四十、論理くん、私のお弁当を口にする

明日は体育祭だ。これまで練習してきた成果を存分に発揮して、楽しい体育祭になればいいな。

「私、明日…、義久に愛情たっぷりの愛妻弁当を作ってこようかな〜っね!義久!ってちょっと!聞いてるの⁉︎」

「んあ?昨夜ゲームやり込んでてあまり寝てねーからねみーんだよー、なんだって?優衣、聞いてなかった」

「もう!相変わらずなんだから!だから、その…愛妻弁当をね…」

休み時間、秀馬くんも入れた五人で集まって、明日の体育祭の話をしていた。

「えっ…優衣弁当作るのかよ…あの地獄を俺はまた味わうのか…」

「なによ義久その言い方!」

二人はいつもどおり仲良く喧嘩していた。それにしても、優衣って料理下手なのかな?

「愛妻弁当か、向坂も気合が入ってるな。俺も、誰かに愛妻弁当を作ってもらいたいものだな」

チラッと、秀馬くんが私に微笑みかける。秀馬くんったら…うう…これは作ったほうがいいのかな…。でも、私の隣で論理が体を固くする。

「!」

「冗談だ。真に受けるな、論理」

そういえば、論理にお弁当って作ったことなかったな…。

「ねぇ…論理…、論理も、私がお弁当作ったら、食べてくれるかな…」

「うん、もちろんだよ」

論理は、嬉しそうな顔を見せてくれた。よーし!これは私がんばっちゃうぞ!


その夜、私は、論理へのお弁当作りに専念していた。

「ねぇ〜お母さん、お弁当って何入れればいいと思う?」

「え?お姉ちゃん、明日のお弁当自分で作ってくれるの?お母さん助かるわぁ」

「自分のも作るけど…論理にお弁当作ってあげようかなって思って…、ねぇお母さん、論理の好きな食べ物ってなんだと思う?」

えー?と、お母さんが首をひねる。

「わからないけど……、家には今豚肉と卵と、あと野菜しかないから、生姜焼きと卵焼きでも作ったら?」

「えーっ、お母さん、もっと材料買い揃えておいてよー」

私は、しかたなく生姜焼きと卵焼きを作ることにした。これが論理の好きな食べ物でありますように。まずは、卵焼きを作ることにした。卵を割る。殻が入らないように注意しながら。調味料は…まずは、塩胡椒を振り入れる。

「あっ‼︎」

入れすぎた〜…どうしよう…まぁ、よく混ぜておけばわからないよね、ははは……。次は、めんつゆを少し入れる。

「あっ‼︎」

また入れすぎた〜…まあこれもよく混ぜれば大丈夫だよね…。そして、よく混ぜる。さぁ、いよいよ次はこれを焼く!ドキドキ。うまく焼けるかなぁ。火をつけて、フライパンに油を入れて、フライパンを温めたあと、卵を流し入れる。ジューっという美味しそうな音がする。うまく巻ければいいんだけど大丈夫かな…いや、ここは愛のパワーでなんとかするぞ!卵が固まってきた。よーし、巻くぞー!奥から巻き始める。うんうん、順調。愛のパワーはすごい!そして、最後の一巻き。これがなかなか難しい。

「んっしょっ!」

よし!巻けた!あとは、少し温めて、六等分に分けて、完成!

「やったあ!お母さん見て見て!上手にできたよ!」

「あら〜ほんと上手じゃない。お姉ちゃん卵焼きは昔から自分で作ってたもんね。どれどれ、ひとつ味見していい?」

お母さんは、卵焼きの一切れを口にした。

「んんっ⁉︎……お姉ちゃん、これ、ちょっとしょっぱいんじゃないの?」

「あ…やっぱり?さっき、塩胡椒とめんつゆを入れすぎちゃった。よくかき混ぜたからごまかせると思ったんだけど…」

「これ、作り直した方がいいんじゃない?……でも、もう卵は無いのよねー」

「大丈夫!愛のパワーでなんとかなるもん!」

私はそのあと、愛のパワーで生姜焼きもなんとか作った。生姜焼きも、調味料を入れすぎてしまい、結構濃い味になってしまった。論理が、濃い味が好きなことを祈って、お弁当箱の蓋を閉めた。


体育祭当日。天気は、雲ひとつない体育祭日和。チームは、赤が、私と論理と優衣。白が、沢田くんと秀馬くん。去年は白が勝った。今年は赤が勝つといいなぁ。


午前九時に、校長先生の挨拶で、体育祭が始まった。最初の種目は五十メートル走。私は、この五十メートル走が大っ嫌いで、十二秒がどうしても切れない。はぁ…嫌だなぁ…。最初に走るのは女子から。先頭の並びには、優衣がいた。

「位置について、よーい」

パン‼︎ピストルが響いて、優衣が走り出した。速い。他の子たちにぐんぐん差をつけていく。そのまま逃げ切って、楽勝で一位。一位の旗の下に、優衣は導かれた。いいなぁ…優衣は足が速くて…。私は、思わず六位の旗を見てしまう。それから、順々にみんな走り、とうとう私の番が来た。あーお腹が痛い…帰りたい…論理、私のこと見てくれてるかな…前に、私が走ってるときの足が、一生懸命動いていて、それが好きって言ってくれてたから、順位は関係ない、論理のために、がんばって走ろう!

「位置について」

私は、走り出す姿勢を取る。心臓が、先にこのコースを走ってるみたいに動く。

「よーい」

パン‼︎ピストルが鳴った。地面を蹴る。秋風を切って、私は馬のように疾走した。前にニンジンが見える!BGMの『天国と地獄』が、私を奮い立たせる!周りの歓声が、私の闘志を湧き立てる!でも、他に走っている子が次々と私を抜いていく。先の五人の影がどんどん遠くなる。私、馬じゃなかったの?そして…ゴールすると、前にはニンジンじゃなくて、六の旗が見えていた。

「おつかれ。文香の足、必死に地面を蹴っていて、かわいかったよ」

論理が、私を労ってくれる。

「論理…そんなこと言ってくれて嬉しいけど…私六位だったよ…」

「成績は関係ない。俺は、文香の足に蹴り飛ばされる砂つぶになってみたかった」

「そう言ってくれると、走った甲斐があったよ」

私は、ニンジンのように顔を赤らめた。

「次は男子でしょ?論理、がんばってね」

「ああ、そうか…俺も走るんだったな…」

論理は、顔をしかめて立ち上がると、出場者の並びの中に入っていった。


男子の五十メートル走が始まった。論理も足が遅いので、この種目は嫌がっている。その論理の順番が回って来た。

「位置について、よーい」

パン‼︎ピストルが鳴って、みんな走り出したけど、いつも通り論理は出遅れてしまった。加えて、やっぱりどことなくフォームがおかしい。他の五人にかわいそうなくらい差をつけられていく。論理、がんばって〜!

「論理、すっごい遅いね。他の五人がゴールしてるのに、まだあんなところにいる。だっさぁ」

「優衣!そんなこと言わないで!論理だって一生懸命なんだから!」

五人に大差をつけられて、論理はようやくゴールした。そして当然その前には、六位の旗。

「論理よくがんばったねぇ…。あ、優衣、沢田くんはいつ走るんだっけ?」

「最後だよ。坂口くんと一緒に走る」

沢田くんも速いけど、秀馬くんも速い。どっちが勝つんだろう…。どんどんみんな走っていき、最後の列になった。そこには、沢田くんと秀馬くんがいた。沢田くんと秀馬くんは、顔を見合わせて、お互いニヤリと笑った。

「位置について、よーい」

パン‼︎ピストルが響く。二人が走り出した。他の四人がぐんぐん離される。二人はぴったり並走して、お互いに一歩も譲らない。

「義久…」

私の隣で、優衣が胸元で手を組みながら見つめている。審判の先生が、二人を見て、腰を落とし、ゴールラインをじっと見つめ始めた。そのゴールラインに、二人が迫っていく。あと、三十メートル…二十メートル…十メートル…そして……ゴール。私の目からは、どちらが勝ったかわからない。でも、審判の先生は、秀馬くんを一位の旗に導いた。

「ちっ!なんなの!今の絶対義久が勝ってたじゃない!誤審よ誤審!」

でも、沢田くんと秀馬くんは、そのときもガッチリと握手をして、お互いに抱き合っていた。


次は、赤白対抗の綱引き。三回戦して、お互いに一勝し合って、最後に私たち赤が勝った。


次は、騎馬戦。女子が、まず一回戦。男子が二回戦。そして女子が三回戦を行って、勝負をつける。私の騎馬は、上が沙希、下が、先頭は優衣、右は私、左は花菜。

「よーし!沙希!最低、五個は帽子取りなさい!私たちが下で支えるから!」

優衣は、怖がっている沙希に向かって、檄を飛ばした。

「えぇ〜、私、そんなのできないよぉ…。高所恐怖症だって言ったじゃん〜」

「沙希!ノルマたち成しなきゃ、明日のケーキバイキング、あんたの奢りにするからね!」

花菜が、いじわるな気合を入れる。

「えぇ〜、そんなぁ、ひどいよ花菜ぁ〜」

「沙希、下は絶対見ないで、前の人の帽子だけを見るといいよ。そうすれば、怖さを感じる前に終わってる。あ、もうすぐ始まるよ」

私は、沙希を励ました。先生のホイッスルが鳴って、私たちは、全員位置についた。正面を見る。あれ、あの人…佐伯さん?正面には、騎馬の先頭に佐伯さんがいた。両隣には、私を殴った、小林さんと、中小路さん、上には、安田さんがいる。向こうも、私を見ている。そして、意味ありげに、四人で何かひそひそと話をしている。

