薄切りの味

@wlm6223

薄切りの味

 私は就職活動のため久しぶりに市ヶ谷へ来ていた。私は今年で四十九歳である。この歳で就職活動というのは我ながら情けない。これといったコネもないのでいい歳してあちこちに面接の申し込みをしているのである。

 肝心の今日の面接のほうは全く手応えがなかった。私は妙に塞ぎ込んだ気持ちになり、憂さ晴らしではないが、市ヶ谷の街を散策することにした。

 私はかつて市ヶ谷で十五年間サラリーマン生活を送っていたので、市ヶ谷近隣のことはだいたい把握している。久しぶりに見る街並みは何故か灰色に映った。

 まず市ヶ谷駅前に文教堂とエクセルシオール・カフェがる。ここは仕事明けによく立ち寄ったものだ。本屋が駅前に実店舗を構えているのは良い街の証だ。逆に駅前にパチンコ屋があるのはけしからん。駅前に賭場があるのは街の風紀と外観を乱す。

 そのまま日テレ通りを登りきったところまで来た。

 左手に瀟洒なカフェが出来ていた。ここは元駐車場だった筈だ。市ヶ谷という街は高級マンションが多くある街なので、有閑マダムの社交場にでもなっているのだろう。

 私は日テレ通りから一本小道へ入った。

 そこは物静かな住宅街となっており、都心とは思えない静謐さが支配していた。

 その最初の交差点に東郷公園と小さな昔ながらの八百屋がある。公園はずっとあるものとして、このいかにも貧相な八百屋はどうして生計を立てているのだろうかと不思議に思った。だが、いい歳して無職の私と比べれば立派なものだ。

 その交差点を右へ曲がると四番町図書館がある。サラリーマン時代、よくここでサボったものだ。私は読むでもなく郷土史の本をぱらぱらと捲り時間を潰した。

 時間は午後六時をまわっていた。

 私は日テレ通りへ戻り夕飯を摂ることにした。

 懐かしい味はいくつかあるのだが、特に気に入っているのが、イタリアンレストラン「ラ・タベルナ」である。私はその雑居ビルの二階にある店に入った。

「いらっしゃいませ。……おお! お久しぶり!」

 壮年の店員から声を掛けられた。

「どうもどうも。お久しぶりです」

 一時期この「ラ・タベルナ」には毎日のように来ていたので、すっかり顔を覚えられていた。

「お元気ですか。ずいぶん恰幅がよくなりましたね」

「ええ。お陰様で、だいぶ貫禄がつきました」

「ご注文は?」

「いつもの『薄切り』で」

 「薄切り」と言うのはバターライスとパスタを一皿に盛り付け、その上に薄く切ったステーキ二枚をのせた料理である。千円ポッキリで舌と空腹を満たしてくれる、この店の定番メニューである。

 私は一人席に案内されるとボンヤリと配膳を待った。

 「ラ・タベルナ」の近隣には日本テレビの関連会社が多くあるので、所謂「ギョーカイ人」が来店することが多い。かつては私もその一人だったので、この店で迂闊に仕事の愚痴や文句は言えなかったものだ。

 隣客は二人組で、なにやら音楽業界の話で盛り上がっている。かつては私もその業界に籍を置いていたので懐かしく聞いていた。

 暫くすると、隣客に待ち合わせの客が一人加わった。その客と私は目が合った。

「あれ? Oさん?」

「……おお! M君! 久しぶり!」

 かつての同僚と思いがけない邂逅に一瞬息を飲んだ。お互い七年ぶりである。Oさんはすっかり白髪頭になっていた。丁度そのとき注文していた「薄切り」が来た。

「今なにやってるの?」

「ブラブラしてます」

 Oさんは破顔一笑した。

 会話らしいことはそこで終わった。Oさんと隣客は仕事の話(?)を進め、私は黙々と薄切りを掻き込んだ。私は薄切りを平らげ、Oさんに挨拶を済ませ、早々に会計した。今でも現役で活躍しているOさんといると、いたたまれないのだ。

「千四百三十円になります」

「え? 千円じゃないの? 値上げした?」

「消費税と家賃が上がったんで」

 千五百円を出し釣銭を貰った。私は何か社会と隔絶された感を覚えた。

 店を出ると、すっかり日は落ちていた。薄切りの味は覚えていなかった。自分の不甲斐ない境遇を情けなく思ったが、現実はちゃんと受け止めなければならないのだ。私は市ヶ谷駅に向かってトボトボと歩き、家路に就いた。

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