う気はしていた。偏差値の高い高校に行くハイムと、真ん中より少し上の高校に行く穂谷野。




ハイムは、


「え~!勿体ない!穂谷野君は強そうなのに!」


と笑った。




穂谷野は悩んでしまった。たとえば「高校で三段になれたらカッコいいかな?」と言ってみたかった。




「段とか持っているの?」


「初段だよ」


「じゃあ次は二段だ!」




穂谷野は、


「剣道二段はカッコいいかな?」


と言った。あんな事を考えていたから、自然と言葉に出てしまった。穂谷野はもっと笑って、言えたらよかったのにと思った。真剣な顔で、まるでハイムに気持ちが伝わるかどうかの当落線上の感覚で言ってしまったのだった。




ハイムは、


「え?…う~ん」


と悩んで、


「穂谷野君が剣道二段だったら!」


と言った。見た目が大人しい穂谷野が剣道二段だったらカッコいいよと、思った事を言った。穂谷野は嬉しそうに「うん」と頷くと、秘かに高校でも続けようと決心した。




すると二人の心が通うような空間、二人の間の通路を、セナ達と会話を終えたよしとが横切って行った。一歩一歩無言で、ノッシノッシと歩いて行った。ハイムがチラッとよしとの方を向く。穂谷野はハイムと目を合わせたままだった。


「支倉さんは勉強が出来るから日曜日の模試も『平気』だね」


「模試?」


「僕は模試があるのが『嫌』だよ。疲れるなぁって思うよ」




ハイムは、


「そっか~!」


と言いながら椅子を前に向き直すと、


「模試が平気になるといいね」


と言って、プイッと正面を向いた。




穂谷野は「ハイムの事が好きだ」と伝えるべきではないのだと思った。この明るくて気さくな子が手に入れば良いだなんて、お門違いなのだろうと思った。前から気に入っていたハイムが、この数日で心の中で膨れ上がってしまった事を隠して学校に通わなければならない。


この日は6限目まである授業が終わると、ハイムとセナは図書室で勉強してから帰宅した。塾の無い日、家に帰ってすぐ寝てしまわないように学校に居残る習慣が出来ていた。


セナは、


「穂谷野君と仲良くなったよね。穂谷野君にも自分の志望校があるから、あんまり親しくしないほうがいいよ…」


と言う。


ハイムは、


「う~ん。優しいから大丈夫だよ…」


と言う。


セナは、


「私は担任の先生から何度か注意されたんだ。『成績の良くない人を巻き込むな』って言われて。ハイムも気を付けたほうが良いよ」


と言うのだった。ハイムは、穂谷野が模試に前向きになれないのを思い出して、


「そうだね。私も剣道やバレーボールを『やれ』って言われたら嫌だな」


と苦笑いだった。




セナは「そういう理解と解釈になるのか」と思ったが、結果オーライ、伝わったようなので善しとした。




この日結局ハイムは、親から日根野谷高校への進路変更を打診されていると打ち明ける事は出来なかったが、セナの満足気な顔を見ていると「本格的に決断するまでは言わないでおこう」と思うのだった。一緒になって悩んで貰うべきではないかもしれないと思った。




それから二日ほど経って、模試の日になった。朝は北条家の車が支倉家の家の近くまで迎えに来た。ハイムが、


「ありがとうございます。よろしくおねがいします」


と運転席の父親に言って後部座席に乗り込むと、既に奥に座っていたセナが満面の笑みを浮かべて、


「頑張ろうね!」


と言った。


車は試験会場まで走った。

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