「位置について、よーい」

パン‼︎ピストルの音と共に、全騎馬が一斉に相手に向かっていく。そして、気がつくと、佐伯さんたちの騎馬が、猛烈な速度で、私たちに向かって来た。

「佐伯っ‼︎」

優衣が、絶叫する。

「池田っ‼︎いくぞぉ‼︎」

幼い声を張り上げて、佐伯さんが吠える。え、なに?私は驚いて、思わず足がよろめいてしまった。そのせいで、騎馬が前のめりになってしまう。

「きゃああああああっ‼︎」

沙希が叫んだ瞬間、佐伯さんたちの騎馬が、目の前に迫る。

「うぉりゃあああああああっっ‼︎」

佐伯さんの、裂帛の気合い。それと共に、信じられない衝撃が、私たちの騎馬を襲う。次の瞬間には、私たちは、地面に崩折れていた。

「ちょろいねっ!」

潰された私たちをあとにして、佐伯さんたちは、戦場に消えていった。

「痛ったぁ…なにやってんの、ぶん!」

優衣に叱られて、私はうなだれた。

「ごめん、みんな…。沙希、大丈夫?」

沙希は、地面に倒れて気絶していた。

「もう、なんなのあいつら!ただのゲームだよ⁉︎なのに思いっきり激突しやがって!」

花菜が怒りを露わにする。

「しーらない。なんか個人的な恨みでもあるんじゃないのー」

優衣はそう言って、私を睨む。

「えぇ…そんなこと言われてもぉ…」

私がそう言ったとき、先生方が駆けつけて来た。

「おい、お前たち大丈夫か?危ないから、早く自陣に戻りなさい」

先生方は、まだ正気を取り戻していない沙希を抱きかかえて、私たちを赤の陣地に連れ戻してくれた。佐伯さんたちの怪しげな活躍もあって、一回戦は、白が勝った。二回戦の男子戦は、赤の勝ち。意外にも、峰岸くんが白の帽子を十個も奪う大活躍で、勝利に貢献した。そして勝負は、三回戦の女子戦にもつれ込む。涙目の沙希をなだめながら騎馬を作り、自陣で待機する。私たちの正面には、またしても佐伯さんたちがいた。

「いい、沙希、こうなったらもう勝負は関係ない。佐伯の騎馬の帽子を奪い取れば、私たちもうどうなったっていい」

「そう、優衣の言う通り。あんなことをされて、おとなしくしていられないよ!やつらとぶつかり合って、たとえどうし討ちになっても、構わないから!」

「優衣〜花菜〜無理なこと言わないでよぉ〜さっきは怖かったんだからぁ…」

「ま、まあ、今度は、私は怯まないから、これはあくまでもゲームだから、みんなで楽しも!」

私がそう言っても、優衣は険しい声で答える。

「こちらがゲームとしてやるのは勝手だけど、あちらさんは少なくともゲームだとは思ってない様子だよ」

佐伯さんたちの騎馬を見る。魔のオーラが出ている…。このオーラは、あの恐怖の塔で、踏ん反り返っている鬼ババのオーラに似ている…。

「位置について、よーい」

パン‼︎ピストルに合わせて、私たちは、今度はまっすぐ、全速力で佐伯さんたちに向かっていった。佐伯さんたちも、一目散にこっちに向かってくる。お互いの距離が、見る間に縮まった。

「池田ぁぁっっ‼︎」

佐伯さんの咆哮。

「佐伯さぁぁん‼︎」

思い切り声を出したつもりだったけど、裏返ってしまった。

「ぶっ‼︎」

優衣が思わず吹き出してしまう。それをきっかけに、私たちの足並みはまた乱れ、そこに、佐伯さんたちの体当たりが炸裂した。あとは、前回と同じ。

「百年早いわっ‼︎」

佐伯さんは、そう吐き捨てて、戦場に消えていった。沙希は、相変わらず気絶していた。

「あっははははははっ!ごめんごめん、責任の半分はあるわ。全部とは言わないよ」

優衣はそう言って、私を睨んだ。

「えーっ!なんで優衣笑ったの!」

「笑わんほうがどうかしてるって、何あのひ弱な雄叫び。声裏返ってるし、あはははっ」

「ぶんちゃん大ブレーキ」

花菜はそう言って、悔しそうな顔で私を睨む。

「ううう……ごめん」

三回戦も、佐伯さんたちの邪悪な活躍で、白が勝った。合計で、一勝二敗となり、赤は負けてしまった。


午前の部の最後は、私たち二年生のソーラン節だった。一生懸命練習した甲斐があって、特にどこも間違えずに踊り終えることができた。


次は、いよいよお昼ご飯の時間だ。論理、私のお弁当美味しく食べてくれるといいな…。優衣と私は、論理と沢田くんのもとへ向かった。

「義久、お疲れ!ソーラン節、うまく踊れた?」

「おう、優衣、ああ、バッチリだったぜ。優衣はどうだった?」

「もっちろん!完璧だったわよ!ね、ぶんちゃん!」

「うん、論理は踊れた?」

「俺はいくつか間違えたなぁ」

ソーラン節の話題で盛り上がったあと、私は論理にお弁当のことを話した。

「論理、私お弁当作ってきたよ。ちょっと味が濃いかもしれないけど、ごめんね」

「濃い味だったら俺好みだよ、ありがとう。文香の手作りお弁当食べれるなんて、感激だぞ」

よかったぁ、論理、濃い味好きだったんだ。

「義久!私もお弁当作ってきたから、残さず食べてよね!私の愛情がいっぱい詰まってるんだから!」

「ああ…がんばるよ…」

沢田くんは、酷い飼い主に飼われた子犬のような表情を見せた。


お昼ご飯を食べる前に、優衣と私は、トイレへと向かった。

「あー、お腹すいたぁ、ねぇぶんちゃん、論理への愛妻弁当の出来栄えはどうよ?」

「うーん、ちょっとしょっぱくしすぎちゃったかな…。でも、論理に初めて作るお弁当だし、愛情たっぷりだから、おいしく食べてもらえればいいなぁ」

論理のおいしそうな笑顔が、目に浮かぶ。

「あ、初めてなんだ。私は義久に何度かお弁当作ったことあるよ」

「そっかぁ、沢田くん、優衣のお弁当おいしく食べてくれるんだろうね」

「も、もちろんよ!毎回涙を流しながら食べてくれるわよ!」

優衣の言い方が少し気になりつつも、私は、トイレの扉を開けた。トイレの個室は全部で四つあり、一つが塞がっていた。用を足してから外に出る。洗面台で手を洗っていると、塞がっていたトイレの個室の扉が開き、中から、佐伯さんが出てきた。手には、ビニール袋を持っている。

