陽子

@wlm6223

陽子

 春の訪れに桜が咲き、季節が過ぎると躑躅が顔を見せ、梅雨どきには紫陽花が咲く。夏になると朝顔の季節である。これが私の知る毎年の春から夏までの花の変遷で、今はちょうど紫陽花の季節である。

 私たち夫婦がこの地へ引っ越してきてから約一ヶ月が過ぎようとしていた。妻は今月が臨月で、産婦人科で入院中である。私たち夫婦にとって初めての子供だ。エコー検査によって女の子であることが分かっている。最初の子供が生まれるとき、どの夫も同じように妻と子供の健康が無性に心配になるものである。私もまったく同じだ。日曜日に一人家でぼんやりと過ごしていると、妻とまだ生まれぬ子供のことが気になって仕方ない。

 何かしてやれる事はないか? ないのである。不甲斐ないがそれが事実だ。

 私は国道沿いの大型スーパーまで車を走らせ、一週間分の買い物を済ませると、帰路に着いた。まだ慣れぬ土地なので当然土地鑑などない。何処に何があるのかは、これから徐徐に知ってゆくとになる。いや、時間のある今こそがその時なんじゃないか。私は国道から一本道をそれ、ちょっとしたドライブ気分で当てずっぽうで車を走らせた。

 いまごろ気付いたが、雲が低く立ち籠める曇天である。木立も多くなり風景は田舎の一本道の態を見せていた。おそらく農家であろう民家がぽつりぽつりと姿を見せるのみ。その先にあまり大きくはない神社が姿を見せた。 私は神社の駐車場(その程度の設備はある)に車を止めて参拝することにした。もちろん安産祈願のためである。

 山門には御裳神社とある。由緒由来はまったく知らないが、おそらく近所で一番近い神社である。初詣ぐらいにはまた来ることになるだろう。

 私は山門をくぐり、境内へ入った。神社特有の森閑とした空気の中、誰もいない梅雨の湿り気を感じた。何もかも薄曇りの灰色の世界に見えたのは、梅雨時の曇りの日だったからだろう。目先に手水舎があるのでまずは手を洗い、うがいをすることにした。

 その手水舎の水槽には沢山の紫陽花の花が沈めてあり、この灰色の境内の一隅を鮮やかに彩っていた。明鏡止水。水面はあくまで澄明でありガラスよりも透き通っていた。その中に沈む紫陽花の花弁一つ一つが、淡い紫色のグラデーションを幾重にも広げていた。私は柄杓を入れて水を汲むのが惜しくなるほど、その美しさに魅了された。柄杓を入れるとその波紋に応じて微かに揺れる紫陽花の花が、また美しくあった。

 私は清めを終えると本堂へ向かい、二杯二拍手一杯して参拝した。

 そのまま駐車場へ行き自宅へ帰ろうかとしたが、手水舎の紫陽花の美が気になり、手水舎へとって返した。

 そこで紫陽花を一輪だけ失敬して駐車場へと向かった。曇天の中の煌めきを一粒頂戴した気分になった。私は帰路の車の中、ちょっとした高揚感を味わった。

 花の部分だけであるから寿命はそう長くはないだろうが、これを妻に見せてやりたくなったのだ。神社で見たのと同じ美が再現できるかどうか自信は無かったが、大きめのガラス瓶に入れて病院へ見舞いに行こうと思った。 もし妻がこの花を気に入ってくれたなら、生まれてくる子供には、紫陽花から一字をとって陽子と名付けよう。紫陽花の花を見れば、妻もこの名前をきっと気に入ってくれるだろう。

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