第6話_02 人ならざるもの生きる場所

 低目の初老男性のようなその声。

 黒尾は心臓が口から飛び出しそうになりながら、視線を上へ向けた。


「大鷲……? いや、違う」


 なんと、声の主は人ならざるもの―――"天狗"であった。

 赤い顔、突き出た大鼻。山伏のような衣装を纏った大柄な男が、黒尾と白月の前へ疾風を起こしながら舞い降りた。


「鷹寿って……あんた、うちのじいちゃんを知ってるのか?」


 不思議と恐怖は感じず、懐かしい祖父の名を呼ぶ天狗へ黒尾は語りかけた。


「なに? じい……?」


 天狗はしばし固まった後、合点が行ったようにポンと手を回し叩いた。


「おおお! ということは、貴殿が鷹寿の孫であったか! いやはや、こんなところで相見えるとは! やつから話は聞いておったぞ!」


 天狗はどかっと地へ腰を下ろすと、豪快にうわははっと笑った。


「名乗り遅れた。儂はこの山の天狗、遅池峰山四郎坊(おそちねさんしろうぼう)と申す。貴殿は黒尾鷹矢であろう。祖父の鷹寿とは付き合いがあったゆえ、可愛い孫の話をよく聞いたものだ。いやあ、若い頃の鷹寿によう似ておる。てっきりやつが生き返ったのかと」


 黒尾鷹寿(くろおたかとし)―――。

 10年前他界した、黒尾の祖父の名であった。幼い頃に母が離婚してからというもの、祖父は父親のような存在だった。

 その名が天狗の口から出た瞬間、時が10年前戻ったように感じた。


「……ああ。俺が黒尾鷹寿の孫、黒尾鷹矢だ。もしかして、うちのじいちゃんと酒の飲み比べした天狗ってあんた――貴方ですかい?」


 天狗はギラっと大きな目を光らせると、木々が揺れるような声でガハハと笑った。


「いかにも、鷹寿が酒で負かした天狗というのは儂であるぞ。そんなことまで存じておったとは。紛うこと無きやつの孫であるな!」

「そんな気がしたよ。うちの蔵に、天狗からもらったとかいう蓑と下駄が大事にしまってある。天狗と飲み比べしたってやっぱり本当だったのか」

 

 贈答品が今も大切にされているのを知ると、天狗は嬉しそうに、豪快に笑った。

 ふと、黒尾の隣で小さく佇む白月へ視線を向けると、大きな目を瞬かせ少し驚いた顔をした。


「ややっ、そなたは白蛇族ではないか……? 久しいのう。150年ほど前は、まじない師の白蛇族とよく酒を飲み交わしたものだが。それはそれは美しい女人であった」 


 一瞬で正体を看破された白月はびくっと身体を震わせると、もじもじと答えた。


「それはたぶん、うちの一族の婆様です。白蛇族がまだこの辺に棲んでいた時の話……今はもう、白蛇族は僕だけになってしまいましたが」

「そうか……最近とんと白蛇族を見かけないと思っておったが、そういうことであったか……」


 天狗は苦々しく目を瞑ると、またその大きな目を開いた。


「鷹寿は白蛇族についてもよく研究しておった。かつて人間が脅かしてしまった白蛇族を守ろうと必死であったぞ」

「……ええ、そうでしたね」


 黒尾は思わず白月を見た。

 懐かしむような、どこかうっとりとしたようなその瞳に、胸がざわめいた。


(ビャクもうちのじいちゃんを知っているのか……?)


「最期まで、白蛇族のことを案じておった。もしや、白蛇族の白月とはそなたのことでござるか?」


 濃紺の瞳が、はっと目を見開かれる。すがりつくように天狗へ問う。


「はいっ、僕が白月です……! あの人はっ、鷹寿さんはっ、何か言っていましたか?」

「うむ、白蛇族が心配だと。このままでは滅んでしまうと案じておった。なんでも、鷹寿も若い時に白蛇族と出会ったことがあると。名を白月と申すと儂も聞いておった。やはりそなたであったか」


 天狗は納得したようにうんうんと一人頷いていた。

 己の隣で、祖父のことを聞いて涙ぐむ白月を、黒尾は盗み見ていた。


(そういや、じいちゃんは白蛇族に昔会ったことがあるとか言ってたな。破れて読めない蔵書には、白月の名前が書いてあったのか……)


 合点が行きつつ、涙ぐむほど祖父を慕っていた事実は初耳である。


(そんなに仲が良かったのか……? 一体何故だ?)