「池田っ!」

「あ、佐伯さん…」

洗面台の鏡ごしに、佐伯さんと目が合った。

「ふぅ〜すっきりすっきり〜って、佐伯!」

優衣もトイレの個室から出てきて、佐伯さんと睨み合う。

「池田…向坂…てめぇら、こんなところでなにやってんだよ!」

いきなり喧嘩腰の佐伯さん。こういうときの佐伯さん、アニメ声と台詞が本当にミスマッチになる。心中ちょっと笑ってしまうほどだ。

「なにって…トイレしに来たに決まってんじゃない!なに言ってんのあんた!」

優衣も喧嘩を買って、佐伯さんに噛み付く。

「あ、あぁ…そうか…それなら別にいいが…」

「っていうかあんたね!さっきの騎馬戦でよくもまあやってくれたじゃない!さっすが凶暴女!だーから誰かさんに振られるんじゃないのぉ?」

優衣が、冷ややかな目で佐伯さんを煽る。煽られた佐伯さんは、優衣をキッと睨みつけた。

「うるせぇな!外野がうちゃうちゃ言うんじゃねえ!」

佐伯さんは、持っていたビニール袋を優衣に投げつけた。

「痛っ!なにすんだこのアマ!って、なにこれ?」

「あっ…!」

ビニール袋が逆さまになって、中からおにぎりやサンドイッチのゴミが、はらはらと出てきた。

「なにこれ。………はっはーん、なるほど、わかったぞぉ」

優衣は、意地悪な視線を佐伯さんに送った。佐伯さんは、動揺したように動かない。

「佐伯ぃ、あんた、今、ここで、このトイレで、このおにぎりとサンドイッチを食べてたんでしょー?」

え?佐伯さん、ほんとにそうなの?どうしてこんなところで食べてるの?だってここ、トイレだよ?

「くっ………!」

佐伯さんは、悔しそうにうつむいている。それに優衣は追い打ちをかける。

「しかもこのゴミ、スーパーのおにぎりやサンドイッチのゴミじゃん。ねぇ、あんた、なんでお弁当じゃないの?」

「うるせぇ‼︎そんなのてめぇらに関係ねぇだろ‼︎」

「もしかして、あんたの親、お弁当作ってくれないわけぇ?今日あんたの親来てる?私が一発言ってあげようかねぇ、親も親なら子も子だねぇってさ!」

優衣が、高らかにそう言い放つと、佐伯さんはうつむいたまま黙ってしまった。

「ちょっと優衣!言い過ぎだよ!」

「はぁ?こんなの佐伯には屁でもないでしょ?それとも何?結構こたえちゃったぁ?」

佐伯さんの顔をのぞき込もうとする優衣を、私は止めた。

「…………………」

佐伯さんは、何も言わない。でも、長い沈黙のあと、佐伯さんは顔を上げた。私はゾッとした。それほど感情の無い顔だった。

「向坂の言う通りだよ。親は来てない。来て欲しくもない」

佐伯さんは、壊れかけたコンピューターのような声でそう言うと、優衣の足元にあるゴミをビニール袋にしまい、トイレから出て行ってしまった。

「なにあいつ…気味悪いわ…」

優衣と私は、佐伯さんの奇妙な変貌に、少しの間その場を動けなかった。


お昼ご飯は、論理、優衣、沢田くん、秀馬くん、と、秀馬くんと仲のいい、小野くんと一緒にご飯を食べることになった。みんながお弁当を広げ終わると、小野くんが、気の毒そうな表情を浮かべた。

「おい、秀馬、いいのかよ…。池田が論理にお弁当作ってきてるぞ」

小野くんにそう言われた秀馬くんは、小野くんを優しげに見つめた。

「気にするな。俺もいい加減、諦めないとな」

そう言って秀馬くんは、私たちを同じ目で見つめる。

「俺にとって、論理だって大切な友だちだ。こうやって、文香たちに仲良くしてもらえてるだけで、俺はありがたいんだ」

秀馬くん…ありがとう…。

「秀馬、すまない。お前の好意にあずからせてもらうよ」

論理がそう言うと、秀馬くんは、ニッコリ笑った。

「じゃあ、みんなで食べようか、いただきまーす」

私の掛け声で、みんなはいただきますをした。

「はい、論理、お弁当。口に合うかな…」

私は論理にお弁当をすすめた。隣では優衣が、大きなお弁当箱を沢田くんに手渡している。

「ありがとう。濃い味なんだろ?俺にぴったりだ」

そう言って、論理は卵焼きを一口頬張った。論理…どうかな…おいしいって言ってくれるかな…。私は、ドキドキしながら論理の評価を待つ。

「おいしい!さすが文香!俺の好みをよくわかっている!」

やったあ!おいしいって言ってくれた!

