瑞獣
@wlm6223
瑞獣
魯の国は戦乱にまみれていた。治世は乱れ、ふとした道端に人間の遺体が遺棄されているのはもちろん、それが追い剥ぎにあった町人なのか、兵士の骸なのかすら分からないほど粗雑にあしらわれていた。乱世の風は魯の西にある大野沢にも達していた。生きている男の多くは兵士として召し使わされていた。魯の重臣である叔孫氏に仕える鉏商もまた、そうした農民出の兵士である。この乱世の中にあって、鉏商はまだ朴訥さを残した一良心を抱いていた。
大野沢は田舎である。世が乱れても、どこか安穏な風が村々に吹いていた。そのせいもあるだろう、叔孫氏は「狩りをしたい」と言い出した。家臣たちはこの乱世において、なにを悠長なことを、と思ったが、重臣が旧弊な趣味に興じ遊んでいるうちは、まだ大野沢は平和なうちである、とも考えた。
三日後、早速のうちに狩りの準備が整えられた。
御者たちが四台の車をすすめ、狩り場を統括する呂のもとへ出た。
呂は「この辺りは昔から仙境への入り口と言われております。なにとぞ殺生は最小限にお願いいたします」と言う。叔孫氏は車の中からそれを聞き、なにを馬鹿な、とも思ったが、大野沢が戦乱の渦中に没しないのも、そのお陰かもしれないとも思った。「かまわん。車をすすめい」と、叔孫氏は御者の鉏商たちへ命じた。
それから一行は一里ほど渓谷をすすんだ。名もなき山水の山陰を背にして、一行は車をここへ留めることにした。徒歩で森を逍遙するのである。一行は霧にかすんだ森の中へ分け入った。ほどなく御者の劉が獣道を見つけた。「ここで待っていれば獲物の方から勝手に出てきます」と、一行は小休止も兼ねて藪の中に潜り込み、獲物が来るのを待ち構えた。 森の中は森閑としており、霞がゆっくりと棚引き、それが幾重にも重なり合っていた。冷ややかな風がときおり、ふっと吹いた。たまに鳥の啼く高い声が静かに響いた。
急いても仕方なし、と一行は五刻ほど息を潜めて獣道を見つめていた。こうしてじっとしていると、今が乱世とは思えないほどであった。呂の言った「仙境への入り口」というのも、まんざら噓ではないかもしれなかった。 霧の中から足音もなく、一頭の獣がゆっくりと獣道を歩いてきた。その歩みは不確かで、どうも真っ直ぐに歩けないようである。手負いの獣が走り疲れたようにも見てとれた。叔孫氏は弓を引き絞り獣を見定めた。弓がぎりぎりと音をたてた。叔孫氏は弓を放った。ひゅんと弓が静寂を切り裂いた。放たれた弓が獣に当たる寸前、獣はどうっと倒れ、弓がはずれた。
「鉏商よ、お前は生き延びなさい」
鉏商の耳に獣の声が響いた。鉏商は慄然とした。一行は藪の中からめいめい姿を現し、倒れた獣を取り囲んだ。鉏商が「この獣が何か言わなかったか」と、周りの御者に訊いたが誰も何も聞かなかったという。叔孫氏は「射止めそこなったがこれが最初の獲物だ」と、獣の検分を始めた。
それは近くで見ると恐ろしい獣だった。
その獣は鹿を大きくしたような姿で、顔は龍のように鼻が突き出し、牛の尾と馬の蹄を持ち、鬣はざんばらに乱れている。体は鱗に覆われ、全体としてかなり年老いた獣のようである。一行は矯めつ眇めつその獣に見入った。叔孫氏は「誰かこの獣の正体を知らぬか」と御者たちに訊いたが、誰もその獣が何であるか知らなかった。深く目を閉じた獣から、獣臭というより腐臭が漂いはじめた。叔孫氏が「呂を連れて参れ。この獣の名が知りたい」と命を出し、孫と劉が呂のもとへ使い走った。
七刻あまりして、使いの御者が呂を連れて来た。呂は獣を見るなり「おお、これはこれは」と目を丸くして嘆息した。「これは麒麟でございます。どなたかが、これを射られたのですか」。いや、誰も打っておらん。儂が射損ねたのだ、と叔孫氏が言った。「さようでございますか。絶命してまだ間もないようですな。今際の際になにか言い残してはいませんでしょうか」と、呂が皆に問うと誰も知らないと答えた。「麒麟は本来であれば今の乱世には似つかわしくない獣でございます。慶事の獣と言って良いでしょう。ところが麒麟の死は凶事でございます。皆様方にご不幸がなければよいのですが」と呂が言うと、御者たちはみな顔を見合わせ、何も言葉にすることが出来なかった。叔孫氏が呂に言った。
「そのような不吉な獲物など儂には不要である。後は其方に処分を任せる。煮るなり焼くなり好きにせい」
叔孫氏一行は、呂を残して逃げるようにその場を去り、帰還後は各自内密に寺へ詣でて厄除けの祈祷をした。ただし、鉏商だけは平然とし、寺へは行かなかった。
瑞獣 @wlm6223
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます