千本目のワイン
@wlm6223
千本目のワイン
私の趣味らしい趣味といえば、ワインのラベルコレクションぐらいしかない。
四十を過ぎた辺りに「酒の飲み方ぐらい覚えよう」と、湯島のバーへ一人で行くようになったのが事の始まりだ。妻は「いい歳してお酒の味なんか覚えちゃって。体に毒よ」といい顔はしなかったが、浮気するわけでもなく、大金を注ぎ込むでもないので大目に見てもらっていた。
ワインのラベルコレクションという遊びは案外広く行き渡っているようで、ラベル剥がし専用のキットも市販されているし、それようのアルバムまである。私のアルバムも本棚の一角を占めるには優に超え、ときおり眺めては、あのワインの味はこうだった、ああだった、何年のあのワインは良作だった、不作だった、と振り返っては一人悦に浸っている。
そのアルバムのラベルを勘定してみると、九百九十九本になっていた。千本目まであと一つと思うと、ちょっとした達成感があった。
私は千本目の記念に、バーで飲んでみようと思った。湯島に通い始めて約八年、行き付けのワインバー「ルージュ」へ出向いた。
この店はワインの在庫が豊富なのは勿論、ツマミにも凝っていて夕食後の「ちょっと小腹を満たす」には丁度良いのが気に入っている。それにワインの瓶が空くと、記念にそのワインの瓶が貰えた。千本目のワインはその空き瓶で埋めよう思ったのである。
「ルージュ」の扉を開けると、時間が早かったせいか、先客はいなかった。
「今晩は」
カフス付きのパリッとしたワイシャツにチョッキを着た老マスターが迎えてくれた。
「ああ。いらっしゃい」
すっかり顔馴染みのマスターと目が合うと、不思議と笑顔になった。
「あと一杯で空になるワイン、ある?」
「珍しいオーダーですね。ちょっと待ってね……」
マスターは店のカウンターの背面にあるワインセラーに目を走らせた。
「この店、空になると瓶を客にあげるでしょ」
「はい」
「私のラベルコレクションが丁度千枚になるんですよ」
「ああ。そういうことでしたら…… ええと…… あれ? あったあった。これなんかどうです?」
マスターはプルミエ・クリュオマージュ・オー・クリマを出した。
「それで」
マスターはゆっくりとそのワインをグラスに注ぎ、鮮烈な赤いワインが香り高く満ちていった。
「千本目の記念に、ちょっと良いワインを飲みたくてね」
「なるほど。『千本の毒入りワインの問題』って知ってます?」
「知らない」
「一滴でも飲むと二十時間後に死ぬ毒が、千本のワインのうち一本にだけ入ってる。二十四時間以内にどれが毒入りか調べるとき、何人必要か、っていう問題です」
「なんか数学の問題みたいですね」
「ええ。昔の人はよく考えたもんです」
「で、何人なの?」
「ははは。結論だけ先に言っちゃうと九・九六六人。要は十人です」
「十人で千本のワインを飲むんですか。そりゃ死ぬわ」
「一人一滴です。大した酒量じゃないですよ」
私はワイングラスを鼻先に向け、香りを楽しみ、一口だけ飲んでみた。うまい。
「酒のんで死ぬなら本望、っていう人もいますからね。私もその口かな」
「ははは。ご冗談を」
「いや、『酒も女も煙草もやらず、百まで生きた馬鹿がいる』って言うじゃないですか」
「そういう人もいますね」
「マスターもこういう仕事してると、色んな人と出会うでしょ? でもカウンターの中にばかりいちゃ、たまには外へ出たいと思いません?」
「そう思ったこともありましたけど、今はそうは思いませんね。カウンターの中から、様々な人間観察が出来ますし。そこから社会情勢の一端を嗅ぎ取ることもできるようになりましたから」
私はまたグラスに一口つけた。気のせいか酔いがもう回ってきた。
「そうは言っても酔った上での話じゃ、満足できません?」
「そうでもないですよ。ちょっとした社会実験もできますし」
「どんな?」
マスターは空になったワインの瓶を私に手渡した。さっきまでは気付かなかったがラベルの右上に髑髏マークが手書きされていた。
「それ、千本目のワインですよ」
千本目のワイン @wlm6223
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