「ほんと?ほんとにおいしい?嬉しいな…。お母さんにはしょっぱいって言われちゃったんだけど…」

「いやいや、この塩胡椒の効き加減が、俺にはすごくおいしい。次は生姜焼きいくぞ」

論理は、生姜焼きをパクついた。

「どうかな…これも、ちょっとしょっぱくしちゃったんだけど…」

「いや、これくらいが丁度いい。醤油がよく効いていると思う。それに肉も、これくらい脂身がある方がいい」

「じゃあ…おいしい?」

「すごくおいしい!文香ありがとう!」

論理は、弾けるような笑顔とともに、そう言ってくれた。

「嬉しい…私、論理のお嫁さんになったら、毎日こんな料理作っちゃうよ!」

「そうしてくれるなら、こちらから頭を下げてお願いしたいくらいだ」

論理との結婚生活を想像する。毎日一緒にいられて、毎日一緒に寝られて、毎日一緒にご飯を食べれる。そんなの、幸せすぎるよ〜!

「義久!もうお腹いっぱいなの⁉︎まだたくさん残ってるんだけど!」

隣から、優衣の声が聞こえてきた。見てみると、沢田くんが優衣のお弁当を食べていた。でも、沢田くんの顔色がよくない。

「いや、まだ食べるぞ、うん、食べる食べる…」

優衣が作ってきたお弁当は、とても量があって豪華で、とても美味しそうだ。

「おい、沢田、どうした?顔色が悪いぞ」

「いや、論理、どうもしてない。あーおいしいなぁ〜」

心なしか沢田くんは、優衣のお弁当をかきこんでいるような様子だった。

「あっ!義久酷い!もっと味わって食べてよ〜」

「あ、ああ、わかったわかった…ふう…」

沢田くん、一体どうしたんだろう…なんだかつらそう。

「向坂、ずいぶん豪華なお弁当だな。でもそんな量、沢田一人じゃ食べきれないだろ。俺たちにも少し分けてくれないか?」

秀馬くんが、優衣に声をかけた。

「うん、まあそうよね、ちょっと作りすぎちゃった。みんな、私のお弁当美味しく食べて食べて!」

みんなが、優衣のお弁当に手を伸ばす。私は、卵焼きを食べてみた。

「うぐっ⁉︎」

な、なにこの味…⁉︎深海魚みたいな味がする…。みんなを見ると、私と同じように表情を凍らせて固まっている。

「ん?みんなどーしたの?」

「優衣…これ、私が食べた卵焼き、どうやって味付けしたの…?」

「え?えっとーどうだったっけなー、確か…お塩がなかったから、同じ白い物だからいいと思って、味の素使ったの。お塩は小さじ一杯だったんだけど、どうせだから、味の素大さじ三杯入れた。だってほら、味の素使うとお料理美味しくなるじゃない?」

な、なに言ってんの優衣ー!何事にも適量っていうもんがあるんだよ⁉︎

「じゃあ…俺が食べた、このブリの煮付けは?」

小野くんが、震える声で尋ねる。

「あー、それはね、普通お醤油で煮るもんだけど、ちょっと一味アレンジしようと思って、ウスターソースで煮たよ」

「ハンバーグは…ど、どう作ったんだ?」

秀馬くんが、珍しくおどおどと尋ねる。

「ハンバーグは普通合挽肉なんだけど、昨日スーパーに行ったら売ってなかったの。それで、家に丁度一週間前の豚挽肉が眠ってたから、それ使って作った。たまねぎ買い忘れちゃったから、家にあった長ネギでもいいかと思って入れて、卵と、パン粉入れて、味付けは、ちょっといいかなと思ってオイスターソースたっぷり使ったよ」

「お、俺…ちょっとトイレ行ってくる…」

秀馬くんは顔を引きつらせてそう言うと、お腹を押さえながらトイレへ向かっていった。

「ねえ?みんなどーしたの?さっきから変だよ?」

さっきから沢田くんがつらそうだったのは、優衣のお弁当のせいだったんだ!沢田くんのためにも、優衣のためにも、これは私がきちんと言わないと!

「優衣…ちゃんとレシピ通り作らなくちゃ駄目だよ。はっきり言っちゃうけど…まずいよ」

よし!心苦しかったけどきちんと言ったぞ!ごめんね優衣!

「えっ!」

優衣は、ガーン!と、衝撃を受けた表情を見せた。

「えっ!そ、そうなの⁉︎そうなの義久⁉︎私のお弁当まずかった…?」

「いや、お、俺は…おいしいと…お、思う…」

沢田くん…目の焦点が合ってないよ…。でも、沢田くんの優しさなんだね。

「みんな!みんなはまずかった?私の…お弁当…」

みんなは、優衣の問いかけに無言で答えた。

「そっか…まずいんだ…私のお弁当…ぶんちゃんありがとう…今度からはちゃんとレシピ通り作るよ…」

優衣は、しゅんと落ち込んでしまった様子。そこに、沢田くんがおもむろに口を開く。

「いや、俺は、優衣の作ってくれたお弁当がたとえまずくても、優衣が作ってくれたってだけで嬉しいぜ。優衣のお弁当は、世界にひとつしか無いんだからな」

「義久ぁ…」

「だから優衣、また作ってくれよな!」

優衣のお弁当事件はあったけれど、みんなで楽しいお昼にできてよかった。論理も、私のお弁当おいしいって食べてくれたし、よかった。ありがとう、論理。そのあと、秀馬くんがトイレから帰ってきたとき、小野くんが、気がかりそうに話し出した。

