四十三、論理くん、塀を渡る
やっとのことでお母さんに事情を話したあと、私はお母さんに固く抱きしめられた。そしてお母さんは、私の好きなハンバーグを作ってくれたけど、とても食べる気にはなれなかった。
「お姉ちゃん、お母さん、今日は何も言えない。眠れないかもしれないけど、とにかく今夜は横になりなさい。明日もまだつらかったら、学校に行かなくてもいいわ」
「もう、学校行かない…論理が学校に来ないんだったら、私ももう学校に行かない…」
私が、かすれた声でそう言ったとき、玄関のチャイムが鳴った。
「おや、こんな時間に誰だ?もう九時を回っているぞ」
そう言って、お父さんが立ち上がる。お母さんがそのあとに続いた。
「論理くん‼︎」
お母さんの、信じられない声が響いた。私は、お尻に画鋲を刺されたように跳ね上がると、前のめりに玄関へ出た。論理だ…論理がいる…!あんなにも会いたかった論理が!もう会えないと思っていた論理が!枯れた涙がまた溢れてきた。
「論理‼︎」
「文香!」
論理は叫んだ。でもその声に力はなく、疲れ切っていた。見ると、論理は玄関の扉に寄りかかって、やっとのことで立っている。顔には擦り傷があり、左足が不自然に曲がっている。そして、靴を履いていない。
「論理くん、どうしたの⁉︎何があったの⁉︎」
「いろいろ…ありまして…この度は…ご迷惑をおかけしました…」
論理は、声を絞り出して頭を下げる。
「論理くん‼︎」
お父さんが、いきなり高圧的に声を出す。
「言っておくけどね、事情がどうであれ、やっていいことといけないことが──」
「ともかく。怪我をしてまで我が家を訪問してくれた人に言う言葉じゃないわお父さん。さあ論理くんいらっしゃい。手当てするわよ」
お母さんは論理を手招きして、居間に向かった。論理は、左足を引きずりながら家に上がり、私の前に立った。
「文香…心配かけた…すまない」
「ううん、論理…会いたかった!」
私は、論理に抱きついた。論理も私の体を固く抱き返してくれる。
「初めに一言言っとく。俺は何があっても転校はしない。たとえ、あの白豚が死んでもな」
「本当⁉︎もうどこへも行かないでね!よかった、よかったぁ‼︎」
抱き合っている私たちを、お母さんが呼ぶ。
「二人とも、こっちへ来なさい。論理くんの怪我酷そうだから、早く手当てしないと駄目」
私たちは、お母さんに呼ばれるままに居間に入った。お母さんは、論理を座らせて、シャツとズボンを脱がせ、全身の状態を見ていく。胴体には異常はなかったけれど、左頬と左膝に酷い擦り傷があり、左足首も強く捻挫していた。両方の足の裏は傷だらけだった。
「論理くん、一体何があったの?話してちょうだい」
お母さんに応えて、論理は手当てをされながら、これまでの経緯を次のように語った。
お父さんに連れていかれたあと、論理は、お母さんからはもちろん、お父さんからも厳しく叱られたそうだ。お母さんは、「息子が太田表具店の顔に泥を塗った。もう、店は立ちいかない」と言って、わあわあ泣いた(論理の心配より店の心配かよクソババア)。そして、八つ当たり半分に私の家に電話をかけて、お母さんと喧嘩した。それから論理は、自分の部屋に閉じ込められて、常時お父さんかお姉さんが扉の外で見張りをし、トイレ以外外に出られなくなってしまった。この間、大人たちだけで論理の転校の話が進められて、もう学校に出すだけという段階になったところで、論理に知らされた。それが今日の夜八時頃。論理は、いても立ってもいられなくなり、とにかく私の家に行こうと思った。部屋の窓を開けると、高さ六メートルくらい、幅十五センチくらいの塀がある。論理は勇気を出して、この塀を渡った。塀の下は、論理の家の庭になっていて、庭石がごろごろある。落ちて打ち所が悪ければ、命はないだろう。論理はそれでも渡った。そのときの見張りはお父さんで、物音がしたので部屋に入ると、論理は塀の上にいた。当然論理を止めたけど、論理はニヤリと笑って「ここまでおいで」と言い捨てる。危ないバランスを保って、塀を渡りきり、論理は裸足のまま隣の家の屋根に、またその隣の家の庇に飛び移る。庇から地面までは、二メートル以上あった。とても怖かったらしいけれど、論理はそこから飛び降りた。でも飛び降りたとき、着地のしかたが悪くて、論理は足首を捻ってしまった。酷く転んでもいて、顔や膝に擦り傷ができた。激痛の中を、それでも論理は走った。もう、お父さんもお姉さんも、怒って探しに出てきている。物陰に隠れながら、二人の影をやり過ごし、論理は走った。そして一時間近くかけて、とうとう私の家にこうして来てくれた。
論理の話を聞き終えた私たちは、しばらく言葉もなかった。論理…私が泣いてばかりいたときに、論理はたった一人で監禁されて、そして、転校を免れるために命懸けで脱出して、這うようにここまで来てくれたんだね…私のために、ここまで体を張ってくれる論理が、私はどうしても好き。誰がなんと言って引き離そうとしても、私は離れない!
「論理…!」
私は、改めて論理を抱きしめた。そのうちに、お母さんが手当てを終える。
「論理くん、事情はよくわかったわ。そんな危ない目を冒してまで、自分の意思を表現して、文香のもとまで来てくれてありがとう」
お母さんは、論理を温かく見つめながらそう言ってくれた。でも、お父さんは、気難しい顔を崩さない。
「論理くん、性というものは、何があっても男が責任を持つものだ。今回の一件も、論理くんの自業自──」
「お父さん‼︎もういいじゃん!」
私は思わず叫んだ。もう、この一件が何を原因に起こったかなんて、どうでもよかった。ただ、論理が私のもとにいて生きていてくれるだけで十分だった。
「論理さん、命懸けでお姉を愛してるんだね!やっぱかっこいいや!」
正志は、憧れの視線を論理に向けた。そのときだった。ピンポーン!
「あら、また一人お客様ね、招かれざる客のご登場かしら」
招かれざる客⁉︎もしかして…!私は、論理と見つめ合ったあと、廊下越しに玄関を見た。お母さんが、玄関に出て扉を開ける。
「論理を返しなさい!今すぐ返しなさい!」
論理のお母さんが、お姉さんに抱っこされながら、そこにいた。まさか、あの動けないお母さんが直々に来るとは!挨拶もせず、いきなり喧嘩腰だ。顔つきは、エクソシストのリーガンみたい。でも、私のお母さんは、落ち着き払っている。
「あなたが論理くんのお母様でいらっしゃいますか。文香がいつもお世話になっております」
「馬鹿者っ‼︎挨拶などいらん!とにかく論理をここへ出せ!」
論理のお母さんが噛み付く。でも私のお母さんは、蔑意を隠そうともせず、応対し続ける。
「母親として不適格な人のおっしゃることは、お聞き入れいたしかねますわ」
論理のお母さんは、それを聞いて激怒した。
「たわけっ‼︎お前などに説教たれられる筋合いはないわっ‼︎」
私は、論理のお母さんが怒っているところをもう何度も見たけれど、見慣れられるものじゃない。いつでも怖い。でも、私のお母さんはまったく怯まず、背筋をピンと伸ばして、こう語った。
「私にとって文香は正志と並んで世界でいちばん大事な存在です。ならばその文香が世界でいちばん大事と思っている論理くんだって、私には世界で大事すぎる男の子です。自分のことしかわからないあなたには、こんな考えは理解できないでしょうね」
あ…これ、いつか、論理が自分のお母さんに言った言葉だ!論理のお母さんも、聞き覚えがあったのだろう、「なにをっ‼︎」と、漏らしながら、肩で息をする。
「そうか…論理がたわけた理屈を捻るようになったのは、お前が吹き込んだんだな!そんな小理屈を捻れば私が言いくるめられるとは思うなよ教員風情がっ‼︎そんな臍の緒の抜けた娘を育てているから、がさつな泥棒猫にもなるんでしょうっ‼︎」
論理のお母さんが、ドラゴンの咆哮のように、そう叫んだ。そして今度は、私のお母さんが、逆上する番だった。
「な、なに…‼︎教員風情だと…!臍の緒の抜けた娘だと…!泥棒猫だと…!さっきから腰を低くしていれば、いい気になりやがって!火葬場の行き損ないが、そんな体で、生き恥晒してるんじゃねえっ‼︎」
お母さんのこんな言葉遣い、聞いたことない…。お母さんは、そう言いながら数歩後ずさった。
「白豚がぁっ‼︎出て行きやがれぇえええええっっ‼︎」
お母さんが走り出す。そして、玄関の前で踏み切ると、両足で論理のお母さんの胸に、全力のドロップキックを見舞った。そのあまりの勢いに、論理のお母さんたちは、一気に外まで蹴り飛ばされる。私は、お母さんの豹変ぶりに、開いた口が塞がらなかった。
「舐めんじゃねえっ‼︎私だって、覚悟決めるときは決めるんだよっ‼︎」
お母さんはそう怒鳴り、荒々しく玄関の扉を閉めた。こんなお母さん…お母さんじゃないよー。
このあと論理は、しばらく私の家で暮らすことになった。足の裏と足首を酷くやられているので、まだまともには歩けない。秀馬くんのお父さんに頼んで診てもらったところ、全治三週間の深手ということだった。秀馬くんのお父さんに松葉杖を貸してもらい、木曜日に論理は、三日ぶりに登校した。痛ましい姿になった論理に、「また喧嘩して負けたのか」と茶化す人もいたけれど、みんな心配をしてくれた。私が合唱部で歌っているときは、立っているのがつらいだろうに、やっぱり音楽室の真下で、じっと立ったまま、私の歌を聞いてくれた。こうして、数日が経った。
夜、みんなで夕飯を食べ終わった辺りのとき、いきなり電話が鳴る。
「もしもし、池田です」
受話器の向こうから怒鳴り声。お母さんは、うんざりした表情で、何も言わないまま、論理に受話器を渡した。論理は、ふと考える様子だったけれど、スピーカーホンのスイッチを入れて、受話器を食卓の上に置いた。
「はい」
『論理くん‼︎あんた何をしているの!聞いたよ、塀を渡って、屋根伝いに逃げたんだって⁉︎あんな塀から落ちたら、庭石で体を打って死んじゃうでしょ!お母さん、そんなことになったら…』
「本題を言えよ。前置きはもういい」
『だから死んじゃったらどうするの⁉︎』
「文香と会えないようにさせられるなら、生きていても意味はない」
論理は膝の上で両手の拳を固く握り締めながら、きっぱりとそう言った。論理…私のためにそこまで思い詰めてくれるの?
『なにをっ‼︎まだあの泥棒娘のことをあれこれ言うの⁉︎あの娘と付き合ったばっかりに、あんたは変わって──』
「そうだ、俺は変わった。あんたの言うことを、震えながら聞いている俺じゃない」
『やかましい‼︎あんたはね、私の言うことを一生聞いていればいいの!私はいつも正しいんだから!わかったかぁっっ‼︎!』
私は、その論理のお母さんの言葉に、映画オーメンの、カメラマンの首がすっ飛ぶシーンを初めて見たときのような衝撃を受けた。私のお母さんが、何か言おうと、身を乗り出そうとする。それを論理は、手を上げて制止した。
「そういうあんたの言葉に、怖がりながら従っていた時期もあったな。でもそんな時期も終わりだ」
『そう。何が何でもそう言うの。じゃあいいわ、お母さん、これから死ぬから‼︎』
えっ!なに言ってんのこの人!論理が言うことを聞かないと、そんなことを言うの?でも、私がお母さんから同じことを言われたら泣き叫ぶよ…。だけど論理は、表情一つ変えずに受話器に向かっている。
「とにかく、俺に戻って来いと言うのなら、文香との関係は続けて、月影中在学も続ける。それが条件だ」
『なんだって‼︎』
論理のお母さんは、しばし言葉をなくした。論理も何も言わず、受話器を睨んでいる。恐ろしい沈黙が居間を満たした。
『……そう』
論理のお母さんが、沈黙を破った。
『どうしてもお母さんの言うことを聞かないのね。それならお母さん、そんな息子はいらない!今から興良の火葬場に行くから‼︎いいわね‼︎』
お母さんにそこまで言われた論理だけど、表情は、微かに悲しげな顔をしたまま動かない。やがて論理は、唇をすぼめて、ふぅ、とため息をついた。
「俺が言うことを聞こうが聞くまいが俺の勝手、あんたが死ぬのも生きるのもあんたの勝手だろ」
『な…なにっ‼︎あんた今、なんて言ったの‼︎息子の分際で、親に、死ぬも生きるも勝手だと⁉︎あんたね…!あんたね…‼︎』
『もしもし』
いきなり、電話口の声が変わった。論理のお父さんだ。
「あ、親父」
『論理、お前もとうとう、やるところまでやったな。二階から飛び降りて、裸足でそっちまで行ったのなら、ただでは済むまい。具合はどうなんだ』
「擦り傷が二ヶ所。足の裏は傷んでいる。左足を捻挫した。今は、文香の家の人たちによくしてもらっている」
『そうか。お前の反抗も命がけだな』
お父さんは、少し呆れたような声でそう言った。
「…………………」
『論理、お前の意思表示がそこまでのものだというのなら、こちらとしても聞き入れないでもいられない。文香さんとのことも許すし、転校のことも白紙に戻す。だからとりあえずこっちに帰れ。いつまでも池田さんのほうに迷惑をかけるわけにもいかんだろ』
「…………わかった」
通話は、それで切れた。
「論理…大丈夫なの?」
論理が家に帰っても大丈夫なのか心配に思った。
「心配ない。もし大丈夫じゃなかったら、今度は別の窓から飛び降りればいいだけだ」
「またそんなことを言って…論理くん、あなたはもう、私たちの家族同然なんだから、無茶をして心配をかけないでね」
お母さんが、本当に心配そうに論理に声をかける。論理は、微笑んでお母さんに応えた。
「大丈夫です。父が、ああ言っているのですから、恐らく信用できると思います。もし、母辺りがなんらかの馬鹿な画策をするのなら、こちらも手を尽くしてそこから逃れ、またここに帰ってきます」
論理の言葉には、私を信用させる力があった。私は論理と一緒にいられる、そのことだけを思って過ごそうと心に決めた。そのあと論理は、お母さんの車で送ってもらった。論理の家の前に車を停める。論理は、車から降りた。
「文香、今日はありがとう。いっぱい苦しい思いをさせてしまってごめん」
「ううん、論理も苦しんだよね。また明日、学校で会おうね」
「文香、愛してるよ」
「愛してるよ」
「大好きだよ」
「大好きだよ」
「ずっと一緒だよ」
「ずっと一緒だよ」
熱く言いあったあと、論理は、家の中へと消えた。論理、このあと大丈夫かな…でもまた明日、学校で会えるよね…。私は、そう強く信じた。
次の日、論理はちゃんと公園に来てくれて、一緒に学校へ行くことができた。お父さんの言う通り、私たちの交際も認めてくれて、転校の話もなくなった。でも、今までやっていた日曜日ごとの公園でのえっちは、もうしないことに決めた。論理の捻挫は、秀馬くんのお父さんが言った通り、治るまで三週間はかかった。論理の家庭環境は変わらないけれど、一応問題は解決をして、平穏な日々が戻ってきた。
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