 祖父の思い出が生きていることを知り嬉しい反面、どこか苦い味が胸の中へ広がった。


「儂がこっそり見舞いに行ったのと同じように、他の者も晩年の施設へ参じていたようだ。あちらの川に棲む河童の三吉は、人に化けてきゅうりを差し入れたと申しておったぞ」


 黒尾の中で、またピースの埋まる音がした。

 鷹寿は亡くなる5年ほど前より、認知症を患い施設へ入居していた。

 「天狗が見舞いに来た」「河童がきゅうりを差し入れた」などと周囲から見て意味不明なことばかり話すようになっていた。

 しかし、黒尾は家族でただ一人、鷹寿を信じていた。


(本当にそいつらがいるかは知らねえが、うちのじいちゃんならそんなことがあってもおかしくねえと思ってた。やっぱり全部本当だったんだな)


 黒尾は天狗に向き直った。深々と頭を下げた。


「うちのじいちゃんの見舞いまで来てくれてありがとう。すげえ嬉しそうにお前さん方のこと話してたよ。世話になった」 

「孫殿よ、何を申す。世話になったのは儂ら"山のもの"だ。儂らの存在を否定せず、人間へ知らしめたのだからな」


『鷹矢。かの者たちと出会いたければ、耳を澄まし、目を凝らせ』―――。


 フィールドワークへ連れて行ってくれた祖父が、よく言っていた言葉だった。


『人間が街で生きるのと同じように、山で生きるものたちがいる。その伝承を語り継ぐのが私たちの仕事だ』


 民俗学は庶民、もとい人々の間に伝わるものへスポットを当てた学問である。しかし鷹寿はそれと同時に、庶民に伝わる"かの者たち"そのものへ敬意を払い、愛していた。


 ふと天狗が思い出したように黒尾へ問いかけた。


「して、今日は何用でここへ参ったのでござるか? 黒尾家の人間が参るなど珍しい」

「取材の下見に来たんだ。俺が勤める新聞社で、『マヨイの林』の特集を組むから」

「ほう。取材とな。しかし鷹矢よ、気をつけよ。これより奥地は何か嫌な気に満ちておる」

「嫌な気……?」

「いかにも。山での暮らしが永い儂にもよく分からぬが、やはりマヨイの林は白蛇族の無念が籠められているゆえ」


 天狗は伺うように白月ちらりと見やると、それ以上は言いたくなさげに口を閉じた。


「ああ、解ったよ四郎坊さんよ。遊び半分で押しかける不届な人間もいるが、俺はそんなんじゃねえ。然るべき許可も取るし、必要以上に踏み入ったりはしねえ。じいちゃんが大事にしてきた文化だからな」

「………まあ、鷹寿の孫なら心配あるまい」


 天狗はニカッと笑うと、背から翼を広げ羽ばたき始めた。


「おっと、いかん。つい長話してしもうたな。そろそろ他の人間が来るやも知れん、儂はここで暇申すぞ」


 黒尾と白月を包み込むような疾風が再び巻き起こる。大きな羽ばたきが聞こえる。


「では次回、酒の飲み比べと行こうじゃないか! 鷹矢よ! 白月殿も共に!」


 風が止み目を開けると、天狗は跡形もなく消えていた。 


「全く、騒がしい天狗だ。じいちゃんのダチらしいったらありゃしねえ」


 黒尾は白月を振り返った。

 どこか遠くを見つめるような深い紺のまなざしに、また妙な苦味を覚えた。


(じいちゃんのこと聞きてえけど、聞ける空気じゃねえな……)



 四郎坊の忠告に引っかかりを覚えつつ、黒尾は少し奥へと進んだ。

 ところが進行方向は閉ざされた門が塞いでおり、それには「無許可立入禁止」の看板と、比較的新しい様子の警告文が貼り付けられていた。


『これより先は市の許可なく立入禁止。最近、無許可で立ち入る人が多く困っています。ここは動画撮影のスポットではありません。なお、市から許可を得た方は必ず腕章をつけてください』


 取材のため、会社が市へ許可を申請している最中だった。当然今手元に腕章はない。


「ここから先は正式に取材で来た時に行くしかねえな」


 写真を数枚撮った後、しゃがみこんで一生懸命にウシガエルを探す白月へ声を掛けた。


「ビャク。今日もうは帰ろう。山の気が変わらねえうちに」

「えっ、まだカエルもモグラも見つけてないですよ! やっぱりもう冬眠しちゃったのかも」

「……だから、そいつはまた今度で良いってば」


 黒尾の言葉をスルーし探索に戻る白月の背中へ、彼は思い切って声を掛けた。


「なあ、ビャク。さっき、うちのじいちゃんのこと―――」

「あれ? 黒尾さんじゃないですか?」


 突如響いた声にふたりしてびくりと固まる。

 聞き覚えのある、その声の方向へ黒尾は顔を向けた。


「あっ、貴方は……!」

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