「そう言えば小耳に挟んだんだけど、浦野先輩たちが他の学校の仲間を集めているらしいぜ。何かやるつもりなんだろうか?」

浦野先輩たちといえば、前に私たちを襲ってきた不良だ。あのときは、秀馬くんが助けてくれたけれど…。

「気にする必要はない。俺たちには関係ないことだろう」

秀馬くんはそう言うけれど、私は、少し心配だった。また襲われたりしたら、今度はやられちゃうかも…。隣の論理を見ると、私と同じように危惧している様子だった。

「論理、文香、心配するな」

秀馬くんは、憂いを晴らすような笑顔でそう言うと、右手を出し、拳を作って親指を立てた。それに引かれて、私と論理も、同じポーズを作る。そうすると、なんだか勇気が湧いてくるような気がした。


お昼の時間が終わり、借り物競走が始まった。初めは男子で、論理、沢田くん、秀馬くんの順で走る。

「位置について、よーい」

ピストルが鳴り、まず論理がいる列が走り出した。トラックを半周して、論理は、くじのある机の上にやってきた。一枚取り、中を見る。すぐにわかった様子で、論理は優衣のもとに直行してきた。

「なんで私連れて行くのよ!なんて書いてあったの⁉︎」

論理は、黙ってくじの紙を優衣に見せた。優衣はがっくり項垂れて、何も言わずに論理に付いていった。なんて書いてあったんだろう?そのままゴールし、優衣は解放されて帰ってきた。

「優衣、なんて書いてあったの?」

「……料理の下手そうな人」

なるほど…これはしかたないよね…。

「位置について、よーい」

次の列にいたのは沢田くんだ。ピストルに合わせて、沢田くんが走り出し、トラックを半周する。くじのある机に、一番乗りで着いた。沢田くんはくじを開くと、すぐに、またもや優衣のところに直行した。

「もー!また私?今度はなんなのよ⁉︎」

沢田くんも、黙って優衣にくじを見せる。すると優衣は、照れた笑顔を見せて、沢田くんと手を繋いで走っていった。今度はなんて書いてあったんだろう?帰ってきた優衣に聞いてみる。

「優衣、今度はなんて?」

すると優衣は、ふふふ、と笑った。

「『歌の上手そうな人』だってさ。いいんかね、部長のぶんちゃんじゃなくて、私なんかで」

なるほど…これもしかたないよね!沢田くんにとってみたら、優衣が世界で一番歌上手いんだろうね。微笑ましいな。

「位置について、よーい」

ピストルの音で、次は秀馬くんの列が走り出した。トラックを半周して、秀馬くんは真っ先にくじの机にやってきた。くじを開く。これもすぐに、今度は、私のほうに向かってきた。

「文香!行くぞ!」

秀馬くんは、息を弾ませながら私に右手を差し出す。

「えっ、えっ、なんて書いてあるの?」

秀馬くんは、左手に持っているくじを、私に見せた。

「『好きな人』だ」

ドッキン!秀馬くん…こんなところで…いいのかな、付いて行って…。論理を見ると、腕組みをしながら、またこいつは…というような顔で睨んでいる。どうしよう…。

「文香!早く!時間がない!」

秀馬くんの右手は依然として私の目の前だ。思わず手を取る。論理、ごめん!背中に論理の視線を感じながら、私たちは手を繋いで走り出した。そして、ゴール。解放されて戻ってくると、論理が、やれやれというような表情で私を迎えた。

「『好きな人』か。俺もまだまだ枕を高くして寝られないな」

「大丈夫だよ。私は論理だけのものだよ」

「まあ、そうであってほしいよ」

男子が全員走り終わり、次は女子の番になった。最初に走るのは、私の列だ。私は、位置についた。

「位置について、よーい」

ピストルが鳴り、私は走りだす。遅れをとって、何番目かでくじの机にやってきた。くじを取って開くと、そこには、『医者の子ども』と書いてある。ラッキー!これは簡単だ!でも、また秀馬くんと走ることになっちゃう…論理、ごめん!私は、秀馬くんのもとへ走った。

「秀馬くん!一緒に来て!」

私は、息の弾んだ声でそう言うと、秀馬くんは目を丸くした。

「え、俺か?なんて書いてある」

「『医者の子ども』だって!」

私は、秀馬くんを連れて走り出した。他の人たちはお題が難しかったみたいで、みんな一生懸命探している。その間を縫って、私は一番にゴールした。やったあ!

「位置について、よーい」

四番目の列には、優衣が登場した。ピストルの音とともに、優衣が走りだす。くじの机にたどり着き、くじを開けた。優衣は、真っ直ぐに論理のところにやってくる。

「『国語の得意な人』あんたでしょ、論理!来なさい!」

「お、おう」

優衣は、論理の手をとって走り出した。論理と優衣が手を繋いでる…!ちょっとジェラシー。そして、優衣も一位でゴール。そのあと、女子が全員走り終え、借り物競走は幕を閉じた。


三年生の組体操が終わった。素晴らしい演技だった。来年私たちが組体操をするときも、がんばろうと思った。最後の種目はリレーだ。このリレーで、赤白どちらが勝つかが決まる。今のところ、赤組が六〇点、白組が五二点で、赤組が優勢だ。このまま赤組が勝ち進んでくれないかな。リレーには、沢田くんと秀馬くんが出る。二人とも速いから、もしかしたら白組が勝っちゃうかも。でも、赤組にも足が速い人がたくさんいるもんね。きっと赤組が勝つことを願うばかり!

