イエローサブ
Φland
第1話
ハイウェイを走るタクシーの窓から見下ろしたその街は、黄色い霧に覆われていた。トンネルを抜けていきなり現れたその景色に、私はコーヒーを吹き出しかけた。
「あれはなに、ですか?」
敬語を一瞬忘れるほどの衝撃を受ける。その黄色い霧は街全体をも包み込んであまりあるほど広大で、でっかい雲が対流しながら居座ってるようだった。辛うじて霧が薄れる箇所から建物の影が見えることが、あの向こうに街があることを知らせてくれていた。
「イエローサブマリンです」抑揚のない声でタクシーのドライバーは言った。「窓開けないでくださいね。入るんで」
私は窓を開けようとしていた手をひっこめた。長いこと生きてきたと自負できるほど経験豊富なわけじゃないが、こんな光景は後にも先にも見ることはないだろう。
窓越しによく観察すると、街は峰に囲まれた盆地にあって、そのイエローサブマリンなる霧はお盆の底を埋めるように漂ってるのが分かる。黄色い巨大な雲海。そう言っても誇大広告じゃない。
「なんですか、そのイエローなんとかって」さっき聞いたことをもう忘れていた。
「イエローサブマリン。麻薬の一種です。詳しいことは私も知りません」それだけ言って、ドライバーは口を閉ざした。それから、運転してるんだから話しかけるなと言わんばかりにアクセルを踏み込む。
麻薬。あれが全部、麻薬。タクシーがもう一度トンネルに入るまで、私は黄色い雲海の街から目を離せないでいた。
つづら折りの山道を登りきるころには、左右に揺られ過ぎて車酔いしそうだった。やっとのことで目的地に到着し、タクシーと今生のお別れをする。もちろん料金を払って。
タクシーが過ぎ去るのを背中に聞きながら、私はホテルのような施設を見上げる。これが全部、役所だというんだから意外だ。
首が疲れたので、私は中に入ることにした。
すごい。中もホテルそのものだった。足音のしない柔らかい床。豪華だけどいやらしくないカウンター。全体的にモダンな印象をうけた。埃のにおいがする地元の役所とは大違いだ。
「いらっしゃいませ」受付の女性は小声だったが、なぜかよく聞き取れた。
「どうも」と私。「市長と会う約束をしているんですが」
「失礼ですが、お名前をうかがってもよろしいですか?」
「下村直人です」
受付の女性はパソコンのキーボードをカタカタと小気味よくならした。「承っております。ようこそおいでくださいました、下村様。市長が直接ご挨拶を差し上げたいとのことですので、このままロビーでお待ちください」
受付の女性は微笑を浮かべながら手のひらで方向を示した。私は感謝の言葉を述べ、一人掛けのソファがたくさん並ぶ空間に移動した。
私以外には新聞を読んでいる定年過ぎくらいの男。テーブルを囲んで話す二人の老婦人がいた。男の方はコーヒーを、老婦人の二人はアイスティーを飲んでいる。見ると、バーを改装したらしいカフェが壁際にあった。
もはや役所にいることを忘れそうなほど、ゆったりした時間が流れ始めたころ、レディーススーツを着た女性がエレベーターから降りてきた。スーツの女性は私を見つけると、にこやかに近づいてくる。私も立ち上がって軽く手を上げる。
「ナオくん。久しぶり」
「お久しぶりです。森岡市長」
市長は少しムッとする。「やめてよその話し方。昔みたいにケイちゃんって呼んで」
私は少したじろいだ。この年になって人のことをちゃんづけで呼ぶのには中々恥ずかしいものがある。だけど、有無を言わさない視線からは逃げられそうにない。
「…ケイちゃん。久しぶり」
「うん。元気だった?」
「肩こりを除けば概ね」
「相変わらだね」彼女は終始にこやかだった。彼女が市長で、私がその市長に呼び出されたのでなければ、20年ぶりの再会に喜ぶ二人だ。
「それで、なんで急に呼ばれたのか聞いてもいい?」
「せっかちね。懐かしいわこの感じ。来て、上で説明するから」
彼女に促されて私は市長と一緒にエレベーターに乗る恩恵を賜ることなった。エレベーターの内装も、ホテルそのものだった。柔らかい床に、見るからに最新式の押しボタン。ケイちゃんは一番上のボタンを押す。扉が閉まって、上昇の微小なGが体にかかる。
「ここは前はホテルだったの」ケイちゃんが私の疑問に答えてくれた。「それをそのまま買い取って役所として使っているの。せっかくだから雰囲気もそのままにしてね」
「ロビーのバーはカフェになってた」
「アルコールは置いちゃダメなんだって」彼女は残念そうに語気にため息を混ぜた。「役所だから」
「そりゃそうだ」
「ナオくんも議会の左翼連中と同じなのね」
「酒は体を壊すよ。その点においては私はその左翼連中と同じだね。というか、君が右翼だったなんて驚きだな」
「右翼はこの街にイエローサブマリンをばらまいた。両方とも私の敵よ」
小学生のころ、些細な理由で対立した男子たちと女子たちのリーダー両方の頭をひっぱたいた幼いケイちゃんを思い出したが、そんなことより私は面食らった。ケイちゃんからその言葉が出るなんて。あの不気味な黄色い霧がフラッシュバックして、過去の思い出はどこへやら。私は何か言おうとして口を開こうとしたが、瞬間、エレベーターのドアが開いた。彼女は私をおいて先に降りていく。慌ててついていく。
降りた先は客室の廊下だった。そこを端まで進むと、スタッフ専用の扉があった。そこをさらに進むと階段があって、屋上に続いていた。
「ここに来る途中で見たと思うけど、これがこの街の現状よ」強風でなびく髪を抑えながらケイちゃんは言った。もう片方の手は屋上の柵に添えられている。
彼女の半歩後ろから街を見下ろす。ハイウェイで見た黄色い霧が山に囲まれた土地を蠢いていた。
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