二人の夕食

@wlm6223

二人の夕食

 私も今年でもう五十六歳である。

 私の半生、と言ってももう人生の折り返し地点を過ぎているが、人から見れば順風満帆と言っても良かっただろう。

 大学を卒業後、商社に入社し海外を含むいくつかの転勤の後、いまは東京本社の部長の席に座っている。給与も世間より少し多いだろうし、この歳になっていまさら転職などは考えもしない。働き盛りをとうに過ぎ、あとは後進の育成にでも目をかけてやればよいだけだ。

 たった一つを除いて、私の生涯は順調だった。

 それは妻の京子の早すぎる死である。

 私が三十二歳、京子が三十歳のとき、京子は交通事故で逝った。

 その当時のことは今でも鮮明に覚えている。 私が夜の八時に帰宅すると、珍しく京子はまだ帰宅しておらず、私が先に戻ったのだ。

 今日は残業が手間取っているのかな? などと暢気にかまえ、二人分の夕食の準備に取りかかっていたときのことだった。

 電話が鳴り不審に思いながら出ると、警察からだった。

 京子は居眠り運転のトラックに跳ね飛ばされ、ほぼ即死だと聞かされた。

 私は京子が搬送されたS病院へ駆けつけ、京子の亡骸と対面した。

 不思議と事態をすんなりと受け止めることができた。いや、落ち着いている素振りをするのが精一杯で、本物の現実を拒絶していたのだ。

 今日に限って、京子に限って、そんなことはあるまい。私はそう思った。

 京子の死を実感したのは葬式のあと、しばらく経ってからのことである。

 突然の妻との死別に親戚一同が私を励ましてくれ、加害者との示談が済み、ようやく日常がまた戻ったときのことである。私は京子のいない日常を送ることになかなか馴れなかった。仏壇を買い込み、京子の位牌を立て、毎日その日の終わりに仏壇に手を合わせた。

 私にはこれといった信仰心はないが、京子のことを忘れまいとする一心で手を合わせた。

 交通事故による死亡事件は年間で三千を超えるのだそうである。そうでなくても日本の年間の死者数は一万二千人ぐらいだそうだ。それだけの死者がいるのだから、世間は京子のことなどすぐに忘れ去るのも仕方が無い。だがせめて私一人だけでも京子のことを生涯忘れずにいたく、仏壇という見える形で私の記憶に留めておきたかったのだ。

 私が四十五を過ぎた辺りから、会社の同僚や部下達から「最近物忘れが多い」と注意されるようになった。実を言うと、自分でもその症状にうすうす気付いていた。まだ仕事や生活に影響を与えるほどの物忘れはしていなかったが、もう歳も歳である。何かしら体の不備が出てもおかしくない年齢だ。私は会社からほど近い神経科の病院で診察を受けることにした。

 医者から問診を受けると「一過性健忘症の疑いがありますね」と、随分素っ気なく言われてしまった。既知の病気と知って少しほっとした。

 この病気は特に治療の方法がないとのことである。私の場合は、原因として精神的・肉体的なストレスが考えられるそうだ。

 私の大きなストレスといえば、毎日の習慣になっている京子の仏壇への合掌ぐらいのものだ。なぜこれがストレスに感じるかというと、仏壇に手を合わせる度に、京子の死と向き合わなければならないからである。それだけ京子と私は深く結びついていたのだ。

 診断が出てからは、どんな些事でも手帳にメモを取るようにし、自分がいつ何をやっていたのかを見返せるようにした。その手帳が教えてくれたのは、病症が少しずつ、確実に進行していることだった。

 二十年三十年前のことは昨日の事のように思い出せるのに三日前や一週間前の記憶は思い出せなくなっていた。この事を私は諦観をもって受け入れた。

 いつものように会社から自宅へ帰ると、二人分の夕食がテーブルにならべてあることがしょっちゅう起こった。状況からして、私が自分で作り、その記憶が無くなっているだけなのだろう。が、私はその夕食が京子の作ったもののように思えてならなかった。

「いただきます」

 一人きりの部屋の中で食事を摂っているのだが、どうもそんな気がしない。私はふと仏壇に目をやった。京子が世を去ってもう二十四年経つ。京子の生前の記憶がまだ私から抜けきらないのだろうか。それともまだ京子がどこかで生きているのだろうか? 私を形作っている記憶がどんどん曖昧模糊としたものに変容してきているのに気が付いた。だが私はそれを怖がりもしなければ嫌とも思わなくなっていた。 

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