「位置について、よーい」

パン!先に男子のリレーが始まった。BGMの剣の舞が、選手たちと観客を盛り上げる。赤組も白組も、両者お互い一歩も譲らない。

『さあ始まりました、赤白対抗リレー!さあ、どちらが勝つのでしょうか!』

実況の人にも熱が入る。あ、次は沢田くんが走る番だ。バトンが渡って、沢田くんが走り出した。沢田くん、やっぱり速い。赤組の人と少し差を付けて、次の秀馬くんにバトンが渡った。秀馬くんも速い!

『赤組、少し差をつけられているか!あーっと!ここで赤組、バトンを落としたーっ!』

実況が言う通り、赤組はバトンを落としてしまった。もー、なにしてるの〜!その間にも、秀馬くんは高速の走りを見せる。秀馬くん、やっぱりかっこいいな…。あ、いけないいけない、論理だってかっこいいところあるんだもん!秀馬くんに負けてないよ!秀馬くんは、あっという間に走り抜け、次の人にバトンを渡す。次の人も走り切り、アンカーにバトンが渡った。

『白組、アンカーにバトンが渡ったあ!赤組追いつけるか!』

赤組は、今やっとアンカーにバトンが渡る。しかし、白組はもうすぐでゴールだ。観客の歓声のもと、白組はゴールした。あ〜負けちゃったぁ。

「やったあ!白が勝った!よくやったぞ、義久ー!」

優衣は赤組なのに喜んでいる。そうだよね、沢田くんがんばったもんね。沢田くんと秀馬くんが戻ってくる。二人とも笑顔で、やってやったぜというような満足そうな表情。

『さあ!次は女子のリレーだあ!今のところ赤組六〇点、白組五七点!赤組、勝ち残れるかー⁉︎それとも白組が逆転するかー⁉︎』

女子のリレーの選手が位置に着く。あ、白組の二番目のところに佐伯さんがいる。佐伯さん足が速かったんだ。

「位置について、よーい」

パン!走り出した!少し赤組出遅れたか!がんばれー!このまま勝ってー!白組のバトンが佐伯さんに渡る。佐伯さんが走りだす。速い!私たちの席の前を、佐伯さんが駆け抜けていく。と、佐伯さんは、体勢を崩し、勢いよく転んでしまった。

『おーっと!白組転倒!これは大丈夫かー⁉︎』

佐伯さん、大丈夫かな…。転んだまま動かない佐伯さん。痛くて動けないのかな…。

「遥!」

その声とともに、秀馬くんが佐伯さんに駆け寄る。秀馬くん…佐伯さんのこと嫌いなんじゃなかったの?それとも、やっぱり元カノだから、まだ気があるのかな。

「おい、大丈夫か、立てるか?」

「…秀馬?」

佐伯さんは、秀馬くんが駆け寄ってくれたことに驚いていたみたいだった。先生方も駆け寄ってくる。

「佐伯、大丈夫か」

「は、はい…うっ!痛っ!」

かなり激しく転んだように見えたから、どこか痛めてしまったのかもしれない。佐伯さんは、やっぱり動けない。

「しかたないな…」

秀馬くんはそうつぶやくと、ひょいっと、佐伯さんをお姫様抱っこした。

「秀馬⁉︎」

「先生、このまま保健室に連れて行きます。俺、少しは手当できるので、任せてください」

「あ、ああ…じゃあ坂口、よろしくたのんだ」

秀馬くんは、佐伯さんをお姫様抱っこしたまま保健室へと歩いていった。秀馬くん、なんだかんだ言って佐伯さんのことほっとけないのかな。


リレーは、佐伯さんの転倒で赤組が勝ち、今年の体育祭は赤組が勝った。閉会式に整列しようと歩いているとき、今度は論理が転んだ。

「論理!大丈夫?」

「痛ってぇ…」

論理は痛みから言葉を失い、その場を動けない。見ると、膝から血が出ていた。私は、さっきの秀馬くんと佐伯さんの光景を思い出し、論理をお姫様抱っこしようと論理の体を持ち上げる。でも、論理は思った以上に重くてなかなか持ち上がらない。

「文香…?」

「あはは…私には無理だった…。論理、立てそう?保健室行く?」

「ああ、悪い、肩貸してくれ」

私は論理に肩を貸し、そのまま一緒に保健室へ向かった。保健室に着くと、少し扉が開いていて、中から何やら声が聞こえる。あ、秀馬くんと佐伯さんまだいるのかな。私は、保健室の扉を開けようとした。

「秀馬、…どうして助けてくれたの?」

佐伯さんの神妙な声がして、私は手を止めた。

「文香、どうした?」

「ちょっと待って論理、中に秀馬くんと佐伯さんがいる。邪魔しちゃ悪い気がして」

私は、扉の隙間から中をのぞき込んだ。ソファーに佐伯さんが座っていて、その向かいの椅子に秀馬くんが座っている。佐伯さんの足には包帯が巻かれていて、手当ては終わってるみたい。のぞくなんて悪趣味かもしれないけど、秀馬くんと佐伯さんのこと、ちょっと気になる。論理も、私のあとに続いてのぞいた。私たちは耳をすます。

