野良セッション

@wlm6223

野良セッション

 東京都下で生楽器の練習場所の確保は難しい。自宅で練習しようものなら近隣から苦情が来るし、私のようにマンション住まいだとまず間違いなく隣室から怒られる。学生のように学校の校舎を使うわけにもいかない。駅前のカラオケボックスが格好の練習場所なのだが、隣室の歌声もうるさいし、僅かながらの室料を取られるのも何だか癪に障る。

 という訳で、私は趣味のサックスの練習は自宅から自転車で十五分のところにある多摩川の河川敷、日野橋の下で行っている。

 ここなら誰に気兼ねなく音出しできるし、カラオケボックスと違って時間とお金を気にせず好きなだけ練習できる、休憩を取っても料金のことは気にならない。橋の下なら室外とはいえ適度に反響音がするので吹いていて気分がいい。

 ただ難点があるとすれば、当たり前の話しだがエアコンがないので夏は暑く、冬は寒い。雨も降れば風も吹く。まあ、私の場合は屋外での演奏も希にあるので、その練習にも良いだろうと打算しているので、気にしないようにしている。それになんと言っても無料だ。安サラリーマンの私にはこの点がとても大きい。

 その週末の昼過ぎ、私は毎度のごとく自転車を走らせ日野橋の下で練習をしに行った。

 まずは譜面代をセットし、「ジャズ・スタンダード・バイブル」通称「黒本」のページをめくり、課題曲を適当に選ぶ。今日の課題曲は「FEEL LIKE MAKIN' LOVE」にした。バッグから電子メトロノームを出してテンポをセット。楽器ケースからサックスを取り出してマウスピースにリードを取り付け、ネックをサックス本体に差し込む。指慣らしのいつものフレーズを吹いて準備完了。

 この曲は初見ではあるが、何度も耳にしたことがあるので最初の演奏でそつなくこなすことができた。次はもうちょっと凝った演奏を、と欲が出てまた同じ曲を吹いた。ミスタッチをしてしまった箇所があったが、まあまあの出来である。

 こうして休憩を何回か挟んで、私は三時間ほどサックスの練習をした。

 今日の練習の最後のつもりで大定番曲「酒とバラの日々」通称「酒バラ」を吹いた。もう暗譜してしまっているので余裕綽々である。

 その演奏途中、対岸からトランペットの音が私の演奏に合わせてきた。私は近眼のためよく見えないが、対岸で誰かがトランペットを吹いている。ユニゾンの所はしっかり合わせ、ハモリの所はきちっとハモってくる。

 なかなかやるじゃないか。

 それから二曲ほど、誰とも知らぬ対岸のトランペッターとセッションした。相手はかなりの力量をもっているのが分かった。ならば、と、今日の練習の最後の曲を、と私は超難題曲「DONA LEE」を吹き始めた。

 対岸のトランペッターは二小節目からぴたりとユニゾンしてくる。正直、私は焦った。この曲は無理をして習得し、ここぞ、という時に吹くことにしている曲だ。

 私は楽しさと焦りのなかで音列を次々に吹き出した。対岸のトランペッターにソロを譲ると、思いもよらない流麗なソロを吹き出した。凄い。私はバッキングを吹きながら相手を賞賛した。

 トランペットのソロが終わると、次は私のソロの番である。私は得意満面に吹き出した。一箇所、ミスをしてしまったが、対岸のトランペッターは何事もなかったように演奏を続けた。

 曲の最後にメインテーマをまたユニゾンで吹いて美事に演奏終了。私はマウスピースを口から離すと対岸のトランペッターに拍手を送った。対岸のトランペッターは右手の親指を立てて私に「いいぞ」と合図した。

 こんなに上手いトランペッターはそうそういない。私は是非そのトランペッターと挨拶して縁故を得ようと思った。サックスを置いて急いで日野橋を渡り、トランペッターのいた場所へ走った。

 が、そこには誰もいなかった。

 確かにそのトランペッターがいた場所なのだが、足跡もなく、それどころか人のいた気配さえない。ただの草叢が生い茂っているのみである。私はしばらく土手の上まで探してみたがそれらしい人影は見えなかった。

 不審に思いながら私は元いた場所へ戻り、帰り支度をした。ふと目を対岸へ向けると、トランペッターが楽器をしまって帰り支度をしているのが見えた。トランペッターは私のことを気にする素振りもなく楽器を抱えて土手上へ上り歩き去って行った。

 私とそのトランペッターは音楽を通じてほんの束の間、交流を得たに過ぎない。ミュージシャンは音楽が勝負所である。音楽を奏でる一瞬一瞬が全てだ。一期一会の出会いを何度と繰り返し、成長するものだと私は教わった気がした。

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