彼岸(抄)
@wlm6223
彼岸(抄)
盆の東京は暑い。日が照るのは勿論、アスファルトの照り返しもあれば自動車の排ガスの熱もただじゃない。。盆が来ると東京から一斉に里帰りの自動車が放たれ、全国へ散る。そして他所に縁のない者が東京に残る。日頃の喧噪もまばらになり、一目で人通りも交通量も減っているのが分かる。見知らぬ人とのすれ違いざま、たまに目が合うとこんな顔つきをしている。
あんたも東京の出身か?
ええ、そんなもんです。
概ね東京の人口の五割が地方出身者であるのは知れた事である。皆、帰るところがあるというわけである。疎外感というより、むしろ東京を形作る正体を知ってしまった気分にひたるのを避けたかった。
私の前を自転車の二人連れがゆっくりと談笑しながら走ってゆく。下流からの南風に乗って足元が軽いようである。賽の河原の話があるように、昔から川は別世界との境界線として扱われてきた。しかし、私にはただ暑苦しいだけの夏を過ごすよりも、汗をにじませながら風に吹かれて、柔らかなグラデーションを見せる夕焼けを眺めながら土手の上を散歩するのが心地よかった。
すれちがう人々、各人様々だった。ジョギング、野球小僧、サッカー少年、犬の散歩等々。それとも私に見えるもののうち、いくつかは熱射病が見せる幻影なのか。藍色と橙色の空の中、西日は強い。そこらの雑草の草いきれ、水の匂い、眩暈にも似た安堵感が胸の奥からすっと口へ這い上がってくる。川面に照る夕日、首筋の汗がすっと引いていく。色あざやかな土手の風景に息を吸い込み、頭の痺が急速に強まっていった。
×
交通事故の多くは夕方か雨の降りはじめに多いという。魔が差す時とは、こんな時の事なのだろう、とふいに私はひらめいた。南風に体温を奪われていく。私は急に身を翻し、元来た通りに土手の上を戻っていった。
私は関戸橋へ戻った。薄紫だった空は赤黒いひだ模様を雲影に映していた。
橋一本へだてた位では、そうそう交通量は変わらなかった。土手沿いに歩いてみたが家々の火が灯り始めていた。辺りを見渡すには土手に上るのが便利だろうと、私は朽ちかけたコンクリート階段を上った。
多摩川は県境である。私は階段を上りきった先に、先程までいた東京側の対岸を見た。気のせいか、いやに交通量も街の灯も多く見える。
対岸に私と同じく土手の上に僧侶が現れた。僧侶もまた私と同じように右往左往している。私がその僧侶に気付いたのは、鞄から眼鏡を探している時だった。対岸までは顔が分からない距離だったが、人手の少ない時分、多摩川の土手上で急に立ち止まる人影があれば、なんとなし分かるものである。
なんだあれ? 私は眼鏡越しに僧侶を見た。僧侶も私を見つめる。私は違和感を感じた。奇妙な均衡を保っていたところ、私は戦慄を覚え、身じろぎ出来なくなった。
僧侶は明らかに私だけに向かって深く合掌をた。顔を上げても両手を前に合わせて微動だにしない。私からは僧侶の表情は読み取れなかった。風は吹いているのに暑いとも寒いとも感じなかった。私には事の次第が理解できなかったが、厳じて帰ることのできない結論だけを僧侶が優しい心遣いで示しているのを読み取った。私は焦り慌て、関戸橋を渡り、見も知らぬその僧侶に何の真似をしているんだと問い正そうと思った。ただ不気味だった。
僧侶のその態度から、私に関戸橋を渡る事はできません、と言っているように見えた。それどころか、誰かの助けがなくてはそこから一歩たりとも動くことはできません。今はとにかく一身の上の成り行きを見納めるように、と対岸から語るように私を見つめていた。私は茫然とするしかなかったし、事実、僧侶に見つめられて受け取った通りにしか出来なかった。
私は懸命に考え直してみた。もし、俺の身に何かあったとしたら、一体いつの事だった? ふと不慮の死を空想した。ひょっとすると、その内の一つが自分の体験談や思い出した出来事だったのか。対岸の僧侶は否定はしないが決して肯定しない姿勢だった。それにしても、当事者としての感が希薄だった。ふいの重大事は大抵そうして過ぎ去るのである。
その後、私はいくつかの心構えを対岸の僧侶から悟らされた。私は成り行きに全てをまかせてしまおうと考えた。選択肢はそれしかなかったし、盆の川岸の夜にふらふらと出歩いてしまっては、まるで幽霊じゃないか。私には、はやくもその自覚だけは芽生えていた。
彼岸(抄) @wlm6223
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