【論理×文香三部作 中学編】私が呼吸するとき

徳間・F・葵

一、論理くん、私の隣になる

四月になって、カレンダーをめくった。二〇一二年四月一日。私、池田文香(いけだふみか)も、中学二年生になった。一年生のときと同じクラスのみんなと、またこの学舎で過ごす二年目。私は気を引き締めて、またこの学校に通い始める。この日の朝私は、お母さんからあらかじめ買ってもらっていたスマホをもらった。スマホは、私の周りではみんな持っていたので、こうして自分の手にできたことが嬉しかった。


学校に着き、新しい二年一組の教室に入って、さっそく私に話しかける声があった。

「ぶんちゃーん!二年生でもよろしくねっ」

小四のときからの親友、向坂優衣(さきさかゆい)が、そう言って私に抱きついてくる。

「あ、優衣。こちらこそよろしく。さっそくだけどさ、私スマホ買ってもらったんだ。ライン交換しようよ」

「お、ぶんちゃんもついにスマホデビューか。よろしいよろしい。この優衣さまがラインを繋げてあげよう」

私は優衣とラインを交換した。それにあわせて、優衣と仲のいい、橋下沙希(はしもとさき)と高倉花菜(たかくらかな)ともラインを繋げる。

「ぶんちゃん、ありがとう。いっぱいラインしようね」

沙希がそう言ってにこにこ微笑んでくれる。

「そうだ、みんなで写真撮ろうよ!二年生になったんだしさ」

花菜の提案で、優衣と沙希と花菜と私の四人で、スマホにおさまる。

「いくよ〜!はい、チーズ!」

カシャリ、とシャッターが切れた。紺地に白襟のセーラー服姿の、私たちの画像が撮れる。それから何枚か撮った。それをラインでみんなと共有する。中二第一日目の朝から楽しい。これからもこんな毎日が続きますように。と、私は胸をふくらませた。


席替えをして、私は中一の頃から嫌われている、太田論理(おおたろんり)くんの隣になった。論理くんは、いつも上から目線で物を言ってきたり、発言が不自然なくらい格好つけたものだったり、一匹狼で近寄るなオーラを出していたり…と、嫌われる理由はいろいろあった。私も、少し近寄りがたいところはあったけれど、別に論理くんのことは嫌いじゃなかった。人はみんな、歩み寄ろうとすれば必ず分かり合えると、私は信じている。それなのに、そうした努力をせずに、安易に憎み合ってしまうことが私には納得がいかない。だから、仲間外れにすることが嫌いだったので、みんな論理くんと仲良くすればいいのに、と思った。

「論理くん、今日から隣どうしよろしくね」

私がにっこり微笑んでそう言うと、論理くんはうなづいた。そして、

「うん、よろしく」

と答えてくれた。


論理くんは、よく一人で読書をしているか、外をぼーっと見ていることが多かった。

「論理くん、何見てるの?」

私が話しかけると、論理くんは驚いた表情で私に顔を向けた。

「あ…池田さん…、あそこに、飛行機雲ができてるでしょ?それを見てた」

確かに、空には飛行機雲ができていた。

「そうなんだ」

「飛行機雲と言うのはね、上空の大気の状態が不安定なことを示しているんだ。だから、これから先天気が悪くなる」

論理くんは得意げに話した。

「まあ、俺たち中学二年にもなったら、知っていて当然の知識だけどね」

「ふーん。私は、知らなかった」

なるほど、そうなのか。と、私は一つ勉強になった。でも、ああ、多分みんなは、論理くんのこういうところが嫌いなんだろうな、と思った。


音楽の時間。私たちは、冬にある合同音楽会の発表に向けて、合唱曲『COSMOS』を練習していた。私のパートはソプラノ。合唱部員の私は、みんな以上に思い切り息を吸い、口を大きく開け、お腹から声を出し、真剣に歌っていた。歌い終わったあと、ふと男子のほうを見ると、論理くんが見えた。論理くんは、何かを凝視するように目を見開いてこちらのほうを見ていた。

授業が終わって音楽室から教室に帰る途中、何やら女子たちがひそひそと会話していた。

「ねえ、私、また論理に見られてたよー。本当気持ち悪い!」

「私もー!なんか視線感じた。何あれ、なんでこっち見てるの?」

「知らない!とにかく、私論理のこと嫌い!」

「私もー」

論理くんの悪口だった。私は不快に感じた。悪口を言う人は嫌いだ。

「ねえぶんちゃん、ぶんちゃんも論理の視線感じた?」

優衣にそう聞かれる。

「え、私は感じなかったかなぁ」

「そうなのぉ?論理、私たちのことずっと見てたよ。ほんと変態だよねぇ」

優衣までそんなことを言う。私はなんだか悲しくなった。


「こらぶんちゃん、もうへばったか」

「いや、まだまだ!」

と、私は一気に頭を持ち上げて起き上がる。音楽室。合唱部の練習の時間。手始めにまず、私たちは腹筋をしていた。私たちは、NHK合唱コンクールに向けて、練習に力を入れていた。今年の課題曲は、『サメの社交ダンス』という曲で、自由曲は、『わたしが呼吸するとき』という曲だ。

「ぶんちゃん、今年も部活で良い思い出たくさん作ろうね!」

優衣が、私の足を押さえながら、にこりとそう言う。

「うん!めいっぱい楽しも!」

私は合唱が好きだ。みんなでハーモニーを奏でられるととても楽しいし、思い切り歌うことで爽快感がある。今年も部活がんばるぞ!私は、お腹に力を入れ、思い切り起き上がった。


私は、英語の授業が嫌いだった。私の苦手科目だ。先生が、何やら教えながら黒板に文字を書いていく。みんな、その黒板に書かれている文字を自分のノートに書き写していく。私もそうしていたけれど、何せよく理解できない。必死に理解しようとしたけれど、あまりわからなかった。とうとう私は、黒板の文字をノートに書き写すのさえ嫌になっていた。ふと、横に座っている論理くんのノートを見る。そこには何も書かれていなかった。論理くんは、前をじいっと凝視したままでいた。ははーん。私は、にやっと口元をほころばせた。

「論理くん」

私は、小声で論理くんを呼んだ。すると、驚いた顔をして論理くんは私を見た。

「論理くんも、英語苦手なの?」

「え?」

「だって、ノートに何も書いてないじゃん、英語嫌いなんでしょ」

私は、にやっと笑った。

「私も、英語苦手だし嫌いでさ、書くの嫌になっちゃった」

論理くんは、目をきょろきょろさせていた。

「俺は…その…別に…」

論理くんはうつむく。

「ん?どうしたの?」

私は、論理くんの顔をのぞき込んだ。

「いや…」

論理くんは顔を背け、小さくそうつぶやいた。


ある日、優衣は髪の毛を切ってきた。私たちの学校の校則は、ロングは三つ編みだけ。セミロングなら、おちょんぼ。それとショートカット。あとはおかっぱ。都合四種類しかない。今どき珍しいすごく古風な校則だった。優衣は今まで三つ編みにしていたのだけれど、その髪をばっさりと切って、おかっぱにしてきた。

「ぶんちゃん~!見て見て、私、髪の毛切ったの。どう?」

優衣は私の席にやってきて、嬉しそうにそう言った。

「かわいいじゃん!よく似合ってるよ」

優衣は三つ編み姿もかわいかったけど、おかっぱ姿もなかなかかわいかった。

「えへへ、ありがとう」

優衣はにっこりと笑った。と、思ったら、私の横に座っている論理くんを睨んだ。

「ちょっとー!論理!今、私のこと見てたでしょ!」

私は、論理くんを見る。論理くんは、優衣から目を逸らした。

「あ、あ…、切ったばかりのおかっぱ、かわいいなと思って…」

論理くんは、おどおどと言った。優衣は、汚物を見るような目を論理くんに向ける。

「はぁ⁉︎気持ち悪っ!」

優衣は、相当論理くんのことが嫌いなようだ。


「ねえねえ、池田さん」

優衣が自分の席に帰って行ったあと、論理くんは私に話しかけてきた。

「なに?」

「向坂さんって、呼吸があまり目立たないよね…」

「呼吸?」

「うん。普通はしゃべるたびに、息継ぎが、すっ、って聞こえるんだけど、向坂さんは息継ぎがあまり聞こえない」

「はぁ…」

私は、論理くんが何を言ってるのかよく理解できなかった。

「じゃあさ、私はどう?」

私は、自分を指差した。

「え?」

「私はさ、その、呼吸?目立つ?」

私はなんとなく聞いてみたくなり、論理くんにそう聞いた。論理くんは、少し驚いた表情を見せた。

「…うん、目立つと思うよ」

「そうかなぁ。じゃあ、ちょっと呼吸してみるね」

私はそう言って口を大きく開き、思いきり息を吸い込んだ。あ…、確かに音がする。「すうっ」とも「はあっ」ともつかない音。「すはああっ」て感じ?

「どう?論理くん」

「うん…。池田さんの…音が、する」

論理くんは、私から目を逸らしてそう言った。なぜかその顔が赤い。

「ふーん。そうなんだ」

私は、論理くんの横顔を見つめた。私の音?呼吸にも個性があるのか。論理くんのおかげで、一つもの知りさんになれたな。


放課後。今日は合唱部の練習が休みの日だから、早く帰れる日だった。

「ぶんちゃん~。一緒に帰ろう」

優衣が、私の席に来てそう言った。

「うん」

私は、優衣と一緒に帰ることにした。


「ねえねえ、ぶんちゃんさ、論理の隣の席で嫌じゃない?」

帰り道、優衣がそんなことを聞いてきた。

「え?いや、別に」

むしろ、なんでみんながそこまで論理くんを嫌っているのか、私には不思議だった。

「そうなのぉ?ぶんちゃんは変わってるねぇ」

優衣は呆れたようにそう言う。

「変わってるのかな?」

私は、自分が変わっているとは思っていなかったから、そう言われたのは意外だった。と、タン、タン、タン、と、後ろから足音が聞こえた。私は、ふと振り向く。そこには噂をすればなんとやら、論理くんがいた。優衣も振り向く。

「げっ!論理じゃん!」

優衣は、顔を思いきり歪ませながら、そう叫んだ。

「ぁ…向坂さん…」

「論理、あんた家こっちのほうじゃないでしょ!まさか私たちの後ろを付けてきたの⁉︎最悪!」

そんなことないでしょ…。と突っ込みたかったけど、優衣はその隙を与えてくれない。

「気持ち悪い!私、もうすぐ家に着くから先に行くね!論理、大嫌い!」

優衣は走り去ってしまった。呆然とした私と、しょぼくれた論理くんが残った。

「あはは…。あんなに論理くんのこと、嫌わなくてもいいのにね…」

私は、一応慰めのつもりで論理くんにそう言った。すると、論理くんは何か私にとても言いたげな表情を見せた。

「じゃあ、俺…帰る…」

論理くんは、私たちと逆の方向に帰って行った。論理くん、何か言いたそうだったけど…。私は、少し気になった。


五月になった。暑い日も増えて、冬のセーラー服では厳しい日が続いている。合唱部の練習も気合いが入ってきた。

朝練で、発声練習をする。まだ眠気の残る体が、歌うたびにしゃきっとしていく。朝だから声があまり出ない。でも私は、口を大きく開けて、息を吸いこみ、お腹から声を出す。ブレスすると、やっぱり「すはあああっ」と音がした。窓が開いていて、そこから爽やかな風が吹き込んでくる。きっと私たちの発声練習の声は、外に聞こえているだろう。


一時間目は書道だった。先生は、各自好きな文字を書きなさい、と言った。私は、何を書こうか迷ったけれど、そうだ、自分の名前を書こう!と思って書き始めた。『文香』。書き終わった。うん、なかなか上手に書けた。自分でも満足のいく字だな、と納得していた。先生にも、

「おお、池田、うまく書けたじゃないか」

と、褒められた。すると隣で、何やら論理くんが女子三人に笑われていた。

「あははは!論理さぁ、何書いてんの?」

「これはないでしょう、あはははは!」

何がそんなにおかしいのだろうかと思い、論理くんの書いた字を見る。『論理』。論理くんも、自分の名前を書いていた。

「あははははは!自分の名前を書くなんて、おっかしい!」

自分の名前を書くことはおかしいようだ。なら、私もおかしい?この女子三人には、私の書いた文字も見えているはずだ。でも、私は何も言われない。なんで論理くんだけがバカにされなきゃいけないの?

「ねえ、私も自分の名前を書いたんだけど」

私は、爆笑している女子三人に割って入った。三人は、一瞬無言になり、固まった。

「あはは、そうだったんだ…」

「あはは…でも、論理だからねぇ…」

決まりの悪そうな顔をする三人。

「ごめんねぇ、論理」

そう言い残し、女子三人はどこかへ行った。

「嫌だねぇ、なんで論理くんばっかり」

私は、いじめとかそういうことは嫌いだ。少しいらっとしてそう言った。

「ありがとう…」

論理くんは、小さな声でつぶやいた。


髪の毛が少し伸びてきたので、美容室で切り揃えてもらった。校則が厳しいので、前髪は、眉毛の上でかっちりと。襟足は、リップラインで、これもかっちりと揃えてもらった。短いおかっぱだ。私はもともとおかっぱだったけれど、ここまで短いおかっぱは初めてかもしれない。恥ずかしいな…。みんなに切りすぎだって言われたら嫌だな…。と不安に思いつつ、学校に登校した。

「ぶんちゃん、髪の毛切った?」

教室に入って早々、優衣にそう言われた。

「うん…。少し切りすぎたかな…」

私は、何を言われるかと思い、ひやひやしながら聞く。

「うーん、ちょっと短いけど、まあいいんじゃない?」

がくっ。

「やっぱ短いよねぇ」

私は、切ってくれた美容師さんを少しだけ恨んだ。少ししょんぼりして自分の席へ向かう。と、隣の論理くんが、私を見ていた。目が合った。私は少し恥ずかしくなる。

「おはよう、論理くん」

自分の席に着く私。

「池田さん…おかっぱ、短い」

論理くんは私を見て、そうつぶやいた。

「あはは…。うん、短いでしょ。ちょっと切り過ぎちゃった」

みんな私のおかっぱを短いと言う。ああ、恥ずかしい!

「かわいい」

論理くんははっきりと、私の目を見て、そう言った。私はドキッとした。

「え、かわいくないよぅ…。だって、後ろ、こんなに短いんだよ」

私は、ぴっ、と振り向き、論理くんに襟足を見せる。

「………………」

しばらく論理くんは何も言わなかったので、私は不安になって、また論理くんのほうを向いた。

「…やっぱり、おかしいかな」

「ううん、俺はこの長さがいちばんいいと思う。それに、襟足がしっかり揃ってるし、うなじもきれいに剃ってある。かわいいよ」

論理くんは、そう言ってくれた。

「あはは、ありがとう…」

私は、少し照れた。


休み時間が終わり、三時間目は音楽。私たちは、合唱曲『COSMOS』の練習真っ最中だった。私は歌うことが大好きだ。今日も真剣に歌っていた。と、視界の端に、何か視線を感じる…。少し視界をずらして見てみると、論理くんが熱い眼差しで私を見ていた。えっ…。私は、視界をもとに戻した。論理くん、なんで私のこと見てるんだろう…。いや、私の勘違いで、私じゃなくて他の人を見てるのかな…。私は、少し顔が熱くなった。


「また論理こっち見てたよ!」

「ねー、私も見ちゃった。いつも見てるよね!」

音楽室から教室への移動中。女子たちが論理くんについて会話している。そうだよね、論理くんは私じゃなくて他の人を見ていたんだよ…。と、自惚れた考えを捨てる。

「いや、今日は、ぶんちゃんのこと見てたよ」

優衣が突然女子たちにそう言った。

「え⁉︎」

私は、変な声が出てしまった。

「絶対そうだよ。だって、視線がずっとぶんちゃんに向いてたもん。私、論理のこと嫌いだからずっと睨んでたんだよ。だからよくわかった」

優衣はそう断言した。え…そうなの?

「えー!じゃあ、論理はぶんちゃんのこと、好きなんじゃないの⁉︎」

「ええっ!あはは、それはないでしょ」

私は笑って否定する。

「そうかもね~!席も隣どうしだし!」

「どうするぅ、論理に告白されたら!もちろん、断るよね!」

冷やかされている。私は困惑した。論理くんが私のことを好きなわけがない。でももし、優衣たちの言うことが正しかったら…。

『かわいい』

私は、論理くんにそう言われたことを思い出していた。


教室に戻り、席に着いた。論理くんは次の授業の用意をしている。

『いや、今日は、ぶんちゃんのこと見てたよ』

『論理はぶんちゃんのこと、好きなんじゃないの』

そんなことない。でも、そうなのかな…。私は、なんだかもやもやしていた。

「論理くん…。音楽の時間、私のこと…見てた?」

我慢できずに聞いてしまった。

「…ううん、見てない」

論理くんは、そう言った。ああ、やっぱり。私は、ほっとしたような、悲しいような、変な気持ちになっていた。


次の日の五時間目、音楽の時間。私は、今日も夢中になって歌った。そして今日も、何か視線を感じる。私は、もう思いきって視線のほうを見た。やっぱり論理くんだ!論理くんが一心に私を見ていた。私は、視線をずらす。…なんで論理くん私を見てるの?心臓がドキドキした。


「ねえ…音楽の時間、私のこと…見てたでしょ」

放課後、帰り支度をしている論理くんに、私は聞いた。論理くんは、手を止めた。

「…うん、見てた」

やっぱり!

「…どうして見てたの?」

私はいちばん気になることを、恐る恐る聞いてみた。

『論理はぶんちゃんのこと、好きなんじゃないの』

その言葉が頭をよぎる。そんなことはない…はず…。

「池田さん、あんなに大きく口を開けて息を吸っているのに、あんまり肩が上がらないんだね」

論理くんは、答えになっていないことを言った。

「え?うん、私は腹式呼吸って言って、お腹で息を吸ってるせいかな」

私はとりあえず答えた。でも、自分の肩があまり上がらないということは知らなかった。

「へえ…」

「そんなに肩が上がらないもんかな」

「うん」

「ちょっと、やってみる」

私は、大きく口を開け、思いきり息を吸った。そのせいか、息を吸ったときに、「すはああっ」を通り越して「あひいいっ」という、泣きじゃくったような音が出てしまった。こんな音が出てしまって、私は恥ずかしくなった。

「あ、ごめん…。変な音が出ちゃった」

私は笑ってごまかした。論理くんは、道端で一万円札を拾ったような顔をして固まっていた。

「論理くん?」

私は、論理くんがどうしてそんな表情をしているのかわからなかった。

「あ、あああ、ああ、そんな感じだよ、うん」

論理くんの声は裏返っていた。


合唱部の時間。自由曲の、『わたしが呼吸するとき』の、パートごとの練習をしていた。最初の出だしの音が外れないように、何度も練習した。

「もう少し最初の、『なにもかも』の、『な』に勢いをつけて歌って」

パートリーダーの湯谷(ゆや)先輩が、厳しくだめ出しをしてくる。私は真剣に練習していたけれど、さっきの論理くんの言葉が頭に浮かぶ。

『池田さん、あんなに大きく口を開けて息を吸っているのに、あんまり肩が上がらないんだね』

なんだかその言葉を意識してしまって、肩に力が入ってしまう。

「まだ、『な』に勢いが無い。もう一回、最初から」

思いきり息を吸う。そのとき、さっきの論理くんの前で出したような「あひいいっ」という音が出てしまった。論理くんの表情が浮かぶ。恥ずかしくなり、私は歌うのをやめてしまった。

「池田さん、ちゃんと歌って」

湯谷先輩の鋭い声が刺さってきた。

「すみません…」

「じゃあ、もう一度」

練習は、続く。


部活が終わった。私は、優衣のもとへ行く。

「優衣ー。ちょっと、大きく息吸ってみて」

私がそう言うと、優衣は怪訝な顔をした。

「え?なにいきなり」

「いいからいいから」

「変なぶんちゃん…。じゃあいくよ、はあああっ」

優衣が息を吸う。肩はほとんど動かない。

「うーん、優衣だってあまり肩が上がらないじゃん」

「え?なんのこと?どうしたわけ?」

私は、さっきの放課後の論理くんとの会話を優衣に話した。

「なにそれ、論理ってやっぱり変態!そんなやつ相手にしないほうがいいよ」

優衣は、本当に嫌そうな顔をした。私はむっときた。

「なんでそんなこと言うの?なんでそんなに論理くんを嫌うの?」

優衣は、私にまで嫌な顔を向けた。

「だって論理って変じゃん。普通、胸とかおしりとかでしょ?なんで息とか肩なわけ?それが気持ち悪いんだよ」

「じゃあ、普通じゃないのはそんなに気持ち悪いの?そんなにいけないの?」

私は、何故か言葉に熱が入ってきた。自分でも、なんで論理くんをこんなに擁護しているのかわからなかった。

「なに論理のことかばってるの?ぶんちゃん、変わったよね、最近。私ついていけない。帰る」

優衣は、私を睨み、背中を向けて帰って行った。切り揃えたばかりの優衣のおかっぱが、激しく揺れながら遠ざかっていく。私も同じおかっぱだけれど、その中身は優衣とは随分かけ離れてしまったのかもしれない。心がズキリと痛んだ。


その夜。いつもは来るはずの優衣からのラインが、夜九時になっても来ない。優衣、怒ってるのかな…。気になって、私は優衣にラインをした。

『優衣、部活のときはごめんね。どうしてかわからないけど、私も熱くなっちゃった』

しばらくして、優衣から返事が来る。

『いいよ別に』

優衣からの返事は、それだけだった。


次の日。一時間目から、私の嫌いな英語の授業だった。論理くんのノートを見ると、今日はしっかりと黒板の文字が書き写されていた。あーあ、英語はさっぱりわからないや。と思っていたら、論理くんがいきなり、私の机と論理くんの机の間に橋渡しをするように、定規を置いてきた。

「論理くん、何してるの?」

私は意味がわからず、論理くんに聞いた。

「これ…俺と池田さんの、架け橋だよ」

論理くんは、おずおずとそう言った。

「あはは!論理くん、うまいこと言うねぇ!」

私は、大きな声で笑ってしまう。

「池田、なに笑ってんだ」

あちゃ…。先生に叱られてしまった。

「すみません…」

「ちゃんと授業聞いてるのか?今、先生が読んだところを読んでみなさい」

ちゃんと授業を聞いていなかったので、私は黙ってしまっていた。すると、前の席の女子が、

「ここだよ」

と、小声で教えてくれた。助かった。

「I love him、I will love him.」

私は、たどたどしく読んだ。

「よろしい、I love him、I will love him.ここに、willが入ると、未来形になります。だから訳は、私は彼を、愛するでしょう!いいですか」

先生はオーバーアクションでそう言った。『私は彼を、愛するでしょう』か…。私は、誰を、愛するんだろう…。気になる人は、いる…ような、気がする…。論理くんが作ってくれた、論理くんと私の架け橋が、そのままになっていた。


私は牛乳があまり好きではない。それに加えて、今日はあまりお腹の調子が良くなかった。給食を食べ終えて、牛乳を半分飲む。お腹がぎゅるぎゅると鳴った。これ以上飲んだらやばいな、と思い、

「ごちそうさま」

と言った。

「あれ、池田さん、牛乳は?」

論理くんが聞いてきた。

「あはは、なんだかお腹の調子が悪くて…もったいないけど」

しょうがない、あとで残飯入れに捨てよう。と思った。論理くんの牛乳ビンを見ると、しっかり飲み終えていた。

「あ、論理くん、牛乳好き?」

「えっ、うん、好きだけど」

「じゃあ、もしよかったら、私の牛乳も、飲む?」

私はそう言って、自分の残した牛乳ビンを手に取った。

「えっ」

論理くんは、なんだか驚いていた。

「あ、嫌だったらいいんだけど」

私は牛乳ビンから手を放す。

「いや、いいよ、飲む」

「ありがとう、助かる!」

私は牛乳ビンを手に取ると、笑いながら論理くんに差し出した。論理くんは、それをごくごくと飲んでくれた。

「ほんとにありがとう、よかったぁ」

「…こちらこそ、ありがとう、嬉しい」

「嬉しい?」

なんで嬉しいんだろ?私は不思議に思って聞いた。

「だって…池田さんのだから…」

論理くんは、嬉しそうにそわそわしていた。

「あっ!そ、そうなのぉ…。やだぁ、論理くん、あはは!」

今気づいた。これ、間接キスじゃん!私は、心臓の高鳴りを覚えた。


前に雑誌で、仲良くなりたい人がいたら、その人の消しゴムに、その人の名前を書いて、自分の消しゴムには、自分の名前を書いて、それを交換して使い続けると、その人とは一生仲良しでいられるというおまじないを読んだ。私はふとそのことを思いだし、隣の論理くんに何気なく聞いた。

「ねえ論理くん。消しゴムに自分の名前書いてある?」

「えっ、書いてないけど」

「じゃあ、消しゴムちょっと貸して」

「え、あ、うん」

論理くんは不可解な面持ちで消しゴムを渡してくれた。

「ねえ、名前書いちゃってもいい?」

「あ、いいよ」

私は、そこに、『論理』と書いた。

「よし、それでー、私の消しゴムに」

私の消しゴムも取り出し、そこに、『文香』と書いた。

「はい!」

私は、私の持っていた、『文香』と書かれた消しゴムを、論理くんに手渡した。

「え?」

「あのね、これ、おまじないなんだけど、これを交換して使い続けると、一生仲良しでいられるんだって」

論理くんは、呆然としていた。

「あ、ごめん、勝手なことして…。嫌だったかな」

「あ!いやいや、全然嫌じゃない!」

論理くんは慌てて言った。私はほっとした。

「なら、よかったぁ」

「嬉しい…大事にする」

論理くんは、そうつぶやいた。


私たちが練習している合唱曲『COSMOS』には、『光の声が空高く聞こえる』というワンフレーズがあるのだけれど、みんなほとんどの人は、最後の、『る』で息が続かなくなり、あまり、『る』が聞こえない。でも合唱部員の私は鍛えてきたため、『る』の音までしっかり続かせることができた。

毎度おなじみ音楽の時間。そして毎回のことながら、今日も論理くんは私を見つめてくれていた。もう、論理くんったら!歌いながら、私も論理くんを見つめ返し、にこっと笑った。すると論理くんは、慌てて目線を私から外した。


音楽室から教室に帰る廊下で、一人で歩いている論理くんに、

「わっ!」

と、肩をつかみ、後ろから驚かしてやった。論理くんはかなり驚いたらしく、

「わあっ⁉︎」

と、叫ぶと、私のほうを向いた。

「な、なに…池田さん…」

「あはは!論理くん驚きすぎー!」

論理くんは片手で肩を押さえながら、目を白黒させていた。

「ねえ論理くん、また私のこと見てたでしょ。ちゃんと歌わなきゃ、だめだよ」

論理くんは、私から視線を逸らした。

「ちゃんと歌ってるよ…」

「嘘だぁ。私のほうばかり見てるじゃん。あれ、恥ずかしいんだからね」

本当に恥ずかしい。論理くんに見られてると思うと、心臓がドキドキする。

「だって…、池田さんのこと、見たいんだもん」

論理くんは、私を真剣に見つめた。ドクン、と、心臓が鳴った。

「池田さんさ、COSMOSのサビのところ、みんなは息が続かないから声がちゃんと出てないけど、池田さんはしっかり声が出てるよね」

「え?」

「あの、『光の声が空高く聞こえる』の、『る』の音」

「あ、ああ、あれね」

「『る』の音が、池田さんの声しか聞こえなくなる」

私は、合唱部員としてもそれが自慢だった。それを論理くんはちゃんと聞いていてくれたんだ…。

「そ、そっかぁ…聞いててくれたんだ」

私は、論理くんから目線を外した。

「うん」

論理くんは、力強くそう言った。嬉しい。胸のドキドキがおさまる気配はなかった。

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