「……別に。気まぐれだ」

「…あたし、すっごく嬉しかったんだよ。秀馬が助けてくれて。……秀馬、あたしのこと、まだ好きなんじゃないの?」

佐伯さん、言葉づかいと声色がかわいくなってる。秀馬くんの前だからなんだろうな。これなら、この顔とベビーボイスにもよく合う。

「勘違いするな、痛いぞ遥。さあ、そろそろ行くぞ、閉会式、もう始まってるだろ」

立ち上がろうとする秀馬くんを、佐伯さんは、腕をつかんで止めた。

「秀馬!より戻そうよ…!あたし、秀馬がいないと生きていけないの。わかってるでしょ?秀馬だけが心の支えなの。秀馬さえいれば、他に何もいらないの…。秀馬、あたし、いろいろ直すから、秀馬の理想の女の子になるから、だから…」

佐伯さんの悲痛な叫び。佐伯さん、私の目から見たらちょっと重いようにも見えるけど、そこまで秀馬くんのことが好きなんだ…。

「燃え尽きたロウソクにはもう火は灯らない。それと同じだ。俺たちは、燃え尽きた」

「秀馬ぁっ!」

「遥も他に何か生きがいを見つけろ。もう俺に守られなくても生きていけるようになれ」

秀馬くんは、腕にすがる佐伯さんの手を優しく振りほどくと、立ち上がる。すると、佐伯さんは秀馬くんに抱きついた。

「お、おい…離れろ」

「やだ。……秀馬、あたしまだ、…暴行されてるんだよ」

「えっ」

秀馬くんは、驚いた表情を見せる。私も驚く。え?どういうこと?暴行?誰に?

「また守ってくれなきゃ、あたし、どうなっちゃうかわからないよ!」

佐伯さんのアニメ声に、差し迫った色が宿る、

「遥、それ本当なのか⁉︎」

秀馬くんは、自分の体から佐伯さんを離し、両肩を両手でつかんだ。

「秀馬、心配してくれてるの?今でも。嬉しい…」

「おい、嘘なのか?本当なのか?」

「……嘘。ごめんね試して。…あたしたち、まだ燃え尽きてないよ」

佐伯さんは、恍惚な表情を見せ、もう一度秀馬くんに抱きついた。秀馬くんは、深いため息を吐くと、佐伯さんを突き放す。

「悪いな、変なところを見せてしまった。論理、文香、いい加減入ってきたらどうだ?」

秀馬くんは、こちらに向かってそう言い放つ。えっ!気づかれてたの⁉︎私は、恐る恐る扉を開け、保健室に入った。

「あははは…のぞいててごめんね…」

私が苦笑いをしながらそう言うと、佐伯さんは、私たちを睨みつけた。

「てめぇら‼︎なんでいるんだよ‼︎人の情事をのぞくなんて最低だな‼︎」

うう…佐伯さん、秀馬くんに対しての態度と、私たちに対しての態度の温度差がありすぎるよ〜。

「馬鹿、見ろ、論理怪我してるだろ。だから保健室に来たんだろう。おい、論理、お前も手当てしてやるからこっちへ来い」

「ああ、ありがとう、秀馬。お前も大変だな」

論理は、手当ての準備をし始めた秀馬くんのもとへ歩いて行った。

「じゃあ!あたしは帰るから!」

佐伯さんはぶっきらぼうにそう言うと、保健室を出て行った。その際、私とすれ違うときに、「ちっ!」と、舌打ちされてしまった。私は、少し気になったことを聞いてみることにした。

「秀馬くん…佐伯さん、誰かに暴行されてるの?」

秀馬くんは、論理の足を手当てしながら、少しの間をおいて口を開く。

「…あいつも、いろいろあるんだ」

それきり、秀馬くんは黙ってしまった。論理と私は顔を見合わせた。秀馬くんと佐伯さんは、元恋人どうしだもんね。人に言えない事情があるんだな。私たちが干渉する必要はないか。秀馬くんの顔は、どことなく険しかった。


今年の体育祭も、全てのプログラムが終わった。今年は、最後のリレーが影響して、赤組が逃げ切った。教室で帰り支度をしているとき、沢田くんが口を開いた。

「くそーっ!負けちまった。あそこで佐伯が転ばなけりゃなぁ。まったく、なにしてくれるんだあいつ」

沢田くんは白組だったので、悔しそうだった。

「まあまあ、佐伯さんだって、転ぼうと思って転んだわけじゃないんだから…」

「池田は優しいなぁ。俺は負けず嫌いなんだよ」

「へっへっへ、私たちにしてみれば、あれで勝たせてもらったようなもんだからね。なにせ、転んだのが佐伯だったからね!ざまあ!」

優衣が、得意げに笑った。優衣ったら、も〜。

「まあ俺も、佐伯の転倒はしてやったりだと思うよ。騎馬戦のときのラフプレーを見たら、あの転倒に同情する気にはなれないさ」

論理まで…。みんな、佐伯さんの悪口言ってる。私は、人の悪口は聞きたくない。秀馬くんを見ると、少し重い顔をして帰り支度を進めている。なんたって、佐伯さんは秀馬くんの元カノなんだよ。秀馬くんだって佐伯さんの悪口なんか聞きたくないだろう。

「もう、みんな、あまりそんなこと言わないで早く帰ろ!」

私はみんなを促して、教室の外へ出た。朝はあんなに晴れていた空が、どんよりと曇っていた。

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